fc2ブログ
 

 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2023-06

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

オーディションに落ちた日、初めて煙草を呑んだ夜

 この話はフィクションだ。人物も、場所も、団体も、思考も出来事も、全部。全部作り物で、本当のことなんてひとつもない。この現実と同じように。

 オーディションに落ちた。俺が所属している軽音サークルのオーディション。他大学と合同で開かれる大きなライブに出られる権利を争うもので、一年の中で一番熱の入るオーディションでもある。結果は7位だった。11バンド中。上位4バンドがオーディション通過という扱いなので、その数字だけ見れば完敗といってもいいだろう。実際蓋を開けてみれば、通過したバンドとは2倍近く得点差をつけられていたのだから、俺のバンドが通過する余地はなかった。傍目には。
 でも、俺の気持ちはそうではなかった。首位通過とまではいかなくても、4位通過は十分ありえると思っていた。本番前もそう思っていたし、演奏後、結果発表のときまでその可能性は割と真面目に考えていた。そのぐらい俺は、バンドメンバーと磨き上げた演奏にそれなりの自信を持っていた。俺たちが作り上げたものには、それ程の価値が宿ると思っていた。だからこそ、結果を知ったときのショックもそれなりには大きかった。
 俺のバンドの演奏が終わった後、俺の友人のひとりが労いの言葉をかけてくれた。そして彼の言った言葉が、今でも俺のこころの奥に強い印象をもって残っている。
「お前のバンドは、他のメンバーが強すぎただけだから」
 彼は俺を慰めるつもりで言ったんだろうし、その気持ちには本当に感謝している。しかし、彼のその言葉は、俺の軸のようなものを大きく揺り動かした。真面に立っていられないほどの強い衝撃だった。ごまかすようにトイレの個室へと逃げ込んで、俺は深く息を吐く。
 そうか、結局俺は、あのバンドの中で一番下手糞だったんだな。
 そんなこと、気づかないわけなかった。最初から気づいていた。でも、俺は気づかないふりをしていた。そうでもしないと、俺があのバンドで、ベースを弾いている理由を見つけられなかったから。
 しかし彼の言葉は、俺のその欺瞞を見事に見抜き、そして糾弾したのだ。片利共生。その言葉が思わず脳裏に浮かぶ。俺は結局、他のバンドメンバーに寄生していただけじゃないのか。上手いバンドメンバーに囲まれて、いや囲わせて、自分も上手いんだと錯覚していたに過ぎないんじゃないか。実際そうだ。あのバンドメンバーたちを誘ったのは俺だし。
 じゃあもしも、彼らが俺以外のベーシストとバンドを組んでオーディションに挑んでいたら? そんな想像をして、思わずため息が漏れる。俺はそのとき、確かな質量をもって有り得た未来を頭に浮かべた。それは、彼らがオーディションに受かっていた、という未来。これはただの感傷でも、思い上がりでもない。思い返してみれば、普段の練習の中で、俺のミスを修正する時間が一番多かったように思う。先輩からのアドバイスでも、俺への改善案が一番量をとっていた。ならば、もしも彼らが俺よりも上手いベーシスト(そんなのサークル内にいくらでもいる)とバンドを組んで、俺に費やしていたはずの時間を、全体のクオリティーのために使っていたら? 100%とまではいかなくても、十分に彼らがオーディションに受かる可能性はあったのではないか?
 俺はトイレの個室を出て、洗面台の鏡を覗き見た。そこには酷い顔をした男が映っていた。しばらくは、友人やバンドメンバーがいる場所へは戻れなかった。

 酒を飲もうと思った。もう何も考えたくなかった。帰りしな、スーパーで手当たり次第酒を買い込んだ。発泡酒も、チューハイも、日本酒も。酔えるなら何でもいいと思った。
 家に帰ってから、それらを全部胃の中に流し込んだ。それでも飽き足りず、冷蔵庫に残っていた酒も全部飲み干した。たぶん、人生で一番酒を飲んだと思う。
 それなのに、俺が思うようには酔えなかった。多少身体の浮遊感こそあれど、思考は一向に鈍らない。それどころか、より深いところまでずぶずぶと沈んでいく感覚さえあった。空いた酒缶や、瓶や、本棚の本、立てかけたベースなどが、俺を責め立てるようにこちらを見ているような錯覚があった。部屋が次第に小さくなって、俺を圧迫して押しつぶすように感じられた。もう俺は自分の部屋にいられなかった。外に出ようと思った。

 宛ら逃げるように夜に飛び出して、行く先もないまま街を歩いた。京都の夜は思った以上に静かだ。洛中の方ではあるいはそうではないかもしれないけれど、東山の夜はそれに見合った静謐を自身の底に秘めていた。俺は、普段の散歩でもそうしているように、琵琶湖疎水に沿うように緑道を南下した。俯きつつ、闇を分け入るように俺は歩く。はっきり見えるのは俺の足元だけだった。時折視界が明るくなって顔をあげると、それは道沿いに等間隔で配置されている誘蛾灯の光だった。まるで気が触れたように、羽虫がその灯りに何度も体当たりしていた。それにあわせて、バチバチッと鈍い音が数回鳴って、そして止んだ。羽虫は見えなくなっていた。
 哲学の道まで歩いてから、俺は引き返すことに決めた。それ以上行ってしまうと、帰るのが面倒臭い。そして何よりも、沈んだまま哲学の道を歩く自分の後ろ姿を想像して、心持ちが悪くなった。そんなの、まるで気取った厭世家だ。

 帰り道も半分を過ぎた頃、俺はその近くに、ある喫茶店があることを思い出した。もちろん日付を越したその時刻にやっている店なんてほとんどないが、その喫茶店は深夜に営業している。たぶん今もやっているだろう。このまま真っ直ぐ下宿に帰るのも癪なので、その喫茶店に寄ることに決めた。
 夜の星明かりよりささやかな電灯を頼りに階段を上って、喫茶店のドアを開ける。その日はいつもより繁盛しているらしかった。テーブル席や対面式のソファもほとんど埋まっていて、空いているのはカウンターの末席だけだった。バイトらしき女性に促されるままそこに座って、ブレンドコーヒーを注文する。その店は酒類も取り扱っているけれども、これ以上酒を飲む気分にはなれなかった。
 とりあえず持ってきた鞄には、暇を潰せるような代物は何も入っていなかった。普段は詩集や小説なんかをとりあえず入れているんだけど。今日に限って忘れてしまったらしい。運ばれてきたコーヒーをちまちまと呷りながら、俺はカウンターの木目をぼんやりと眺める。そして、また先ほどの思考が頭をもたげてきた。
 結局俺は、周囲の優しさに甘えて、周囲に依存していただけだったのか。思い当たる節は他にもあった。別に組んでいる固定バンドだって、俺がバンドメンバーに寄生しているだけなんじゃないか。そのバンドの、他の二人はとても上手い。サークル内でも一二を争う上手さだ。それに対して俺はどうだ? 上手くもない、かといってそれを覆せるほどの魅せる力もない。このバンドだって、他のバンドメンバーに甘えてるだけじゃないのか。
 バンドだけじゃない。哲学も、文学も、俺が今打ち込んでいるものは、本当に俺自身のものなのか? 周囲の人間に依存しているだけじゃないのか? 俺はこころの内を覗き込んでみる。俺の「やりたい」は、本当に、純粋に「やりたい」なのか? その裏には、一体何があるというんだ?
 隅々まで俺のこころを探索してみても、純粋なものは何もなかった。俺には、何もなかった。俺の中身は空虚な空洞、空っぽだった。俺は、周囲の優しい人間に生かされているだけだった。彼ら彼女らに、意味を与えられているだけだった。俺自身には、何もない。だから、俺はあれだけ必死に他人に寄生しているんだ。馬鹿みたいだな。何のために俺はここにいるんだろう。

 ふと顔をあげると、会計を済ませようとしているひとりの青年と目があった。俺は彼に見覚えがあった。というか、俺の友人だった。
 彼も今、俺に気づいたらしい。会計するのをやめて、わざわざ俺の横に座ってくれた。カウンターにいるバイトの女性に、紅茶を一杯追加注文していた。話相手になってくれるらしい。
 彼と二言三言会話をすると、彼は怪訝そうに言った。
「なんか今日、元気ないね」
 少しだけ驚いた。俺はできる限りいつも通りを装ったつもりだけど。そんなにわかりやすかったかな。何だかアンニュイを気取っているみたいで気恥ずかしい。
 俺がたいしたことじゃないと返して会話を続けていると、カウンターにいたバイトの女性もその会話に参加してきた。友人の彼は俺と違って人当たりがいいので、初対面のバイトさんともすぐ打ち解けていた。その二人の会話をぼんやりと流し聞く。会話のテーマは悲しさの対処法についてだった。
「僕は寝たらすぐ忘れちゃいますよ」彼が言った。女性は羨ましい、と笑った。俺も概ね同意見だと思った。
「私はとことん泣きますね。泣いたらすっきりするじゃないですか」
 彼女は続けてそう言った。それは、あまり共感できなかった。友人が「君は?」と訊くから、俺もようやく口を開く。
「俺は、ここ数年悲しくて泣いたことはありません。なんか涙って不自然じゃないですか。泣いたらすっきりするけれど、それは悲しさを無理矢理ごまかしてるような気がして、なんだか暴力的に感じるんです。だから俺は、悲しいときはひたすらその悲しみに向き合います。悲しみに極限まで浸るからこそ、乗り越えられるものがあると思う」
 そこまで言い終わってから、こころの中でなにかすとんと納得するようなものがあった。俺自身の言葉が、俺の心情を代弁して外に放出してくれた。
 そうか。俺が今日思考に沈んだのも、酒を浴びるほど飲んだのも、あてもなく放浪したのも、全部、悲しみに浸りたかったからなのか。俺は少しだけ、傷つきたかったんだ。
 そんな俺を横目に、友人がポケットから煙草を取り出した。貰い物なんですよねこれ、と呟きながら。
「煙草、要る?」
 彼は俺にそう訊いた。俺は普段煙草を吸わない。今後吸うこともないと思っていた。だけど。
 俺は軽く頷いて、白い筒を一本受け取る。今日はひたすらに、深く沈んでしまいたかった。今までのこととかこれからのこととか、そんなもの全てを忘れてしまいたかった。
 彼はライターで火を灯して、自身の煙草を吹かす。それにあわせて、バイトの彼女も自分の煙草に火を灯していた。俺は自分のライターなんて持っていないので、彼女からライターを借りる。カチカチと何度か指を弾いたけれど、ライターに火は点かなかった。自分の不器用さに辟易する。
 そんな俺を見かねて、彼女はカウンターから身を乗り出し、ライターをそっと俺の手から取り返した。そして俺の代わりに火をつけて、俺の煙草の先にそれを近づける。優しく火が移って、煙草の先から煙が出だした。
 ゆっくり息を吸う。煙が肺に充満していくのを感じる。これ以上いくと咳き込みそうだ、というところで吸うのを辞めて、煙を吐き出した。それは俺の視界を埋めるように育っていき、目に見えるもの全てを暈かしていく。曖昧な視界の中で、灰皿に灰を落とした。短くなっていく煙草を眺めつつ、俺は煙を吸って、吐いて、灰を落とすのを繰り返す。
 十分ほど経って、煙草はもう最初の三分の一くらいの長さになっていた。もう吸えなくなったそれを灰皿の底に押し付けて、俺はふと顔を上げる。窓の外に、薄い月が西の街へと引っかかっているのが見えた。

Edit 00:15 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

皮粒って……何?

 どうも。氷崎です。
 先日、或る小説(隠すものでもないので言いますと中島らも先生の「永遠も半ばを過ぎて」)の中で、「皮粒(しぼ)」という単語が出てきました。
 しぼ……何?となったのは言うまでもありません。軽く状況を説明しますと、世界各国の古書を沢山所有している老院長が、主人公の内の一人に或る本の装幀の見事さを語っているところでした。「ほら、この黒モロッコ革はどうかね。いい皮粒が出とるだろう」と言うわけです。シボてのは何だ。革っていうのは脂でも出るのかなどと僕は思いましたね。その場にいたら主人公と同じく「こりゃあみごとなシボだ。いいシボです」と適当に同調していたに違いない。
 で、この皮粒てのは何なんだろうと思って、「皮粒」と調べると出てこない。稗粒腫という肌にできる白いブツブツばかりです。うわぁと思って「皮粒 しぼ」と調べると、ようやっとそれらしいのが出てきました。
 どうやら革独特の模様というか表情を指す名称らしいですね。あの表面にちりめん状に細かく寄った不規則なシワ模様のことです。回転ドラムに鞣した革を入れて攪拌させることで作るらしいです。現在ではなんと金属やプラスチックでもこの加工が用いられるらしく(そう言えばPS4とかのコントローラーにそんな意匠が施されていた記憶があります)、汚れや傷を目立たなくさせたり、滑り止めや触り心地の改善などの効果もあるようです。凄いですね、シボ。
 しかし一つ気になっているのはシボの漢字表記です。どこを調べても皺(しぼ)としか書いていないのです。皮粒という表記は見つからず、何なら表記以前に使われているものが出てきません。
 らも先生の造語なのでしょうか……
 という、まぁオチも何もない話でした。何か知っている人がいれば教えてほしいですね。それでは。

