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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2023-01

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靴紐

最近の日記です。

・喫茶店で頼んだソフトクリームにさくらんぼがついていた。真っ白な背景に鮮やかなほどの赤。幼い子どものささやかないたずら心みたいだ。それを摘んで実をひと口で頬張ると、わずかな甘さと酸っぱさを感じる。割合に大きな種を吐き出してしまえばもうその味は残っていなくて、あとはひたすらに甘いソフトクリームがあるだけ。やっぱりいたずら心に似ている。

・月を見上げない日はないんじゃないか、と思う。夜になると、いや、昼の間も、ふと空を見上げて月を探してしまう。ドアの鍵を閉めるのと同じような、外出時のルーティーンになっている。自分が月に何を求めているのかは分からないけれど、毎回数秒は見上げてしまう。

・秋の終わり、夜の準備をしているような暗い水色の空に薄い月が浮かんでいた。俺は頭の中で「夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ」と呟いた。自然に頭に湧いて出てきていた。確か紀貫之だったように思う。こういった風に、現実と詩歌が繋がる経験は気持ちがいい。そんなことをぼんやりも考えているうちに信号が青になって、俺は前を向く。

・昼の青空に浮かぶ月は世界の終わりによく似ている、と思う。その不釣り合いな感じというか、あり得なさがそう思わせているのかもしれない。というか月のこと書きすぎだろ。初恋か?

・世界は名前によって出来ていることを、最近強く実感する。アベリアの花も寒椿も、その名前を知ってから視界に飛び込む回数が増えた。特に椿なんかはあんなに鮮烈な色をしているのに、名前を知るまでは全く見えていなかった。もったいない。世界の名前を大事にしていきたい。でも、名前をつけずにいたいものも確かにあって、少し困ってしまう。

・靴紐を結ぶ。時計を合わせる。楽器のチューニングをする。世界に自分を合わせる行動。これらが苦手だ。靴紐はすぐ解けるし、時計やチューニングはすぐまたずれる。ただの不器用とかたづけてしまってもいいけれど、何か抽象的な意味を付与してもいい。とにかくこれらの行動をしているとき、なんだか少し寂しくなる。

・アンディウォーホル展に行った。ウォーホルは戦後アメリカの大衆消費社会を象徴する画家で、反復などの技法が有名。展示の仕方もそれに倣った意欲的なもので面白かった。特にキャンベルのトマト缶には感動した。まさか生で見られるとは思ってなかったな

・『蚊』という小説を書いた。一年前から構想だけはあって、最近ようやく形にできた。大人と子供、性愛と純愛、恋と信仰。様々な二項対立をそこに込めた。蚊と乳房は男女の間にあるそれらを表現するためのメタファーのつもりだった。しかしそれを他サークルの人に見せたところ、それはもう多種多様な解釈をされてしまって、思惑通りにメタファーを機能させるのは難しいと感じた。

・京セラ美術館で気に入った作品 
河合健二『曙光』
下村良之介『月明を翔く(弥)』
徳岡神泉『流れ』

・『冬蜂の死にどころなく歩きけり』村上鬼城の俳句。最近ひよんなことから知った句で、一目惚れしてしまった。そう、これなんだよ。俺は俳句にささやかな悲劇を求めている。

Edit 20:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

あけましておめでとうございます

 こんにちは、今年の会長になりました、西桜です。
ほんとは1月1日に書こうと2022年の自分は思っていたのですが、某モンスターのゲームをしていたら3日になっていました。

 お正月はいかがお過ごしでしょうか。僕はずっとゲーム、時々読書や勉強をするいつものような過ごし方をしています。昔はどこか浮かれた気持ちになった正月も、今はいつも通りの気分でいます(単に授業行ってなくて休みが多い生活を、普段からしているだけではないかという意見は知りません)。
正月など所詮人間の作り出した暦の始まりにすぎない、というニュアンスの言葉を思い出したりしました(確か「笑わない数学者」に元の文は載っていたと思います。ニュアンスがあっているかは本が手元にないので今は確認できませんが)

 昨年はだいぶ活動は対面より(知りませんが)になってきました。来年の新会長のブログに「コロナ」という文字が入っていないことを祈ります。

 そういえばこの文章でも何個かありますが、文章の後に()で情報を付け足すのは英語の文法的な発想なんですかね。

 ではでは。

Edit 13:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

お疲れ様でした!

さて、後輩たちからの再三のリコールによって辞任に追い込まれた、前会長中島の演説です。

 えー、みなさまお疲れ様でした。私が頑張ってこれたのも、ひとえに先輩、同輩、後輩の支えによるものです。
 本当にありがとうございます。感謝してます。本当です。
 ところで、最近このブログも随時充実してきました。
 後輩諸君が、それぞれの個性を活かした記事を書いてくれるからです。
 先輩として忸怩たる思い、記事を見るたび、嫉妬と悔しさが入り混じったなんかドロドロした感情が湧いてきてとまりません。
 嗚呼、除夜の鐘よ、鳴り響け。私の煩悩を吹き飛ばせ。
 以上、最近画像生成AIに目覚めた中島でした。

不束者ですが、また来年もよろしくね!

Edit 19:59 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

もうすぐ新年!

 目覚めのすぐあとで布団を出るのがことに億劫になってきて、もう冬なんだと自分を納得させることがようやくできました。有末ゆうです。秋がわたしを引き留めるとして、両肩に置かれた片方の手はきっと八月担当分のブログで、もう片方の手は九月の担当分でしょう。あるいは夏です。夏に忘れてきたものがかさばりすぎていました。
 
 大学生のこととなると、年がひとつ巡るとそれからすぐに春休みがやってきます。だからいまのわたしたちはきっと遠からぬ日にテストとレポートに圧倒されながら死んじゃいそうになっていて、それでも夏の終わりと一緒にはじまった後期はどうあれおわります。学生の四か月なんてあっというまですね。その間にわたしはどれだけのことをできたんだろうなんてふと考えてみて、やっぱり死んじゃいそうになりました。創作サークルに入っておいて、この後期はお話のひとつも書くことができませんでした。スランプですね。存在意義。
 
 不肖のわたしでございますが、九月のまるまる全部を費やしてひとつのお話を書きました。でもそれ以来わたしのワープロくんは、授業のレポートと発表資料をつくりあげることばしか語っていません。わたし自身もきっとそうでしょう。すっかり創作や想像、あるいは空想というものから頭が離れてしまっていて、ほんとのことをいうならこの文章を書くのにも半年前の息遣いをすっかりわすれてしまったせいで難儀しています。困ったものです。苦しいです。存在意義。このまま息が止まってしまったらって考えると、ちょっと怖いです。
 
 そういえば、一年か、二年くらい前に先輩とお酒を飲ませていただいたときに、ふわふわした頭でくだを巻いていた気がします。ひとにいわれたことも、自分でいったこともすぐに忘れてしまう気質のわたしですが、あのときのやりとりはなぜだかおぼえています。

「趣味については」わたしがそういったんです。「趣味については飽きっぽい性格で、昔は一生付き合っていくんだろうとおもっていた音楽も、料理も、今振り返れば数年と経たないうちに概ねやめてしまっていたんです」

「はあ」先輩は眠そうな声で相槌を打っていたとおもいます。「そんで」

「創作についてもそうなるのかなとおもいまして。いまは楽しいんですけどね。打ち込んでもいます」

「いやなの?」

「音楽とか、料理とか。冷めてしまってもべつだんいやではなかったです。でもいやなことがあるとすればそのことです。いまの自分がよりかかっているものが、いつか大したものじゃなくなるんです」

「若いね」

「昔からそんななんです。いま好きで、なんども聴いているアルバムを、きっと数か月もすれば聴いていないだろうなとかおもってすこし悲しくなるんです」

「エモいね」

「それがなんか怖いんですよね」

 わたしはカップに入っていた日本酒を干しました。先輩は自分のカップにウイスキーを注いでいました。まるこい瓶は空になっていました。

「いまは楽しいんでしょ」先輩はいいました。「ならいいじゃん。未来になってもそうなるんなら」

「別の趣味?」

「あるいはそれが一生の」

「あんま想像つきませんね」

「いま考えることじゃないんでしょ。いつ考えることでもない」

 先輩はそれから数か月のうちに大学を卒業して就職しました。あまり連絡を取り合うような仲でもないから生活がどんななのかはよく知りませんが、就職しても先輩は年に二、三本くらい作品をあげています。かくありたいものだ。そうおもっています。

 まだわたしは別の趣味を見つけていないようです。でもまだそれも必要ないみたいです。四苦八苦して、息が辛くて、もどかしくってむずがゆくって、それでもなんとかことばをひねりだしてキーボードを打つわたしの指先は、まだ楽しめているみたいです。

 なんて、ひさしぶりにお話めいたものを書いてみました。実際のことをいえば:べつにそんなに悩んでない。存在意義がどうだとか考えちゃいません。わたしがお話を書くのはただ面白いねっていってちやほやされたいという欲求によってだけですし。承認欲求モンスター! まだわたしのそれはそんなに大きくなっていない、と、信じたいものです。いつかそれが幼いまんまで大きくなったら、そのときはそのときで、辛くって苦しくって死んじゃいそうで叫びながら、それでもなんか書いているんでしょう。書いたはじからまた焦燥感にちりちりしながら泣いてるんです。それでいつかことばが怖くなるんです。でもそのときには、別の趣味を抱きしめているんです。そうだろうか。そうだといいな。やっぱいやかも。なんちゃって。これもまたお話。

 なんだかだらだら書いちゃいました。二十三時五十分。夜が眠いんです。でも、おかげで次の年を迎えられそうです。駄文を失礼しました。今度は時期を外さぬブログ担当でお会いしたいものです。それでは。八月下旬、九月上旬担当、有末ゆうでした。エモい文章書いていきたいな。それじゃ、またね。

Edit 00:08 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日記

 こんにちは、12月上旬担当の西桜です。中旬担当だと思ってたら、上旬でした。

・NFについて
 今回のNFの企画責任者をしていました。全面開放とはいきませんでしたが、普段話さない人と話せたことや、直接会誌を手渡せて結構満足しました。また大学が休みなこともあって、普段会わない高校の友達ともご飯に行けてよかったです。

・クリスマスについて
 去年もこの時期にブログを書いたなあと少し懐かしく、一方何も状況が進歩していないことが悲しいです。また、友達がプラスの報告をしていて、置いていかれたという寂しさと、素直な嬉しさを覚えました。つまり、クリスマスとは感情の発散がゼロになる時期ですね(暴論)。

・読書について
 今までの3分の2が最近読書してないなあという嘆きでしたが、ようやく小説を読むようになりました。あと、今まではただ何となく読むだけでしたが、最近は自分が気に入ったワードをメモに取る様にしました。
ジグβは神ですか 森博嗣
「スタイルも良いし、とも思った。もちろん、生きていなければ、その表現に意味はないのだが」
 今この文章を書いている時に、ふと思い出した文です。

・散歩について
 11月後半から、夜に40分ほど散歩をするようになりました。僕は季節の中では景色と言う点では秋なのですが、過ごしやすさという点では冬が好きです。というのも、寒い空気の中外に出ると、不思議と脳みそがスカッとして再び何かをしようとする意欲が湧いてくるからです。ちなみにこれは僕の注意の問題だと思いますが、僕が歩く時間帯はカップルの男女がよく歩いています。そんな二人連れを見るたびに、僕も愛しき人と手をつないで歩きたいなと思ってふと横を見ると、構成割合窒素78%酸素21%の彼女がいました。

 くだらないことを書いていたら、23時になってました。ちゃんちゃん。

(追記)
 今まではカテゴリが下から二番目だったのが、結構上になっているのに気づきました。これも時の流れってやつですかね。

Edit 23:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

「セリフ、難しい」

 こんにちは。十二月中旬担当の谷川慶です。
 突然ですが、自分はセリフを書くのが好きだなという自覚がありまして、地の文なんて一刻も早く切り上げてセリフが書きてえ! と思うこともしばしばあります。感情を表現するときに、できることなら、十の地の文より三のセリフで表現したい、なるべくリアルで感情の乗ったセリフが書きたいと思うタイプです。厄介です。そんなことにこだわってるから筆が進まないんだよまったく。
 もちろん、現実に近いリアルなセリフがその小説にとって常に良いとは限りませんし、話を進められればそれで良いという向きもあると思います。が、不自然なセリフよりは自然なセリフの方が良いはず――という精神で、自分がセリフについておぼろげに考えていること(や誰かの受け売り)を書いてみようと思います。

①噛み合わない
 人間、意外と相手の言ったことにまっすぐ返答することって少ない気がします。しょうもない話に逸れたり、一歩先を読んだ返しをしたり……。例えば「こんにちは」と挨拶されたとき。普通の人物、キャラなら「こんにちは」と返すでしょうが、それ以外の返答にしてやることでその人物の性格や感情が分かりやすく表せます。「あ……ども」「こん……あ、髪、切った?」「もう夕方だぞ、早く準備しろ」「ね、俺いつも思ってんだけど、『こんにちは』って並べ替えたら『ニコチンは』になんだよね」とか。ストーリーを進めるうえで必要なセリフだけ言うのでもいいのですが、一見関係ないと思っていたセリフが終盤で再登場したりしちゃう展開が私は好きなので――無駄話バンザイ。

②一貫性のある話し方をする
 話し方というのは人物ごとにみな違い、そして身についた話し方はなかなか変わらないものです。作品の中で、このキャラはこういう喋り方、という一貫性を作っておくのも当たり前ですが大切だと思ってます。というのも、その人にとって〈普通のセリフ〉があれば〈特別なセリフ〉も生み出せるからです。普段大人しい話し方をする人が荒い言葉を使えば、本当に心から怒っている、あるいは逆に冗談を飛ばしている、などの心情が伝わりやすくなります。ずっと敬語だった友人が、ふとタメを使えば、心を開いて仲良くなったことが印象的に伝わります。俗っぽく言えば、ツンツンツンツンデレみたいな感じです。徹底してツンツンした後のデレからしか得られない栄養があるのです。そのツンツン部分に妥協せず、一貫性を持たせることで、話の山場のデレの威力が上がるのです(何の話?)。

③既存の言葉を改造する
 人間、案外適当な言葉で話してますから、すでにある言葉、成句、ことわざなどを魔改造しちゃうこともあります。雑な例ですが「可及的なるはやで」「(朝飯前じゃなくて)昼飯前だぜ!」「おーい……もうそこの猫でいいや、手ぇ貸してくれ……」とか。

