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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2019-06

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創作意欲の話

初めまして、たぶん6月中旬の担当だと思う1回生の春雨つくしです。絵を描くほうの人間で、高校時代は漫研に入ってはいましたが、漫画より1枚絵のほうが得意なタイプです。よろしくお願いします。

私は中高と一応絵を描く部活に入ってきて、またここで創作サークルに入ったわけなのですが、4月頭に愕然としたことがあります。

絵を描きたいという気持ちが薄い。それどころか漫画や小説を読む気力すら湧いてこない。ゲームのシナリオを開いても、途中で何故かしんどくなってしまいスキップを押してしまう有様です。
どういうことだ。

単にブランクを挟んだためのスランプなのか、受験疲れからコンテンツを消費する体力が落ちてしまったのか。しばらくすれば回復するかな?と思っていたのに、五月末になっても解消されない。半ば焦りつつも、高校時代の漫画をリメイクして提出しようとネームを切りつつ絵を描く努力をしていたのですが、あることをきっかけに突然創作意欲が復活しました。
そのきっかけとは何か。

新しい推しが出来たことです。

先日、コナンガチ勢の友人と連れ立ってコナンの映画を見に行きました。私はコナンをあまり良く知らなかったのですが、それでもとても面白かったです。事前情報で、このキャラ私の好きそうなタイプのキャラだなあ、と思っていたキャラにものの見事にはまりました。京極真はいいぞ。

友人から単行本を借りて読み、長文感想を送りつけ、同じ熱量で返してくれる友人に感謝し。気づけばソシャゲのストーリーも読めるようになり、そして不思議と、二次創作のみならず一次創作への意欲も湧いてきたのです。構図が思い浮かんだ時、「早く描きたい!」という気持ちが生まれたことがただ嬉しかった。創作者としてまだ死んでいなかったことに安心したのです。

ここまで創作意欲が劇的に回復したのは、映画という完成度の高い濃密な作品で、なおかつ自分にとって新鮮なものを摂取したからでしょうか。なんであれ、良い刺激になったことは間違いありません。自分はこれまで、あまりたくさんの作品に触れてきた方ではないので、もっと色々なものを読んでみたい。そう思います。

そんなこんなで私は今もなれないペンタブと悪戦苦闘しつつ元気に漫画をかいています。間に合うかはその……。し、締切延びないかな……。

Edit 17:05 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

やりたいこと

はじめまして、新入部員の日葵です。前回の部誌で盛大に誤字ってた人です。見なかったことにしてほしいです……

大学生になって新しく始めてみたいことがたくさんありましたが、大学って意外と忙しいですね……まだ生活リズムがつかめてないです。とはいっても!受験の時よりは暇なのでちょっとずつ手を付けたいです。

まず漫画です。脳内でストーリーを作っても出力できなければその物語は存在しないも同然です。一枚絵しか描いたことない私にとって漫画を描くのはめちゃくちゃハードルが高いので、このサークルの締め切りをうまく活用して頑張っていきたいです。

そして動画!作ってみたいけどソフト入れるのめんどくさ…と思いまだ何も手を付けていません。今年の夏に簡単なものを1本くらい作りたいです。

あとモデリングです。1年ほど放置しているモデリングソフトをそろそろ使いこなせるようになりたいです。

でも本当にやりたいことは読書です。物語を描くというのは世の中の何よりも知識を必要とします。私はほとんど本を読まない人間なのでもう少し活字と仲良くなりたいと思います。最近は漫画を読むことさえ面倒くさいですが…。

やりたいことが色々ありすぎて毎日ワクワクしながら生きています。最近は今日帰ったらこれ描いてー明日は色塗ってーとか考えてたら授業が終わっています。レポートと締め切りと画力と闘いながら楽しく絵を描いていきたいです。

Edit 12:00 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

気になっている言葉③

5月下旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。
➀ 号泣
 号とは本来声を上げて泣くことであるのに(2014年の市議会議員の号泣会見はまさに号泣です)、最近は号泣を大泣きするという意味で用い、声を上げていない場合にも用いているのが目立ちます。

②~すぎる
 本来状態や程度が通常の基準を超えて困るという困惑のニュアンスを含んでいたはずなのに、最近は「とても~」の代用に用いられているのが目立ちます。(例えば可愛すぎる○○、けなげすぎる○○)

③ ○○人に一人の美少女
 大変な美人をさすときに用いる表現です。最近は○○に入る年数が、1000年や20000年のように長くなってきました。私が幼いころは、10年に1度ということはあっても、ここまで強調して言うことはなかったのですが。

④ メンツ
 「体面、体裁」の意味であったのに、「メン」の共通性から「メンバー」の意味が付加されました。誤用ではないのでしょうか。

⑤コーデ
「コーディネート」の略で、「ヒルナ〇デス」などでしばしば用いられています。略するならば、「コーディ」というべきではないでしょうか。

⑥wifi難民
wifiがなくて困っている人々のことをさします。しかし、難民は本来もっと重いものです。故郷を追われ、住むところもなく、排外主義
におびえながら、各地を転々とし、どこからも受け入れてもらえない人々です。我々のように、難民多発地帯の中東からの石油で安穏と暮らしている人間が、ちょっと携帯電話がつながりにくいくらいで難民を僭称するのは、本当の難民に失礼です。世界が日本とアメリカとEUだけだと勘違いし、くだらないものを買って難民支援の寄付もせず、「世界史」とか「グローバル」とか言いながらアフリカや中東には何の関心もない我々は、もっと自分を恥じた方がいいでしょう。

⑦平成30年を振り返る
元号で区分するよりも、分野ごとに個別の指標を設けて時代区分を行った方が、理解しやすいと思います。例えば、音楽史で言えば、CD中心からネット配信、さらには2012年頃のスマートフオンの普及などで区分をした方が、なぜその曲が流行し、なぜそのCDが売れたのかがよくわかるようになります。また、経済で言えば、平成元年で区切るよりも、バブル崩壊、リーマンショックなどで区切ったほうが、よりわかりやすく景気動向が説明できます。元号に対する思い入れも世間には根強いですが、テレビ番組ではもっと別の区分を用いた説明も必要だと思います。

⑧元号は日本にしかない
日本にしかないもので、あってもうれしくないものも、あっても何も感じない者もあるのに、なぜ元号があるとうれしいのでしょうか。これをうれしそうに言う人を何人もテレビで見ましたが、そのあたりの論理的、説得的主張をしている人はいませんでした。別に年号不要論に立つわけではありませんが、元号がない国の人たちにそのあたりの感情をうまく説明できるようになりたいものです。