Edit 17:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

サロメ

初めまして。安野深砂と申します。
今日は4月の30日です。ブログの話題を考え、思いつかず、引き延ばしていたらとうとう晦日の夕刻となってしまいました。
うーん、今回はサロメの話をすることにいたします。
「サロメ」というワード自体は誰しも一度は耳にしたことがあるでしょう。元ネタ(原典)は聖書の物語です。ざっと説明します。
サロメはガラリヤの王女でした。その血のつながらない父、ヘデロ王は自身が兄を追放して王位に就いたことを洗礼者ヨハネに非難され、ヨハネを投獄していました。サロメは舞の名手でもあり、宴席で彼女が舞うと、王は褒美にほしいものをなんでもやろう、と約束します。サロメは、母ヘロディアスにそそのかされてヨハネの首を所望しました。結局ヨハネは首を斬られ、その首は盆に載せられサロメとその母の元へ運ばれるのでした。
短縮するとこんなお話です。なかなかグロいですね。サロメの図像は中世あたりから描かれてきましたが、「サロメ」ブームが巻き起こるのは19世紀末のこと。ギュスターヴ・モローをはじめ、多くの作家がサロメをモチーフに作品を作ります。そこで描かれたのは聖書の、母にそそのかされて首を欲した少女ではなく、見る者を狂わせる「ファム・ファタール(運命の女)」の姿でした。妖艶に踊っていたり、首を自ら欲する仕草をしていたり、迫力のある女性像です。
オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』やオーブリー・ビアズリーの挿絵にも「ファム・ファタール」の要素が色濃く表れています。ワイルドのサロメは気が狂っているとしか思えないし、ビアズリーのサロメは絵としては美しいけれど、すさまじい表情をしています……。
私は今回の幻想組曲の表紙に、ワイルドとビアズリーの雰囲気のサロメを描いてみようとしたのですが、力量不足でしたわね。迫力に欠けます。
絵の技量については精進いたすこととして、今日はこの辺で失礼します。

文をまとめるのって難しい。文字書きさんはすごい……。

Edit 21:22 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

THE FIRST SAKE

 4月中旬担当の谷川慶です。
 今は2023年4月前半の某日。時刻を見れば午後11時49分。僕はファミリーマート中西高野店の前の歩道橋でこの文章を書いています。スマートフォンをポチポチ操作しながら。リアルタイムです。
 時刻の数字が0時になれば、僕は20歳になります。今は11時52分。これから、初めてのお酒を飲もうと思います。20歳になった瞬間に購入するつもりです。今回は実況形式で、初めての飲酒のリポートをしたいと思います。巷では20にならないうちに酒を飲み、それがステータスであるかのように思っている人たちもまぁいますね。しかしながら僕は、ルールを守った上で、その中で工夫を凝らして人と違うことをする人の方が余程かっこいいと思ってますので、当然ながら未だ、お酒を喉に通したことはありません。まぁ単純に飲みたい気持ちも飲む機会もあんまりなかったですしね。そうこう書いていると57分です。では僕は今からファミリーマートに向かいます。続きは買ってから書くということで。

 午前0時1分です。購入してきました。ほろよいもも味です。缶を出して、レジの店員さんに「今11時59分じゃないですか。もうちょっと待ってもらっていいですか」と言ったら、「あ……なるほど」と。一応学生証も見せて確認してもらい、そうしている間に、スマホに表示したインターネット時報は0の表示を並べました。祝、20歳です。あ、ちょっと待ってください、今0時6分なんですが、友だちからLINEが来てるので、返信してきます。あとツイートも。歩きながら書いているうちに、部屋に着きました。ほろよいの缶が指先に冷たいです。

 0時21分です。あっという間に20歳の20分が終わりました。今隣におつまみとしてひとくちチーズとワッフル、麦茶を用意しました。お酒についてほとんど知識が無かったもんで、この時のためにある程度の下調べはしてあります。というのも多分自分はお酒にかなり弱いだろうからです。両親、祖父母はもとより、親族見渡しても酒が飲める人はほとんどいないため、僕は逆に飲める理由がこれっぽっちもないという遺伝的状況にあるのです。かなり隔世しないと隔世遺伝も望めません。ということでお酒に強い20歳をとうに迎えた諸先輩方を横目に、慎重に慎重を重ねて、ほろよいをゆーっくり飲んでみるという(自分からすれば)挑戦を決行しようとしているわけです。今から飲みます。

 甘っ。ももや。ほろよいはジュースってほんとにジュースやん。アルコールの嫌な感じもなく、甘いというそれ以上の感想が出てきません。しかしここで調子に乗ってはいけません。自分が酒に弱いというのは悪魔の実の能力者が泳げないのと同じくらい明らかなこと。物を食べつつ半分くらい飲んで様子を見ます。

 0時55分です。半分くらいまで飲みました。甘くてどんどん進みそうになりますが、ここは自分の容量把握のため。我慢します。一方で深夜だというのにパンとチーズはどんどん進みます。逆に体に悪いでしょう。しかし体感としては何も面白い感覚はないですね。明日1限ですが、ここらでアニメでも観つつ30分ほど間を取って様子を見てみます。何をそんなに慎重にと思っているそこの酒猛者のあなた。僕が誕生日の間だけは黙っていてください。

 何にも起きません。ただ、1時30分だというのに眠気が全くありません。まさかこれが……!? とまぁ全部飲んで早いとこ寝ます。しかし、あの、これは僕が常々思っていることなのですが、酒が美味いとかアルコールに依存性があるとか置いておいて……単純に"飲み物"を"缶やビン単位で"飲むって、多すぎじゃないでしょうか。酒だからそんなもんだと思いがちですが、飲み物を大量に胃に入れる行為だと考えれば、異常極まりなく感じます。自分は普段飲み物をたくさん飲むことをまずしませんから、350mlの缶1つ飲み干すこと自体かなりの苦労というか、非日常です。

 翌朝ではなく翌日です。現在午前11時7分の理6―401、2限の教室です。あれから、特に何もなく、酔った感じも顔が紅潮することもなく、至って普通でした。読んでる側は一瞬でしょうけど書いてる側は2回の睡眠を挟んでます。面白みはないですが、まぁほろよい1本はいけることが分かったということで良しとして、ここらで終わっときますかね。オチはないですが、元々オチやストーリーを作るために書いてないですから仕方ありません。この文章はほとんど校正や修正無しに書いた時のまま出してしまおうと思います。次は何を飲むのがいいんでしょう。とりあえず自分がどれくらいまでは飲めるのか調べないといけないのですが……次のステップは何がいいのか誰か教えてください。
 それでは。

(追記)今はさらに4日後の3限の教室です。これを書いとくのが定型というか様式美かなと思って書きたくなったので追記します。
 二十歳未満の飲酒は法律で禁止されています。人それぞれ置かれた状況は異なるでしょうが、二十歳未満の人はなるべくルールの範囲内で踊りましょう。

Edit 15:51 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

春ですよー

こんにちは、西桜です。
新歓時期ですね。(4/1には書こうと思って忘れてた。今、4/5) 四月のさっぱりとした清々しい雰囲気を肌で感じるたびに、僕の陰鬱な心の奥底を思い出して胸が痛いです。

こんなこと書けるくらいに


というところで書き止まっていました。(現4/10) 何を書こうとしてたのでしょうか。もう四月上旬ぎりぎりですよ。気が付くと授業が始まっていて、二カ月ぶりにシャーペンを握った気がします。

さて、ここにたどり着いた物好きな新入生は過去のブログを見て、一体どういう方針で各々書いているのかと思われるでしょう。小説であったり、創作論、自分が好きなもの、日記などなど。答えは、特にない、自由です。(最低限のモラルは持ちましょう) つまり、僕が唐突にここで終わる意味不明なオチでもいいのです。ということで、新歓来てみて、居心地がよさそうなど思ったらこのサークル名称未定に入会してみるといいんじゃないでしょうか。

以上、会長のしょうもない駄文でした。

Edit 17:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

卒業式のおもいで

 このごろはブログの期限をまもった覚えがとんとない。じつをいえばこの記事は三月下旬のものだけど、気が付けば新年度が本格的に始まっていた(略して新本格)。春休みって長いなあ大学生サイコーっておもっていたけれど、もう休みどころか残された大学生活の時間が短い。それでも創作サークルらしくよく創作のことをよく考えていたので、まあ、よしとしよう。
 小説を書くとき、アイデアを考える仕方は人それぞれだとおもうけれど、わたしは最近お布団にくるまって考えることが多い。寝る前とか、起きた後とか。そんなだから二度寝する。このまえ暗闇の中でぼぅっと考えていたら、中学時代のことをおもいだした。あの頃の自分はいまおもいかえせばまあ斜に構えた「イタいヤツ」だったのだけど、そんなだから友達らしい友達は少なかった気がする。うそ、結構いた。それでも放課後に遊んだりとか、毎日一緒にいたりするような人は少なかった。
で、悲しかったことがある。それは中学の卒業式後のことだった。教室に戻って担任の先生のありがたいおことばを承って、それなりにうるっとした。でも悲しかったのはそのことじゃなくって、お別れが済んで一度トイレに立ったとき、戻ってくるともう教室に誰もいなかった。こういうのってそれなりに居残ってなんか話したりするもんじゃないの? みんなどこいっちゃったの? わたしは寂しくなって下駄箱に向かった。べつにいいし。高校ではもっといけてるやつになってやる。それで卒業式の日に、みんなで涙を流すんだ。
 わたしは下駄箱に向かった。廊下では卒業生の川ができていた。みんなわやわや話してて、別れのおしゃべりとかわたしもしたかったのになとかおもった。下駄箱に辿り着いたとき、数学の先生がわたしの肩を叩いた。
「有末、おまえみんなと一緒にいかなかったのか?」
「え、どこっすか?」
「地下の一番奥だとおもうけど。前から予約されてたし」
 聞いてねぇ、とはいわなかった。いってもむだだし。やっぱわたしはぶられてたんだ、くそどもめ。わたしは「わっすれてましたー」といって踵を返した。現場を押さえなくちゃいけない。それでどうなるってわけじゃないけどさ。でも悔しいじゃんよ。わたしは階段を駆け下りて地下一階にいった。
 地下には会議室が四つあって、うちふたつはぶち抜きにできる。集会の時とかによく使うやつだ。どこのクラスも打ち上げをしているらしくって、扉からは卒業生が溢れて、揚げ物やあまいものの香りが漂っていた。わたしは一番奥の部屋に入った。向けられたのは、なんだこいつ、って目だった。めちゃ気まずい。でも幸いだったのは、それがわたしのクラスメイト達のそれじゃなかったことだった。部屋を間違えたらしかった。
 しかし、おかしかったのはその部屋が間違いなく「一番奥」だったことだった。先生の間違いだったのかな、とおもって他の部屋を探ったのだけど、全部別クラスのだった。いよいよ先生にだまくらかされたのだろうかとおもって、やっぱりあきらめて帰ろうとした。わたしの中学生活のおわり、こんなかよ。
 そうおもっていたら、視界の端を横切る影があった。別クラスの、それでもそれなりに仲良くしていた子だった。その子が階段を駆け下りて来たかとおもうと、くるっと回って、さらに階段を下りて行ったのだ。
 それでわたしはおもいだした。地下はもっと下に伸びていたんだった。わたしは彼女を追って走り出した。階段をひとっとびに駆け下りて、踊り場でターン。もう一つ下の階について、あの子がまだ下へ走っているのが分かった。だからわたしは彼女の背中について地下六階までたどり着いた。ここが一番下の階だった。彼女はわたしに気が付いている様子はなかった、廊下を駆けて行って、角を曲がった。その先にわたしのクラスメイト達がいる部屋があるはずだった。
 息を切らしていた。あたりまえだ、あんなに走ったんだから。わたしは締め付けるように痛むふくらはぎに鞭打って廊下を歩いた。上の階の喧騒はすっかり消え去り、換気扇の回る音が響いているだけだった。廊下には赤いじゅうたんが敷かれていた。それがさらに音を吸収しているようでもあった。
 角を曲がったとき、誰かにぶつかった。あの子だった。真っ青な顔をしていた。彼女はわたしを見上げると、すごい力で突き飛ばして階段の方へ駆け戻って行った。なんだよ、まったく。わたしは廊下の先をみた。ひとつの扉がそこにはあった。木製で、両開きのものだった、真鍮製の金色のノブは掠れた輝きを放っていて、表面にはいい現わしがたい模様が浅浮彫で刻まれていた。なんの声もしなかった。なんの音もしなかった。
 想起されるのは、さっき走り去ったあの子の顔だった。きっとあの子は扉を開いたんだ。
 わたしは扉の前に立った。でも、ノブを掴むことはできなかった。その代わりにわたしは右の耳を、ぴったりと扉に当てた。なにかが掠れるような音が聞こえた。ものを引きずるような、蛇が息を漏らすような。
 だからわたしは、これはだめだって確信したのだ。たぶん、この扉は開けちゃいけない。ここにいちゃいけない。わたしは立ち上がって駆け出した。
 目が覚めたのは、その瞬間だった。夢でした、お察しの通り。
 おもいかえせば怖くもなんともないけれど、やな夢だった事だけは確かだ。創作のことなんか考えて寝るからこんなになるんだ。
 そんな話を、朝、雑談がてら友人に話してみた。そしたら彼は「それならぼくのが怖い夢を見たよ」といった。
「それってのもさ、こーんくらいの」
 彼は、腕をいっぱいにのばした。さしわたり一メートル五十センチはあった。
「ニラがずるずるって出てきたんだよ、歯ぐきから」

以上、担当は有末ゆうでした。またね!