④口に出して違和感がないようにする
 これに関しては正直好みというか、口語に近ければ良いというものでもないので場合は選びますが、実際に人物が発する言葉なんだから現実で言っても違和感がない方がいいだろうとは思います。小説的な面白さを全否定している自覚、これあります。自分は小説を書いているときでも割と場面を画でイメージする方なので、現実世界でありえる話し方をなるべく再現したい派として、実際に声に出してみたりしてセリフを書き変えたりしています。しかし当然、表現としてあえて固い口調を選択したり、ストーリーのテンポを上げるために不要な部分をカットしたりしている場合もありますし、本当に現実の会話を再現したら、「あっ……」とか「えっと、その……」ばかりになってしまいますから、ま、ほどほどにってことです。

 と、ここまでどうちゃらこうちゃらと書き連ねてみましたが、こんなのは所詮小手先のこねくり回し、結局は書きたいように書くのが一番だと思います。ただ、せっかく何か喋らせるならこだわったほうが楽しいかなーと、そんな感じで僕はセリフと格闘してます。ところで、創作での会話術の前に、現実世界での会話術を誰か私に教えてください。それでは。


「――ま、てな感じかな。どう思います? これ、この文章」
「んーそうね。なんて言えばいいんだろ。これブログのやつだよね? だよね。まあ一言で言うと……ちょっと分かりづらいかな」
「えぇー! まじですかぁ」
「なんかね……話が脇に逸れすぎだし、中身も浅い。自分で自分にツッコミいれてるのも読んでてイタイ。あと、偉そうにう――」
「あーはいストップ! オーバーキルです無理っす僕もうライフゼロです。分かりましたありがとざんしたぁ!」
「急に大声出さないでよこんなところで。せっかく今からお褒めの言葉も贈呈しようと思ってたのに」
「え、贈呈ナッシングですか。お褒め欲しいですお褒め。ほら、僕もおだてりゃ何とやら」
「どうしよっかなあ……あははっ、まあ私はこの文章けっこう好きだぜ、ってこと」
「何すか急に、だぜって」
「はいとにかく。早く修正してさ、間に合うよう――あ」
「あ……。投稿、しちゃいました」

Edit 12:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

没作品『道連れ』

 暮四です。NFお疲れ様でした。そしてありがとうございました。外部誌はなんと完売、コピー本やポストカードもたくさんお買い求めいただけました。自分たちで作ったものを直接お客さんに手渡しできるのはやはり感慨深いですね。これからも名称未定をどうぞよろしくお願いします。
 さて、今回のNFで発行したテーマ本に、私は『手前の大路』という紀行文を寄稿しました。しかし実は、この作品を書く前に没にした文章があったのです(な、なんだって~!)。本来はこちらを寄稿するつもりだったのですが、あまり内容に納得できなかったので没にしました。その後、その原稿はパソコンのフォルダの奥深くで眠っていたのですが、NFが終わって一息ついたタイミングでそれを読み返してみました。やはり未だに内容には納得していませんが、このまま日の目を見ることなく消えていくこの原稿の身の上を思うと袖が濡れてしまったので、供養としてこのブログに投げておきます。よかったらご覧ください。暮四でした。

『道連れ』

 道から外れて歩くのが、彼の癖だった。いつも彼は歩道を歩かずに、車が通るすれすれの所を歩いていた。僕は彼の斜め後ろ、安全な歩道を行きながら、どうしてそんな所を歩くのか訊ねたことがある。
「なんか馬鹿にしてるみたいだろ。つまり、世界って呼ばれるものの全部をさ」
 彼は笑ってそう答えた。僕にはその意味が分からなかった。僕はずっとそうだったんだ。僕は常に彼の一歩後ろを生きていた。はじめて出会った三年前のあの頃から、彼は全てにおいて僕より秀でていた。一応日本一の大学と呼ばれるうちの大学に首席で入学し、講義にもろくに出ていないのに試験は常に満点近くを取っていた。勉強だけでなく、スポーツも、音楽や芸術でさえ、彼は悠々とこなしていった。
 彼は、つまらない言葉でまとめてしまえば天才だった。少なくとも他の学生たちは彼をそう呼んで、その神性を疎んでいた。
 でも、僕は彼を違う言葉で評したい。彼は優しい人だった。彼と違ってどこまでも平凡な僕に、彼は話しかけてくれた。彼は、僕の唯一の友達だった。いや、今思えば違ったのかもしれない。彼と僕との関係は、友達だなんて対等なものではなかったように思う。彼が僕に与えるだけで、僕は彼に何も与えていなかった。受験に受かるための勉強を十八年間続けてきただけの僕は、世界というものとの関わり方が分からなかったのだ。悪意だとか、嘘だとか、歪みだとかいうような、剥き出しの世界に対し僕はあまりにも無防備だった。きっと彼はそんな僕を見かねたのだろう。世界は全て彼を介して僕の前に現れるようになった。親鳥が餌を小さくしてから雛に与えるように、彼は剥き出しの世界を、かみ砕いて僕に与えた。彼は賢いから、複雑なこの世界を、馬鹿な僕にもわかりやすいように解釈する術を知っていたのだ。
 だから、それこそ親鳥に対する雛のように、僕は彼の後ろをついて回っていた。僕にとって、彼がいる方向が前であり、正解だった。彼はそんな僕のことをどう思っていたのだろうか。

 三年生の秋の日、彼は突然消えた。その年初めて金木犀が香った日で、また通学路の彼岸花が枯れていた日でもあった。大学に問い合わせると、彼は退学したとのことだった。そんなそぶりは一切なかったのに、僕の世界からは彼の痕跡の一切が消えていた。その時になって初めて、僕は彼の家も連絡先も知らないことに気がついた。
 彼は結局戻ってくることはなく、いつの間にか年を越していた。僕はしばらく外に出ていなかった。それは彼がいなくなって悲しいから、なのか。きっとそうではなかった。僕は怖かった。彼を介さない、剥き出しの世界に相対することが、どうしようもなく恐ろしかった。僕は大学に行かなくなり、今期の単位を全て落としていた。
 家にこもったままのある日、電灯に照らされた部屋中の埃がやけに気になったものだから、僕は久しぶりに窓を開けた。その時、冷たさの残る夕暮れの空気の間を縫うようにして、かすかに春が香った気がした。少し、外に出てみようと思った。
 とりあえず、近くにある公園を目指した。久しぶりの太陽の光は暴力的な熱を纏い、傾いた陽の光は直接に僕の肌を刺した。彼が前にいない世界はどうも他人行儀で、通り過ぎる誰もが僕を見ているように感じた。世界の全てが、僕を敵視していた。その視線から逃げるように、僕は下を向く。
「あ」
 自分が、道から外れて歩いていることに気がついた。 

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進化心理学の話

 こんにちは、double quarterです。

 突然ですが私は最近進化心理学という考え方にはまっています。ということで今回のテーマは進化心理学です。あたかじめ言っておくと、進化心理学の考え方には批判もありますのであまり鵜呑みにせず、あくまで私が最近考えたこと、ということでお許しください。(ネットで調べた程度の知識と自分で考えたことが混じっているのでお気をつけください)

 進化心理学とは大雑把に言えば、人の心理的な傾向が進化によって形づくられているという考え方のことです。定義は色々あるみたいですが、今回の話ではざっくりこのくらいの意味で取り扱います。

 具体例は色々ありますが、本能に近く進化の影響を受けやすい部分として恋愛についての話を取り上げましょう。
人は遺伝子的に遠い人のことを好きになりやすいという話を聞いたことはないでしょうか。これは遺伝的に近い交配が起こると不利な劣性形質(今は潜性形質と言うらしいですね)が遺伝しやすくなり、結果的に子孫を残しにくくなることによります。これは遺伝の仕組みと強く結びついているので進化との関係がわかりやすい例ですね。
ルックスで人を選ぶ際も、人に好まれるルックスというものにはある程度普遍的な傾向があります。これは卵が先か鶏が先かみたいな話になるのですが、進化心理学的に説明がつきます。人には普遍的な美醜感覚が備わっており、それにより良いルックスを持っている人が優秀な遺伝子を持つ人と交配することができ、子孫は生存に有利になるという仕組みになっていると考えれば納得が行きます。(このシステムは人間以外の一部の動物にも見られるものです。鳥の間で結構飾り羽根の綺麗さで優劣がつくのが一例ですね) もし美醜感覚があまりにも人それぞれだったらこのシステムは破綻し、乱雑な交配が起こることでしょう。
 逆に好まれない例を挙げると、皮膚疾患などは悪い印象を与えやすく、時には感染性に関わらず人を遠ざけてしまうこともあります。恋愛に限らず、初対面の人の印象としても影響があるでしょう。これも進化心理学で説明できます。天然痘という病気を知っている方も多いでしょう。天然痘を発症すると顔や身体にできものが大量にできます。他にも強い致死性を持つ病気として皮膚疾患が症状の一つである病気は古くからいくつもあったのでしょう。こうした重大な病気を避けるために、皮膚疾患を持つ人を避けるように進化的な圧力がかかったと考えられます。

 さてまたルックスに関わる話題になってしまうのですが、世の中には高身長男性を優遇する傾向があります。私は身長が低いのでその辺はついつい意識してしまうのですが、どうやら低身長より高身長が良いものとする傾向は人類に普遍的なようです。これは男性は体格が大きければそれだけ力も強く体力もあり、労働に適していたということの表れと理解できるでしょう。
 同性に対する嫉妬という観点ではまた面白い研究結果があります。
 “魅力があり、肉体的に優位で、社会的に力を持つライヴァルに対してもっとも不安を感じていた男性は、自分たちの身長が高ければ高いほど、嫉妬を感じにくかった。(Short men are the jealous type, March 13, 2008)” この結果は言ってしまえば自己肯定感に身長という要素が有意に関わってきているということです。身長という一見無関係な要素が心理に大きく影響を与えていることがはっきりしていて驚きです。
 “この研究では、ほとんどの女性は他の女性の身体的魅力に嫉妬を感じていたが、中ぐらいの身長の持ち主はほとんど嫉妬を感じにくかった。(Your height dictates how jealousy strikes, Universities of Groningen and Valencia, March 13, 2008)” この結果は男性の例に対して非自明に思えます。これについては、” 平均的な身長の女性はもっとも繁殖力が強く健康的な傾向にあるから、似た特徴を持つ女性に対して脅威を感じにくい傾向にあった。(Short men 'are the most jealous’, March 12, 2008)”という仮説があります。性役割的な話になりこの辺は昨今センシティブなので少し怖いですね。ただ生物としての進化に対する人類社会の発展の勢いを考えれば、進化が時代に追いつかないということはもっともだと思います。“時代遅れ”な考え方が遺伝的に残るのも納得です。
 他にもいくつか例はありますが、これだけ見ても身長は他者への印象を大きく左右するということがわかります。

 しかし実際問題人の意志決定を考えてみると、当然遺伝的な要素だけでなく後天的な要素も大きく関わってくるでしょう。これについては遺伝子で決まり、それについては後天的に学習する、という感じに分けられるものでもありません。どちらも欠かせない要因です。ですから社会的、環境的要因を無視するべきではなく、また進化心理学的な要因も当然考慮すべきだと思います。
 過去はこうだったが現在は違うだとか、人間には理性があるから意識改革をすれば差別を改善できるという素朴な考えに反して、我々の行動や思考における無意識や本能の占める割合というのは驚くほど大きいものです。人間の進化及び進化で獲得された心理というものを蔑ろにしていてはきっとどこかで他者理解の壁に突き当たってしまうことでしょう。人間の理性、論理性への信頼を一度忘れてみると面白いことに気づけるかもしれません。

Edit 22:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

名称抹消

 どうも。氷崎です。

 唐突ですがこの間家族で北陸に行きまして。一日目は福井の県立恐竜博物館に行きました。当博物館は僕ら家族には馴染みのある場所でして、それこそ僕が小学生の時には毎年行っていたぐらい、関わりの深い場所なのです。
 で、久々(正確に言えば6年)に訪れた我々を当博物館は変わらぬ姿で出迎えてくれ……はしたのですが、中に入って展示を眺めていると僕は何やら違和感を感じ始めました。
 違和感の正体は、展示されているいくつかの恐竜の名称が変更されていたことにありました。当然と言えば当然なのですが、研究が進めば今までつけられていた名前が変わることは古生物においては頻繁に起こる事です。僕は幼稚園の頃に買ってもらった恐竜図鑑の知識で止まっているので、改めて調べてみると驚かされる名称変更や存在の抹消がありました。一部をここに記します。
 ・セイスモサウルス
 最大の恐竜(とされていました)。ディプロドクスっていう竜脚類のたまたまデカくなった個体だったみたいです。
 ・アナトティタン
 まさにカモノハシの顔をした草食恐竜。エドモントサウルスっていう恐竜の顔が圧力でひしゃげただけらしいです。この手の話はこの分野ではよくあること。
 ・スティギモロク
 石頭恐竜。石頭恐竜の代表格たるパキケファロサウルスの幼体説が濃厚みたいです。この間のジュラシック・ワールドにも出てたのにお前……
 ・ゴジラサウルス
 怪獣オタクの発見者により名付けられた(その時代にしては)巨大な恐竜。同時代のコエロフィシスっていう恐竜のこれまた巨大化個体説が濃厚のようです。一応、消されるまでには至っておらず検証中とのことですが。

 ……いずれも古生物にはよくあることですが、少し寂しい。たとえ学問的には使われなくなったとしても、記憶の隅には置いておくことにします。名前に罪はありませんし。

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気になっている言葉

10月下旬担当の葱です。遅れてすみません。今回も気になった言葉について。

1 ウォ―リーをさがせ
 わたしは職を探さないと(涙目)

2 国境が消えたら争わなくなる
 こういう歌詞は昔からあります。「国境はなくならない」「国境がなくても別の事で争う」という批判があるとわかっていながら、このように言うのはなぜでしょう。作詞者の本意は「国境はなくせないにせよ、自分と周りの人の間の国境(勝手に引いている線)をなくそう」ということですかね。

3 買い物しようと街まで出かけたら、さいふをわすれてゆかいなサザエさん、みんなが笑ってる
 レジで財布を忘れたことに気づいた気まずい瞬間に、まわりに笑われたら立ち直れませんね。

4 広島or沖縄出身の○○(首相、歌手、~を拠点に活動するグループなど役職)として平和を訴えていきたい
 もちろん原爆や沖縄戦が重要なことだと知っています。しかし、それが出身者にプレッシャーをかけることにならないか、8月は特に思います。

5 働く大人の昼ご飯、それがサラメシ
 中井さん、働いていない大人の私も昼食べていいですか

こんなに小さい言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんのでご安心を。おそらくブログを書くのも今回が最後です。

Edit 07:16 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

微妙な気遣い

 上旬を過ぎてしまい申し訳ありません、ナカジマ杓子です。

 いきなりで申し訳ないんですが、最近気になっていること。それはMicrosoftからのメッセージ。

 まず背景として、私は(特に理由なく)WIFIの接続を手動で行う設定にしています。なので、当然自宅と大学とでいちいちネットワークをつなぎ直さなくてはいけない。でもときどき設定を忘れたままでMicrosoftEdgeを開いてしまう事があるんです。WIFIがつながってないとEdgeの検索機能も使えないので、WIFIを繋ぐように求めるメッセージが出ます。

 「接続されていないようですね」。

 分かりますか、このメッセージの微妙な気遣いが。「接続してください」ではないんです。「接続されていないようですね」です。

そう、この言い方は幼稚園の先生が「たっくん、遊ぶ時間は終わったよ~。絵本はどうすればいいんだっけ~?」と聞いてくれるあの感じです! 「絵本をしまってね」だと強制なのでたっくんは従わない。あえて遠まわしに伝えることで、本をしまうという行為がまるで自発的なものであるかのように錯覚させる高等技術! Edge凄い!