⑨自由の学風
「○○大学の卒業式でのコスプレは、自由の学風がエスカレートした結果」という誤報を見かけました。儀式の場でちゃんとした格好ができないのを恥ずかしく思う保護者も少なくありませんから、コスプレを学風の影響とするのは不適切です。また、少なくとも自由は奇行という意味ではありません。そもそも「自由の学風」という○○大学が掲げるスローガンは、実際の意味内容が誰にもわからず、抽象的で人によって意味するものが変わりますから、混乱を招かないためにも使うべきではありません。「自由の学風」という謎のお題目を掲げるよりも、学生がルールやマナーをしっかり守り勉学に励めば、自然とよくなるのではないでしょうか。

こんなにいちいち細かい言葉にかみつく私は大丈夫でしょうか。病んではいないのでご安心ください。

Edit 21:24 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

足もとにちょうちょ


みなさん、こんにちは。
5月中旬担当の光彩です。

新年度になりまして、名称未定にも新入会員が加わりました。私も、2回生として、もっとしっかりしていかなければならないな、と思う日々であります。
そんななか、私は新たな技能を身につけました。ちょうちょ結びができるようになったのです。
大学2回生にもなるまでできなかったのか、とみなさんお思いになるでしょうね。厳密に申しますと、何回結んでも縦結びになってしまい、きれいなちょうちょにはならなかったのです。どうすれば縦結びにならないのか、正しい結び方を知らなかったのです。手先の器用さの問題ではなかったと思っています。
それが、試行錯誤を経て、きれいなちょうちょになる結び方を見つけました。たったこれだけで、私は少し幸せな気分になりました。
これまで、デザインは気に入っていたのですが、きれいに結べないのが嫌で敬遠していたひも靴を、意気揚々と履けるようになったのです。今では、少し軽やかになった私の足もとで、ちょうちょがふわふわと揺れています。足もとを見るたびに嬉しくなります。

どんなささいなことでも、できるようになれば嬉しいものです。ちょうちょ結びがきれいにできるようになっただけでも、気分は上がるものなのです。こんな、小さな幸せが、どうかみなさんのもとにも訪れますよう。

それでは、新緑の季節、どうぞさわやかな気持ちでお過ごしください。お読みいただきありがとうございました。


Edit 10:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

創作者たち

 皆様こんにちは。創作サークル「名称未定」で、本年の会長を務めさせていただいております入ヶ岳と申します。STARTという名前で絵を描くこともあります。
 今回は4月上旬の記事ということで、例えば新入生の方々へ向けて勧誘の言葉など述べてみるのも良いかと思うのですが、私はもう少し回りくどく、「創作活動の仲間」という主題で少々文字を書き連ねさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 世間では、多くの方が創作活動を趣味や仕事とされています。ここ京都大学でもそれは例外ではなく、キャンパスを歩く人々の中にも、きっと創作活動が好きな方がいらっしゃるはずです。
 しかし、ただ歩いているだけでは、同好の士にめぐりあうことは出来ません。創作活動の仲間を見つけるためには、何かサークルなどに入ってみたり、例えば創作サークル、そうです皆様、名称未定、創作サークル「名称未定」を、どうぞよろしくお願いいたしま――

 この勧誘の、どこが回りくどいのでしょう。短絡的でいけませんね。まずもって、何故創作活動の仲間を見つけなければならないのか、その理由が示されていないではありませんか。
 正直に申し上げまして、名称未定で行っているような「紙面に印刷できる創作活動」というのは、概ね一人でも可能な分野だと思われます。小説、イラスト、漫画、詩、俳句、短歌、評論、などなど。もちろん合作という楽しみが存在しますし、事実名称未定ではそのような活動も行っています。しかし私は、創作者の集まる意味は別にあると思っているのです。
 まず、これは名称未定というサークルに限った話ですが、締切があります。これは重要です。特に、私のように尻に火がつかない限り徹底的に動かないような人間にとっては。周りの会員が作品を投稿していく環境に身を置くことで、ようやく重い腰を上げるのです。
 次に、作品の意見交換が出来るという点があります。一人で作品を作った時、それが鑑賞者にどう受け取られるのか、あるいは、何か自分に見えない悪い点が存在しないかと、心配になりませんか。私はなります。私はなるのです! 故に、作品を読んでもらって感想を言って、私も自分が何を表現したかったか述べて、時に全く予想していなかった切り口から改善点が見つかったりするのが、とても嬉しい。創作活動において一番恐ろしい瞬間は「作りたいものが無くなった」と感じた時で、二番目は「これ以上良くならないのではないか」と感じた時であると、私は思っています。自分が何を作りたいか知っているのは自分だけですが、創作者は絶対鑑賞者にはなれませんから、人に見てもらうというのは非常に重要なことではないでしょうか。(ちなみに、見せる相手は基本的に創作者か、一定以上に熟達した鑑賞者が良いと思われます。小説を読まない友人に私の書いた小説を読ませたところで……何だそれは、双方への拷問か?)
 これまで創作活動をしてきたけれど、大学で創作活動をする同士が欲しいという方。これから創作活動をしたくて、一緒に歩いていく仲間がいればと思う方。創作活動に興味を持っているのでしたら、創作サークル「名称未定」はきっと良い活動場所になることかと思います。兼サークルも問題ないです、私は3つ兼ねています。どなたも是非、新歓を覗いてみてください。水曜18時15分からカフェテリアルネ2階にて、5月以降も毎週そこで活動していますのでいつでもどうぞ。

 というわけで改めまして、そうです、皆様名称未定を、創作サークル「名称未定」をどうぞよろしくお願いいたします。おはようございます、大きな声と変なサークル名で失礼いたします、創作サークル「名称未定」でござい――

Edit 11:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ルネにおいでませ

こちらはつぼみ、見ごろが近い、もう満開、咲き始め。府内各所から届く開花情報を、日々眺めながら過ごしております。こんにちは。ブログ3月下旬担当のひがんばなです。桜の季節、到来ですね。日ごろ風流さとは縁遠い生活を送っている私ですが、この時ばかりは、ほころび始めたつぼみに目を細めたりします。今年こそはお花見に行こう、なんて思ったり。