Edit 20:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

待つ日々にたえて貴方のあらざれば

「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
 僕がこんな和歌の書かれた手紙を桜の樹の下で拾ったのは、大学入学直前の春の日のことでした。
その日、僕はこれから始まる新生活に心躍らせ、半ば浮き足立ちながら散歩をしていました。下宿から琵琶湖疎水に沿って道を下り、東鞍馬口通りを少し過ぎる。そこには小さな公園があり、その隅に、満開の桜の樹がありました。僕は、多くの日本人がそうであるように、桜の吸引力に引き寄せられて花を見上げました。しかし数分もすればその光景にも見飽きてしまい、視線をふと下げる。すると視界の端、桜の樹の根元に、薄い桃色をした手紙が落ちているのを認めたのです。
 僕は少し迷ってから、それを拾い上げました。誰かの落とし物ならそのままにしておくべきかもしれないけれど、いつか散った桜の花びらにそれが埋もれてしまうのではないか、とふと考えたのです。その手紙を広げると、先の和歌が。在原業平の歌。ただ書いてあるのはそれだけで、送り主も、宛先もありません。そこで僕は、ふと思いつきで鞄からペンを取り出し、その和歌の隣にこう書き付けて、手紙を元の場所に戻しました。
「世の中にたえて桜のなかりせば花に埋もるる消息もなし 暮四」
 そして次の日。僕は昨日の手紙のことが気になって、またあの桜の樹へと足を向けました。するとやっぱりあの手紙が。拾い上げて中を見ると、「消息も花もなければ君と我交わらざらん泥濘む轍 白戸」
 この日から、この手紙を通して、白戸さん(筆跡から多分女性でした)との和歌の詠み合いが始まったのです。
 それから一週間ほど経った頃でしょうか。大学の入学式の前日。その頃には、白戸さんとの手紙を通じた詠み合いはほとんど日課になっていました。もう桜の花は散りかけていたため、手紙は花びらに埋もれていました。その日の歌は「あくる日のいつか散る花にべもなく来たる夕陽が照らすその時」僕はなんとなく違和感を覚えました。なんだか言葉のチョイスが不自然で、意味も通りづらい。そしてふと気づきました。折句です。句の頭文字を取ると、「あいにきて」。僕は何と返せばいいか分からず、その日はそのまま手紙を元に戻しました。
 次の日も、随分と迷いましたが、結局はあの桜の樹へは行きませんでした。入学式がありましたし、多分そこにいるだろう白戸さんに会ったとして、どんな顔でどんな会話をすればいいのか分からなかったから。あとは単純に、白戸さんと会うことが漠然と怖かったのです。
 そこから、白戸さんとの詠み合いはなくなりました。桜は完全に散り、手紙も消えてしまいました。無論、私はあの日のことを後悔することになります。
 だから、と繋げるのは少しおかしな話ですが、私は今度の紅萌祭で配るビラの裏に、この話をベースにした、白戸さんに関する小説を書きました。ペンネームも白戸にしてあります。何か、まるで桜の樹の下で手紙を拾うような巡り合わせで、彼女に僕のことが伝わるように。

Edit 22:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

昔馴染み

どうもこんにちは。3月上旬担当のいとらです。

……そう、上旬担当なのです。
本当は3月10日くらいには書こうかなと思っていたんですけどね。最近思ったよりも忙しく、酒を飲んだり、酒を飲んだり、車を運転したり、酒を飲んだりしていたら今日になっていました。と、この並びだとまるで酩酊状態で運転しているかのようですけども、それぞれの読点の間に一日が経過しています。いやあ、一日って短いもんですね。
とまあ、私の堕落っぷりについてはこのくらいにして。

さて、その二番目の「酒を飲んだり」についてですが、具体的には高校の頃の友人二人と会っていました。二人は高校の部活の同期です。ところが、この部活について説明するのは少し面倒でして、一言で説明するならば、工作全般を扱う部活という感じです(部活名についてはあえて書きませんけれども、キラキラネームのような名前だったとだけ記しておきます)。「何でもあり」という点については名称未定と似ているのですが、活動内容は微妙に重なっているところが少なく、部活では例えば木を切ったり機械を作ったりプログラミングしたりしていました。それに加えて私たちの代では、ボードゲームをしたりクイズをしたりと好き勝手していて、どちらかと言うと大学のサークルに近かったのかなと思います。
そんな部活の同期とは、高校の卒業後もそれなりに仲良くしていたのですが、前に会ったのがいつだったかと思い出してみると、そういえばその時「まだお酒飲めないよね」みたいな話をしていましたから、私が二十歳になる前、つまり二年以上も前ということになるらしいのです。二年というのは長いもので、お互いどんな風に呼び合っていたかとか、どういう口調で喋っていたかとかを忘れてしまうほどです。特に私なんかはすっかり大学生活に染まってしまっていますから、前と同じように喋れるだろうかと不安でもありました。
二人とは大学の前で待ち合わせして、近くの店で食事をし、酒を飲み交わし、それから街を練り歩きました。私の地元は温泉街が繁華街となっているようなところで、大学生らしき集団が大声で騒ぎながら足湯に浸かったりしていました(私たちもそのような集団の一つだったかもしれません)。そうやって街を歩きながら、最近どんなことしてたかとか、卒業後どうするのかとか、そういう話をしました。こんな風に会うのも今後は難しくなるんだろうな、なんて話も。気が付けば遠慮なんてものはなくなっていて、最近はめったに出ない方言も使っていました。
やっぱり、二人は私にとってかけがえのない人たちなんだなって思います。
大学に入ってから、私はいろんな人に会って、こんなにも個性的な人たちがいるんだと驚かされ続けてきました。それでも、二人の個性は大学で出会った人たちと比べても引けを取らないくらいに際立っているように感じて、それは今回、会って話をしていても変わらないどころか一層増すばかりで、これは単に仲がいいからそう感じるだけなのか、あるいは偶然特徴的な人と出会っていたのだろうか、なんて考えます。特別でない人なんていない、という言明もありますけれど、それだけで片付けてしまうのも味気ありませんから、ここではそれに加えて、私たちは人と関わりながら育つ中で、その人の特別さに一際価値を置くようになるのではないか、という仮説でも立ててみることにしましょう。検証は、今後の人生でするとして。

もとはと言えば、卒業すると会いづらくなるからというので、わざわざ地元に集まったのですけど、どういうわけか、この春の間に今度は二人が京都に来てくれるということになりました。
いやあ、また忙しくなりますね。

Edit 20:55 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

季節の匂いと音の話

 こんにちは、double quarterです。

 もう丸一ヶ月ほど前の話ですが、京都に雪が降りました。私は雪国の出身なので雪を見ると実家を思い出します。冬の夜のツンとした冷たい匂いや、雪に反射して鈍く光る夜にちょっとした郷愁を覚えるほどです。
 雪に限らず季節には独特な匂いがあります。私は花の香りはあまり好きではなく、むしろ土や草、雨の匂いなんかに惹かれます。特に夏の雨に濡れたコンクリートの匂いなんかは、懐かしさを伴って夏の良さが押し寄せてくる感じがします。夏は晴れも良いですが私はあえて夕立を支持したいですね。都会はコンクリートに覆われているのでコンクリートの熱気と相まってどこかムワっとした雨の匂いがします。しかし私はどちらかというと雨に濡れた土の匂いの方が好きですね。
 なぜ好きなのかを説明するのは難しいですが、一つ思い当たる人間の性質があります。匂いに関する記憶は強いとよく言われます。その言葉に無意識に影響されているのか、本当に記憶しやすいのかはわかりませんが、ともかく私はこうして小さい頃に嗅いでいた匂いに懐かしさや心地よさを覚えることが多いというのはなんだか納得できる気がします。

 ここで最近不満なのがマスクです。ご時世なので仕方の無いことではあるのですが、マスクをしていると季節の匂いというものがわかりません。私は季節の匂いを人目を気にせず堂々と道を歩きながら堪能したいがためにマスクを外したいとすら思っているほどです。
 最近は人が密集していない外の空間ではマスクを着けなくても良いみたいな風潮ができつつあるので、散歩中人目を気にしながらマスクを外して外の匂いを楽しんでいたりします。早く大手を振ってノーマスク散歩ができるようになることを願っています。

 さてまた話は変わりますが、私は季節の音も好きです。と言っても大体は生き物の声なのですが。例えば京都の夏はとにかくセミがうるさいです。クマゼミが多いのでしょうね。一時期はその辺の木に近づくと耳が痛くなるくらいの音量で啼いていました。
 夏の風物詩としてセミも良いのですが、私は夏の夜と言えばカエルの声が好きです。アマガエルの合唱には心地よさを感じます。人によってはうるさいと感じることもあるでしょうが、私は昔から聞いているのでその中でも割と普通に寝られる程度の、心地よい音に感じられます。
 秋は言わずもがな虫の声が聞きたくなりますね。毎年のように「虫のこえ」の一節を思い出して「ウマオイはどんな鳴き声だったかな」などと調べては忘れてを繰り返しています。私は夏が好きなので初秋には夏が終わる寂しさを覚えます。その切なさも含めて虫の声にはエモさ(この表現しか浮かびませんでした)を感じますね。
 冬は日本海側なら良く天気が荒れますね。私も基本的には悪天候は嫌いですが、家の中でぬくぬくと見る悪天候だけは好きです。雪が吹き荒れる窓の外を横目に、風の唸る音を聞きながら本を読むのが最高です。夏の嵐でも同じですね。

 とまあなんだか徒然草みたいな文章になってしまいました。今年の夏はまだ遠いということで、この辺で話を締めさせていただきます。

Edit 22:13 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 初めまして、初ブログ担当のRyeです。書くことはいつか思いつくだろうと担当になったものの、なにも思いつかずにほぼ下旬になってしまいました。とは言っても書かないといけないので、自分が好きなボカロの中で知名度はあまりないけど、ぜひ聞いてほしいものを紹介しようと思います。(知名度の有無は独断と偏見です。)

・イワシが土からはえてくるんだ
 題名から意味がよくわかりませんが、歌詞もかなり意味深で、理解はかなり難しい歌です。しかし、メロディはとても聞き心地が良いので、意味深な歌詞を理解してみたい人、もしくは歌詞はあまり気にしない人はぜひ一度聴いてみてほしいです。

・黒塗り世界宛て書簡
 この歌は多くの規制音が入っていて、多くの歌詞がわからないようになっていますが、その規制音自体を歌に取り込んでいて、非常に秀逸な作品です。また、規制されないダジャレや言い換え、規制音を逆手に取ったメッセージなどが多く含まれていて、歌詞だけでも非常に面白い作品です。

・竹
 BPM5~315という狂った曲です。竹のことを知りたくなったら聞いてみてください。

 全ての曲がYouTubeで聴けるので気が向いたら聴いてみてください。

Edit 10:45 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

タイトル回収

 どうも初めまして、今回初ブログ担当の日比谷です。このサークルに入ってそろそろ1年というところでやっと担当です。これからはぼちぼち書いていこうと思います。

 さて、早速ですが「タイトル回収」っていいですよね。うまいタイトル回収は見るたびにテンションが上がります。例えば、タイトルが何を意味しているのかが急に分かったときとかですね。こういう場合のタイトルは、話の中の伏線ではなく、メタレベルにある伏線というべきなんでしょうか。適度に引っ張ってからいいタイミングでタイトル回収して、意味がつながるときのスッキリ感は半端じゃないです。それ以外だと、「タイトルを上手く折り込んだウィットの利いた発言」というタイプもありますかね。この場合はその時の状況に加えて、タイトルを含んでいることがセリフの存在感と印象を引き立てるという感じがします。

 個人的に忘れられないタイトル回収の話をしましょう(以下は映画「Back to the Future」のネタバレを含むので各自責任のもとでお願いします)。取り上げたいのはBack to the Future 3の結末の話なんですが、これはシリーズ三部作の本当に最後のシーンに当たります。Back to the Futureは端的に言えばタイムマシンをつかったドタバタ騒動のストーリーなんですが、まぁ伏線の貼り方と回収が見事な名作です。そして、3の最後では邦訳で「未来へはもう行ったの?」という呼びかけが出てきます。これが実は翻訳の落とし穴というか、一度原語版でみたときにはじめて気づいたのが、このセリフが英語版では「Back to the Future ?」だったということです。現在のハリウッド映画は、海外展開を見据えて英語前提の言い回しなんかを減らす傾向にあると聞いたことがありますが、このころはまだそういったアメリカン・ジョークのようなものが使い放題だったのでしょう。とにかく翻訳の結果、このタイトル回収は、大半の日本人にとってタイトル回収ではないんですよね。しかしそれが惜しいくらいのこのタイトル回収は上手いんです。映画の、しかもシリーズのラストを飾るシーンという文脈でのタイトル回収、これほど気持ちいい終わり方はないんじゃないかと思います。原語でこの映画を見た人のみが知ることのできる見事なタイトル回収、これが印象に残らないわけがないという感じです。

 タイトル回収について語るのもここまでにして、そろそろ終わりにしようと思います。次回出す作品では「タイトル回収」してみようかな。

Edit 20:28 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

こんな寒い日に喜び駆け回る人はいるんですかね?

 お久しぶりです、氷崎です。
 近頃はどうも寒くていけませんね。まさか雪があんなに降るとは思いませんでした。一授業終えて外に出たらあたり一面真っ白になってるのだからそりゃ仰天するってもんです。
 それは置いといて、雪といえば僕が思い起こすのは童謡の「ゆき」です。あれの一節がどうにも気になっていました。その一節とは「犬は喜び庭駆け回り」。果たして犬は雪を喜ぶのだろうか、と。
 それをついに確かめる時が来たのでは、と僕はドキドキしながら家に帰りました。僕の家は庭で黒柴を飼っています。なので彼女の様子を見れば一目瞭然というわけなのです。うちの犬ころは元気一杯なので喜んでいるならそれこそ「庭駆け回」っているでしょう。
 家につくとあたりはしん、と静まり返っていました。雪は音を吸収してしまうのでそのせいかもしれません。そろりと玄関に向かいつつ庭を覗いてみると、そこに彼女はいませんでした。拍子抜けして家に入ると、彼女は家の中のゲージにいました。母によると僕がいない間の地元の外は、吹雪いてそれはもう大変なことになっていたらしく、母の判断で犬ころを家の中に入れることにしたそうです。雪の降り積もる外に番犬とはいえ放置するというのはあまりにもと言えばあまりにもなので、当然のことかもしれません。一応母に外での犬ころの様子を尋ねてみると、特に喜ぶこともなく小屋の中で大人しくしていたそうです。
 というかうちの犬でどうだったからといって、全ての犬にそれが当てはまるわけではないじゃないか、と父は言いました。ぐうの音も出ません。そもそもの考え方が的外れだったということでしょう。何故気づかなかったのか……。

 ちなみに「猫は炬燵で丸くなる」のは多分確実だと思います(猫飼ってないですけど)。「かまど猫」って言葉があるくらいなので。あ、でもこれも個猫(?)差があるのか……?