 ありがたいと同時に、「オレ、もう大人……」とも思います。 以上、ナカジマ杓子でした。


 

Edit 23:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

エイサクの話

 10月です。後期です。当初の予定の五分の一も達成できないまま堕落した夏休みを過ごしてしまった、9月下旬担当の谷川慶です。

 更新が少し遅れたのには理由がありまして。ブログに出そうと書き上げた例の城崎のレポートを、諸事情により一旦封印することになってしまいまして、ブログにあげるものがなくなってしまったのです。そういうわけで、今回は突貫で仕上げた適当な日記でもあげることにします。


 夏休み前、吉田南の図書館でぶらぶらと本棚を見回っていると、一冊の本を発見しました。岩波文庫『二十四の瞳』でした。昭和初期から戦後の時代を舞台に、瀬戸内の一寒村に赴任した若い女性教師と十二人の生徒のふれあいの物語。名作といわれている作品らしい。その本が特段目立っていたわけではなかったのですが、「ああ聞いたことあるけど読んだことはないな」くらいの軽い気持ちで手に取りました。パラパラとめくっていると、一枚の紙が挟まっていることに気づきました。その紙には鉛筆でこんなことが走り書きしてありました。

「岩波文庫 G 212-1  ツボイエイサク」

 誰かの個人的なメモか職員さんの蔵書管理のメモが挟まれたままのかな、と思いました。そしてすぐ違和感を覚えます。あれ、二十四の瞳の作者ってそんな名前だったっけ。

 二十四の瞳の作者の名前は「壺井 栄(ツボイ サカエ)」でした。表紙と背表紙を見ると、はっきり書いてあったのです。
 「壺井 栄作」と。

 他の本を見てもすべて名前の最後が「作」になっています。どうやら岩波文庫は、人名の後にすぐ「作」や「訳」を書く流派のようでした。壺井と栄の間はスペースが空いているのに、栄の直後に作があったのでは、これは一連の下の名前だと勘違いしても仕方ありません。特に運が悪いことに、壺井栄は「栄作」というそれらしい名前になってしまうために、間違えてエイサクと読んでしまったのでしょう。壺井栄は女性なのに、一文字付くだけで「栄作」という明らかに普通の男性の名前になってしまうのも上手い偶然です。「芥川 龍之介作」なら絶対に「リュウノスケサク」などとは間違えなかったはずなのに。

 何かの縁だろう、とそのまま借りて帰って、二か月。結局読まずじまいのまま夏休みが明け、今日図書館に返却しました。もちろん紙は挟んだままで。もしかしたら、探しに行けばまだ紙が挟まってるかもしれません。

 はい、特に面白いオチはないです。この類の勘違い、ミステリーか何かの小ネタに使えるんじゃないかと思ったり思わなかったりしましたが、僕では上手く料理できそうにないので日記的な感じで雑然と書き残しました。

 封印した城崎レポートは、またしばらくしたら出すかもです。写真付きで結構頑張って書いたのでいつかはあげたいなあって思ってます。それではー。

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美術館に要らないもの

・絵の題
・絵の説明
・額縁
・音声ガイド
・仰々しい看板
・入り口の映像
・有名な絵の前座みたいな立ち位置にされている絵
・学割のために学生証を見せる、あの時間
・自撮りしてる人
・美術館にわざわざドライフラワーを持ち込む輩
・物販
・謎のポストカード
・時折流れるアナウンス
・手を繋いで絵を見てるカップル
・揚々と絵の解説をするおじさん
・割とでかい声で喋ってる人
・謎の批評家
・全く立ち止まらずに歩いていく人
・飽きたのか隠れてスマホ触ってる人
・閉館時刻
・休館日
・再入場はできません
・順路がよく分からない展示
・撮影可能な絵
・無言で催促してくる後ろの人
・絵の前からなかなか退かない人
・そういったモラルに小煩い奴
・俺以外の人間
・俺

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日記

こんにちは、西桜です。
最近車校に通っていて、母校の高校前をよく通るのですが、高校生のまぶしさに毎回目を眩ませています。

今月は始めて印刷所に原稿の注文をしました。自分らで印刷するときよりもファイルの体裁を整える必要があり、かなり時間使いました。しかし、一応一人で冊子を作れるようになったので、いつか自分で冊子丸々出せるくらいに原稿を書いてみたいものです。(一応長編を書けそうなネタはありますが、なかなか昇華しない。)

4月のブログに書いていた、「狂骨の夢」を読みました。数々の事件の不思議具合が、今までよりも怪異よりになっているのが僕好みでした。

書いていると短文の日記群になりました。それでは。

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ぼくのなつやすみ

理学部一回生の帆貝梨香です。何を書けばいいのかわからないので、近況報告でもしておきます。
さて、夏休みがやってまいりました。高校の時は二週間ほどしかありませんでしたので、二か月という長さにはびっくりしています。かといって暇というわけでもなく、現在、私はバイト中心の生活を送っていまして、何分、それが午後にあるものですから、完全に昼夜逆転しています。朝日を浴びなきゃ寝れません。これの何が困るかといいますと、休みの日に遊びに行けないのです。京都といえば、世界文化遺産が各地に点在していまして、それを住んでいれば好きな時に巡れるじゃん! というのが私がここに来た理由なのですが、ほとんど行けていません。起きる時間には既に、閉まりかけの時間になっているのです。

というわけで、夏休みなのに、寝るか働くかしかしていない私ですが、いよいよやってまいりましたお盆休み。先日、嵐山に行きました。渡月橋を見たり、竹林小路を見たりと、そこそこ充実した一日を送れたのですが、いやはや、暑すぎます。京都の夏をなめていました。京都に住んでらっしゃる方はもしかしたらわからないのかもしれませんが、体感では私の地元である宮崎よりも暑いです。はてはて、こうなったらもう秋以降しかないなと思いはじめたのですが、そうこう言っていたら、いつまでもどこにも行かないような気がしてなりません。

そう明日でいいやと先延ばしにしていたこのブログのようにね!

この人、八月上旬担当だったんですよね。大変申し訳ございません。

意を決して、楽しい夏休みにするぞー!

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こんなこといいな できたらいいな

 どうもはじめまして! 氷崎光と申します。
 いい話が思いつかないので取り敢えず知り合いの話をしますね。

 知り合い……ここではN君としますが、彼はある国民的アニメのファンでした。あの青いネコ型ロボットの出てくるあれです。今回の話はそれに大いに関連する話です。
 ある日私は彼に呼び出されて某所にあるラボに行きました。あ、N君は研究者でして、今は共同ラボで他の研究者たちと一緒に研究をしているそうです。
 「おお、よく来たね」
 行って早々、私は入口から職員の方に案内されて最奥の部屋に通されました。そこで待っていたのはもちろんN君です。彼は満面の笑みでそう言って私に握手を求めました。私は取り敢えず差し出された手を握りました。
 「もう大丈夫だから、職務に戻ってください」
 彼は職員たちを下がらせました。そして私にこう言ったのです。
 「氷崎君。僕はとうとう夢を一つ叶えたよ」
 顔に満面の笑みを浮かべたまま。
 私は何も言うことができませんでした。N君が何を言いたいのかわからないのだから、反応に困るというものです。そんな私の様子にN君も自身の不親切さに気づいたようでした。
 「あぁ、これじゃ伝わらないな。とにかく、僕についてきてくれる?」
 そう言って彼は振り返り、後ろの方に歩きだしました。私は言われた通り、彼についていくことにしました。
 部屋は雑然としていました。大小様々な機械が置かれていて、足元には沢山のケーブルがまるで編み物をしているかのように通っていました。私が踏まないように歩くのに苦心したことは言うまでもありません。
 機械はその画面によくわからない計算式を羅列させていました。私は彼が何の分野の研究者だったか思い出そうとしましたが、どうも思い出せません。
 そうこう頭を悩ませているうちに、私たちは壁際にたどり着きました。何もない壁です。一体どうしたというのでしょう。
 私が困惑していると、N君はその手を目の前の壁にあてがいました。するとどうでしょう。ピピッと何かの反応する音と共に、壁が自動で開いたではありませんか。私は驚愕して口をあんぐりと開けていました。壁の向こうは真っ暗で何も見えません。
 「さぁて、この先だ」
 N君はそう言って闇の中に飛び込みました。私は目の前のことについていけず、中々足を踏み出せません。すると闇の中からN君が顔だけ出して言いました。
 「大丈夫だよ。さ、来て」
 そう言われて踏み出さないわけにはいきません。私は思い切って闇に飛び込みました。

 「どうかな?」
 N君の声に目を開いた私は思わずああ!、と声をあげました。そこはあの作品の、主人公の暮らす部屋にそっくりの場所だったのです。大人二人が居るには少し狭い部屋。勉強机や本棚、押し入れ、見覚えのあるものばかりです。窓の外は、映像で流しているのでしょうか、どこか懐かしい夕焼けが見えていました。
 まさか、好きが高じてここまでやってしまうとは。驚愕して辺りを見渡す私にN君は語り掛けます。
 「驚いた?」
 私は黙って首を縦に何度も振りました。N君は満足そうに頷きました。
 「それはよかった。でも本当に見せたいのはこれからだよ」
 そう言って彼は勉強机に近づきます。そしてその引き出しに手をかけました。
 「”彼”はどこから来たんだっけ?」
 答えるまでもありません。まさか、と身構える私をよそに、N君は引き出しを開けます。
 今度は声も出ませんでした。引き出しの中は四次元空間になっていて、そこには見慣れた機械がありました。周囲には数個の歪んだ時計が、時を刻む音をたてながら浮かんでいます。私はしばし呆然として、それからN君を見ました。彼は本当に嬉しそうな表情をしていました。
 「そう、完成したんだ。タイムマシンが」
 彼の言葉に驚愕しつつ(さっきから私は驚愕しっぱなしです。起こっていることを考えれば無理もないことなのですが)私は”それ”をまじまじと眺めました。だまし絵などではありません。本当に、引き出しの中が時間旅行の入口になっているのです。見れば見るほど、信じられないという気持ちが湧き上がってきます。N君はしみじみと語り始めます。
 「長年の夢だったんだ、時空を旅するの。これを作るのにどれだけの手間がかかったか」
 職員たちと一緒に作ったのか?
 私の問いにN君は首を振ります。
 「いや、これは僕の独自研究だよ。もちろん、ここでやっている研究の応用だけれど。ここまで自分の趣味に寄った研究は流石にさせてもらえないよ」
 とするとあの隠し扉からこの部屋の何まで自分一人で作ってしまったのか。
 私は妙に感心してしまいました。するとN君は突然私の肩を掴んでこう言ったのです。
 「で、君を呼んだのはこのタイムマシンの初搭乗者になってもらおうと思ってさ」
 私は再び驚愕しました。何故私なんかを。私の問いにN君が答えます。
 「だって君が一番僕の語りを熱心に聞いてくれたから」
 その発言に私は少し困惑しました。N君はきっと少し勘違いをしている。彼はきっと私もそのアニメの大ファンだと思ったのでしょう。しかし私は自分の好きなものに没頭して、それについては何でも答えられる彼の姿に感服していただけに過ぎません。決して、嫌いなわけではありませんでしたが、めちゃくちゃ好きというわけでもなかったというのが本音です。なので私はN君に本当のことを言おうか迷いました。
 しかし彼のキラキラした目を見ていたら期待を裏切るのも辛く……いや、本当のことを言いましょう。
 タイムマシンが目の前にあるのに乗らないわけにはいかないでしょう!
 私はN君にそういうことなら分かった、と伝えました。良心が私の心をちくりと刺しました。そんな私のことなどつゆ知らず、N君は嬉々として次のように言いました。
 「じゃあ、”いつ”に行きたい?」
 私は少し考えました。急に過去や未来に行くことができると言われて、ではいつに行きたいかと言われてもすぐに答えられるわけがありません。私はN君に少し考える時間が欲しいと伝えました。N君はもちろん、と快く承諾してくれました。

 10分経過したぐらいでしょうか。私はほとほと困り果てていました。未来も過去も、両方とも見たいことには違いありません。しかしそれはそれらに対する想像を奪ってしまうことに他ならない。私にはこうだったらいいなという妄想を捨ててまで現実……もしかすると不快なものかもしれない現実を見に行く覚悟はありませんでした。
 では逆に変えたい過去ならどうか。それも私には難しい問題でした。何故なら私は現状に既に満足してしまっているのです。現状を変えてしまいかねない大きな過去の修正に手を出す気にもなれません。
 こうなるともう八方ふさがりです。何か、現状を保持したままでも変えられるような直したい過ちがあるか……
 あ、と私は思わず声をあげました。いつの間にか隣に立っていたN君が決まったみたいだね、と微笑みました。
 私は頷き、口を開いて—――
 私の答えを聞いたN君は一瞬驚いた顔をしました。口を動かそうとして、片手でその口を塞ぎました。そしてそのまま、私の顔をじっと見つめました。
 しばらく沈黙が流れた後、彼は不意にふふっ、と笑って言いました。
 「君の人生が楽しそうで何よりだよ」

 というわけで、ペンと紙をもらって記したこの話を託すから、ブログの記事に役立ててほしい。

 私の机の上にはこう書かれた紙が置かれていました。……未来の私の人生が楽しそうで何よりです。
 ともかく私はその時初めて自分が7月下旬の名称未定ブログ担当だったことに気がついたわけです。時計を見ると7月31日11時30分でした。私は風呂を15分で済ませ、寝室の冷房をつけ、この紙に書かれている内容をドキュメントに必死に写していました。そして先程、日付を超えたのを確認しました。
 未来の私、面目ない。
 これで謝罪に代えさせていただきます。それでは(逃亡)。

p.s. 机の引き出しを開けてみましたが、中はいたっていつも通りで特に何もありませんでした。

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作品遍歴

 はじめまして。7月中旬担当の谷川慶(たにがわけい)と申します。理学部1回生です。ゆっくり書いたり描いたりしていきたいと思ってますので、これからどうぞよろしくお願いします。