そして。さくら咲いた皆様、合格おめでとうございます。受験生活が終わった解放感、新たな出会いへの期待感、環境の変化への緊張感、そんな色々が入り混じっている今でしょうか。私も一年前の自分を思い出し、時間の流れを感じています。その速度に慄きます。私、もう、二回生・・・?怖いですね。このままいくと、四年は音速で過ぎそうです。社会に放りだされる前に、字書きとしても絵描きとしても、もっと成長を遂げたいところです。と、紹介が遅れましたが、私ひがんばなは主に字書き、そして時々絵描き(その際はまんじゅしゃげを名乗る)の二刀流として活動しています。活動しています、と言っても周囲の未定会員の皆さんから見れば、かなりゆるフワではあるのですが。特に最近は創作の「そ」の字もないような有様だったので、さすがにまずいと一念発起し、新歓冊子には下手な絵を一枚提出しました。私の好きな宇多田ヒカルさんの歌を聞いていてイメージしたものです。(あのクオリティーではむしろ冒涜・・・?いや、そんなことは)本当はひがんばなとしても作品を出すつもりだったのですが、あえなく挫折しました。流れ星を題材にした、あの詩のような何かはお蔵入りの可能性が高いですね。無念。

だらだらクリエイターのひがんばなはこんな調子ですが、つい最近まで受験生だった皆さんは、さぞ創作欲が溜まっていることと思います。「ああ勉強しなきゃい・・・・でも書き/描きたい・・・ちょっとだけ休憩がてらやろうかな・・・あれこんなに時間たってた・・・やばい眠い・・・明日の朝勉強しよう・・・」(出典元・高3時代のひがんばな)その熱量を、当サークル名称未定で吐き出してもらえればと思います。教養あふれる文章を書く人、めちゃ可愛い絵を描く人、など、よい刺激をくれる人が未定には沢山います。2カ月に一回の内部紙は創作のいいペースメーカーになりますし、ルネでだべるのも楽しい時間です。もし興味がおありでしたら、水曜日の18時以降、カフェテリアルネにお越しください。新歓を行っています。ご飯奢りますので是非。一緒にルネパフェしましょう。

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わたしのかきたかったもの

 どうも,M2なので追い出されつつあるしっちーです.6年間の,長かった私の学生生活がもうすぐ終わろうとしていますが,その数々の思い出が走馬灯のようにフラッシュバックするばかりです.
 思い返せば,学部1回生の頃の私はほとんど素人に近い画力しか持っていませんでした.絵を描くとしても,たまに絵の技法書を開いてはちょっとだけ模写などをする程度.もちろん小説など書けるわけもありませんでした(あの頃から「小説を書きたいなあ,でも一体どうやったらストーリーなんか作れるのか」と悩んではいたのですが).アニメなどを見ることすらなかったので,創作的な教養も皆無と言ってよかったでしょう.あの頃の私は,今の私からは想像もつかないほど,創作者としてはLv.0もいいところでした.しかし,6年間の学生時代を経て,そして3回生という中途半端なタイミングで入会してからの4年間の未定時代を経て,私は創作者としてかなりのレベルアップができたのではないかと思います.まだまだ未熟なことは言うまでもありませんが.
 さて,何年か前の未定ブログ記事で書いた通り,私は絵を描くことにおいて,とにかく自分の描きたいものを追求することを何よりも重視してきました.私は地道なトレーニングや勉強を嫌うクズっぽい性格なので,美大受験生のように模写などをして地道に画力を積み上げることは向いていません.そういう地道で味気ない練習は,私には1日平均1時間もできればいい方でした.しかし,自分の描きたいものを描くのであれば,楽しいので(当然それも一筋縄ではいかないものの)1日平均2時間でも3時間でも可能なわけです.確かに後者は効率的な練習法ではないかもしれませんが,少なくとも私にとっては圧倒的にこっちの方が上達が早い.
 私は何が好きなのであり,何に心を動かされるのか? 私は何を表現したいのか? 何のために絵を描いているのか? 何を描けば,このどうしようもない渇望が癒されるのか? 私はここ5年くらいそういうことを自問自答し続けてきました.5年間,累計何千時間もかけて絵を描き,色々な作品を消費し,時々挫折して鴨川を眺めながら物思いに耽り続けてきた今,少しはその答が明確にできる気がします.今回は,長きにわたる学生時代の創作活動を締めくくるにあたって,私が結局何を描きたかったのかを言語化することを試みます.

アリス・イン・ラックランド

 おそらく説明するまでもないかと思いますが,私は幼女ばかり描いてきました.十代後半以降の少女もそこそこ描いていますが,そういう少女にしても,精神的にどこか子供らしさや純粋さのある少女であることがほとんどです.だからこそ,私が去年のNFで出した集大成的な作品集は「Alice in Lackland」であったわけです.
ではなぜ,私はここまで幼女ばかり描いてきたのか.その点については,2年くらい前に一度記事を書いています.簡単に言えば,幼女は「少女的なかわいさ」と「精神的な純粋さ」を持つ存在であるからです.

その少女的可愛さは,傷つき,疲れ切った心を癒してくれる.そしてその純真無垢さは,汚れてしまった心を浄化し,汚れる前の人間本来的な心のあり方を思い出させてくれる.幼女とは結局のところ,不条理と矛盾と混沌とに満ちたこの世界の中で,それでも腐らずに生きたいと願う人々にとっての,一服の処方箋なのではないでしょうか.

 大まかな結論はあの記事から特に変わりませんが,今ならもう少し色々と語れることがあります.特に,子供らしい「精神的な純粋さ」というものが一体何なのかについては,当時はあまりはっきりとはわかりませんでしたが,今なら少しだけ言語化できる気がします.

あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃぁ^~

 まず,「少女的なかわいさ」というのについて書いておこうと思います.世間的には「かわいい」という言葉はあまりにも無節操に使われ過ぎていて,その概念はあまりにも多くのものを含みすぎている気がするので,まず,どういう「かわいさ」が問題となっているのかを明確にする必要があるでしょう.「かわいい」には色々な方向性があって,私が思いつく限りでは以下のようなものが挙げられます.