Edit 22:23 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

靴紐

最近の日記です。

・喫茶店で頼んだソフトクリームにさくらんぼがついていた。真っ白な背景に鮮やかなほどの赤。幼い子どものささやかないたずら心みたいだ。それを摘んで実をひと口で頬張ると、わずかな甘さと酸っぱさを感じる。割合に大きな種を吐き出してしまえばもうその味は残っていなくて、あとはひたすらに甘いソフトクリームがあるだけ。やっぱりいたずら心に似ている。

・月を見上げない日はないんじゃないか、と思う。夜になると、いや、昼の間も、ふと空を見上げて月を探してしまう。ドアの鍵を閉めるのと同じような、外出時のルーティーンになっている。自分が月に何を求めているのかは分からないけれど、毎回数秒は見上げてしまう。

・秋の終わり、夜の準備をしているような暗い水色の空に薄い月が浮かんでいた。俺は頭の中で「夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ」と呟いた。自然に頭に湧いて出てきていた。確か紀貫之だったように思う。こういった風に、現実と詩歌が繋がる経験は気持ちがいい。そんなことをぼんやりも考えているうちに信号が青になって、俺は前を向く。

・昼の青空に浮かぶ月は世界の終わりによく似ている、と思う。その不釣り合いな感じというか、あり得なさがそう思わせているのかもしれない。というか月のこと書きすぎだろ。初恋か?

・世界は名前によって出来ていることを、最近強く実感する。アベリアの花も寒椿も、その名前を知ってから視界に飛び込む回数が増えた。特に椿なんかはあんなに鮮烈な色をしているのに、名前を知るまでは全く見えていなかった。もったいない。世界の名前を大事にしていきたい。でも、名前をつけずにいたいものも確かにあって、少し困ってしまう。

・靴紐を結ぶ。時計を合わせる。楽器のチューニングをする。世界に自分を合わせる行動。これらが苦手だ。靴紐はすぐ解けるし、時計やチューニングはすぐまたずれる。ただの不器用とかたづけてしまってもいいけれど、何か抽象的な意味を付与してもいい。とにかくこれらの行動をしているとき、なんだか少し寂しくなる。

・アンディウォーホル展に行った。ウォーホルは戦後アメリカの大衆消費社会を象徴する画家で、反復などの技法が有名。展示の仕方もそれに倣った意欲的なもので面白かった。特にキャンベルのトマト缶には感動した。まさか生で見られるとは思ってなかったな

・『蚊』という小説を書いた。一年前から構想だけはあって、最近ようやく形にできた。大人と子供、性愛と純愛、恋と信仰。様々な二項対立をそこに込めた。蚊と乳房は男女の間にあるそれらを表現するためのメタファーのつもりだった。しかしそれを他サークルの人に見せたところ、それはもう多種多様な解釈をされてしまって、思惑通りにメタファーを機能させるのは難しいと感じた。

・京セラ美術館で気に入った作品 
河合健二『曙光』
下村良之介『月明を翔く(弥)』
徳岡神泉『流れ』

・『冬蜂の死にどころなく歩きけり』村上鬼城の俳句。最近ひよんなことから知った句で、一目惚れしてしまった。そう、これなんだよ。俺は俳句にささやかな悲劇を求めている。

Edit 20:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

あけましておめでとうございます

 こんにちは、今年の会長になりました、西桜です。
ほんとは1月1日に書こうと2022年の自分は思っていたのですが、某モンスターのゲームをしていたら3日になっていました。

 お正月はいかがお過ごしでしょうか。僕はずっとゲーム、時々読書や勉強をするいつものような過ごし方をしています。昔はどこか浮かれた気持ちになった正月も、今はいつも通りの気分でいます(単に授業行ってなくて休みが多い生活を、普段からしているだけではないかという意見は知りません)。
正月など所詮人間の作り出した暦の始まりにすぎない、というニュアンスの言葉を思い出したりしました(確か「笑わない数学者」に元の文は載っていたと思います。ニュアンスがあっているかは本が手元にないので今は確認できませんが)

 昨年はだいぶ活動は対面より(知りませんが)になってきました。来年の新会長のブログに「コロナ」という文字が入っていないことを祈ります。

 そういえばこの文章でも何個かありますが、文章の後に()で情報を付け足すのは英語の文法的な発想なんですかね。

 ではでは。

Edit 13:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

お疲れ様でした!

さて、後輩たちからの再三のリコールによって辞任に追い込まれた、前会長中島の演説です。

 えー、みなさまお疲れ様でした。私が頑張ってこれたのも、ひとえに先輩、同輩、後輩の支えによるものです。
 本当にありがとうございます。感謝してます。本当です。
 ところで、最近このブログも随時充実してきました。
 後輩諸君が、それぞれの個性を活かした記事を書いてくれるからです。
 先輩として忸怩たる思い、記事を見るたび、嫉妬と悔しさが入り混じったなんかドロドロした感情が湧いてきてとまりません。
 嗚呼、除夜の鐘よ、鳴り響け。私の煩悩を吹き飛ばせ。
 以上、最近画像生成AIに目覚めた中島でした。

不束者ですが、また来年もよろしくね!

Edit 19:59 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

もうすぐ新年!

 目覚めのすぐあとで布団を出るのがことに億劫になってきて、もう冬なんだと自分を納得させることがようやくできました。有末ゆうです。秋がわたしを引き留めるとして、両肩に置かれた片方の手はきっと八月担当分のブログで、もう片方の手は九月の担当分でしょう。あるいは夏です。夏に忘れてきたものがかさばりすぎていました。
 
 大学生のこととなると、年がひとつ巡るとそれからすぐに春休みがやってきます。だからいまのわたしたちはきっと遠からぬ日にテストとレポートに圧倒されながら死んじゃいそうになっていて、それでも夏の終わりと一緒にはじまった後期はどうあれおわります。学生の四か月なんてあっというまですね。その間にわたしはどれだけのことをできたんだろうなんてふと考えてみて、やっぱり死んじゃいそうになりました。創作サークルに入っておいて、この後期はお話のひとつも書くことができませんでした。スランプですね。存在意義。
 
 不肖のわたしでございますが、九月のまるまる全部を費やしてひとつのお話を書きました。でもそれ以来わたしのワープロくんは、授業のレポートと発表資料をつくりあげることばしか語っていません。わたし自身もきっとそうでしょう。すっかり創作や想像、あるいは空想というものから頭が離れてしまっていて、ほんとのことをいうならこの文章を書くのにも半年前の息遣いをすっかりわすれてしまったせいで難儀しています。困ったものです。苦しいです。存在意義。このまま息が止まってしまったらって考えると、ちょっと怖いです。
 
 そういえば、一年か、二年くらい前に先輩とお酒を飲ませていただいたときに、ふわふわした頭でくだを巻いていた気がします。ひとにいわれたことも、自分でいったこともすぐに忘れてしまう気質のわたしですが、あのときのやりとりはなぜだかおぼえています。

「趣味については」わたしがそういったんです。「趣味については飽きっぽい性格で、昔は一生付き合っていくんだろうとおもっていた音楽も、料理も、今振り返れば数年と経たないうちに概ねやめてしまっていたんです」

「はあ」先輩は眠そうな声で相槌を打っていたとおもいます。「そんで」

「創作についてもそうなるのかなとおもいまして。いまは楽しいんですけどね。打ち込んでもいます」

「いやなの?」

「音楽とか、料理とか。冷めてしまってもべつだんいやではなかったです。でもいやなことがあるとすればそのことです。いまの自分がよりかかっているものが、いつか大したものじゃなくなるんです」

「若いね」

「昔からそんななんです。いま好きで、なんども聴いているアルバムを、きっと数か月もすれば聴いていないだろうなとかおもってすこし悲しくなるんです」

「エモいね」

「それがなんか怖いんですよね」

 わたしはカップに入っていた日本酒を干しました。先輩は自分のカップにウイスキーを注いでいました。まるこい瓶は空になっていました。

「いまは楽しいんでしょ」先輩はいいました。「ならいいじゃん。未来になってもそうなるんなら」

「別の趣味?」

「あるいはそれが一生の」

「あんま想像つきませんね」

「いま考えることじゃないんでしょ。いつ考えることでもない」

 先輩はそれから数か月のうちに大学を卒業して就職しました。あまり連絡を取り合うような仲でもないから生活がどんななのかはよく知りませんが、就職しても先輩は年に二、三本くらい作品をあげています。かくありたいものだ。そうおもっています。

 まだわたしは別の趣味を見つけていないようです。でもまだそれも必要ないみたいです。四苦八苦して、息が辛くて、もどかしくってむずがゆくって、それでもなんとかことばをひねりだしてキーボードを打つわたしの指先は、まだ楽しめているみたいです。

 なんて、ひさしぶりにお話めいたものを書いてみました。実際のことをいえば:べつにそんなに悩んでない。存在意義がどうだとか考えちゃいません。わたしがお話を書くのはただ面白いねっていってちやほやされたいという欲求によってだけですし。承認欲求モンスター! まだわたしのそれはそんなに大きくなっていない、と、信じたいものです。いつかそれが幼いまんまで大きくなったら、そのときはそのときで、辛くって苦しくって死んじゃいそうで叫びながら、それでもなんか書いているんでしょう。書いたはじからまた焦燥感にちりちりしながら泣いてるんです。それでいつかことばが怖くなるんです。でもそのときには、別の趣味を抱きしめているんです。そうだろうか。そうだといいな。やっぱいやかも。なんちゃって。これもまたお話。

 なんだかだらだら書いちゃいました。二十三時五十分。夜が眠いんです。でも、おかげで次の年を迎えられそうです。駄文を失礼しました。今度は時期を外さぬブログ担当でお会いしたいものです。それでは。八月下旬、九月上旬担当、有末ゆうでした。エモい文章書いていきたいな。それじゃ、またね。

Edit 00:08 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日記

 こんにちは、12月上旬担当の西桜です。中旬担当だと思ってたら、上旬でした。

・NFについて
 今回のNFの企画責任者をしていました。全面開放とはいきませんでしたが、普段話さない人と話せたことや、直接会誌を手渡せて結構満足しました。また大学が休みなこともあって、普段会わない高校の友達ともご飯に行けてよかったです。

・クリスマスについて
 去年もこの時期にブログを書いたなあと少し懐かしく、一方何も状況が進歩していないことが悲しいです。また、友達がプラスの報告をしていて、置いていかれたという寂しさと、素直な嬉しさを覚えました。つまり、クリスマスとは感情の発散がゼロになる時期ですね(暴論)。

・読書について
 今までの3分の2が最近読書してないなあという嘆きでしたが、ようやく小説を読むようになりました。あと、今まではただ何となく読むだけでしたが、最近は自分が気に入ったワードをメモに取る様にしました。
ジグβは神ですか 森博嗣
「スタイルも良いし、とも思った。もちろん、生きていなければ、その表現に意味はないのだが」
 今この文章を書いている時に、ふと思い出した文です。

・散歩について
 11月後半から、夜に40分ほど散歩をするようになりました。僕は季節の中では景色と言う点では秋なのですが、過ごしやすさという点では冬が好きです。というのも、寒い空気の中外に出ると、不思議と脳みそがスカッとして再び何かをしようとする意欲が湧いてくるからです。ちなみにこれは僕の注意の問題だと思いますが、僕が歩く時間帯はカップルの男女がよく歩いています。そんな二人連れを見るたびに、僕も愛しき人と手をつないで歩きたいなと思ってふと横を見ると、構成割合窒素78%酸素21%の彼女がいました。

 くだらないことを書いていたら、23時になってました。ちゃんちゃん。

(追記)
 今まではカテゴリが下から二番目だったのが、結構上になっているのに気づきました。これも時の流れってやつですかね。

Edit 23:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

「セリフ、難しい」

 こんにちは。十二月中旬担当の谷川慶です。
 突然ですが、自分はセリフを書くのが好きだなという自覚がありまして、地の文なんて一刻も早く切り上げてセリフが書きてえ! と思うこともしばしばあります。感情を表現するときに、できることなら、十の地の文より三のセリフで表現したい、なるべくリアルで感情の乗ったセリフが書きたいと思うタイプです。厄介です。そんなことにこだわってるから筆が進まないんだよまったく。
 もちろん、現実に近いリアルなセリフがその小説にとって常に良いとは限りませんし、話を進められればそれで良いという向きもあると思います。が、不自然なセリフよりは自然なセリフの方が良いはず――という精神で、自分がセリフについておぼろげに考えていること(や誰かの受け売り)を書いてみようと思います。

①噛み合わない
 人間、意外と相手の言ったことにまっすぐ返答することって少ない気がします。しょうもない話に逸れたり、一歩先を読んだ返しをしたり……。例えば「こんにちは」と挨拶されたとき。普通の人物、キャラなら「こんにちは」と返すでしょうが、それ以外の返答にしてやることでその人物の性格や感情が分かりやすく表せます。「あ……ども」「こん……あ、髪、切った?」「もう夕方だぞ、早く準備しろ」「ね、俺いつも思ってんだけど、『こんにちは』って並べ替えたら『ニコチンは』になんだよね」とか。ストーリーを進めるうえで必要なセリフだけ言うのでもいいのですが、一見関係ないと思っていたセリフが終盤で再登場したりしちゃう展開が私は好きなので――無駄話バンザイ。

②一貫性のある話し方をする
 話し方というのは人物ごとにみな違い、そして身についた話し方はなかなか変わらないものです。作品の中で、このキャラはこういう喋り方、という一貫性を作っておくのも当たり前ですが大切だと思ってます。というのも、その人にとって〈普通のセリフ〉があれば〈特別なセリフ〉も生み出せるからです。普段大人しい話し方をする人が荒い言葉を使えば、本当に心から怒っている、あるいは逆に冗談を飛ばしている、などの心情が伝わりやすくなります。ずっと敬語だった友人が、ふとタメを使えば、心を開いて仲良くなったことが印象的に伝わります。俗っぽく言えば、ツンツンツンツンデレみたいな感じです。徹底してツンツンした後のデレからしか得られない栄養があるのです。そのツンツン部分に妥協せず、一貫性を持たせることで、話の山場のデレの威力が上がるのです(何の話?)。

③既存の言葉を改造する
 人間、案外適当な言葉で話してますから、すでにある言葉、成句、ことわざなどを魔改造しちゃうこともあります。雑な例ですが「可及的なるはやで」「(朝飯前じゃなくて)昼飯前だぜ!」「おーい……もうそこの猫でいいや、手ぇ貸してくれ……」とか。