 今年の4月に入学したばかりだと言うのに、「なるほど、これが大学生か。楽しいなあ」などと思いながらのらりくらりと過ごしていたら、もう前期が終わってしまいそうです。そして御多分に漏れず落単の危機に瀕し、期末試験直前のこんな時期になって、「なるほど、これが大学生か。単位欲しいなあ」などと思い始めているわけです。

 さて、初めてのブログなので何を書こうかと悩みましたが、私は自己紹介も兼ねて、自分が今までどんな作品や創作物に触れてきたか、という作品遍歴を書こうと思います。同じ作品を知っている人から話しかけられやすくなるんじゃないか、という友好上の作戦であり、ただの自分語りでもあります。初回から作品名をバンバン出しまくるのはどうかとは思いましたが、何でも書いていいという言葉を信じてまとめてみることにします。

 小学校低・中学年の頃は斉藤洋さんの本を読み漁っていました。全作品読破してやろうとしていた覚えがあります。読みやすいものから高学年向けのものまで数多くあるので飽きずに次から次へと読んでました。他には岡田淳さんの本や『ダレン・シャン』シリーズですかね。高学年では『獣の奏者』とかを読んでいた記憶がありますが、小学生の記憶は割と薄くなってしまっていてあんまり覚えてないです。漫画はワンピース、名探偵コナン、ドラえもんとかメジャーなものを。ゲームはポケモンBW、BW2世代です。

 中学生になると、自分で文庫本を買って一般文芸を読み始めるようになりました。ラノベや純文学のような作品は少なかったですが、なるべくジャンルや作者にこだわらずに幅広く読もうという信条のもと、まあ色々と読みました。小中学生の頃が今までで一番読書していた時期だと思います。中でも印象深いのは辻村深月さんの『冷たい校舎の時は止まる』です。2日で読み切るほど面白かったのに加え、これがデビュー作なのかよ、という強烈な驚きがありました。ベテランならまだしもデビュー前からこんな大長編書くって、どんなだよ……っていう衝撃です。実際はもっと長いものを書く作家さんもたくさんいるのですが、中学生の自分にとってはこれが衝撃で、小説家という存在の凄さを初めて意識した作品でした。2年連続この本で読書感想文を書くくらい好きで(考え直すのが面倒だっただけ)、今でも辻村さんの作品はよく読みます。漫画は引き続きジャンプ系のワートリ、ヒロアカとか今でも読み続けている作品など有名どころを。他にも父が持っていた手塚治虫の火の鳥やブラックジャック、星野之宣さんのブルー・ワールドや星を継ぐものを読みました。ゲームは妖怪ウォッチやぷよぷよテトリスをしていて、特にこれ以降はぷよテトにしか熱中してません。

 高校生になると勉強に偏り始め、あまり本は読まなくなりました。本を読まない一方で1年の頃は『アンナチュラル』などのドラマを観ることが多かったのですが、2年になってから急速にアニメにはまりだし、そして今も抜け出せない沼の中にいます。特に影響を受けたのは『CLANNAD』と『宇宙よりも遠い場所』で、この2つには総合表現としてのアニメーションの力を見せつけられました。今でも毎クール7作品くらいは見ていて、過去作含め他にも好きなアニメ作品は山ほどありますがキリがないのでここらで止めておきます。

 ずいぶん長くなってしまいましたが、最後に最近読んだ本や今読んでいる本、漫画を挙げてみます。

・伴名練『なめらかな世界と、その敵』  ・宇佐見りん『推し、燃ゆ』  ・魚豊『チ。―地球の運動について―』

 こんなまとまりのない自己主張文1本だけ出しておくのも何とも小恥ずかしいので、可及的なるはやで2回目を書く機会が来ることを願っています。それでは!

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朝三暮四

 七月上旬担当の暮四です。今年度より名称未定に入会しました。お見知りおきをどうぞよろしくお願いいたします。私にとって初めてのブログ、何を書くべきか悩みましたが、ここは無難に、普段から私が書いているような形で日記を投稿いたします。

・梅宮大社へ花菖蒲を見に行った。その日は梅雨のど真ん中だったけれど雨は降らなかった。花菖蒲は雨に濡れていると相場が決まっているので残念。少し雨を待ってみたが、自分が傘を持っていないことに気がついたので帰った。

・美術館が好きだ。これを人に言うとよく誤解されるのだが、別に絵画が好きだというわけではない。嫌いでもないけれど。そうではなくて、絵画を見ることが好きなのだ。絵画の前に立つと、自分と絵画の間には緊張した静謐みたいなものが生まれる。その中でのみ私は私の身体を少しだけ忘れて、私の内部を見つめることができる。だからきっと絵画を見るのが好きというのも間違いで、絵画を通して自分自身を見つめ直すのが好きなんだろうな。そして絵画から目を離したときの、緊張が解けて現実に戻ってくる感じも、そんなに嫌いじゃない。

・二十歳になった。成人年齢は十八歳に引き下がってしまったので、二十歳というものはお酒とたばこが買えるようになる以上の意味を持たなくなってしまった。それでもやはり二十歳というのは、何か象徴的な節目であるような気がしている。慣れないお酒を呷りながら、昔のことを思い出す時間が少しだけ増えた。

・最近、たびたびマスクを取っている。もちろん人が密集しているときや、だれかと話すときはつけているけれど、周りに誰もいない、静かな夜を散歩しているときなんかはつけるのも馬鹿らしいと思ってしまう。すると、雨上がりのコンクリートから蒸し上がるあの匂いや、茂った草木の青い匂いがよく感じ取れるようになる。ここ数年忘れかけていた匂いだ。夏がもうすぐそこまで来ている。

・雲間から零れた月光に照らされた紫陽花の露や、今出川通りの先に沈む曖昧な色の夕暮れを眺めると俳句を詠みたくなる。きっとそれは単純な表現欲だと思うのだけれど、いざ俳句が作られると、よりよい句をしよう、より評価される句にしようという思いが頭をもたげてくる。有り体に言えば自己顕示欲だ。他人の介入する余地などなく、完全に自分のために何かを作ることが出来たのはいつまでだったろうと考えている。

・「変身」という小説を書いた。フランツ・カフカの「変身」がモチーフ。ところどころにカミュの「異邦人」も引用している。実存主義小説の観点から、自己同一性と自由意志について疑問を投げかける意図で書いた。思春期の男の子が秩序みたいなものに対し反抗的になることと、ある外交販売員が巨大な毒虫になることには、いったいどんな違いがあるのだろう?

・この前下宿を出る際に、玄関からふと部屋を振り返ってみた。廊下の先にある扉は開けっぱなしになっていて、そこから自分の部屋が見える。半分開いたカーテンが、雨の朝の鈍色の光を招き入れている。鈍重な空気に満たされた部屋の中で、整頓されていないあれこれが散乱している。その様子は、失くしてしまった誰かを連想させた。この部屋は誰も失ったことがないのに不思議に感じた。雨の日の空っぽな部屋には、何も失うことなしに喪失の概念だけが存在している。

・先日、横断歩道で立ち往生をしている車椅子のご老体を見かけたので、移動をお手伝いしてそのままお宅の前まで車椅子を押していった。ご老体は細い路地を何本も奥へ入っていったところのアパートに一人暮らしをしていらして、その部屋の前にはいくつかの段差があった。お礼にいくつかの飴を頂いて、帰り道に感じていたのは、罪悪感であった。きっと私たちの社会は色々なものを路地裏に詰め込んでしまっていて、今日私は隠されてしまっていたそれに気づいた形だ。裏返せば私は今まで気づいていなかったのだ。一人暮らしのご老体があまりに不親切な社会な構造というか、あり方の中で暮らしていることに。頂いた飴は、少し酸っぱかった。

・例えば、踏切を待っているとき。あるいは信号や、お会計でもいい。とにかく何かを待っているとき、もしもその時間が永遠に続いたらどうなるのだろうかとふと思う。つまり、電車がいつまでも来なかったら。いつまでも信号が赤だったら。前の人の買い物かごの中身がいつまでも減らなかったら。そんなことを考えている。昔からの癖だ。きっと他の人は待ちくたびれて去ってしまうだろう。でも私は、なんとなくだけど、一人で待ち続けているのではないかと思う。理由はないけれどほとんど確信に近い。でもやっぱり現実の踏切は間もなく開いて、それに少しがっかりしている自分がいる。

・暮四というペンネームについて。きっと気づく人も多いと思うが、「朝三暮四」という故事成語から来ている。夏目漱石が「漱石枕流」という故事成語から名前を取ったのを真似た。「朝三暮四」は目先の利益にばかりとらわれる、という意味だが、これをペンネームに取ったのは自分に対する戒めであり、また皮肉でもある。あとは単純に「暮四」という漢字のイメージが好きだ。暮れた茜色の空を背景に、鴉の影が四つばかり浮かんでいる。

・エッセイや日記のノンフィクション性は、どこまで担保されるのだろうか。そもそも完全なノンフィクションなんて存在するのだろうか。きっと、フィクションとノンフィクション、つまり現実と虚構は対立概念ではないし、両立しうる。世界は現実と虚構に二分されるのではなく、それらが不可分に混ざり合って存在している。現実の中にも虚構は点在するし、虚構の中にもグラデーションのように現実は混ざり込んでいる。松尾芭蕉だって、現実に虚構を織り交ぜながら「おくの細道」を書いた。だからこの日記にも、真に本当のことなんてないのかもしれない。

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日記

6月中旬の西桜です。もう7月ですね。

6月でなんか創作関係の面白いことあったかなあと考えていたところ、ここでないサークルの方で同人誌即売会に行っていたのでその時のことを軽く書こうと思います。
 さて、名古屋のポートメッセで六月の前半に東方の同人誌即売会がありました。元々所属するサークルの新刊には原稿を出していなかったのですが、会計処理のために売り子としてサークル参加しました。
 即売会に参加して、自分が欲しくなったものを手に入れたりして嬉しかったですが、他にもよかったことがありました。それは他の人の全然違うジャンルの創作物を見て、自分の創作モチベが上がったことです。僕は普段小説を書いていて、時々会誌でイラストを見ています。しかし、会場では、イラストオンリーの冊子や、音楽CD、はたまたゲームなど個人が作ったものとしては日ごろ中々見られない創作物が並んでいて、会場を軽く回って眺めているだけでも自分ももっと創作したいなあという感情が湧いてきました。
 未定のほうでも、9月に即売会に参加しますが、もし予定がなかったならぜひ参加したかったなあと思いました。無念。

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気になっている言葉 

6月上旬担当の葱です。遅くなりました。気になっている言葉について書きます。

1 NTT
NNT(ない内定=内定がない)に見えてびくっとします。

2 カフェ巡りにはまっています
私は堂々巡りのどつぼにはまっています。

3 自己~
 自己嫌悪、自己PRなど、自己(動詞)は多いです。これは日本語に元からあったように見えません。英語のself-を翻訳したものですかね。

4 しんのすけーっ
 『クレヨンしんちゃん』のお母さんは、しんのすけを「お兄ちゃん」と呼ぶことはありません。一方で、『ちびまる子ちゃん』のお母さんは桜さき子さんをお姉ちゃんと呼びます。両家の方針の違いはどこにありますか。

5 〽お魚くわえたどら猫追っかけて、はだしでかけてく、愉快なサザエさん
 よく見ると英訳するには難しすぎますね。

こんなに小さなことにかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心を。

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私にとっての小説の面白さ

こんにちは、double quarterと申します。

 入会して初めて書く文章になるので色々悩みましたが、この機会に自分にとっての小説というものを見つめ直してみようかと思いました。ということで私にとっての小説の面白さを書いていこうと思います。

 人それぞれ小説を読む理由は違うと思います。しかし単純に読んでいて楽しいからという理由の人は多いでしょうし、それが全ての理由でなくとも少なからず皆そうだと思います。また現実から離れたいという理由で読む人もいれば、逆に現実の自分を見つめるきっかけになる場合もあるでしょう。
 私の場合は色々と変遷してきました。小さい頃は物語は基本何でも好きで、ジャンルをあまり気にせず気になったもの、与えられたものを読んでいました。それからしばらく小説から少し離れていたのが、最近になって小説の魅力を再発見しました。

 現在の私にとって小説の魅力というものは、端的に言えば自分の中にある矛盾を突きつけられることです。というよりそういう小説を好んでいると言った方が適切かもしれません。単純に矛盾を突きつけられることを考えると苦しいばかりではないかと思われるかもしれません。しかし無意識の自己矛盾に切り込むということはすなわち新しい考えの導入であり、それに自分なりの答えを(時に小説の力を借りて)出すということは非常に刺激的な営みだと思います。
 しかし同時に小説のその側面を重要視するのであれば評論や哲学書の方が効率的なのではないかとも思えてきます。実際内面に切り込む作品というものは哲学書からインスピレーションを受けている場合も多いです。もちろん私にとってはそれらも同じ理由で刺激的なのですが、一方で小説にしかない魅力というものもあるのではないかとも思っています。今回この文章を書くにあたってその辺も含めて一度色々と考えてみました。

 第一に、小説は面白いです。これは同意していただけると思います。私は詳しい理由を知りませんが物語というものは普遍的に人をワクワクさせます。読みやすく、それでいてほどよく考えさせてくれるようなバランスを保っているからこそ、何かを問いかける小説というものは魅力的なのだと思います。
 とはいえこれについてはあまりに普遍的すぎて私が書いても陳腐になってしまいそうなので、深くは掘り下げないことにします。

 第二に、小説の没入という機能です。例えばトロッコ問題なんかを考えるとき、ただ問いを突きつけるだけだとそれはどうしても他人事になると思います。一方、小説を介して似たような状況を順を追って導入し、こうした問いを読者に投げかける場合はどうでしょうか。きっと読者は登場人物に親身になって考えます。それに留まらず、その後が小説で描かれれば、思いもよらなかった結論を目にしてまた考えが変わったりもするでしょう。
 言い換えれば、小説はifというものを現実味を伴って突きつけることができます。普段おかれている日常という舞台設定から切り離し、小説で用意された世界の中に読者を置くことで効果的に問いかけることができます。同じ物事に対しても、客観で考えるのと主観で考えるのとでは全く違います。体験できなければ考えもしないようなことを疑似体験できるというのはとても興味深いことだと思います。