・動物的なかわいさ(小動物等がもつかわいい感じ)
・植物的なかわいさ(花や植物,あるいはそれをモチーフにしたデザイン等が醸し出すかわいい感じ)
・形状的なかわいさ(動物の赤ちゃん・人間の幼児・デフォルメされたキャラクターが持つ丸み等が醸し出すかわいい感じ)
・少女的なかわいさ(フリル・リボン・ハート・暖色等の少女的アイテム・モチーフが醸し出すかわいい感じ)
・顔的なかわいさ(単純に顔が整っている女性について「かわいい」と表現するもの)

 最近,私は植物をモチーフとしたデザインをよく使っている気がしているので,私が求める「かわいい」には,少女的なものだけでなく,植物的なものも含まれるといえるかもしれません.最近植物図鑑の購入を検討しています.顔が可愛いのは2次元では当たり前のことなので,特に問題にする必要はないでしょう.
 私は「少女的なかわいさ」(例えばフリフリの服を着たかわいい幼女とか)を目にしたとき,どうも謎の高揚感と多幸感に襲われます.その感情を形容することは困難で,精々「尊い」,「無理」程度しか言えません.あるいは,「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」[1]というスラングも妥当な表現だと思います.そして私は,その高揚感と多幸感を求めて,ただひたすらにかわいい絵やデザインを追求するわけです.
 なお余談ですが,twitterとかを見ていると,こういう方向性の「かわいさ」を求めて美少女/美幼女を描く人々は意外にもごく少数であるように思います.まず男性の絵描きについて言えば,かわいい服やデザインに興味を持つ人が極めて少ないことは言うまでもないでしょう.一方女性はと言うと,そういう方向の興味を持つ人は多いのでしょうが,多くはその興味はリアルの自分が着飾ることに費やされるのであって,かわいいものに触れたいという欲求を,絵を描くことで満たす人々は少ないように思われます.案外私はマイナージャンルの住人なのかもしれません.

「純粋」なるもの

 さて,単純にかわいい少女が描きたいだけであるのならば,王道をゆく女子高生でも描いていればいいはずで,別に幼女を描く必要性はないはずです.それでもなお私が幼女(あるいは精神的な幼さや純粋さを持つ少女)を好んで描くのは,私にとって「精神的な」幼さや純粋さが重要なものであるからです.ここでは「精神的な」という点を強調しておく必要があります.肉体的に幼女であるかどうかというよりは,精神的に幼女であるという点が重要なのです.例えば「幼女戦記」のターニャ・デグレチャフは私にとっては別に愛すべき対象ではない[2]一方で,「ご注文はうさぎですか?」のココアは存在自体が尊い.
 それでは,精神的な純粋さとは一体何なのであり,何ゆえに尊いものなのでしょうか.それを言語化することは(少なくとも私が何年も考えなければならなかった程度には)困難で,書こうとすればとても長くなります.まずは「精神的な純粋さ」が一体何であるのかを,幼子が成長して大人(社会適合者)になり,純粋さを失っていく過程をみながら,一つ一つ紐解いていきましょう.何か大げさな言い方になりましたが,別に私は普遍的な真理の探求をするわけではなくて,単に私の個人的な結論を述べるだけです.

公正な世界
 
 私たちはおそらく,小学校低学年くらいまでは,正義の存在を純粋に信じるのではないかと思います.つまり,この世に真善美が明らかに存在し,正義は必ず勝ち,善人は必ず幸せになると信じるわけです.この世には万人に適用されうる正義というもの(言い換えれば人として正しい生き方,人間の生き方の模範解答)が明確にあって,その模範解答に従うものは絶対に幸せになったり天国に行ったりできる一方で,それに従わない者(悪人)は絶対に幸せになることなどない.仮に一時的に味をしめたとしてもいずれ必ず裁きが下り,地獄の業火に焼かれてもらうことになる.悪事を働いたバイキンマンは必ずアン・パンチによって空の彼方に消し飛ばされるのであり,働き者のアリは最後には例外なく幸せになる一方で怠惰なギリギリスは必ず餓死する.
 以上の信念を公正世界仮説とでも呼びましょう.この信念とセットになっているものとして,自分には正義が如何なるものなのかを知ることができる(それを知る手段が明確にある),という信念もあるでしょう.結局何が正義かなんて知り得ないのに「正義は勝つ」なんて叫ぶことはできないでしょうから.
 自分が正義を明確に知っているからこそ,努力さえすれば自分は正義(人生の模範解答)に近づくことが可能なのであり,だからこそ努力すれば必ず幸せになれる,というのも成り立ちます.「真面目」に努力すれば必ず正義になることができ,正義である者は必ず幸せになれる,ゆえに努力すれば幸せになれる,という論法ですね.逆に,不幸な者は努力していないとか,不幸な者は何か悪事を働いているに違いない,というのも成り立ったりします.「自己責任」という言葉で失業者などを(ただ怠惰なだけの奴で救うに値しないとして)切り捨てたり,何かの犯罪事件で不幸な目に遭った被害者が「被害者にも何か落ち度があったのではないか」と言われたりすることは,私たちの社会ではよくみられる現象です.
 話が少し脱線したので戻します.私たちは幼い頃は,「何が正義であり,何が悪なのかを明確に知る手段がちゃんとある」と純粋に信じるわけですが,より具体的には,親や学校の先生が言うことを真理だと信じていて,親や学校の先生が正義を指し示してくれると信じています.「わーるいんだーわーるいんだー,先生に言ったろー」などとよく言ったものです.親や先生は絶対的存在であり,彼らに褒められるということは自分が正義であることの証左なのであり,一方で彼らに叱られたり殴られたりしたら自分が悪であるということになります[3].もっとも,そんなことを純粋に信じられるのは,すでに述べた通り小学校低学年くらいまでなのでしょうけれど.

公正な世界の欠陥

 私は個人的に,公正世界仮説は別に真実でも何でもないと思っています.子供たちが純粋に信じているような公正世界仮説をここで一旦整理しましょう.

(1) 万人の認める絶対的正義や真理が存在する.「善い行動」と「悪い行動」が存在し,あらゆるケースにおいて行動の模範解答が存在する.「善い人間」と「悪い人間」,「善い人生」と「悪い人生」も存在し,人生の模範解答が存在する.
(2) 「善い人間」は周囲の人間を幸せにし,それが社会的に望ましいだけでなく,本人も必ず幸せになる.一方,「悪い人間」は必ず不幸になる.正義は必ず悪に対して勝利する.
(3) 何が正義で,何が悪かは明確に知ることができる.親や学校の先生に聞いたら普通に答えてくれるものであるし,「大人になったらわかる」みたいな,理解の難しいものでもない.誤解が生じることもあり得ない.
(4) 真面目に努力すれば誰もが正義になることができるのであり,努力すれば誰もが幸せになることができる.逆に,不幸な人間は真面目に努力をしていないだけであり,自業自得である.