④口に出して違和感がないようにする
 これに関しては正直好みというか、口語に近ければ良いというものでもないので場合は選びますが、実際に人物が発する言葉なんだから現実で言っても違和感がない方がいいだろうとは思います。小説的な面白さを全否定している自覚、これあります。自分は小説を書いているときでも割と場面を画でイメージする方なので、現実世界でありえる話し方をなるべく再現したい派として、実際に声に出してみたりしてセリフを書き変えたりしています。しかし当然、表現としてあえて固い口調を選択したり、ストーリーのテンポを上げるために不要な部分をカットしたりしている場合もありますし、本当に現実の会話を再現したら、「あっ……」とか「えっと、その……」ばかりになってしまいますから、ま、ほどほどにってことです。

 と、ここまでどうちゃらこうちゃらと書き連ねてみましたが、こんなのは所詮小手先のこねくり回し、結局は書きたいように書くのが一番だと思います。ただ、せっかく何か喋らせるならこだわったほうが楽しいかなーと、そんな感じで僕はセリフと格闘してます。ところで、創作での会話術の前に、現実世界での会話術を誰か私に教えてください。それでは。


「――ま、てな感じかな。どう思います? これ、この文章」
「んーそうね。なんて言えばいいんだろ。これブログのやつだよね? だよね。まあ一言で言うと……ちょっと分かりづらいかな」
「えぇー! まじですかぁ」
「なんかね……話が脇に逸れすぎだし、中身も浅い。自分で自分にツッコミいれてるのも読んでてイタイ。あと、偉そうにう――」
「あーはいストップ! オーバーキルです無理っす僕もうライフゼロです。分かりましたありがとざんしたぁ!」
「急に大声出さないでよこんなところで。せっかく今からお褒めの言葉も贈呈しようと思ってたのに」
「え、贈呈ナッシングですか。お褒め欲しいですお褒め。ほら、僕もおだてりゃ何とやら」
「どうしよっかなあ……あははっ、まあ私はこの文章けっこう好きだぜ、ってこと」
「何すか急に、だぜって」
「はいとにかく。早く修正してさ、間に合うよう――あ」
「あ……。投稿、しちゃいました」

Edit 12:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

没作品『道連れ』

 暮四です。NFお疲れ様でした。そしてありがとうございました。外部誌はなんと完売、コピー本やポストカードもたくさんお買い求めいただけました。自分たちで作ったものを直接お客さんに手渡しできるのはやはり感慨深いですね。これからも名称未定をどうぞよろしくお願いします。
 さて、今回のNFで発行したテーマ本に、私は『手前の大路』という紀行文を寄稿しました。しかし実は、この作品を書く前に没にした文章があったのです(な、なんだって~!)。本来はこちらを寄稿するつもりだったのですが、あまり内容に納得できなかったので没にしました。その後、その原稿はパソコンのフォルダの奥深くで眠っていたのですが、NFが終わって一息ついたタイミングでそれを読み返してみました。やはり未だに内容には納得していませんが、このまま日の目を見ることなく消えていくこの原稿の身の上を思うと袖が濡れてしまったので、供養としてこのブログに投げておきます。よかったらご覧ください。暮四でした。

『道連れ』

 道から外れて歩くのが、彼の癖だった。いつも彼は歩道を歩かずに、車が通るすれすれの所を歩いていた。僕は彼の斜め後ろ、安全な歩道を行きながら、どうしてそんな所を歩くのか訊ねたことがある。
「なんか馬鹿にしてるみたいだろ。つまり、世界って呼ばれるものの全部をさ」
 彼は笑ってそう答えた。僕にはその意味が分からなかった。僕はずっとそうだったんだ。僕は常に彼の一歩後ろを生きていた。はじめて出会った三年前のあの頃から、彼は全てにおいて僕より秀でていた。一応日本一の大学と呼ばれるうちの大学に首席で入学し、講義にもろくに出ていないのに試験は常に満点近くを取っていた。勉強だけでなく、スポーツも、音楽や芸術でさえ、彼は悠々とこなしていった。
 彼は、つまらない言葉でまとめてしまえば天才だった。少なくとも他の学生たちは彼をそう呼んで、その神性を疎んでいた。
 でも、僕は彼を違う言葉で評したい。彼は優しい人だった。彼と違ってどこまでも平凡な僕に、彼は話しかけてくれた。彼は、僕の唯一の友達だった。いや、今思えば違ったのかもしれない。彼と僕との関係は、友達だなんて対等なものではなかったように思う。彼が僕に与えるだけで、僕は彼に何も与えていなかった。受験に受かるための勉強を十八年間続けてきただけの僕は、世界というものとの関わり方が分からなかったのだ。悪意だとか、嘘だとか、歪みだとかいうような、剥き出しの世界に対し僕はあまりにも無防備だった。きっと彼はそんな僕を見かねたのだろう。世界は全て彼を介して僕の前に現れるようになった。親鳥が餌を小さくしてから雛に与えるように、彼は剥き出しの世界を、かみ砕いて僕に与えた。彼は賢いから、複雑なこの世界を、馬鹿な僕にもわかりやすいように解釈する術を知っていたのだ。
 だから、それこそ親鳥に対する雛のように、僕は彼の後ろをついて回っていた。僕にとって、彼がいる方向が前であり、正解だった。彼はそんな僕のことをどう思っていたのだろうか。

 三年生の秋の日、彼は突然消えた。その年初めて金木犀が香った日で、また通学路の彼岸花が枯れていた日でもあった。大学に問い合わせると、彼は退学したとのことだった。そんなそぶりは一切なかったのに、僕の世界からは彼の痕跡の一切が消えていた。その時になって初めて、僕は彼の家も連絡先も知らないことに気がついた。
 彼は結局戻ってくることはなく、いつの間にか年を越していた。僕はしばらく外に出ていなかった。それは彼がいなくなって悲しいから、なのか。きっとそうではなかった。僕は怖かった。彼を介さない、剥き出しの世界に相対することが、どうしようもなく恐ろしかった。僕は大学に行かなくなり、今期の単位を全て落としていた。
 家にこもったままのある日、電灯に照らされた部屋中の埃がやけに気になったものだから、僕は久しぶりに窓を開けた。その時、冷たさの残る夕暮れの空気の間を縫うようにして、かすかに春が香った気がした。少し、外に出てみようと思った。
 とりあえず、近くにある公園を目指した。久しぶりの太陽の光は暴力的な熱を纏い、傾いた陽の光は直接に僕の肌を刺した。彼が前にいない世界はどうも他人行儀で、通り過ぎる誰もが僕を見ているように感じた。世界の全てが、僕を敵視していた。その視線から逃げるように、僕は下を向く。
「あ」
 自分が、道から外れて歩いていることに気がついた。 

Edit 14:38 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

進化心理学の話

 こんにちは、double quarterです。

 突然ですが私は最近進化心理学という考え方にはまっています。ということで今回のテーマは進化心理学です。あたかじめ言っておくと、進化心理学の考え方には批判もありますのであまり鵜呑みにせず、あくまで私が最近考えたこと、ということでお許しください。(ネットで調べた程度の知識と自分で考えたことが混じっているのでお気をつけください)

 進化心理学とは大雑把に言えば、人の心理的な傾向が進化によって形づくられているという考え方のことです。定義は色々あるみたいですが、今回の話ではざっくりこのくらいの意味で取り扱います。

 具体例は色々ありますが、本能に近く進化の影響を受けやすい部分として恋愛についての話を取り上げましょう。
人は遺伝子的に遠い人のことを好きになりやすいという話を聞いたことはないでしょうか。これは遺伝的に近い交配が起こると不利な劣性形質(今は潜性形質と言うらしいですね)が遺伝しやすくなり、結果的に子孫を残しにくくなることによります。これは遺伝の仕組みと強く結びついているので進化との関係がわかりやすい例ですね。
ルックスで人を選ぶ際も、人に好まれるルックスというものにはある程度普遍的な傾向があります。これは卵が先か鶏が先かみたいな話になるのですが、進化心理学的に説明がつきます。人には普遍的な美醜感覚が備わっており、それにより良いルックスを持っている人が優秀な遺伝子を持つ人と交配することができ、子孫は生存に有利になるという仕組みになっていると考えれば納得が行きます。(このシステムは人間以外の一部の動物にも見られるものです。鳥の間で結構飾り羽根の綺麗さで優劣がつくのが一例ですね) もし美醜感覚があまりにも人それぞれだったらこのシステムは破綻し、乱雑な交配が起こることでしょう。
 逆に好まれない例を挙げると、皮膚疾患などは悪い印象を与えやすく、時には感染性に関わらず人を遠ざけてしまうこともあります。恋愛に限らず、初対面の人の印象としても影響があるでしょう。これも進化心理学で説明できます。天然痘という病気を知っている方も多いでしょう。天然痘を発症すると顔や身体にできものが大量にできます。他にも強い致死性を持つ病気として皮膚疾患が症状の一つである病気は古くからいくつもあったのでしょう。こうした重大な病気を避けるために、皮膚疾患を持つ人を避けるように進化的な圧力がかかったと考えられます。

 さてまたルックスに関わる話題になってしまうのですが、世の中には高身長男性を優遇する傾向があります。私は身長が低いのでその辺はついつい意識してしまうのですが、どうやら低身長より高身長が良いものとする傾向は人類に普遍的なようです。これは男性は体格が大きければそれだけ力も強く体力もあり、労働に適していたということの表れと理解できるでしょう。
 同性に対する嫉妬という観点ではまた面白い研究結果があります。
 “魅力があり、肉体的に優位で、社会的に力を持つライヴァルに対してもっとも不安を感じていた男性は、自分たちの身長が高ければ高いほど、嫉妬を感じにくかった。(Short men are the jealous type, March 13, 2008)” この結果は言ってしまえば自己肯定感に身長という要素が有意に関わってきているということです。身長という一見無関係な要素が心理に大きく影響を与えていることがはっきりしていて驚きです。
 “この研究では、ほとんどの女性は他の女性の身体的魅力に嫉妬を感じていたが、中ぐらいの身長の持ち主はほとんど嫉妬を感じにくかった。(Your height dictates how jealousy strikes, Universities of Groningen and Valencia, March 13, 2008)” この結果は男性の例に対して非自明に思えます。これについては、” 平均的な身長の女性はもっとも繁殖力が強く健康的な傾向にあるから、似た特徴を持つ女性に対して脅威を感じにくい傾向にあった。(Short men 'are the most jealous’, March 12, 2008)”という仮説があります。性役割的な話になりこの辺は昨今センシティブなので少し怖いですね。ただ生物としての進化に対する人類社会の発展の勢いを考えれば、進化が時代に追いつかないということはもっともだと思います。“時代遅れ”な考え方が遺伝的に残るのも納得です。
 他にもいくつか例はありますが、これだけ見ても身長は他者への印象を大きく左右するということがわかります。

 しかし実際問題人の意志決定を考えてみると、当然遺伝的な要素だけでなく後天的な要素も大きく関わってくるでしょう。これについては遺伝子で決まり、それについては後天的に学習する、という感じに分けられるものでもありません。どちらも欠かせない要因です。ですから社会的、環境的要因を無視するべきではなく、また進化心理学的な要因も当然考慮すべきだと思います。
 過去はこうだったが現在は違うだとか、人間には理性があるから意識改革をすれば差別を改善できるという素朴な考えに反して、我々の行動や思考における無意識や本能の占める割合というのは驚くほど大きいものです。人間の進化及び進化で獲得された心理というものを蔑ろにしていてはきっとどこかで他者理解の壁に突き当たってしまうことでしょう。人間の理性、論理性への信頼を一度忘れてみると面白いことに気づけるかもしれません。

Edit 22:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

名称抹消

 どうも。氷崎です。

 唐突ですがこの間家族で北陸に行きまして。一日目は福井の県立恐竜博物館に行きました。当博物館は僕ら家族には馴染みのある場所でして、それこそ僕が小学生の時には毎年行っていたぐらい、関わりの深い場所なのです。
 で、久々(正確に言えば6年)に訪れた我々を当博物館は変わらぬ姿で出迎えてくれ……はしたのですが、中に入って展示を眺めていると僕は何やら違和感を感じ始めました。
 違和感の正体は、展示されているいくつかの恐竜の名称が変更されていたことにありました。当然と言えば当然なのですが、研究が進めば今までつけられていた名前が変わることは古生物においては頻繁に起こる事です。僕は幼稚園の頃に買ってもらった恐竜図鑑の知識で止まっているので、改めて調べてみると驚かされる名称変更や存在の抹消がありました。一部をここに記します。
 ・セイスモサウルス
 最大の恐竜(とされていました)。ディプロドクスっていう竜脚類のたまたまデカくなった個体だったみたいです。
 ・アナトティタン
 まさにカモノハシの顔をした草食恐竜。エドモントサウルスっていう恐竜の顔が圧力でひしゃげただけらしいです。この手の話はこの分野ではよくあること。
 ・スティギモロク
 石頭恐竜。石頭恐竜の代表格たるパキケファロサウルスの幼体説が濃厚みたいです。この間のジュラシック・ワールドにも出てたのにお前……
 ・ゴジラサウルス
 怪獣オタクの発見者により名付けられた(その時代にしては)巨大な恐竜。同時代のコエロフィシスっていう恐竜のこれまた巨大化個体説が濃厚のようです。一応、消されるまでには至っておらず検証中とのことですが。

 ……いずれも古生物にはよくあることですが、少し寂しい。たとえ学問的には使われなくなったとしても、記憶の隅には置いておくことにします。名前に罪はありませんし。

Edit 20:40 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

気になっている言葉

10月下旬担当の葱です。遅れてすみません。今回も気になった言葉について。

1 ウォ―リーをさがせ
 わたしは職を探さないと(涙目)

2 国境が消えたら争わなくなる
 こういう歌詞は昔からあります。「国境はなくならない」「国境がなくても別の事で争う」という批判があるとわかっていながら、このように言うのはなぜでしょう。作詞者の本意は「国境はなくせないにせよ、自分と周りの人の間の国境(勝手に引いている線)をなくそう」ということですかね。

3 買い物しようと街まで出かけたら、さいふをわすれてゆかいなサザエさん、みんなが笑ってる
 レジで財布を忘れたことに気づいた気まずい瞬間に、まわりに笑われたら立ち直れませんね。

4 広島or沖縄出身の○○(首相、歌手、~を拠点に活動するグループなど役職)として平和を訴えていきたい
 もちろん原爆や沖縄戦が重要なことだと知っています。しかし、それが出身者にプレッシャーをかけることにならないか、8月は特に思います。

5 働く大人の昼ご飯、それがサラメシ
 中井さん、働いていない大人の私も昼食べていいですか

こんなに小さい言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんのでご安心を。おそらくブログを書くのも今回が最後です。

Edit 07:16 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

微妙な気遣い

 上旬を過ぎてしまい申し訳ありません、ナカジマ杓子です。

 いきなりで申し訳ないんですが、最近気になっていること。それはMicrosoftからのメッセージ。

 まず背景として、私は(特に理由なく)WIFIの接続を手動で行う設定にしています。なので、当然自宅と大学とでいちいちネットワークをつなぎ直さなくてはいけない。でもときどき設定を忘れたままでMicrosoftEdgeを開いてしまう事があるんです。WIFIがつながってないとEdgeの検索機能も使えないので、WIFIを繋ぐように求めるメッセージが出ます。

 「接続されていないようですね」。

 分かりますか、このメッセージの微妙な気遣いが。「接続してください」ではないんです。「接続されていないようですね」です。

そう、この言い方は幼稚園の先生が「たっくん、遊ぶ時間は終わったよ~。絵本はどうすればいいんだっけ~?」と聞いてくれるあの感じです! 「絵本をしまってね」だと強制なのでたっくんは従わない。あえて遠まわしに伝えることで、本をしまうという行為がまるで自発的なものであるかのように錯覚させる高等技術! Edge凄い!