 そして最後に三つ目は、意図的に読者の視点を歪ませていくことができるという点です。この書き方ではちょっと人聞きが悪いですね。具体例をあげます。有名な話ですと夏目漱石の「坊ちゃん」なんかが例としてあげられます。この作品は主人公が割と非常識的な行動をすることが多いのですが、読んでいると非常識だと思わずに読み進められてしまいます。(実際私も読んでいてほとんど違和感を覚えませんでした) 
 これにより一度自分から離れた考えで小説を読み、その後ふと別の登場人物の視点に立ったりその人の言を聞いたりして考えてみたら全く違う考えが浮かんでくることがあります。その自分の中に生じた相反する正しさというものをどう統合して取り入れるかというところに面白さがあると私は思います。
 私が良くとる手法としては、両者の主義主張の根底となるものをできるだけ深く掘り下げていき、どこで袂を分かったのか探るという方法です。(この場合前提として深いところでは皆共通する考えを持っているという仮定を用いているので、一般性に欠くという問題はありますがそこには一旦目をつむります。)その結果として実は片方の考えには論理的整合性が欠けていて、全くの思い込みもしくは社会的通念という(論理的でなかったり本能的だったりする)自然発生(理性による論理の対義語の意味)した考えだったという結論が導かれることがあります。
 その発見が根本的であればあるほど衝撃も強いです。例えば「絶対的価値だと思っていたものが絶対ではなかった」という発見がこの例としてあげられます。この辺りを具体的に説明すると長くなってしまいそうなので、また別の機会があれば言語化を試みたいと思います。
 またもちろんそうした登場人物への共感、視点の共有という誘導に揺らされないように抗いながら小説を読むということも楽しみ方の一つとなりえるでしょう。自分との違いを常に意識しながら読むことでそれは達成されます。その場合でもこう説明されたら確かにそう考えざるを得ないな、と考えが変わることなどは当然あると思います。結果としては全く考えが変わらなかったとしても自分とは違う価値観を知るということは当然面白いはずです。

 少々長くなってしまいましたが私の小説観は以上です。しかしこの手の文章を書いていると思うのですが、前提として持っている認識が異なる相手にこの文章で果たして伝わるのだろうかということが甚だ疑問です。実際私は高校時代に評論を読んでいて不親切さを感じることが多かったのですが、いざ自分がそれの真似事をしてみると全員に伝えることの難しさが身にしみてわかります。その辺の問題を突破されている物書きさん達の凄さを実感します。

 それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。

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 さて、20日はギリギリ中旬ですね。ブログ担当を失念しそうになっていたナカジマ杓子と申します。
 ついさっきとある講義を受けるために教室へ行くと、まだ私以外に誰も来ていない感じでして、「お、一番乗り!」と思っていたら普通に休講だったので、若干しょんぼりしています。
 いえ、「若干しょんぼり」というのは実は強がりで、その講義のためだけに早起きしたのにすべては無駄だったのだ、わたしの人生に意味あることなど一つもないんだ、と悲嘆にくれまくっています。なけなしの詩人的感性を発揮して描写するなら、降りしきる雨、濡れる靴下、「嗚呼、どこまでもひとりぼっちだ……」、呟いて私は自転車を押し帰路につく、というところです。
 しかし、この描写には噓があります。そう何を隠そう、まだギリ雨は降っていません。ただし、降っていてもおかしくないくらいの曇天ですが。
 どのくらい降っていてもおかしくないかと言うと、ベランダに腰かけた乙女が私を想って流す一粒の涙、その涙が蒸発し大気中に溶けていくだけで、ちょうど飽和水蒸気量に達しそうなくらい雨が降りそうです。今上を向いているてるてる坊主の頭部に30gの重りを入れてその姿勢を反転せしめれば確実に雨が降るでしょう。
 が、それでも事実として雨は降っておらず、つまり私の靴下は濡れず、てるてる坊主も本懐を果たしているわけです。何ともめでたいことだと、私はしみじみ思います。世の中こんな風にめでたいことばかりだといいですね!
 このブログのタイトルは「雨」ですが、なんと「雨は振っていない」という事についてとうとうと述べている、これは果たして正しいのだろうか、まあ、「雪」とかいうタイトルをつけるよりはましだろうとか考えていると、次の講義の時間なのでそろそろここでお暇します。
 ありがとうございました!

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三題噺『三段論法』『こだわり』『千円札』

 わたしが食券機の故障に気が付いたのは、ひとつには日ごろから頭の片隅で四則演算が駆け巡るようないくぶん不便なタチをしていたからだし、もうひとつにはその店に幾度も通い続けていたからだった。
そのラーメン屋は、大学の横の交差点のすぐそばにあった。このあたりはラーメン激戦区と呼ぶには少し店舗数が少なく、しかし、そこいらの地域に比べればかなり豊富な店があった。わたしが足繫く通うその店は真黒な外見をしていて、すこし不愛想な雰囲気を覚えさせる。しかし堂々と掲げられたその看板の金に輝く文字に励まされて扉を開けば、元気なにーちゃんが笑顔で迎えてくれる。
入ってすぐそばの場所には食券機が置かれている。数週間前に店内を改装したようで、以前の場所とは違うところに置かれている彼にいくばくかの戸惑いを覚えながら、わたしは並らーめんと白ごはんを注文した。
この店の麺は、いわゆる家系というやつだった。醤油とんこつのスープにたっぷりの鶏油がかけてあり、上には控えめなチャーシューとのり、そしてほうれん草がトッピングされている。
このほうれん草が重要だ。湯がかれてしんなりとしたこの子は、そのまま食べてしまえば些か青臭さが鼻につく。しかしまろやかなスープに絡ませて食べてみればいかがだろうか、とんこつ醬油のマイルドな味わいに包まれて、ほうれん草の甘味が口の中に広がる。こってりしたスープに口の中が疲れた時に、この子が場を仕切り直してくれる。
そう、この店のスープはいくぶん濃いのである。もちろん味は調整できる。薄め、普通、濃いめ。お好みに合わせてカスタマイズできるのは特徴だ。スープの濃さのほかにも、麺のかたさ、油の多さを調節できる。わたしが注文するときは大体、かため、普通、多めだ。そしてのり増し。だからごはんが必要なのだ。
この店のごはんは、なんと五十円なのである。しかもおかわりが無料。これぞ学生街といった風情で、なんともありがたい。そして、この店はサービスでもやしナムルを提供している。もやしをごはんに載せる。これですでに米が進む。だけど、そこにスープのしみ込んだのりを巻いてほおばる。これが正しいのである、少なくとも私の中では。
のりとナムルでご飯を一杯。おかわりを少なめにもらって、スープと共にもう一杯。そうして見えてくるのは桃源郷――とまで言ってしまえば大げさだが、これがわたしの幸福をいくらか支えてくれているのだ。
――と、ラーメンをいただくことを想像しながら食券を手に取ったわたしは、おつりボタンを押した。ちゃりんちゃりんと音を立てて落ちてきた小銭を財布に入れて、席へと向かう。さあ、パーティーの始まりだ。
しかしそのとき、わたしはふと疑問に思った。
ちゃりん、ちゃりん?
音からすれば、つまりおつりの小銭は二枚だったことになる。しかしそれはおかしいのではないだろうか。わたしは千円札を食券機に入れた。並らーめんは七百円である。ごはんは五十円である。食券機が正しくうごいているならば、おつりは二百五十円であるはずだ。
二百五十円であるならば、その構成は小銭三枚以上になる。
おつりの音はちゃりんちゃりん、つまり二枚であった。
ゆえに、おつりは二百五十円ではない。
ゆえに、食券機は正しく動いていない。
わたしはかるくかぶりを振った。長年この店に務めている食券機くんのことだ、疲れの貯まることもあるだろう、メンテナンスが必要になることもあるだろう。わたしがすべきなのはだから、激昂するようなことではなくて、店員さんにさりげなく声を掛ける、それだけなのだ。
わたしはふと食券機を振り返った。歴戦の戦士、その顔を今一度拝もうとして――しかし、わたしは言葉を失った。
『まことに身勝手ながら、五月一日より、ラーメンを五十円値上げさせていただきます』
 そこには、そんな張り紙が為されていたのだ。
 つまり、わたしの購入金額は八百円。よって、おつりは二百円。
 わたしは黙って席に座った。
 時間は流れゆく。街の景色も、住む人も、漂う空気もやがて変わっていく。わたしもきっと、明日には今日のわたしではなくなっていく。変化に戸惑うときもあろう、傷つくこともあろう、だけどそれを飲み込んで、わたしたちは日々を過ごしていく。そうして多くのものが変わってしまった中で、むかしの風景は郷愁となってわたしたちの中で化石していく。
 それでいいのだ。
 運ばれてきたらーめんとごはんをかきこみながら、わたしはひとり、ただ頷いていた。それでいいのだ。
 わたしはこれからも――それでも――この店に通い続けるのだろう、通い続けてしまうのだろう。それでいいのだ。それが、いいのだ。
 わたしは麺を啜った。中太麵に絡まるスープは、いつもより美味しい気がした。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 てなわけで今回は三題噺(お題を三つ募って、全部使ってなんか書くやつ)でお茶を濁させてもらいます。なんもアイディアがなかったんでね、同期と先輩に頼んでお題をもらいました。
 さてさてそんなわけで今回はこのあたりで。担当は有末ゆうでした。またね!

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新歓について

 どうもこんにちは。ナカジマ杓子です。
 このブログは毎度毎度何を書くか悩むんですが、今回はまたかつてないほど悩んでいます。後輩に早くブログを書けとせっつきながら、いざ「あなたの番です」と言われると何も出来ないポンコツな先輩がここに居ます。
 さて、「名称未定」は4月いっぱい新歓を続けるわけなんですが、今の時点でたいへん大勢の方が、見学に訪れて下さいました。20人近く? もっとですかね? たくさんの方に我々の活動を知ってもらえるのは、いずれにしても、とても嬉しいことですね~。
 入会してくださる方も、残念ながらご縁がなかったという方も、この新歓の時間を楽しんでくれていたらいいなと思います。

 「こちらに、『楽しむ』素養がなかったとしても……」「向こうが『楽しませてくれる』ことは期待できるからね!」
 とは、私の大好きな福部里志大先生のお言葉ですが、どうでしょう、そういった観点で考えると、私に人を楽しませる能力は果たして存在したのでしょうか? 心強い会員諸氏の八面六臂の大活躍で、きっと私の無様さは覆い隠されているはずですが、それはそれとして、楽しませる力の習得は私にとって喫緊の課題であるんだろうなあと鼻くそをほじくりながら反省します。
 まあ、足りないものに気づくのも、それはそれでまた楽しいです。他人に指摘されたわけでなくて、自分で気づけたのが嬉しいのです。褒めてあげたくなる。 わたし、自己批判能力ありまくり!
 逆に他人に指摘された欠点は、拗ねて直したくなくなってしまうというのも真実で。「そういう私も愛してよ!」。
 しかし考えてみれば、拗ねてしまうのもまた自分の欠点なので直さなければならんなあ、お、偉い、自分で欠点に気づけた! と堂々巡りになるもんです。
 ……ヤバいですね、書いていることに生産性が皆無すぎる。電力等、諸々のソースの無駄遣いだな。
 というわけで、今回もこの辺で締めましょうかね(唐突)。
 ご清聴ありがとうございました!
 創作サークル「名称未定」を、今後ともよろしくお願いいたします。

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こんにちは、西桜です。

さて、何を書こうかなと5,6個分を少し読んだところ、どれも面白い内容で新入生の方々がブログを書くのをためらわれるかもと思って、緩衝材的な貧相なものを書こうと思います。はい、言い訳です。

と前置きしても、まだ書く内容が思いつかないので、ここ最近買った本(≠読了)を書いていこうかなと思います。

1 九マイルは遠すぎる
 海外の推理小説です。悲劇シリーズなどと同様に、ガチガチの推理小説で、一ひねり加えた推理小説をよく読む自分としては逆に新鮮で面白かったです。この作品の探偵は安楽椅子探偵で、タイトルにもなっている「九マイルは遠すぎる」が一番それを体現していて僕のお気に入りです。こんな推理小説を書いてみたいですね。

2 沈黙のパレード
 探偵ガリレオシリーズの最新作です。僕が理系を目指した原因の一つでもありますね。読んでいて一番感じたのは、登場人物の加齢です。そのためどこかもの悲しさを受けました。

3 パプリカ
 とりあえず買っただけです。映画にもなっていて、その予告PVがとても奇妙に仕上がっていて、まずは原作の小説を読んでみたいと思って買いました。

4 狂骨の夢
 五分の一くらい読みました。怪異を可憐に解き明かす様が気に入っていてもっと読みたいのですが、前作の魍魎の匣を読んだ後の衝撃でしばらく何も手に着かなかったのが気がかりで今は読むのが怖いです。

先輩たちと話してていつも実感するのですが、作品の感想、批評はとても難しいですね。それでは。

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穴埋め

 たとえば地面に敷かれているタイルがありますが、一つ一つの正方形のタイルが規則正しく並べられて行列を作るなか、なんらかの事情でちょこんと一つ、そこからはみ出してしまうものがあることでしょう。九×九で並んでいるのに、八十二個目が居心地悪そうにぽつんと敷かれていることがあるでしょう。そういうときはその八十二番目の彼をそっと取り去ってしまいたくなります。あるいは壁にトビズムカデが這っているとき、彼女の脚が一本、欠けていることがあります。そういうときは手作りの脚をいっぽん、そっと差し上げたくなります。あるいは本棚に真ん中の巻だけ欠けて並んでいる漫画、駐輪場で枠の中から一台だけはみ出している自転車、ナッツバターおにぎりだけが品切れになっているコンビニの陳列棚、一室だけ空洞になっている組み立て式アパートメント、たった一つだけ、これ見よがしに浮き出ているエンターキー。そうした、どこかちぐはぐなかんじを覚えさせるものの並びを、どうしても均してしまいたくなるときって、あると思います。つい先日の二月二十九日も、なんとなしに気持ち悪くかんじてしまったりしました(二月二十九日生まれの方、ごめんなさい……!)。そういうのって、文章を書くときにも感じてしまうことです。どうしても一文字+句点が次の行に来てしまうとき、これをどうにか改行させないように、あるいは次の行がもっと長くなるように文章を推敲したりします。だけどいざ読んでみると、べつにそういう改行ってあまり気にならないんですよね。書いているときの、ともすれば無意味なこだわりなのかもしれません。あと、隣り合った行で句読点の位置が変にそろってしまうときも、なぜか違和感を覚えてしまいます。これってどっちかっていうとちぐはぐではなくて均整のとれている文な気がするんですけれど。結局のところ、わたしは歪なものにも整ったものにも気持ち悪さを感じてしまう人間なわけで、いやはや難儀なものです。正三角形は多分苦手で、鈍角をもつ三角形も結構苦手。直角もうーん。てなわけで。
 さて、この文章を書いている今日は休日で、数年ぶりにわたしがかつて所属していたサークルのブログを見てみたら、2022年四月上旬の分が欠けていました。歪ですね。きっとこのときの担当者だった誰かがさぼっちまったんだろうなあって思ったんですが、はて、この年ってわたしは何回生だったろうと思って計算してみると三回生でした。そうして過去に思いを巡らせようとすると、するするその頃の記憶が引き出されてきました。そうだった、わたしが三回生のころ――その二年ほど前に新型コロナウイルスという感染症が広まり始めて課外活動もいくぶん制限されていたのですが――そのころにはいろいろな制限がなあなあにされて、それなりに自由に活動ができるようになり始めていたんでした。わりと、対面とかでの新歓もできるようになっていたんだった。っていうか、四月上旬のブログなんて重要もいいところじゃないですか、それをさぼるなんて、どんな人なんだろうってそれわたしだったー! なにやってんだわたし、ブログさぼってんじゃあねえですよ!
 とはいっても、もう六年も経った今、責任をとるもくそもないっていうか、べつに会長に怒られた覚えもないですしね、うん。といっても、じぶんのせいでブログ更新が歯抜けになってるっていうのもなー、とおもっちゃって。それで、ちょこちょこっとツール使って入ってみたら、なんか更新日時のデータをいじって書き込むことができそうでした。ラッキー。今の顔も知らないWEB管さんには申し訳ないけれども、穴埋めしちゃうぜ☆ってなわけでいまこれを書いています。六年越しの穴埋め。ロマンがあるなあと思うとともに、そんなことしたって六年前にこれが見れるようになるわけでもないんですけどね。まあ、ただの自己満足です。六年も前の記事を漁ろうっていう酔狂な読者くんたち見てるー?(古いか。)
 そんなわけで、2022年四月上旬の担当はわたしです。わたしだったんです。あのときのペンネームを今書くのはちょっと恥ずかしいですね。でも書きましょう、だってあのころのわたしはそうして署名するんですから。
 ではでは今回はこのへんで。担当は有末ゆうでした。またねっ!