 …なんだか虫唾が走りますが,まあとりあえず公正世界仮説をボコっておきましょうか.

(1) 万人の認める明確な正義の基準,あるいは人生の模範解答(それに従いさえすれば誰でも幸せになれる)があるというのならば,なぜそんな重要なものが教科書などにおいて厳密かつ詳細に明文化されていないのか.明確な正義の基準があるというのなら,なぜ裁判をする必要があるのか(裁判などしなくても,その明確な正義の基準とやらに従って,被告人に対してごく簡単に断罪が可能なはずではないか).
 あるいは,哲学者などが2000年以上にわたって延々と議論を重ねてきたのに,なぜ明確な一つの「人生の模範解答」が見つかっていないのか.もしそんなものがあるのなら,とっくに見つかっていて何かの教科書に書かれていて,初歩的な科学の知識のように万人に共有されているはずではないか.
(2) 法では裁けない悪人はこの世にはいくらでもいるし,彼らが絶対に不幸とは言い切れないのではないか.学校で校則を破っていたり,クラスでいじめをしていたりするDQNが不幸にみえるだろうか.パワハラ上司は不幸に見えるだろうか.もちろん彼らが痛い目を見ることはあるだろうが,痛い目を見ずに弱者を虐げ続け味をしめ続けるケースもいくらでもあるのではないか.
 そして正義は悪に対して必ず勝利するというのであれば,人類が長い歴史を経てもなおこの世に悪が存在し続けているのはなぜか.勝てていないではないか?
 
 …これ以上は長ったらしい割に話の本筋と大して関係がないので,この辺にしておきましょう.続きは註[4]に書きます.ただ,最後に一つつけ加えておきたい.こういう公正世界仮説の一番クソなところは,「自分が絶対に正義である」という信念とセットになっているところです.だってそうでしょう.自分が正義かどうかいまひとつ確信が持てないのに,「正義は必ず勝つ」なんて言えるでしょうか.自分が正義でない可能性があるにも関わらず「正義は必ず勝つ」だの「悪は必ず裁きを受ける」だのが成り立つのだとしたら,自分はいつ正義の裁きを受けてもおかしくないということになる(自分に神の裁きが下るのは明日かもしれないし,5秒後かもしれない).そんなの気が狂うでしょう.「自分が絶対に正義である」(=もし自分と考えの違う奴がいたらそいつは悪である)と信じ込める傲慢で鈍感な奴しか,公正世界仮説なんか信じられないのです.

反抗期

 さて,以上のように,小学校低学年くらいまでの子供が信じている,「こうしなければならない(これをするのが善い)」/「これをしてはならない(これをするのは悪い)」という諸々の正義,およびその前提となる正義/悪の概念,公正世界仮説は,何もかも下らない嘘であるという疑義が濃厚かと思います(少なくとも私はそう考えます).
 一方,今まで純粋に公正世界仮説を信じてきた子供たちも,小学校高学年くらいになると,その胡散臭さに気づき始めるのではないかと思います.
 生命を無暗に奪ってはならないとか,人に迷惑をかけてはいけないとか,自分がされて嫌なことを人にしてはいけないとか,ここまで子供たちは様々な規則を大人たちから押し付けられてきました.それらに背こうものなら大声で怒鳴られたり,職員室に呼び出しを喰らったり,「愛の鞭」と称して体罰を受けたりするのであり,無力な子供たちはそれらに全く逆らうことはできません.そういう体験を経て,子供たちは,生命を無暗に奪う行為や人に迷惑をかける行為がそれだけ「悪いこと」であると理解するでしょう.そして,そういう悪事を働く人間は裁きを受けるのが妥当であると理解することでしょう.あるいは,そういう悪人に対しては怒りを抱くのが自然なのであり,恫喝したり殴ったりしても構わないと学ぶことでしょう.
 しかし小学校高学年くらいにもなると,子供たちは,裁かれるべき(腹の立つ)悪人があまりにも多すぎることに気づくはずです.例えば私なんかは,小学校4,5年くらいの頃に,廊下を歩いていたらいきなり後ろから見知らぬ先輩に蹴られたことがあります.あまりにも理解不能だったので妙に覚えているのですが.クラスの中にいじめらしき行為はいくらでも見当たるでしょう.見渡してみれば,校則に違反した不道徳的行為などいくらでも存在します.それにしても,そういう不道徳行為を取り締まらない大人たちは一体何をしているのでしょうか?
 社会に目を向ければ,より「悪人」の存在は数多く目につくはずです.「食べ物を粗末にしてはならない」にもかかわらず,例えばうなぎや恵方巻のように大量の食品を廃棄するコンビニ.精神を病んで死ぬくらいまでに従業員を酷使するブラック企業.学校でのいじめで自殺者が出たら証拠隠滅と保身に専念する教師たち.ちなみにピュアだった中学生くらいの頃の私は,学校でも社会でも公然と行われている男女差別に腹を立てていた気がします.
 これまで自分に説教をしてきた親や教師自身の不道徳行為も目に付くでしょう.例えば私の父なんかは煙草を吸っていて周囲に副流煙の害を及ぼすわけですが,こんなものは「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳からすればどう考えても認められないことです.あれほど「人に迷惑をかけるな」と自分に対して言い,時には体罰まで下してきた人物がそういうことをする.片づけをしろと口うるさく言ってきたあの父が,よく見ると飲んだ後のビール缶を放置していたりもする.
 そして,以上の不道徳行為をした人間は,ちゃんと裁きを受けているでしょうか.小学校で教えられた通り,悪人は不幸な目に遭っているでしょうか.クラスのDQNは不幸そうに見えるでしょうか.実態はむしろ真逆な気さえしてきます.そして,真面目に努力をしてきた人は,ちゃんと幸福になっているでしょうか.
 以上のようにして,小学校高学年くらいの子供たちは,親や教師の言うことに少しずつ矛盾を感じ取るようになっていきます.もう親や教師の言うことは盲信できなくなるでしょう.大人たちは胡散臭い存在にしか見えなくなる.法で裁かれない腐った奴が社会に溢れていると思えてくる.こうしてはっきりと,反抗期の傾向が現れるのではないかと思います.