 ありがたいと同時に、「オレ、もう大人……」とも思います。 以上、ナカジマ杓子でした。


 

Edit 23:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

エイサクの話

 10月です。後期です。当初の予定の五分の一も達成できないまま堕落した夏休みを過ごしてしまった、9月下旬担当の谷川慶です。

 更新が少し遅れたのには理由がありまして。ブログに出そうと書き上げた例の城崎のレポートを、諸事情により一旦封印することになってしまいまして、ブログにあげるものがなくなってしまったのです。そういうわけで、今回は突貫で仕上げた適当な日記でもあげることにします。


 夏休み前、吉田南の図書館でぶらぶらと本棚を見回っていると、一冊の本を発見しました。岩波文庫『二十四の瞳』でした。昭和初期から戦後の時代を舞台に、瀬戸内の一寒村に赴任した若い女性教師と十二人の生徒のふれあいの物語。名作といわれている作品らしい。その本が特段目立っていたわけではなかったのですが、「ああ聞いたことあるけど読んだことはないな」くらいの軽い気持ちで手に取りました。パラパラとめくっていると、一枚の紙が挟まっていることに気づきました。その紙には鉛筆でこんなことが走り書きしてありました。

「岩波文庫 G 212-1  ツボイエイサク」

 誰かの個人的なメモか職員さんの蔵書管理のメモが挟まれたままのかな、と思いました。そしてすぐ違和感を覚えます。あれ、二十四の瞳の作者ってそんな名前だったっけ。

 二十四の瞳の作者の名前は「壺井 栄(ツボイ サカエ)」でした。表紙と背表紙を見ると、はっきり書いてあったのです。
 「壺井 栄作」と。

 他の本を見てもすべて名前の最後が「作」になっています。どうやら岩波文庫は、人名の後にすぐ「作」や「訳」を書く流派のようでした。壺井と栄の間はスペースが空いているのに、栄の直後に作があったのでは、これは一連の下の名前だと勘違いしても仕方ありません。特に運が悪いことに、壺井栄は「栄作」というそれらしい名前になってしまうために、間違えてエイサクと読んでしまったのでしょう。壺井栄は女性なのに、一文字付くだけで「栄作」という明らかに普通の男性の名前になってしまうのも上手い偶然です。「芥川 龍之介作」なら絶対に「リュウノスケサク」などとは間違えなかったはずなのに。

 何かの縁だろう、とそのまま借りて帰って、二か月。結局読まずじまいのまま夏休みが明け、今日図書館に返却しました。もちろん紙は挟んだままで。もしかしたら、探しに行けばまだ紙が挟まってるかもしれません。

 はい、特に面白いオチはないです。この類の勘違い、ミステリーか何かの小ネタに使えるんじゃないかと思ったり思わなかったりしましたが、僕では上手く料理できそうにないので日記的な感じで雑然と書き残しました。

 封印した城崎レポートは、またしばらくしたら出すかもです。写真付きで結構頑張って書いたのでいつかはあげたいなあって思ってます。それではー。

Edit 00:16 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

美術館に要らないもの

・絵の題
・絵の説明
・額縁
・音声ガイド
・仰々しい看板
・入り口の映像
・有名な絵の前座みたいな立ち位置にされている絵
・学割のために学生証を見せる、あの時間
・自撮りしてる人
・美術館にわざわざドライフラワーを持ち込む輩
・物販
・謎のポストカード
・時折流れるアナウンス
・手を繋いで絵を見てるカップル
・揚々と絵の解説をするおじさん
・割とでかい声で喋ってる人
・謎の批評家
・全く立ち止まらずに歩いていく人
・飽きたのか隠れてスマホ触ってる人
・閉館時刻
・休館日
・再入場はできません
・順路がよく分からない展示
・撮影可能な絵
・無言で催促してくる後ろの人
・絵の前からなかなか退かない人
・そういったモラルに小煩い奴
・俺以外の人間
・俺

Edit 21:02 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日記

こんにちは、西桜です。
最近車校に通っていて、母校の高校前をよく通るのですが、高校生のまぶしさに毎回目を眩ませています。

今月は始めて印刷所に原稿の注文をしました。自分らで印刷するときよりもファイルの体裁を整える必要があり、かなり時間使いました。しかし、一応一人で冊子を作れるようになったので、いつか自分で冊子丸々出せるくらいに原稿を書いてみたいものです。(一応長編を書けそうなネタはありますが、なかなか昇華しない。)

4月のブログに書いていた、「狂骨の夢」を読みました。数々の事件の不思議具合が、今までよりも怪異よりになっているのが僕好みでした。

書いていると短文の日記群になりました。それでは。

Edit 22:51 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ぼくのなつやすみ

理学部一回生の帆貝梨香です。何を書けばいいのかわからないので、近況報告でもしておきます。
さて、夏休みがやってまいりました。高校の時は二週間ほどしかありませんでしたので、二か月という長さにはびっくりしています。かといって暇というわけでもなく、現在、私はバイト中心の生活を送っていまして、何分、それが午後にあるものですから、完全に昼夜逆転しています。朝日を浴びなきゃ寝れません。これの何が困るかといいますと、休みの日に遊びに行けないのです。京都といえば、世界文化遺産が各地に点在していまして、それを住んでいれば好きな時に巡れるじゃん! というのが私がここに来た理由なのですが、ほとんど行けていません。起きる時間には既に、閉まりかけの時間になっているのです。

というわけで、夏休みなのに、寝るか働くかしかしていない私ですが、いよいよやってまいりましたお盆休み。先日、嵐山に行きました。渡月橋を見たり、竹林小路を見たりと、そこそこ充実した一日を送れたのですが、いやはや、暑すぎます。京都の夏をなめていました。京都に住んでらっしゃる方はもしかしたらわからないのかもしれませんが、体感では私の地元である宮崎よりも暑いです。はてはて、こうなったらもう秋以降しかないなと思いはじめたのですが、そうこう言っていたら、いつまでもどこにも行かないような気がしてなりません。

そう明日でいいやと先延ばしにしていたこのブログのようにね!

この人、八月上旬担当だったんですよね。大変申し訳ございません。

意を決して、楽しい夏休みにするぞー!

Edit 02:01 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

こんなこといいな できたらいいな

 どうもはじめまして! 氷崎光と申します。
 いい話が思いつかないので取り敢えず知り合いの話をしますね。

 知り合い……ここではN君としますが、彼はある国民的アニメのファンでした。あの青いネコ型ロボットの出てくるあれです。今回の話はそれに大いに関連する話です。
 ある日私は彼に呼び出されて某所にあるラボに行きました。あ、N君は研究者でして、今は共同ラボで他の研究者たちと一緒に研究をしているそうです。
 「おお、よく来たね」
 行って早々、私は入口から職員の方に案内されて最奥の部屋に通されました。そこで待っていたのはもちろんN君です。彼は満面の笑みでそう言って私に握手を求めました。私は取り敢えず差し出された手を握りました。
 「もう大丈夫だから、職務に戻ってください」
 彼は職員たちを下がらせました。そして私にこう言ったのです。
 「氷崎君。僕はとうとう夢を一つ叶えたよ」
 顔に満面の笑みを浮かべたまま。
 私は何も言うことができませんでした。N君が何を言いたいのかわからないのだから、反応に困るというものです。そんな私の様子にN君も自身の不親切さに気づいたようでした。
 「あぁ、これじゃ伝わらないな。とにかく、僕についてきてくれる?」
 そう言って彼は振り返り、後ろの方に歩きだしました。私は言われた通り、彼についていくことにしました。
 部屋は雑然としていました。大小様々な機械が置かれていて、足元には沢山のケーブルがまるで編み物をしているかのように通っていました。私が踏まないように歩くのに苦心したことは言うまでもありません。
 機械はその画面によくわからない計算式を羅列させていました。私は彼が何の分野の研究者だったか思い出そうとしましたが、どうも思い出せません。
 そうこう頭を悩ませているうちに、私たちは壁際にたどり着きました。何もない壁です。一体どうしたというのでしょう。
 私が困惑していると、N君はその手を目の前の壁にあてがいました。するとどうでしょう。ピピッと何かの反応する音と共に、壁が自動で開いたではありませんか。私は驚愕して口をあんぐりと開けていました。壁の向こうは真っ暗で何も見えません。
 「さぁて、この先だ」
 N君はそう言って闇の中に飛び込みました。私は目の前のことについていけず、中々足を踏み出せません。すると闇の中からN君が顔だけ出して言いました。
 「大丈夫だよ。さ、来て」
 そう言われて踏み出さないわけにはいきません。私は思い切って闇に飛び込みました。

 「どうかな?」
 N君の声に目を開いた私は思わずああ!、と声をあげました。そこはあの作品の、主人公の暮らす部屋にそっくりの場所だったのです。大人二人が居るには少し狭い部屋。勉強机や本棚、押し入れ、見覚えのあるものばかりです。窓の外は、映像で流しているのでしょうか、どこか懐かしい夕焼けが見えていました。
 まさか、好きが高じてここまでやってしまうとは。驚愕して辺りを見渡す私にN君は語り掛けます。
 「驚いた?」
 私は黙って首を縦に何度も振りました。N君は満足そうに頷きました。
 「それはよかった。でも本当に見せたいのはこれからだよ」
 そう言って彼は勉強机に近づきます。そしてその引き出しに手をかけました。
 「”彼”はどこから来たんだっけ?」
 答えるまでもありません。まさか、と身構える私をよそに、N君は引き出しを開けます。
 今度は声も出ませんでした。引き出しの中は四次元空間になっていて、そこには見慣れた機械がありました。周囲には数個の歪んだ時計が、時を刻む音をたてながら浮かんでいます。私はしばし呆然として、それからN君を見ました。彼は本当に嬉しそうな表情をしていました。
 「そう、完成したんだ。タイムマシンが」
 彼の言葉に驚愕しつつ(さっきから私は驚愕しっぱなしです。起こっていることを考えれば無理もないことなのですが)私は”それ”をまじまじと眺めました。だまし絵などではありません。本当に、引き出しの中が時間旅行の入口になっているのです。見れば見るほど、信じられないという気持ちが湧き上がってきます。N君はしみじみと語り始めます。
 「長年の夢だったんだ、時空を旅するの。これを作るのにどれだけの手間がかかったか」
 職員たちと一緒に作ったのか?
 私の問いにN君は首を振ります。
 「いや、これは僕の独自研究だよ。もちろん、ここでやっている研究の応用だけれど。ここまで自分の趣味に寄った研究は流石にさせてもらえないよ」
 とするとあの隠し扉からこの部屋の何まで自分一人で作ってしまったのか。
 私は妙に感心してしまいました。するとN君は突然私の肩を掴んでこう言ったのです。
 「で、君を呼んだのはこのタイムマシンの初搭乗者になってもらおうと思ってさ」
 私は再び驚愕しました。何故私なんかを。私の問いにN君が答えます。
 「だって君が一番僕の語りを熱心に聞いてくれたから」
 その発言に私は少し困惑しました。N君はきっと少し勘違いをしている。彼はきっと私もそのアニメの大ファンだと思ったのでしょう。しかし私は自分の好きなものに没頭して、それについては何でも答えられる彼の姿に感服していただけに過ぎません。決して、嫌いなわけではありませんでしたが、めちゃくちゃ好きというわけでもなかったというのが本音です。なので私はN君に本当のことを言おうか迷いました。
 しかし彼のキラキラした目を見ていたら期待を裏切るのも辛く……いや、本当のことを言いましょう。
 タイムマシンが目の前にあるのに乗らないわけにはいかないでしょう!
 私はN君にそういうことなら分かった、と伝えました。良心が私の心をちくりと刺しました。そんな私のことなどつゆ知らず、N君は嬉々として次のように言いました。
 「じゃあ、”いつ”に行きたい?」
 私は少し考えました。急に過去や未来に行くことができると言われて、ではいつに行きたいかと言われてもすぐに答えられるわけがありません。私はN君に少し考える時間が欲しいと伝えました。N君はもちろん、と快く承諾してくれました。