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大学生活のしのぎ方 2022

3月下旬担当の葱です。今回は1回生向けのアドバイスを書きます。説教臭くて申し訳ありません。

1 自力
身近な人にSOSを出すのは大切です。しかし、大学は助けてくれませんから、基本は自力解決です。

2 新目標
3回生からは就活です。受験の次は就職を目標にしてください。チームでやり遂げた経験、困難を乗り越えた経験、工夫して成功させた経験があるとよいはずです。(私はどれもありません)

3 授業時間外が大事
宿題が出されなくても、参考文献を読んだり、自分で語学参考書をやったりすべきです。大学では、課題は自分で見つけるものだと思います。

4 高校時代のもの
高校時代の参考書は、家庭教師のアルバイトなどをする人は残しておくといいはずです。語学の授業ではCDプレイヤーを使うこともあるので、持っている人は下宿に置くといいかと。

5 交通ルール
田舎の感覚で自転車を走らせると危険です。自転車で歩道を行くのはあきらめた方がいいです。ベルは決して鳴らしてはいけません。

6 当たり前を当たり前に
ごみのポイ捨てをしない、授業に遅刻しない、授業中寝ない、正しい敬語を使うなどを徹底してください。就活中の付け焼刃ではぼろが出ます。

7 起床就寝時間
生活リズムが乱れ、朝起きられなくなる人もいます。休みの日も起床就寝時間を同じにしましょう。

8 食事
自動販売機で買わずにマイボトルを。昼食は自分で作った方が安くて早くすみます。

9 周囲
身近な級友、先輩をお手本に努力しましょう。

10 語学
授業に出ているだけでは足りません。自分で勉強しましょう。フレーズを何度も音読することで、読むスピードも上がります。脳科学に基づく英語習得については、本学の先生でもあった、青谷正妥先生のyoutubeや著作をご参考に。

以上です。長々と失礼しました。

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新歓とか

 ほしい本があるのだと彼女が言ったから、わたしは彼女を隣にのせて、軽のイグニッション・キーを回した。さして暑くもないはずだったけれど、むっとした空気がわたしに空調のつまみを回させていた。朝の十時すぎから降り始めた予報外の雨は、止みそうになかった。

「先輩が教えてくれたの、あそこのブックオフに売ってたって」

 彼女はそう言って、珍妙な作家の名前と、そのわりに平凡な小説の名前を口にした。

「通販で買えばよかったんじゃない」わたしは言った。「そっちのほうが楽だし、そうしていれば服も濡れなかった」

わたしは、ハンカチで肩を拭う彼女を見た。駐車場を少し歩くだけとはいえ、一本の傘でどうにかしようと考えたのが間違いだった。

「言えてる」彼女は乾いた笑い声をあげた。「だけどこだわりはどうしようもないものだから。それに」彼女はサイドブレーキをおろす私を見る。「今、言っても遅いでしょう。あるいは引き返そうか。肩口を濡らすだけの散歩が好み?」

「悪くはないね、それも」

「嘘ばっかり」

 クリープ現象が、ゆっくりと車を運んだ。

 
 早咲きの桜は、まだ散るようなそぶりを見せていなかった。彼女はぼんやりと窓の外を眺めて、雨に濡れた花弁と黒々とした枝を目で追っているようだった。

「春だね」

 彼女は言った。わたしは曖昧に返事をした。「ああ、うん」

県道はあまり混んでいなかった。わたしたちの住む家から三キロほど離れたブックオフにはすぐ到着し、がら空きの駐車場には苦労もなく車を停めることができた。

「ゆうは来る? それとも待ってる、車で?」

 シートベルトを外しながら、彼女はわたしに尋ねた。べつだんほしい本もなかった。ただ、待っている理由もとくにはなかった。

「いくよ」


 店内に入るなり、彼女はわたしをおいてお目当てのフロアへと向かって行った。本の趣味は違うのだから、追ってもあまり意味はなかった。服に付いた水滴を払って、中古のCDコーナーへと向かった。家にはプレイヤーなどなかったけれど。

 
 時間がかかる買い物ではないだろうと思っていたけれど、彼女がわたしに声を掛けてきたのは数十分後の事だった。ちょっとした手提げほどの大きさのレジ袋は、直方体に膨らんでいた。

「随分買ったね」

「何度も来るのは面倒だし」

「どうせいくらかは積むんでしょ」

「いつでも参照する権利を得るんだよ。本を買うっていうのはそういうことだから」

 わたしは、彼女の部屋の中の百を超える“権利”とやらを思った。

 雨は、まだ降り止んでいなかった。わたしは店の外に置かれている傘立てを見遣って、首を傾げた。わたしたちの傘が消えていた。

「盗まれたんだ」

 彼女がつぶやいた。盗まれたといっても所詮はビニール傘のことで、大した被害とも言えなかった。

 傘立てには、他に何本ものビニール傘がささっていた。わたしの手は自然と、そのうちの一本に伸びかけた。しかし、不意に疑問が頭をよぎった。誰がわたしたちの傘を盗ったのだろうか。

 雨が降り始めたのは、十時を少し過ぎた頃のことだった。今から五時間も前の事だ。そんな時間、店の中にとどまっている者もいないだろうし、あるいは、傘もささず外をほっつき歩いている者もないだろう。だから、不意に降り始めた雨に、しかたなくわたしたちの傘を盗ったというわけではない。しかし、ならば盗人は、この店に来る段階では傘を持っていたはずなのだ。だから、盗人は何らかの理由で傘が使えなくなったために、わたしたちの傘を盗ったということだろう。その理由とは何か。

簡単だ、彼、ないし彼女もまた、傘を盗まれたのだ。

 わたしは五時間前の事を思った。この店の開店時間は、十時からだ。雨が降り始めたのはその少し後の事だったし、その雨は予報外のものだった。きっと、開店と共に店にやってきたとある客は数十分かけて古本を買い込んだのだろう。そしてその客は、もしかしたらレジ袋を買わなかったのかもしれない。予報外の雨に本が濡れるのは、好ましくない。その人物の手は、傘立てに伸びたのだろう。そうして傘を盗まれた者は、別の傘を盗んだ。そうして傘を盗まれた者もまた……。

 そして、その連鎖の先に、わたしたちがいるのだ。

 わたしは傘立てから手を引っ込めた。隣に立つ彼女は困ったような顔をしていた。

「本、濡れちゃうかも……」

「レジ袋に入れてあれば、大丈夫だよ」

「でも……」

「ならわたしのカバンに入れよう。防水性だし」

「風邪ひくよ」

「すぐ車だよ」

「だけど」

「いいんだよ」わたしは言った。「これでいいんだ」

 帰り道、小さくくしゃみをした彼女は、恨めしそうな顔で「だれが盗ったんだろう」と考え込んでいた。どうでもいいでしょう。わたしはおざなりにそう言ったけれど、彼女は納得しないようだった。

「さっきさ、あたしたちが店に付いたとき」彼女は言った。「駐車場に、長野ナンバーの車があったんだ。きっと雨が降る以前から走ってたんだと思う、今日。それで、なんとなくブックオフに寄って、思いがけず一杯本を買ったんじゃないかな。車から店に向かうときには、短い距離だったからそんなに気にしなかったけど、本を抱えると都合が違ったんだ。だからあたしたちの傘を盗ったんじゃない?」

 彼女は、また小さくくしゃみをした。

 わたしは彼女の説に、否定も肯定もしなかった。

 桜の花弁が一枚、雨に打たれながら宙を舞っていた。

◆◇◆◇

 新幹線に乗ってしまえば、地元までは35分で行けるはずでした。だけどわたしはなにか血迷って、普通列車で紀伊半島をぐるりと回って帰る道を選んだのです。これを書いているのは三月十七日。まあ、十七日でも解釈次第では三月上旬でしょう。ほら、二桁目を四捨五入すれば。

 京都から名古屋まで、十五時間ほどかけて帰っています。それだけ時間があれば小説の一冊くらいかんたんに読めてしまうというもので、わたしはさきほどロス・マクドナルドを一冊読了しました。ロスマクはハードボイルド派の重鎮ですが、わりあい本の入手難易度が高くて悩ましい所。本屋なんかに行くとたいていチャンドラーは揃っているのですが、ロスマクは見かけませんね。古本まつりでポケミスを漁れ!

 ハードボイルドなんかを読むと、どうしても文章に影響をうけてしまうなあと思うのですが(まあ上記のやつもそんなとこ……ほんまか?)、ただかっこつけてる感じになるだけです。べつに自分の書くものの主人公は孤独でもないし、抑圧されてもいないし、タフでなければならない理由もありません。強くなくても生きていけているし、優しくなくても許されています。それはおそらく他の小説に影響を受ける時もおんなじで、西尾維新の語り部じみた言い訳と戯言を紡がなければいけない人物を書いているわけでもないのにだらだら述懐させてしまうし、矢部崇をまねて無駄に文章だけ気持ち悪くしてしまう。東川篤哉をまねたユーモアは空回りして、『氷』の技巧に失敗する。べつに模倣は悪い事ではぜんぜんないけれど、どうしてそうした文章を書くのかを、もっと考えた方がいいんだろうなと思う今日この頃です。というか、そうして文章を模倣していく中で自分の書くものと文章のスタイルが一致していくんだと思いますけどね、普通。そうでもないかも。すくなくともわたしはそうで、そしてほかにもそうしたひとはいるんだろうなとおもうところで、まあ何が言いたいってとにかく書け! ってとこですよね。読め、書け! ○○って作家の小説を読んで文章に悪い影響を受けた。いいじゃないですか、その悪癖を飼いならして血肉にしましょう。戯言だけどね。

 そういえば新入生の皆さん、合格おめでとうございます! 新生活が始まって人間関係の構築に悩むところかもしれませんが、とりあえずサークル入っとけば趣味の合う友人が見つかるかもです。学部の友達とかはね、学部によってはまあできませんから(例:文学部……わたしだけか?)。

 というわけで当サークル『名称未定』も新入生を随時募集しております。漫画、小説、詩、短歌、イラスト、常人には理解できない論文まで、二次元単色媒体の創作ならなんでもかかってこいのゆるいサークルです。感染症の為今はオンライン(discord)を中心に活動中でして、Twitterやホームページにサーバーリンクがございますので、ご興味のある方はぜひいらしてください(当サークルはインカレサークルではありませんので、ご了承ください)。
 
 ちなみに🉐情報。去年から対面活動を復活中です。新歓を対面で出来るかどうかは未定ですが、普段の活動では対面も一部行っておりますよっと。

 ではではサークルの宣伝を申しましてこのあたりで。担当は有末ゆうでした。またねっ!

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解釈するということ

“Virtual”という単語を耳にする機会が、以前よりも格段に増えてきました。
手垢のついた言説にはなりますが、この”Virtual”という単語の正しい意味をご存じでしょうか?
”Virtual Reality”はしばしば「仮想現実」と訳されますから、「仮想的な」あたりを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。そう思いながら嘗て使っていた英単語帳を捲ってみれば、”Virtual”の項目には第一の訳語として「実質的な」という言葉が登場します。「仮想的な」と「実質的な」というのは、類語、というよりもむしろ対義語のようなもので、この2つの訳語が並んでいる様子には、違和感を覚えずにはいられません。
あるVirtual Reality関連の書籍でもこの問題に触れて、日本語文化内に適切な訳語がないため、苦肉の策で「仮想的な」などと訳している、という旨のことが語られています。
試しにGoogleで検索をかけてみれば、訳語に「バーチャル」と表示され苦笑いするほかありません。

しかし、文化的相違と翻訳の試みが引き起こすこのような問題は何も”Virtual”という単語に限った話ではなく、明治時代には西洋の言葉を翻訳する際に対応する日本語が存在しないため多くの新造語が生まれたというのはご存知の通りです。
翻訳においてこのような相違を埋める手立てには、上で述べたような近似的な訳出、新語の造語の他に、カタカナ語のような借用語を用いるという手段もあるでしょう。
しかし、翻訳を「意味の解釈」の過程の一種だと定義するならば、新語の造語や借用語の使用は問題の形を書き換えただけで、表現の本質的な意味は何ら解釈されていません。
例えば、”individual”を「個人」という新造語で置き換えたところで、「個人」という単語の意味が別のすでに意味の分かっている日本語で説明されなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。同様に、”lens”を「レンズ」と書き換えたところで、その実物を見たり、原理や利用方法を説明されたりしなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。
すなわち、ある単語を解釈するには、意味が分かっている別の単語に置き換えるか、あるいは意味が分かっている別の単語を複数用いて具体的な説明を与えるか、そうでなければ百聞は一見に如かずとばかりに言葉に頼らない説明をするか、のいずれかしかありません。
立場を変えて言い換えれば、言葉を理解するには、別の言葉を用いるか、見るなどの言葉に頼らない体験によって理解するかしかない、ということです。しかし、言葉を理解するために別の言葉を用いるとしても、そのためにはそれに用いる「別の言葉」の方を理解している必要があります。これを理解するにはそのまた別の言葉が必要で、と無限ループになってしまいますから、どこかで必ず言葉に頼らない意味の理解が必要になります。