理不尽への適合

 理不尽なことがあまりにも多すぎる.中学校にもなると,クラスに存在するスクールカーストはより露骨なものとなっていくでしょうし,部活の中に強力なカーストが存在するとも多いでしょう(特に体育会系の部活の場合).教師も露骨な贔屓をしてくるかもしれません.視界に存在する「理不尽なもの」は加速度的にその数を増やしていく.さらにその理不尽は,もはや単なる一生徒には逆らうことも叶わぬ,絶大な強制力を備えていきます.
 反抗期の少年少女は,社会への絶望に苛まれることでしょう.それと同時に,混乱にも陥るはずです.例えば部活の中で上級生から下級生への(体育会的な)いじめが行われていたとします.最初はそのいじめが間違っていて,その部活が悪の温床だと思うかもしれません.しかし,その部活で自分以外が,いじめを「そういうものだから」と受け入れていたとしたら? 上級生が偉いのは当たり前のことだという風潮があったとしたら? それでもたった一人で,この部活はおかしいと言い続けられるでしょうか.自分一人が正しくて,その部活の人々が間違っていると言えるでしょうか.既に述べたように,誰が正義で,誰が悪かを明確に証明する方法などどこにもありません.そんなものがあるなら裁判は要らない.結局考えてみたところで,自分の考えが正しいという保証などどこにもないのです.自分が間違っている可能性は永遠に否定できません.それで,どうしてその部活に存在する体育会的カーストに立ち向かえるでしょうか.どうしてたった一人で部活一つに挑めるのでしょうか.
 こういう場合,大多数の人は,自分が間違っていて,自分が社会不適合者なだけだと考えるのではないかと思います.
絶望的な同調圧力の中で,自分の頭で善悪を判断することを断念し,自分の属する集団の「部族の風習」に身を任せることが,反抗期を終わらせていきます.何かしらの善悪の基準を信じ,それを他者にあてはめるからこそ,この社会の様々な理不尽が目に付くのです.そういう理不尽に対する怒りは,自分が明確に善悪を判断することができる(自分の判断が絶対に正しい)という信念があってこそ生じるものです.ならば,自分の考えが本当に正しいかどうかに確信が持てないのに,自分の考えを他者に適用して,その他者を悪とみなし,怒りを持ち,「裁き」を下すことは不可能でしょう.学校のクラスや部活などに存在する圧倒的な同調圧力は,自分が明確に善悪を判断することができるという信念を破壊し,善悪についての思考停止を招きます.こうして反抗期の少年少女は,社会に存在する様々な理不尽に一々目くじらを立てなくなっていくどころか,一見理不尽に見えるそれらに自分が適応しなければならないと考えるようになります.
 もちろんそういう絶対的圧力は,学校のクラスや部活だけでなく,どこにでもあります.大学で言えば,研究室なんかはよく理不尽の温床になります.私の研究室の教授はどうみても学生を恫喝し人格否定しまくっていますし,当然のように(むしろ学費を払っている側である)学生をタダ働きさせています.卒業後に卒論について学会発表や論文投稿をやらされたりもする(もちろん無給).でも教授は,飲み会で学生に対して,いかにも優しく諭すような(「君のために言っているのだ」と言いたげな)調子で「本当はそんなに怒っていない」とか言ったり,その仕事(タダ働き)は京都大学の学生としての当然の使命なのだとかよく言ったりするもので,そうやって説得されると,教授を悪と断定してあれに立ち向かうことは案外簡単ではありません.繰り返しますが,私が正義であって研究室や教授が悪であるという保証はどこにもありません.考えれば考えるほどに,自分が単なる社会不適合者なだけで,自分が教授の言うことを理解していないだけという可能性が目に付いたりします.私はこの研究室での三年間を通して,最後まで折れることはなかったと思いますが,そこで折れて思考停止し,教授に洗脳されていった先輩たちを,私は何人も見てきました.
 就活でも,会社に入ってからも,こういうことは繰り返され続けます.それに適応し続けることで,大人は大人として完成されていきます.社会人になって10年もすれば,立派な「社会適合者」が完成することでしょう.この段階に至った社会適合者は,それまで適応してきた数々の集団の中で「そういうものだから」と受け入れてきた,数々の「部族の風習」を同時に信じています.それらの「部族の風習」は別に一貫しているとは限らないというか,むしろ互いに矛盾しまくっていることがほとんどでしょう.というかそもそも,小学校などに適応するために受け入れた,「人に迷惑をかけてはいけない」,「人の嫌がることをしてはいけない」みたいな純粋な道徳と,中学校での体育会的部活に適応するために受け入れたカーストくらいの時点で酷い矛盾が生じています.その上にも矛盾が無数に重なり続けます.

「大人」なるもの

 大多数の人は,自分の言動に矛盾があると何かしらの不快感をもちます.例えば「煙草をやめる」と宣言したのに煙草をやめられなかったりしたら不快感が生じますし,その不快感を埋め合わせるために何かしらの言い訳(防衛機制)をしたくなるものです.認知的不協和とかいうやつです.でも大人(社会適合者)にはそんな不快感はあまりないので,互いに矛盾する無数の行動規範(ダブルスタンダードならぬ「マルチスタンダード」)を抱えていても精神が崩壊したりしません.もしふとした瞬間に,自分の「マルチスタンダード」を不快に思うことがあったとしても,器用に言い訳をするなり,その不快感を無視して忘れるなりして,うまく自己防衛ができるのではないかと思います.そもそも,大人はあまりに矛盾に矛盾を重ねすぎていて,今更その「マルチスタンダード」を解消できるわけもありません.反抗期以降の記憶をリセットしない限りは多分無理でしょう.
 その上,大人は「マルチスタンダード」のそれぞれを真面目に信じてはいないように思われます.ここで言う「スタンダード」(社会的に共有されている,支配的な力を持つ規範)はしばしば「タテマエ」と呼ばれ,「ホンネ」と区別されます.つまり大人にとって,互いに矛盾するそれぞれの規範は別に「ホンネ」ではなくて,自分は本当は同意していないけど社会的にそう信じなければならないだけ,という意味合いを持たせているわけです.だから自分の行動規範に何かの矛盾があったとしても別に構わないし,嘘であると暴かれてしまっても構わない.矛盾を指摘されたら,「それはタテマエでしかないから」,「何本気にしてるの?(笑)」,「君は言葉を文字通り解釈し過ぎだ,アスペかな?」,「空気を読め」とでも言って逃げればいいのです.
 ただし,大人(社会適合者)が善悪に関心がないとか,善悪の判断をしないというわけではないでしょう.確かに目上の人や多数者の判断がある場合はそちらを優先して思考停止するかもしれませんが,目下の人(例えば後輩や自分の子供など)に対しては自分の判断が絶対的に正しいものと信じ,悪とみなした相手に制裁を下すのではないかと思います.そしてその制裁は時として苛烈を極め,パワハラに発展することもあるでしょう.もちろん,本当に自分の考えが正しくて,後輩の言うことが間違っていると断言できるのかとか,後輩が間違っているとしてもそこまで好き放題やっていいのかという点には,鈍感に思考停止するのでしょうけれど.
 一つの解釈としては,大人というのは,目上の人や多数者に対してはとことん従順で,自分の頭で考えることもなく付き従う一方で,目下の人に対しては好き勝手やる「小物」であるのかもしれません.あるいは,互いに矛盾する多数の行動規範を持ちながら,あまり悩むことなく行動が可能で,矛盾を指摘されたら「それはタテマエだから」とうまく逃げる器用さを備えた人々といえるのかもしれません.
 またあるいは,集団の圧力やカーストに屈し続け,それらを前にして歯向かうことも,何かしらの疑いを向けることもできないという巨大な絶望とトラウマを心に湛えた被害者なのかもしれません.中学校や高校などで不運にも体育会的組織を経験し,そこで自分の意思を奪われたのかもしれない.逆に,大人になってもある程度「自分の意思」を持っていて,ある程度「思考停止」せずに済んでいる人は,単に幸運なだけなのかもしれません.