 10分経過したぐらいでしょうか。私はほとほと困り果てていました。未来も過去も、両方とも見たいことには違いありません。しかしそれはそれらに対する想像を奪ってしまうことに他ならない。私にはこうだったらいいなという妄想を捨ててまで現実……もしかすると不快なものかもしれない現実を見に行く覚悟はありませんでした。
 では逆に変えたい過去ならどうか。それも私には難しい問題でした。何故なら私は現状に既に満足してしまっているのです。現状を変えてしまいかねない大きな過去の修正に手を出す気にもなれません。
 こうなるともう八方ふさがりです。何か、現状を保持したままでも変えられるような直したい過ちがあるか……
 あ、と私は思わず声をあげました。いつの間にか隣に立っていたN君が決まったみたいだね、と微笑みました。
 私は頷き、口を開いて—――
 私の答えを聞いたN君は一瞬驚いた顔をしました。口を動かそうとして、片手でその口を塞ぎました。そしてそのまま、私の顔をじっと見つめました。
 しばらく沈黙が流れた後、彼は不意にふふっ、と笑って言いました。
 「君の人生が楽しそうで何よりだよ」

 というわけで、ペンと紙をもらって記したこの話を託すから、ブログの記事に役立ててほしい。

 私の机の上にはこう書かれた紙が置かれていました。……未来の私の人生が楽しそうで何よりです。
 ともかく私はその時初めて自分が7月下旬の名称未定ブログ担当だったことに気がついたわけです。時計を見ると7月31日11時30分でした。私は風呂を15分で済ませ、寝室の冷房をつけ、この紙に書かれている内容をドキュメントに必死に写していました。そして先程、日付を超えたのを確認しました。
 未来の私、面目ない。
 これで謝罪に代えさせていただきます。それでは(逃亡)。

p.s. 机の引き出しを開けてみましたが、中はいたっていつも通りで特に何もありませんでした。

Edit 17:34 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

作品遍歴

 はじめまして。7月中旬担当の谷川慶(たにがわけい)と申します。理学部1回生です。ゆっくり書いたり描いたりしていきたいと思ってますので、これからどうぞよろしくお願いします。

 今年の4月に入学したばかりだと言うのに、「なるほど、これが大学生か。楽しいなあ」などと思いながらのらりくらりと過ごしていたら、もう前期が終わってしまいそうです。そして御多分に漏れず落単の危機に瀕し、期末試験直前のこんな時期になって、「なるほど、これが大学生か。単位欲しいなあ」などと思い始めているわけです。

 さて、初めてのブログなので何を書こうかと悩みましたが、私は自己紹介も兼ねて、自分が今までどんな作品や創作物に触れてきたか、という作品遍歴を書こうと思います。同じ作品を知っている人から話しかけられやすくなるんじゃないか、という友好上の作戦であり、ただの自分語りでもあります。初回から作品名をバンバン出しまくるのはどうかとは思いましたが、何でも書いていいという言葉を信じてまとめてみることにします。

 小学校低・中学年の頃は斉藤洋さんの本を読み漁っていました。全作品読破してやろうとしていた覚えがあります。読みやすいものから高学年向けのものまで数多くあるので飽きずに次から次へと読んでました。他には岡田淳さんの本や『ダレン・シャン』シリーズですかね。高学年では『獣の奏者』とかを読んでいた記憶がありますが、小学生の記憶は割と薄くなってしまっていてあんまり覚えてないです。漫画はワンピース、名探偵コナン、ドラえもんとかメジャーなものを。ゲームはポケモンBW、BW2世代です。

 中学生になると、自分で文庫本を買って一般文芸を読み始めるようになりました。ラノベや純文学のような作品は少なかったですが、なるべくジャンルや作者にこだわらずに幅広く読もうという信条のもと、まあ色々と読みました。小中学生の頃が今までで一番読書していた時期だと思います。中でも印象深いのは辻村深月さんの『冷たい校舎の時は止まる』です。2日で読み切るほど面白かったのに加え、これがデビュー作なのかよ、という強烈な驚きがありました。ベテランならまだしもデビュー前からこんな大長編書くって、どんなだよ……っていう衝撃です。実際はもっと長いものを書く作家さんもたくさんいるのですが、中学生の自分にとってはこれが衝撃で、小説家という存在の凄さを初めて意識した作品でした。2年連続この本で読書感想文を書くくらい好きで(考え直すのが面倒だっただけ)、今でも辻村さんの作品はよく読みます。漫画は引き続きジャンプ系のワートリ、ヒロアカとか今でも読み続けている作品など有名どころを。他にも父が持っていた手塚治虫の火の鳥やブラックジャック、星野之宣さんのブルー・ワールドや星を継ぐものを読みました。ゲームは妖怪ウォッチやぷよぷよテトリスをしていて、特にこれ以降はぷよテトにしか熱中してません。

 高校生になると勉強に偏り始め、あまり本は読まなくなりました。本を読まない一方で1年の頃は『アンナチュラル』などのドラマを観ることが多かったのですが、2年になってから急速にアニメにはまりだし、そして今も抜け出せない沼の中にいます。特に影響を受けたのは『CLANNAD』と『宇宙よりも遠い場所』で、この2つには総合表現としてのアニメーションの力を見せつけられました。今でも毎クール7作品くらいは見ていて、過去作含め他にも好きなアニメ作品は山ほどありますがキリがないのでここらで止めておきます。

 ずいぶん長くなってしまいましたが、最後に最近読んだ本や今読んでいる本、漫画を挙げてみます。

・伴名練『なめらかな世界と、その敵』  ・宇佐見りん『推し、燃ゆ』  ・魚豊『チ。―地球の運動について―』

 こんなまとまりのない自己主張文1本だけ出しておくのも何とも小恥ずかしいので、可及的なるはやで2回目を書く機会が来ることを願っています。それでは!

Edit 13:25 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

朝三暮四

 七月上旬担当の暮四です。今年度より名称未定に入会しました。お見知りおきをどうぞよろしくお願いいたします。私にとって初めてのブログ、何を書くべきか悩みましたが、ここは無難に、普段から私が書いているような形で日記を投稿いたします。

・梅宮大社へ花菖蒲を見に行った。その日は梅雨のど真ん中だったけれど雨は降らなかった。花菖蒲は雨に濡れていると相場が決まっているので残念。少し雨を待ってみたが、自分が傘を持っていないことに気がついたので帰った。

・美術館が好きだ。これを人に言うとよく誤解されるのだが、別に絵画が好きだというわけではない。嫌いでもないけれど。そうではなくて、絵画を見ることが好きなのだ。絵画の前に立つと、自分と絵画の間には緊張した静謐みたいなものが生まれる。その中でのみ私は私の身体を少しだけ忘れて、私の内部を見つめることができる。だからきっと絵画を見るのが好きというのも間違いで、絵画を通して自分自身を見つめ直すのが好きなんだろうな。そして絵画から目を離したときの、緊張が解けて現実に戻ってくる感じも、そんなに嫌いじゃない。

・二十歳になった。成人年齢は十八歳に引き下がってしまったので、二十歳というものはお酒とたばこが買えるようになる以上の意味を持たなくなってしまった。それでもやはり二十歳というのは、何か象徴的な節目であるような気がしている。慣れないお酒を呷りながら、昔のことを思い出す時間が少しだけ増えた。

・最近、たびたびマスクを取っている。もちろん人が密集しているときや、だれかと話すときはつけているけれど、周りに誰もいない、静かな夜を散歩しているときなんかはつけるのも馬鹿らしいと思ってしまう。すると、雨上がりのコンクリートから蒸し上がるあの匂いや、茂った草木の青い匂いがよく感じ取れるようになる。ここ数年忘れかけていた匂いだ。夏がもうすぐそこまで来ている。

・雲間から零れた月光に照らされた紫陽花の露や、今出川通りの先に沈む曖昧な色の夕暮れを眺めると俳句を詠みたくなる。きっとそれは単純な表現欲だと思うのだけれど、いざ俳句が作られると、よりよい句をしよう、より評価される句にしようという思いが頭をもたげてくる。有り体に言えば自己顕示欲だ。他人の介入する余地などなく、完全に自分のために何かを作ることが出来たのはいつまでだったろうと考えている。

・「変身」という小説を書いた。フランツ・カフカの「変身」がモチーフ。ところどころにカミュの「異邦人」も引用している。実存主義小説の観点から、自己同一性と自由意志について疑問を投げかける意図で書いた。思春期の男の子が秩序みたいなものに対し反抗的になることと、ある外交販売員が巨大な毒虫になることには、いったいどんな違いがあるのだろう?

・この前下宿を出る際に、玄関からふと部屋を振り返ってみた。廊下の先にある扉は開けっぱなしになっていて、そこから自分の部屋が見える。半分開いたカーテンが、雨の朝の鈍色の光を招き入れている。鈍重な空気に満たされた部屋の中で、整頓されていないあれこれが散乱している。その様子は、失くしてしまった誰かを連想させた。この部屋は誰も失ったことがないのに不思議に感じた。雨の日の空っぽな部屋には、何も失うことなしに喪失の概念だけが存在している。

・先日、横断歩道で立ち往生をしている車椅子のご老体を見かけたので、移動をお手伝いしてそのままお宅の前まで車椅子を押していった。ご老体は細い路地を何本も奥へ入っていったところのアパートに一人暮らしをしていらして、その部屋の前にはいくつかの段差があった。お礼にいくつかの飴を頂いて、帰り道に感じていたのは、罪悪感であった。きっと私たちの社会は色々なものを路地裏に詰め込んでしまっていて、今日私は隠されてしまっていたそれに気づいた形だ。裏返せば私は今まで気づいていなかったのだ。一人暮らしのご老体があまりに不親切な社会な構造というか、あり方の中で暮らしていることに。頂いた飴は、少し酸っぱかった。

・例えば、踏切を待っているとき。あるいは信号や、お会計でもいい。とにかく何かを待っているとき、もしもその時間が永遠に続いたらどうなるのだろうかとふと思う。つまり、電車がいつまでも来なかったら。いつまでも信号が赤だったら。前の人の買い物かごの中身がいつまでも減らなかったら。そんなことを考えている。昔からの癖だ。きっと他の人は待ちくたびれて去ってしまうだろう。でも私は、なんとなくだけど、一人で待ち続けているのではないかと思う。理由はないけれどほとんど確信に近い。でもやっぱり現実の踏切は間もなく開いて、それに少しがっかりしている自分がいる。

・暮四というペンネームについて。きっと気づく人も多いと思うが、「朝三暮四」という故事成語から来ている。夏目漱石が「漱石枕流」という故事成語から名前を取ったのを真似た。「朝三暮四」は目先の利益にばかりとらわれる、という意味だが、これをペンネームに取ったのは自分に対する戒めであり、また皮肉でもある。あとは単純に「暮四」という漢字のイメージが好きだ。暮れた茜色の空を背景に、鴉の影が四つばかり浮かんでいる。

・エッセイや日記のノンフィクション性は、どこまで担保されるのだろうか。そもそも完全なノンフィクションなんて存在するのだろうか。きっと、フィクションとノンフィクション、つまり現実と虚構は対立概念ではないし、両立しうる。世界は現実と虚構に二分されるのではなく、それらが不可分に混ざり合って存在している。現実の中にも虚構は点在するし、虚構の中にもグラデーションのように現実は混ざり込んでいる。松尾芭蕉だって、現実に虚構を織り交ぜながら「おくの細道」を書いた。だからこの日記にも、真に本当のことなんてないのかもしれない。

Edit 23:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日記

6月中旬の西桜です。もう7月ですね。

6月でなんか創作関係の面白いことあったかなあと考えていたところ、ここでないサークルの方で同人誌即売会に行っていたのでその時のことを軽く書こうと思います。
 さて、名古屋のポートメッセで六月の前半に東方の同人誌即売会がありました。元々所属するサークルの新刊には原稿を出していなかったのですが、会計処理のために売り子としてサークル参加しました。
 即売会に参加して、自分が欲しくなったものを手に入れたりして嬉しかったですが、他にもよかったことがありました。それは他の人の全然違うジャンルの創作物を見て、自分の創作モチベが上がったことです。僕は普段小説を書いていて、時々会誌でイラストを見ています。しかし、会場では、イラストオンリーの冊子や、音楽CD、はたまたゲームなど個人が作ったものとしては日ごろ中々見られない創作物が並んでいて、会場を軽く回って眺めているだけでも自分ももっと創作したいなあという感情が湧いてきました。
 未定のほうでも、9月に即売会に参加しますが、もし予定がなかったならぜひ参加したかったなあと思いました。無念。

Edit 16:06 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

気になっている言葉 

6月上旬担当の葱です。遅くなりました。気になっている言葉について書きます。

1 NTT
NNT(ない内定=内定がない)に見えてびくっとします。

2 カフェ巡りにはまっています
私は堂々巡りのどつぼにはまっています。

3 自己~
 自己嫌悪、自己PRなど、自己(動詞)は多いです。これは日本語に元からあったように見えません。英語のself-を翻訳したものですかね。

4 しんのすけーっ
 『クレヨンしんちゃん』のお母さんは、しんのすけを「お兄ちゃん」と呼ぶことはありません。一方で、『ちびまる子ちゃん』のお母さんは桜さき子さんをお姉ちゃんと呼びます。両家の方針の違いはどこにありますか。

5 〽お魚くわえたどら猫追っかけて、はだしでかけてく、愉快なサザエさん
 よく見ると英訳するには難しすぎますね。

こんなに小さなことにかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心を。

Edit 07:05 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

私にとっての小説の面白さ

こんにちは、double quarterと申します。

 入会して初めて書く文章になるので色々悩みましたが、この機会に自分にとっての小説というものを見つめ直してみようかと思いました。ということで私にとっての小説の面白さを書いていこうと思います。

 人それぞれ小説を読む理由は違うと思います。しかし単純に読んでいて楽しいからという理由の人は多いでしょうし、それが全ての理由でなくとも少なからず皆そうだと思います。また現実から離れたいという理由で読む人もいれば、逆に現実の自分を見つめるきっかけになる場合もあるでしょう。
 私の場合は色々と変遷してきました。小さい頃は物語は基本何でも好きで、ジャンルをあまり気にせず気になったもの、与えられたものを読んでいました。それからしばらく小説から少し離れていたのが、最近になって小説の魅力を再発見しました。