いわゆる「言語の文化的相違」というもののなかにはここに起因するものも多いことでしょう。言語を使わずに体験などによって理解される概念と、それらの言語的な組み合わせによって理解できる概念しか言葉として用いることができないのですから、住む地域の気候や産業、歴史文化の違いなどによって得られる体験が違えば、言語に存在する概念にも当然違いが生じます。

では、同じ言語を使っている人たちの間では、概念は完全に共有されているのでしょうか?もちろん答えは否です。「雪」といったとき、関西出身の私と、東北地方出身の誰それが想起するそれは全く異なっているでしょうし、「権利」という言葉を聞いたときに思い浮かべる概念的イメージは、工学部の私と法学部の方々とでは随分と異なっていることでしょう。
その中で、ある程度の共通部分を持っているからこそ、私たちは同じ言語を話す者として問題なく意思疎通を行うことができますし、ある程度の差異があるからこそ、嚙み合わない会話に歯痒い思いをすることもあるのです。

そしてこのことは、文章を書く、ということを趣味に活動している私たちのような人間にとっても、非常に重要な意味を持ちます。
現代文の講義を高等学校で受けた方なら誰しも、「この表現の解釈は読者にゆだねられている」という表現を耳にしたことがあるでしょう。ですが、先の議論を踏まえれば明らかなように、文章に登場するほとんどの単語の解釈は読者の過去の体験や経験に大きく依存しているものであって、むしろ、その意味が一意に定まるように、言い換えれば表現から想起される対象のイメージが読者の経験や体験によらず概ね一致するように文章を書く、ということの方が至難の業なのです。
この問題を回避する方法は、私が思いつく限り4つ存在します。
1つ目は、詳細な記述によって解釈の誤差範囲をできる限り小さくする、というものです。単純明快な手法ながら、文章が異常に冗長になってしまうなどいくつかの致命的な課題を抱えています。
2つ目は、解釈の差異を許容することです。たとえば文芸作品では、物語の描く対象に対する表現をある程度抽象化し、具体的な表象については読者に一任する、というものがしばしば存在します。こういった作品は、映画などの他の媒体によって映像化されると、見る人の間で「自分の描いていたイメージと違う」というようなことが起こりがちではありますが、そういった点まで含めてこのような作品の特性ということができるでしょう。
3つ目は、事前に意味の合意がとれた語彙を使用する手法です。論文やレポートのような科学的な文章を書く際にしばしば用いられる方法で、例えば「この分野で『河川』といえば以下の定義を満たすものを指す」というように用語の意味や指し示す対象をあらかじめ定義しておくことで、冗長性を回避しつつ表現の一意性を担保します。
4つ目は、文章の対象集団を一定の作品経験や知識を持つ人々に限定する、という手法です。
サブカルチャーの分野で一時期話題に上っていた「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系」と呼ばれる作品群がわかりやすい例でしょう。これらの作品は、いわゆる「ドラクエ」を連想させる西洋中近世の世界観と「魔法」や「ギルド」といった概念が、それぞれ非常に似通った形で登場します。これらの単語がさす対象の作品間の類似性は、これらを映像化した諸作品を見てみれば明らかです。
「中近世ヨーロッパ」という非常に曖昧な世界観表現と、「魔法」という一見して想起する対象が個人の作品経験によって大きく左右されそうな言葉が、なぜこのようにほとんど同等の概念を指す存在としていくつもの異なる作品に登場するのでしょうか。それはこれら作品の著者と想定される読者集団がみな、「ドラクエ」に代表されるRPGといくつかの著名な中世ファンタジー作品の作品経験を共有しているからにほかありません。
それらの作品経験という前提があってこそ、「魔法」といえばこういうもの、「ギルド」といえばこういうもの、といった表現に対する概念の一意性が、詳細な説明を行わずとも保証されているのです。
作品経験を前提にした表現、というのは何もこれに限った話ではありません。たとえばイギリスではよくシェイクスピアの作品になぞらえた表現が用いられますが、シェイクスピアという劇作の中での表現を用いることで、その作品経験を持つ人にとっては、言葉の指示内容を限定しやすくなる効果があるでしょう。
日本語作品から例を挙げるならば、「水中で逆立ちした格好の遺体」と表現すると、想起されるイメージにはばらつきが出るかもしれませんが、「犬神家の一族のような」という言葉を付け加えるだけで、作品経験を持つ人にとってはイメージが一意に定まる、というようなものです。
作品経験以外の知識を前提とする例としては、料理本などに現れる「少々」などの曖昧な表現がこれにあたるでしょう。私のような料理をしたことがない人間にとってはそれが0.1gなのか10gなのかまるで見当もつきませんが、料理に慣れている人間にとってはその言葉が示す意味内容がある程度共有されているはずです。

では、私たちが文章を書くときに取るべき手法は上の4つのうちどれでしょうか。これは当然一つに定めるべきものではなく、状況によって使い分け、時には組み合わせて使っていくべきものです。しかしどのような手法をとるにしろ、「言葉」に対する概念の一意性というものは案外自明ではないものであって、自分が書いている文章は、そのまま自分の思った通りに解釈されてくれるものではない、というのは肝に銘じておくべきでしょう。

長くなりましたが、このあたりで今回は終わりにさせていただこうと思います。この文章がどのくらい私の思った通りに解釈されるのか、まるで分かったものではありませんが、春休みの暇に任せた書き散らしが、正確に解釈される必要もありませんね。それではまたいつか。

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毎日絵を描いて今日で26日経った

最近のことについて綴ろうと思っていたが、ブログ担当を名乗り出た後にこの上ないネタを自分が持っていたことに気づいた
そう、タイトルにもある毎日絵のことである


元より、私は絵が描きたかった
他人の絵を見ても納得できなかった諦めの悪さに苛まれ続けていた
だから最近覚悟を固めて毎日描くことにした
(と、いってもこれはたまたまテスト準備などがない状態だから出来た話かもしれない
しかし在学中に継続的に絵を描く習慣を身に着けようとしたことは幸運なのだろう)


そもそも、絵を描く、描いたという状態はどこからどこまでを指すのだろうか
絵の完成は本人にしかわからない
未完成状態に見えたとしても、完成したというのならそれは一つの作品として評価されるべきだし、自分もその評価から逃げてはいけない(と私は思う)


SNSは素直なので、甘えた作品はあまり閲覧されない
インターネットは諦めが悪い人にはとことん厳しい
よって、私はまじめにペン入れをすることをやめた
永遠にスクロールして細部までこだわることをやめた
何よりも、久しぶりにペンタブを触るもので、画面の中の筆と自分の感覚が一致する保証すらなかった


だから、tegaki_dtから描き始めた
このサービス、アプリはキャンバスサイズ固定、回転不可、レイヤーなし、消しゴムなし(背景色で消す)、色は二色までしかストックできず、それ以上の色のヒステリー機能はwindowsデフォルトのもの、これもアプリを落とすたびにリセットというとても制限されたツールである
フォトショップはキャンバスの回転がないのでこれは実質フォトショップかもしれない
消しゴムの有無や回転などでMSペイントがまともに見える驚愕のツールであるが、作品はすぐにツイートできるというのがツールの一番の特徴である


最初から毎日投稿を意識していたわけではない
はじめの段階では引き返せたからだ
ただ、自分の手癖、経験値と観察眼、頭の中の理論で自分はどこまで描ける状態なのか
あとは、この情けなさはどこに葬れば良いのか、
そういったことを試したのが毎日投稿の一日目であった

1日目 玲音 serial experiments lain
1日目 玲音 serial experiments lain

絵を描くことは一種の諦めを内包している
それは頭の中で無限に広がるイメージを絞り、紙に落とし込み、どこまでも陳腐化させる作業である
そうしていく中でいやでも気に入らない絵が出来る、もっと頑張れたはず、という絵が出てくる


当然、時間をかけないとSNSで絵は伸びないし注目されない
出来るなら毎日のようにハイクオリティな絵を上げたい
二時間くらいで背景まで描きこんだイラストを仕上げたいと思う
しかし毎日投稿のタイムリミットは厳しい
素人にはそんなことはそうそう無理であることを、宣言した段階で日々味わうことになる


よしんば何日も時間をかけて描いたとしても、描き上げた時点で納得のいくものだったとしても、時間が経つにつれて自分にとって陳腐なものに写るようになる
そうした諦めと失望の先に、自分の望むものがあるのかすら現段階ではわからない
ただ、毎日前の画題よりは、昨日の絵よりは、改善できるところがないかどうか考えながら描くしかない
その先に自分の望んだものがあるはずである
ひいひい言いながら日々そう願っています

5日目 窓付き ゆめにっき
5日目 ゆめにっき 窓付き

7日目 ラピスラズリ 宝石の国
7日目 宝石の国 ラピスラズリ


13日目 パワー チェンソーマン
10日目 パワー チェンソーマン

17日目 七草にちか シャニマス
17日目 七草にちか シャニマス

21日目 花芽すみれ ぶいすぽっ!
21日目 花芽すみれ ぶいすぽっ!

25日目 チルノ 東方Projects
25日目 チルノ 東方Projects

追記:2022/02/20 日付情報の修正と絵の追加

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思い出の味

2月上旬担当の葱です。今回は思い出に残る食べものの話をします。内部誌のネタに困ると、いつも「思い出の味」と称して、食べものの話を書きますが、今回もそうです。

1 鳥のしょうゆあげ
本学食堂ルネのメニューです。このサークルは、コロナ前はルネで夕食を食べながら例会をしていました。そこでいつもこれを食べていました。小鉢以外で一番安いおかずだから食べていたのですが、いつしかはまっていました。薄く広い鶏肉をカラッと揚げたもので、食べるとしょうゆ味がほんのり広がるという、唐揚げとはまた違った味でした。黙食せずに、会員同士とりとめもない話ができていたのが何とも懐かしいです。

2 ミラノ風ドリア
百万遍交差点にあるサイゼリヤのメニューです。院生の先輩と読書会をした後は、必ずそこで夕食をおごってもらっていました。とろけたチーズとご飯の相性がよくて、いつも注文していました。先輩方と夜遅くまで学問の話をしていたのが思い出されます。

3 梅干しと白米
母方の祖父母の家で夕食をいただくと、祖父母はご飯のお代わりをすすめてくれました。炊き立てのご飯と自家製の梅干しは、いつもおいしかったのです。夕食の終わりごろには、祖父はお酒を(徳川家康の金言を書いた湯のみで)飲みながら、しばしば私に教訓めいた話をしていました。祖父の教訓は、今でもご飯の味とともに、ときたまよみがえってきます。

4 菓子パン
GWに実家で田植えがあります。その休憩のときに、親戚の人々とあぜで菓子パンを食べています。特に理由はないのですが、私は普段はほぼ菓子パンを買いません。しかし、晴れた青空の下で、都会の喧騒を離れて、皆と菓子パンを食べていると、ほがらかな気持ちになります。

5 茶の菓
曾祖母が好きなお菓子でした。抹茶味のウエハースでクリームをはさんだものでした。兄が京都から帰ると、いつもこれを買ってきていました。それを見舞いついでに持って行って、曾祖母と一緒に食べていました。デパ地下で見かけると、そのことを思い出します。

以上です。食べ物の記憶は、個人的な思い出と不可分に結びついていますね。飢えてはいませんので、ご安心ください。

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大雪

1月下旬担当の葱です。
「京都の雪景色、なんてきれいなのでせう」と人は言うかもしれません。しかし、住んでいる人間には大変です。ということで、21日金曜日の大雪について書きます。

20日木曜午後から、雨が雪に変わり始めました。窓の外が薄暗くなり、だんだんと雪の粒が見えてきました。みるみるうちに、本格的な雪になりました。17時ごろに帰ろうかと思ったのですが、雪がやまず、待ってもやまないのであきらめて帰りました。折り畳み傘では、胸から下は雪がかかってばかりです。冷たく強い風が吹き、靴の中は雪に濡れて冷え、帰るのも大変です。

21日、起きると、雪が積もっていました。誰かの足跡をたどって、のそのそと歩きます。雪景色を楽しむ暇はありません。普段は自転車が歩道を走っているのが恐ろしいのですが、今日は自転車より滑る方が恐ろしいです。さすがに今日は自転車も少なかったですが。「なぜアスファルトの雪は、土の上の雪より早く溶けるのか」と思いつつ、何とか大学につきました。

室内でも冷気が窓越しにやってきます。雪はいっこうにやみません。ようやく12時半過ぎに雪がやみ、日差しが出ました。困ったのはこの後です。雪がとけて川になって流れていけばいいのですが、とけかけたまま道に散乱しています。うっかり踏むとこれがまた冷たい。また、軒下を通ると雪どけ水を浴びます。雪は結局は雨であることがよくわかります。

18時すぎに帰宅です。雪が解けた分だけ気温も下がったように感じます。さて、帰り道に雪だるまを多数見かけました。周りの雪が解けた中で、ひとり残っている雪だるまに、寂しさを感じていました。それから、幼いころは雪がうれしかったのですが、今となってはただ面倒だとしか思わなくなりました。