矛盾と混沌への適応過程

 長くなってしまいましたが,ここで一旦,子供が大人へと成長し,社会に適合する過程をまとめてみましょう[5].

(1)幼少期(~小学校低学年):親や教師の(しばしば暴力的な)しつけに強制され,この世に正義が存在し,善き人間と悪しき人間(あるいは善き行動と悪しき行動)が存在し,善き人間だけが幸せになると信じ込むようになる.もちろんこの世界観(公正世界仮説)は多くの欠陥を含んでいるが,その欠陥に気づくことはない.
(2)反抗期(小学校高学年~):社会に無数の悪が存在することに気づいていく.そして,これまで自分が信じてきた親や教師もまた,多くの悪を含んでいることに気づいていく.大人や社会が信じられなくなる.
(3)反抗期の終わり(中学校~二十代):クラスや部活などの集団に属する中で,その集団内に存在する理不尽に歯向かうこともできず,それらを正義(「そういうもの」だから)と判断して受け入れていく.集団の持つ圧倒的な強制力を前に,自分の善悪の判断を貫き通すことができず,自分の頭で思考することに絶望を覚えていく.
(4)社会適合者の完成:様々な集団に適合し,それぞれの集団内における行動規範を思考停止しながら受け続けた結果,状況に応じて柔軟に「マルチスタンダード」を使い分ける大人が完成する.もはや言動に一貫性など見られないが,自分の言動に矛盾が生じていることを気にかけないほどに図太い.目上の人間や多数者の判断には無思考かつ忠実に従うが,目下の人間を相手にした場合のみ善悪の判断を行い,傲慢なほどにその判断が正しいと思い込む図太さももつ.

 一応付け加えておくと,私は別に,社会適合者が悪だとか病的だとか言いたいわけではありません.反抗期で何にも屈さず,自分の信ずる正義を貫き通すのが正しいのかと言うとそうでもないと思います.既に述べた通り,その自分の信ずる正義とやらが正しいとは限らないわけですから.もちろんその方が自分の思想や行動規範について(比較的)一貫性はあるでしょうが,だからといってその思想や行動規範が正しいことにはなりません.
 大人(社会適合者)というのは,例えるならば一部の行動はキリスト教の教義に従って行い,また一部の行動はイスラム教の教義に従って行うみたいな人々でしょう.それと比べて,果たして一貫したキリスト教徒や一貫したイスラム教徒の行動が「正しい」といえるでしょうか.キリスト教だろうが,イスラム教だろうが,両者を中途半端に混ぜ合わせて矛盾を黙殺した何かだろうが,どれも人生の模範解答でも(全人類が共有すべき)絶対的に正しい教義でもないと思うのですが.
 まあ,もし一貫した行動が正しいと思う方がいたら,明日から(たとえば)聖書原理主義者として生きてみてください.多分一貫性はかなり上がると思います.聖書の記述にも矛盾はあるでしょうけれど,この社会の混沌よりは多分マシです.

子供の心

 ここまで説明すれば,私が求めている美しき子供の心が一体何であるのかを明らかにすることは,もう可能でしょう.大人と子供の違いは何か.それは一言で表現するならば,何からも目を背けず自由に思考を行おうとする態度であり,本当の「思想の自由」なのかもしれません.自分が美しいと思うものを「美しい」と言う.自分が間違っていると思うものを「間違っている」と言う.私はそういう正直な心の在り方を美しいと感じます.もちろん社会で生きていく上では,自分の感情をストレートに口に出すとしばしば面倒なことになるので,表には出せないこともあるでしょう.それでも,口には出さないとしても確かに何かの感情を持っていて,その感情がたとえ社会的に認められないものであっても,自分がその感情を持っていることを悪びれず,それを抑圧してはいないことが美しいのだと思います.
 大人(社会適合者)の心は抑圧だらけといえるでしょう.矛盾した言動をとり,その自分の言動に何かしらの不快感を持つことがあったとしても,それを黙殺する.自分の属する集団のシキタリが正しいのか間違っているのか(少なくとも,自分がそれを受け入れられるのか受け入れられないのか,自分はそれが好きか嫌いか)という感情を一瞬持つことがあったとしても黙殺し,「それが社会のルールだから」と言ってただ従うだけ.目下の者相手に好き勝手にパワハラをするときに,「本当にそんなことをしていいのか」という感情を少し持ったとしても,その感情を黙殺する.
 きっと社会適合者だって,社会で生きていく上で,あれが嫌だとか,あれは間違っているとか,そういう感情を持つことはあるのだろうと思います.成人の知能を持っていながら,自分の言動の矛盾に気づかないわけもない.しかし社会適合者は,その感情に向き合うことはないでしょう.向き合ってしまったら最後,きっと社会にはもう適合できなくなるのです.例えば,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という疑問を持ち,それで「パワハラはいけない」という結論を出したところで,今更何ができるでしょうか.自分の属する組織に存在する(自分以外がやっている)パワハラに憤りを持ったりするのでしょうか.自分にその組織の何かを変えられるでしょうか.変えられるとして,果たしてそもそも自分のパワハラに対する憤りは「正しいもの」で,組織の方が間違っていると断言できるでしょうか.それは「空気を読まない」行動ではないでしょうか.社会人としてそれは正しいのでしょうか.そして,そこまで悩んで,自分の組織内での立場を悪化させるリスクを負ってまで得るものは何でしょうか. 結局,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という自分の感情を気にかけて,何を得るのでしょうか.
 