 現在の私にとって小説の魅力というものは、端的に言えば自分の中にある矛盾を突きつけられることです。というよりそういう小説を好んでいると言った方が適切かもしれません。単純に矛盾を突きつけられることを考えると苦しいばかりではないかと思われるかもしれません。しかし無意識の自己矛盾に切り込むということはすなわち新しい考えの導入であり、それに自分なりの答えを(時に小説の力を借りて)出すということは非常に刺激的な営みだと思います。
 しかし同時に小説のその側面を重要視するのであれば評論や哲学書の方が効率的なのではないかとも思えてきます。実際内面に切り込む作品というものは哲学書からインスピレーションを受けている場合も多いです。もちろん私にとってはそれらも同じ理由で刺激的なのですが、一方で小説にしかない魅力というものもあるのではないかとも思っています。今回この文章を書くにあたってその辺も含めて一度色々と考えてみました。

 第一に、小説は面白いです。これは同意していただけると思います。私は詳しい理由を知りませんが物語というものは普遍的に人をワクワクさせます。読みやすく、それでいてほどよく考えさせてくれるようなバランスを保っているからこそ、何かを問いかける小説というものは魅力的なのだと思います。
 とはいえこれについてはあまりに普遍的すぎて私が書いても陳腐になってしまいそうなので、深くは掘り下げないことにします。

 第二に、小説の没入という機能です。例えばトロッコ問題なんかを考えるとき、ただ問いを突きつけるだけだとそれはどうしても他人事になると思います。一方、小説を介して似たような状況を順を追って導入し、こうした問いを読者に投げかける場合はどうでしょうか。きっと読者は登場人物に親身になって考えます。それに留まらず、その後が小説で描かれれば、思いもよらなかった結論を目にしてまた考えが変わったりもするでしょう。
 言い換えれば、小説はifというものを現実味を伴って突きつけることができます。普段おかれている日常という舞台設定から切り離し、小説で用意された世界の中に読者を置くことで効果的に問いかけることができます。同じ物事に対しても、客観で考えるのと主観で考えるのとでは全く違います。体験できなければ考えもしないようなことを疑似体験できるというのはとても興味深いことだと思います。

 そして最後に三つ目は、意図的に読者の視点を歪ませていくことができるという点です。この書き方ではちょっと人聞きが悪いですね。具体例をあげます。有名な話ですと夏目漱石の「坊ちゃん」なんかが例としてあげられます。この作品は主人公が割と非常識的な行動をすることが多いのですが、読んでいると非常識だと思わずに読み進められてしまいます。(実際私も読んでいてほとんど違和感を覚えませんでした) 
 これにより一度自分から離れた考えで小説を読み、その後ふと別の登場人物の視点に立ったりその人の言を聞いたりして考えてみたら全く違う考えが浮かんでくることがあります。その自分の中に生じた相反する正しさというものをどう統合して取り入れるかというところに面白さがあると私は思います。
 私が良くとる手法としては、両者の主義主張の根底となるものをできるだけ深く掘り下げていき、どこで袂を分かったのか探るという方法です。(この場合前提として深いところでは皆共通する考えを持っているという仮定を用いているので、一般性に欠くという問題はありますがそこには一旦目をつむります。)その結果として実は片方の考えには論理的整合性が欠けていて、全くの思い込みもしくは社会的通念という(論理的でなかったり本能的だったりする)自然発生(理性による論理の対義語の意味)した考えだったという結論が導かれることがあります。
 その発見が根本的であればあるほど衝撃も強いです。例えば「絶対的価値だと思っていたものが絶対ではなかった」という発見がこの例としてあげられます。この辺りを具体的に説明すると長くなってしまいそうなので、また別の機会があれば言語化を試みたいと思います。
 またもちろんそうした登場人物への共感、視点の共有という誘導に揺らされないように抗いながら小説を読むということも楽しみ方の一つとなりえるでしょう。自分との違いを常に意識しながら読むことでそれは達成されます。その場合でもこう説明されたら確かにそう考えざるを得ないな、と考えが変わることなどは当然あると思います。結果としては全く考えが変わらなかったとしても自分とは違う価値観を知るということは当然面白いはずです。

 少々長くなってしまいましたが私の小説観は以上です。しかしこの手の文章を書いていると思うのですが、前提として持っている認識が異なる相手にこの文章で果たして伝わるのだろうかということが甚だ疑問です。実際私は高校時代に評論を読んでいて不親切さを感じることが多かったのですが、いざ自分がそれの真似事をしてみると全員に伝えることの難しさが身にしみてわかります。その辺の問題を突破されている物書きさん達の凄さを実感します。

 それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。

Edit 20:30 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 さて、20日はギリギリ中旬ですね。ブログ担当を失念しそうになっていたナカジマ杓子と申します。
 ついさっきとある講義を受けるために教室へ行くと、まだ私以外に誰も来ていない感じでして、「お、一番乗り!」と思っていたら普通に休講だったので、若干しょんぼりしています。
 いえ、「若干しょんぼり」というのは実は強がりで、その講義のためだけに早起きしたのにすべては無駄だったのだ、わたしの人生に意味あることなど一つもないんだ、と悲嘆にくれまくっています。なけなしの詩人的感性を発揮して描写するなら、降りしきる雨、濡れる靴下、「嗚呼、どこまでもひとりぼっちだ……」、呟いて私は自転車を押し帰路につく、というところです。
 しかし、この描写には噓があります。そう何を隠そう、まだギリ雨は降っていません。ただし、降っていてもおかしくないくらいの曇天ですが。
 どのくらい降っていてもおかしくないかと言うと、ベランダに腰かけた乙女が私を想って流す一粒の涙、その涙が蒸発し大気中に溶けていくだけで、ちょうど飽和水蒸気量に達しそうなくらい雨が降りそうです。今上を向いているてるてる坊主の頭部に30gの重りを入れてその姿勢を反転せしめれば確実に雨が降るでしょう。
 が、それでも事実として雨は降っておらず、つまり私の靴下は濡れず、てるてる坊主も本懐を果たしているわけです。何ともめでたいことだと、私はしみじみ思います。世の中こんな風にめでたいことばかりだといいですね!
 このブログのタイトルは「雨」ですが、なんと「雨は振っていない」という事についてとうとうと述べている、これは果たして正しいのだろうか、まあ、「雪」とかいうタイトルをつけるよりはましだろうとか考えていると、次の講義の時間なのでそろそろここでお暇します。
 ありがとうございました!

Edit 10:59 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

三題噺『三段論法』『こだわり』『千円札』

 わたしが食券機の故障に気が付いたのは、ひとつには日ごろから頭の片隅で四則演算が駆け巡るようないくぶん不便なタチをしていたからだし、もうひとつにはその店に幾度も通い続けていたからだった。
そのラーメン屋は、大学の横の交差点のすぐそばにあった。このあたりはラーメン激戦区と呼ぶには少し店舗数が少なく、しかし、そこいらの地域に比べればかなり豊富な店があった。わたしが足繫く通うその店は真黒な外見をしていて、すこし不愛想な雰囲気を覚えさせる。しかし堂々と掲げられたその看板の金に輝く文字に励まされて扉を開けば、元気なにーちゃんが笑顔で迎えてくれる。
入ってすぐそばの場所には食券機が置かれている。数週間前に店内を改装したようで、以前の場所とは違うところに置かれている彼にいくばくかの戸惑いを覚えながら、わたしは並らーめんと白ごはんを注文した。
この店の麺は、いわゆる家系というやつだった。醤油とんこつのスープにたっぷりの鶏油がかけてあり、上には控えめなチャーシューとのり、そしてほうれん草がトッピングされている。
このほうれん草が重要だ。湯がかれてしんなりとしたこの子は、そのまま食べてしまえば些か青臭さが鼻につく。しかしまろやかなスープに絡ませて食べてみればいかがだろうか、とんこつ醬油のマイルドな味わいに包まれて、ほうれん草の甘味が口の中に広がる。こってりしたスープに口の中が疲れた時に、この子が場を仕切り直してくれる。
そう、この店のスープはいくぶん濃いのである。もちろん味は調整できる。薄め、普通、濃いめ。お好みに合わせてカスタマイズできるのは特徴だ。スープの濃さのほかにも、麺のかたさ、油の多さを調節できる。わたしが注文するときは大体、かため、普通、多めだ。そしてのり増し。だからごはんが必要なのだ。
この店のごはんは、なんと五十円なのである。しかもおかわりが無料。これぞ学生街といった風情で、なんともありがたい。そして、この店はサービスでもやしナムルを提供している。もやしをごはんに載せる。これですでに米が進む。だけど、そこにスープのしみ込んだのりを巻いてほおばる。これが正しいのである、少なくとも私の中では。
のりとナムルでご飯を一杯。おかわりを少なめにもらって、スープと共にもう一杯。そうして見えてくるのは桃源郷――とまで言ってしまえば大げさだが、これがわたしの幸福をいくらか支えてくれているのだ。
――と、ラーメンをいただくことを想像しながら食券を手に取ったわたしは、おつりボタンを押した。ちゃりんちゃりんと音を立てて落ちてきた小銭を財布に入れて、席へと向かう。さあ、パーティーの始まりだ。
しかしそのとき、わたしはふと疑問に思った。
ちゃりん、ちゃりん?
音からすれば、つまりおつりの小銭は二枚だったことになる。しかしそれはおかしいのではないだろうか。わたしは千円札を食券機に入れた。並らーめんは七百円である。ごはんは五十円である。食券機が正しくうごいているならば、おつりは二百五十円であるはずだ。
二百五十円であるならば、その構成は小銭三枚以上になる。
おつりの音はちゃりんちゃりん、つまり二枚であった。
ゆえに、おつりは二百五十円ではない。
ゆえに、食券機は正しく動いていない。
わたしはかるくかぶりを振った。長年この店に務めている食券機くんのことだ、疲れの貯まることもあるだろう、メンテナンスが必要になることもあるだろう。わたしがすべきなのはだから、激昂するようなことではなくて、店員さんにさりげなく声を掛ける、それだけなのだ。
わたしはふと食券機を振り返った。歴戦の戦士、その顔を今一度拝もうとして――しかし、わたしは言葉を失った。
『まことに身勝手ながら、五月一日より、ラーメンを五十円値上げさせていただきます』
 そこには、そんな張り紙が為されていたのだ。
 つまり、わたしの購入金額は八百円。よって、おつりは二百円。
 わたしは黙って席に座った。
 時間は流れゆく。街の景色も、住む人も、漂う空気もやがて変わっていく。わたしもきっと、明日には今日のわたしではなくなっていく。変化に戸惑うときもあろう、傷つくこともあろう、だけどそれを飲み込んで、わたしたちは日々を過ごしていく。そうして多くのものが変わってしまった中で、むかしの風景は郷愁となってわたしたちの中で化石していく。
 それでいいのだ。
 運ばれてきたらーめんとごはんをかきこみながら、わたしはひとり、ただ頷いていた。それでいいのだ。
 わたしはこれからも――それでも――この店に通い続けるのだろう、通い続けてしまうのだろう。それでいいのだ。それが、いいのだ。
 わたしは麺を啜った。中太麵に絡まるスープは、いつもより美味しい気がした。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 てなわけで今回は三題噺(お題を三つ募って、全部使ってなんか書くやつ)でお茶を濁させてもらいます。なんもアイディアがなかったんでね、同期と先輩に頼んでお題をもらいました。
 さてさてそんなわけで今回はこのあたりで。担当は有末ゆうでした。またね!

Edit 22:24 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

新歓について

 どうもこんにちは。ナカジマ杓子です。
 このブログは毎度毎度何を書くか悩むんですが、今回はまたかつてないほど悩んでいます。後輩に早くブログを書けとせっつきながら、いざ「あなたの番です」と言われると何も出来ないポンコツな先輩がここに居ます。
 さて、「名称未定」は4月いっぱい新歓を続けるわけなんですが、今の時点でたいへん大勢の方が、見学に訪れて下さいました。20人近く? もっとですかね? たくさんの方に我々の活動を知ってもらえるのは、いずれにしても、とても嬉しいことですね~。
 入会してくださる方も、残念ながらご縁がなかったという方も、この新歓の時間を楽しんでくれていたらいいなと思います。

 「こちらに、『楽しむ』素養がなかったとしても……」「向こうが『楽しませてくれる』ことは期待できるからね!」
 とは、私の大好きな福部里志大先生のお言葉ですが、どうでしょう、そういった観点で考えると、私に人を楽しませる能力は果たして存在したのでしょうか? 心強い会員諸氏の八面六臂の大活躍で、きっと私の無様さは覆い隠されているはずですが、それはそれとして、楽しませる力の習得は私にとって喫緊の課題であるんだろうなあと鼻くそをほじくりながら反省します。
 まあ、足りないものに気づくのも、それはそれでまた楽しいです。他人に指摘されたわけでなくて、自分で気づけたのが嬉しいのです。褒めてあげたくなる。 わたし、自己批判能力ありまくり!
 逆に他人に指摘された欠点は、拗ねて直したくなくなってしまうというのも真実で。「そういう私も愛してよ!」。
 しかし考えてみれば、拗ねてしまうのもまた自分の欠点なので直さなければならんなあ、お、偉い、自分で欠点に気づけた! と堂々巡りになるもんです。
 ……ヤバいですね、書いていることに生産性が皆無すぎる。電力等、諸々のソースの無駄遣いだな。
 というわけで、今回もこの辺で締めましょうかね(唐突)。
 ご清聴ありがとうございました!
 創作サークル「名称未定」を、今後ともよろしくお願いいたします。

Edit 23:18 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:日比谷
中旬:安野
下旬:西桜 です。

 

最新記事

 
 

投稿者別

 
 

最近のコメント

 
 

アクセスカウンター

 

 

月別アーカイブ

 

 

最新トラックバック

 
 

リンク

 
 

QRコード

 

QR