帰宅して、暖房をかけ、正月の餅を食べ、「私はこんなにぬくぬくと暮らしていていいのだろうか」とふと思いました。

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旅行の思い出

『シュメッハ』:ウル第三王朝に出現した宇宙人。三年にわたり人類と交流をしたが、その後人類から自分たちについての記録や記憶を全て抹消して立ち去った。

 一月の上旬を過ぎて、そういえば十二月上旬の担当分を書いていなかったなあ、と思い出しました、有末ゆうですごめんなさい。何も書かないというのもよろしくないので、一月以上経ってはいますが担当分を書かせていただきたいと思います。
 とはいっても何を書くべきだろうか、何も案が浮かばなかったのでキーワードを探すべくぶっとい辞書をぺらぺらめくっていたのですが、そんな折に見つけたのが冒頭の単語でした。シュメッハ。語源にはシュメールがあるのでしょうか、そんなことを思いながら説明文を読んで、わたしはちと首を傾げました。シュメッハと呼ばれる宇宙人たちは地球から自らの記録や記憶を全て消し去ったのに、どうして辞書にその名が残っているのだろう。
 もしかするとなにか、フィクションの中の単語かもしれません、私は検索サイトで『シュメッハ』と調べてみました。ミハエル・シューマッハ。ヒットするのは高名なレーシングドライバーの名前ばっかり。
 いくつか他の辞書をあたってみると、シュメッハという単語が載っているのは私が最初に調べた辞書だけでした。あまりポピュラーなことばではないようです。
 出版社に電話してみると、手元の辞書にはその言葉は掲載されていないですね、と返された。
「じゃあ私のこれは一体なんなんですか?」
『んー、ああ、そうだ、それ何版ですか?』
「初版ですけれども、1956年発行」
『あー、はいはい、ちょっと待ってくださいね』がさごそ。『ありました、ありました。えーっと、うん、初版だけに掲載されてますね、それ』
「他にはない?」
『ええ、そのようですね』
「でも、減るものなんですか、収録されてることばって」
『場合によりけりですけども……あ、上善さん!』
 出版社の人は誰かを呼びかけました。
『編集長です、この辞書の、初代の』上善如水、という人物がこの辞書を編んだそうです。『これについてなんですけれど……』
『ああ』しゃがれた声でした。『うん? おかしいな、こんな単語を載せた覚えはなかったんだが……それに第二版で消した記憶もないが……』
 誰かの悪戯かもしれん。上善さんは困惑したような声でそう締めくくった。
 悪戯だろうか。そうではない気がしました。このことばは実在する。漠然とした確信、その時、私は誰かに呼ばれた気がしました。誰に?ーーあるいは、ことばに。
 教授なら何か知っているかもしれない。私の師匠はメソポタミア研究の第一人者なのですが、彼女ならわかるかもしれないと思って連絡をとってみると、今は中東で単身フィールドワークをしていて、連絡はうまくとれないと助手の方に言われてしまいまいした。大分長期にわたる調査のようで、ブログを早々に書いてしまいたい私にとって、到底待てるような時間ではありません。私は彼女に直接会うべく、中東へと飛びました。
 私の勝手なイメージとして、この地域は年がら年中剣呑な雰囲気が漂っていると思っていたのですが、あにはからんや随分とのんびりした場所で、聞き込みをするにしても親切な人が多かったです。日本人の目撃証言はすぐに集まりまして、教授の居場所は三日で割れました。私はヒッチハイクでその地へ向かい(3回ほど騙されかけて危ない目に遭いました)、フィールドワーク中の教授に出会いました。
「シュメッハについて何かご存知ですか?」
 私がそう聞くと、彼女は顔をこわばらせました。
「どうしてそのことばを知っている?」
「辞書に、あって」
「どの辞書?」
 私が例の辞書の名前を出すと、教授はゆるゆるとかぶりを振りました。
「悪戯よ。……タチの悪い、悪戯」
「先生、あなたは何か知っているのですね」
「何も知らないわ、知るはずがない。そんなことば」
「それは嘘でしょう」
 その時、私の携帯電話がこの地に来てから初めて震えました。国際電話のようです。番号は知らないもの。
「もしもし」
『有末さん?』
「ええ、そうですけれど。あなたは?」
『セシマシルカと申します』
 瀬島標華、という文字だと説明されました。
「どなたですか?」
『例の辞書を編んだ一人ですよ。もうあの会社はやめているんですけれども。編集長から連絡がありましてね、久しく』
「なにかご存知なんですか、あの単語について?」
『あれを掲載したのは私です』
 頭の中で冷たい電流がはしりました。
「本当に⁉︎」
『嘘なんてつきません』
「一体なんなのですか、あの単語って?」
『書かれている以上のことはありませんよ』
「でもおかしいでしょう、あれが辞書に載っていること自体、そして瀬島さん、あなたがあのことばを知っていること自体」
 そのときでした。隣に立っていた教授がかっと目を見開いて叫びました。「セシマ⁉︎」
「え、あ、ちょっと、先生!」
 教授は私からスマホをもぎ取ると、マイクに向かって怒鳴りつけるような声をあげます。「シルカ、シルカなの?」
『あらら、久しぶりな声ですね、洋子』
 瀬島さんの楽しそうな声が聞こえる。
「シルカ、あんた一体いまどこにいるのよ」
『さあね。どこにいるんだろうね、私って』
「信号の音、救急車のサイレン、そこは日本よ。雑踏ね、ざわめきが聞こえる。近くで広告が流れているーーTVCMね、それが流れるのは名古屋だけ、そう考えるとわかってくるーー今、あなたの周りで車がカーブを描くように走行している音がする、ロータリー交差点でしょう、そう、あなたは名古屋駅前にいる」
『そう思うならば、そう思えばいい』
 その瞬間、風を切る音が聞こえました。波が砕ける音も。
「海……?」
 私は呟きました。と、次の瞬間には巨大なエンジンの唸り声が響く、飛行機が飛び立っていく音。かと思えば明らかに日本ではない雑踏の音がする、ニーハオ、という声が聞こえる、次の瞬間には大河の流水の音、どこかで祈りの声が聞こえる、スパイスの香りを幻視するーー気がつけばまた違う場所の人混みの中、私の知らない場所ーーいいや。
 私は知っている、このざわめきを。土埃をあげるバイク、露天の主人が張り上げる声、はしゃぎ回る子供たちの黄色い声、どこかで銃声が聞こえているーーあの街だ。つい数時間前までいた、あの街。
「どこにいるの、シルカ!」
 雑踏の音が消え去った。残るは荒涼とした大地に吹き荒ぶ風の音と、教授の悲痛な叫び声だけ。なんで私は教授の持っている電話から出る音が聞こえていたんでしょうか。
 気がつけば電話は切れていたようです。
 それでも、瀬島標華の声は聞こえたんです。
『ここよ。そしてあの場所へ』
 風の音が変わりました。そして、耳の奥で薄いガラスのようなものが割れた、そう幻覚しました。その途端に世界はクリアーになって、私は、息を深く吐きました。知らず、緊張していたようです。
 教授は、私のスマートフォンを持った手をだらんと下げて、奥歯を噛み締めながら震えていました。
「ジッグラトへ」
 教授は掠れた声で言いました。
「ジッグラトへ行きなさい。そこでシルカが待っているから」
 私は尋ねます。
「ジッグラトって、ここからどれくらいですか?」
「車で二日ほどよ」
「あー、ちょっときびしいですね、それは」
 教授は眉を顰めました。
「どうして?」
「三日後テストなんで。それまでに日本に帰らなきゃ」
 教授は目をまんまるに見開きました。そして、けらけらと笑い出しました。
「ああ、それはいい意趣返しだ!」

 日本に戻る飛行機の窓から、遠く西の方、大地と空を繋ぐように、一筋の真っ赤な光が伸びているのを目の当たりにしました。私だけのようでした、それが見えているのは。
「フィッシュ、オア、チキン」
 平和そうな顔をした乗務員さんが機内食を運んできてくれました。私がフィッシュと答えますと、二十センチくらいの大きさの焼き魚がでん、とお皿に乗せられました。
 そのときでした、西の空に伸びる光の筋がぐいと曲がり、秒速三十万キロの速さで私の目の前の魚に命中しました。
 魚の目が、ぎょろりとうごきました。
 そして小さな口をぱくぱく動かし、シルカの声が叫ぶのです。
『ジーザス!』
 私は微笑みました。私も叫ぶのです。
「南無三!」
 魚ははじけて飛び散りました。隣に座っていた男の人がびっくりしたような顔をしていました。

 
 不思議な物事は意外と身近に落ちてるものです。みなさんも一度自分のまわりをぐるりと見渡してみてはいかがでしょうか。それでは。有末ゆうでした。

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一年間よろしくお願いします!

 どうもこんにちは。この度会長に就任しました、ナカジマです。
 まあ、会長になったと申しましても、能力が認められたわけでも、実績があるわけでもない名ばかり役職で、背後に一人や二人じゃない数の黒幕の気配を感じる毎日でございます。財布のひもを握る会計や、ノウハウを知る前会長、原稿を取り立てるとの名目で先輩をいじめる編集達etc……。頭が上がらないのは変わりません。ですから、もしこのサークルを乗っ取ろうと画策している人がいらっしゃいましても、私なんぞは放っておいて黒幕から狙うのがいいでしょうと、この場を借りて広く告知をしておきます。私を殺しても首がすげ変わるだけでして、何の意味もないのですから、どうか「附属図書館の屋上から西部課外活動棟を狙撃する」、「ルネのケバブプレートにあらかじめ猛毒を仕込んでおく」というような無意味なことをなさいませんよう。 因みに私が西部課外活動棟に現れるのは火曜日の午後7時ごろ、ルネには平日12時5分くらいに姿を見せると一応付け加えておきます。
 さて、卑屈なことばかり呟いていると本当に見放されそうなので、張り切って会長職を全うしてやろうという所存ですとは言っておきます。もとからいまいちコンセプトの定まらないこのサークルは、コロナ禍の影響もあってかいろんなところで青息吐息、これをなんとかできるところまで持っていくのが今期の課題となるでしょう。力不足も甚だしいので、どうか皆さんお力添えのほどよろしくお願いいたします。
 文章は人を表すとはよく言ったもので(誰か言っててほしい)、上記のように私は文章も人格もネトネトしていて、しまりに欠けると言えるでしょう。それでも精一杯やれることをやっていくので、どうかお付きあいくだされば。

 今回はこんなもんですね。ありがとうございました~。
 
 

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日常と非日常

こんにちは。名称未定会長のいとらです。

と、この名乗りも今日で最後となるわけです。明日からは次期会長が会長になります(トートロジー)。これからも私は会長と名乗ることはできますが、名称未定の歴史もそれなりに長いので、同じ称号を持つ人は大勢いますからね。この世界で唯一無二の存在たる「名称未定会長」と比べると、称号としての箔は弱まっている気がします。

ともかく、今日は大晦日、一年の締めくくりとなる日なわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は久しぶりに実家に帰り、餅つきだとか、おせちの準備だとか、結構年末らしいことをしております。一人暮らしだと季節感もなくなってしまいますからね、今日は○○の日だからあれやってこれやって、というのは割と新鮮な感じです。
しかし、昔は年の終わりと聞くとそれだけでテンションが上がっていたものですが、今はそんな感慨は全然わかなくなってしまいました。今日で今年が終わるからといって、世界の何が変わるというわけでもありませんし、年越しという事象にいまいち蓋然性を抱けないんですよね。何となれば年の境を夏にしたって問題ないはずですし、どの暦を使うかでいつが年明けかは変わってきます。なんなら、日本時刻での年明けとアメリカ時刻の年明けとで半日以上ずれているわけなので、年が変わる瞬間なるものも、他の任意の時刻と同等の価値しか持ちえないのではないか、なんて思ってしまいます。
まあ、あれこれ理由をつけてみましたけど、要するに特別な日に対する特別感を感じなくなったという話です。これは大晦日に限らず、他の祝日や年中行事全般に言えることなんですが、例えば年越しそばを食べることに関して、わざわざ年越しのときに食べなくてもいいじゃないか、そばくらい好きな時に食わせろ、とそんなことを思います。だから誕生日にケーキを食べようとは思わないですし、ハロウィンに仮装したいとはなりませんし、クリスマスにリア充を爆破したりはしません。そんなの、好きなときにすればいい話ですからね。リア爆しろ!
……冗談はさておき、実際のところ、普段できないことをするきっかけとして必要だというのもわかるんです。特別な日の特別感を味わうのもそれはそれで楽しいでしょうし。結局、私がそういう童心を忘れてしまったというだけの話です。

ところで、今年も色々なことがありましたね。甲子園とか、コミケとか、去年できなかったことが今年こそはと開催されました。京大ではなんとNFが今年二回も開催され(!?)、対面授業も段階的に再開されていきました。名称未定でも、制限付きですが対面での活動を行うようになりました。
しかし同時に、コロナの状況に振り回された一年でもありました。前々から企画していたイベントを中止せざるを得なくなることもあったでしょうし、大学は対面授業とオンライン授業を頻繁に切り換えたので、それに順応できずにいた人もいたかもしれません(私ですが)。

思えば現代人は文明の力によって、同じような日々を繰り返す環境を作り上げてきました。それは安定して豊かなものですが、同時に退屈なものだったりもします。その「日常」の中にあって、毎年味わえる些細な非日常というのは、なるほどうまくできたシステムなのかもしれません。同じ非日常でも、予測のできないものに振り回されるよりかは、毎年同じように祝える日があった方が楽しい気がします。ええ、リアルはフィクションより嫌なことが多いですからね。最近、そんなことを思います。

今年も、家族で大晦日を過ごせて幸せです。

そんなわけで、最近考えていた日常と非日常についてでした。みなさんは、年の瀬にはどんなことを思いますか?

そういえば、良いお年を、という表現は大晦日には使わないらしいですね。なんでも、「良いお年を」というのは今年やるべきことを終わらせて、良い新年を迎えてください、という意味なのですが、大晦日にはやるべきことは終えているはずだから、と言うような理由らしいです。まあ、私は今こうして今年中にやるべきものを書いてるんですけどね。あはは。

ただまあ、せっかくの大晦日にそんな細かいことを気にするのも馬鹿らしいので、ここはこの挨拶で締めると致しましょう。

よいお年を!

Edit 19:15 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日記

 12月中旬担当の西桜です。いまは12月中旬ですね。(白目)

 12月中旬と言えば何がありますか、そうサンタの日です。子供たちがクリスマスプレゼントを望み、男女の仲が深くなり、僕は涙を流す日です。実際僕が家に帰るときの駅の様子は僕にはつらいものでした。しかしみんなが暗い顔して歩いているよりかは健康的なのかなとも思います。

 書くこともないので少し日記でも書いてみようかなと思います。さて、僕は大学からの帰りにバスを使っています。そのバスには始点から30分ほど乗っていて、いつも席に座れるように少し早めに列に並ぶようにしています。というのもタブレットで勉強したり、ハードカバーの本を読んだりするには座ってやりたいからです。先日もいつものように一人で孤独を感じながら極寒の中バスを待っていました。ちょうど帰宅時間と重なっていたため、僕の後ろには30人ほど並んでいました。僕は前から8人目だったので、確実に座れるなあと心の中でガッツポーズをしていました。そのうちにバスはやってきて、バスの後ろの座席に座りました。今日は横に人が来るなあ、大きい人が来ると窮屈になるなあと思って発車を待っていると、不思議なことに横には誰も座りませんでした。最初は他の人の横に座っていったのでまあまあとみていましたが、残り空いている席が僕の横だけになってもまるでその空席が見えていないように立っていきました。確かに横が熱力学の本開いている人間は嫌だと思いますが、それにしても不自然でした。そしてバスは発車し、最初はかなり満杯だった車内も僕が下りる駅の一つ前にはもう4,5人が乗っている限りでした。まもなくバスは僕の降りるバス停に着きました。本を鞄にしまい席を立つと、同時にスーツ姿のサラリーマンも後ろで立ち上がりました。仕事大変だなあと思いながらバスを降り、家に向かって早歩きし始めました。寒空の雲に半隠れした月ほど美しいものはないなあとぼんやり考えていると、突然後ろから慌てたように肩を叩かれました。振り向くとさっきのサラリーマンが立っていました。
「おい、君!さっきバスで君の横に座っていた女の子が、下りた瞬間別の方向に歩いていったぞ!君の連れじゃないのか?」

追記
これを書いていた時、耳が一瞬キーンとなりました。なんでしょうね。

Edit 23:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:会長
中旬:暮四
下旬:氷崎 です。

 

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