過ぎ去りし時を求めて

 大人が純粋であり続けることは超絶に困難です.というか不可能でしょう.自分の心に浮かぶ様々な感情から目を逸らさず,一々直視していたら,きっと気が狂います.
 大人になればさまざまな可能性が否応なしに見えてきます.いま机の上に置いてある紙で,何かの拍子に自分の小指をシュッと切る可能性.今自分と仲良く喋っているこの人が,本当は自分のことを嫌っている可能性.自分が良かれと思ってやったことが,実は周りの人には迷惑でかないという可能性.自動車を運転しているときに不慮の事故によって突然死ぬかもしれないという可能性.
 読者の皆さんもこういう,恐ろしげな想像をふとした瞬間にすることがあるかもしれませんが,そういう可能性を無視することなく一々直視していたら,きっと気が狂ってしまうのではないかと思います.たしかにこの世界はどこまでも不確定で,一秒先の未来すら確実に予言することはできなくて,私たちはどこまでも無知です.大人になると,どうしてもその不確定性が否応なしに目に付きます.しかし,その不確定性に正直に向き合ってしまったら,おそらくSAN値がすぐに0になるでしょうし,少なくとも恐ろしくて家から出られないはずです.でも,純粋であるということはそういうことです.私もきっとある程度は思考停止をし,さまざまな危険を黙殺していることでしょう.

「小さい頃,一歩踏み出したら,地面が崩れ落ちて,穴に落ちて死ぬんじゃないかと,そう思って,歩くことさえ躊躇っていた時期がある.あり得ん話じゃない.だが,誰もそんなことは気にしてない.俺はそれが不思議だった」 ──ゴブリンスレイヤー

 子供はその頭の悪さによって,純粋な心が社会の混沌やこの世界の不確定性によって汚され,ダメージを受けることから守られているのでしょう.頭が悪いからこそ,公正世界仮説を純粋に信じて生きていくことができます.その教義の汚点や矛盾に気が付くことも,親や教師の言動の矛盾に気づくこともありません.自分は正しい行いをしていて,神さまがそれを認めてくれていて,きっと将来自分は幸せになれるだろうと思っています[6].もちろん,自分を取り巻く無数の危険にも,5秒後に自分が死んでいる可能性にも意識が向きません.
 ですが,大人になった以上はそうはいきません.もう何かを純粋に信じることはできません.自分の感情を一々直視してもいられません.残酷なまでに不確定なこの世には,純粋に信じるに値する,絶対的な正義も真実も「人生の模範解答」なく,私たちの幸せは何一つ保証されないのですから[7].
 子供のような純粋さを失い,ある程度は思考停止を重ね鈍感になってしまうことは,生きていく上で仕方のないことなのかもしれません.いや,実は仕方のないことでも何でもなくて,自分がただ純粋であるために努力することから逃げるために,自分に対して都合のいい嘘をついているだけなのかもしれません.自分で自分の思考停止には気づけないのです.私にはもう何もわからない.
 ただ確かなことは,もう私はあの頃には戻れないということです.いま自分と喋っているこの人は自分のことが嫌いなわけがないとか,自分の信ずる正義が間違っていることなどあるわけがないとか,純粋に信じることのできた,幸せなあの頃に戻ることはできません.例えば私は誰かと会話をするとき,自分の不用意な発言によってその人に不快感を与える可能性とか,相手を退屈させる可能性とか,自分の言っていることが根本的に間違っている可能性とかを念頭に置きつつ,色々考えて,神経を尖らせて慎重に話します.もちろんそんなことを考えていたらコミュ障にしかなりませんし,疲れます.しかし,色々な危険性が見えてしまう以上そうせざるを得ないのです.私は子供のように馬鹿ではありませんし,社会適合者のように鈍感でもありません.会話の中で人間関係が破壊される危険性に目を向けることもなく,「自信」をもって人と話すことができたあの頃には,私はもう戻れないのです.

幼女と和解せよ

 美しいと思うものを美しいと正直に言い,正しいと思うものを正しいと正直に言う,子供らしい純粋な心を,私は美しいと思います.それこそ50時間でも100時間でもかけて,きれいな目をした幼女の絵を描きたいと思う程度には.そして私は,できるだけ純粋な心を持ち続けたいと思います.たとえ社会不適合者として苦しむことになろうとも,私は自分が何を好んでいて,何がしたいのかを忘れたくはありませんし,自分の頭で何かを考え続けることをやめたくはありません.しかし,私は自分ではそう望んでいても,きっと既に,自分でも気づかないうちにある程度は「汚れている」のでしょう.私だってある程度は,社会に存在する理不尽を無批判に受け入れ,社会で生きる上で生じる不快感と向き合わず,「社会とはそういうものだから」で片づけていることでしょう.この世界の圧倒的な不確定性から目を背け,傲慢にも自分が安全なところにいると信じ込んでいるところもあるでしょう.私が社会適合者に対して鈍感だの思考停止しているだの言っていながらも,実はそこらの社会適合者と大して変わらない可能性だって否定できません.
 少なくとも子供とはいえない年齢になってしまった私は,もはや純粋であり続けることも,子供の心を取り戻すこともできません.むしろ大人相応の知能を持ってしまった私が子供のような純粋さを取り戻し,外界からのあらゆる刺激に対して敏感になってしまったら,それこそ気が狂いかねないともいえます.大人にはそれに合った世界観や心の在り方があり,子供にはそれに合った世界観や心の在り方がある.大人が子供の心を持ったって,気が狂うだけなのかもしれません.
 それではなぜ,私は純粋な心を美しいと思い,可能な限り純粋でありたいと願うのでしょうか.別に子供のように純粋であることは正しいことでも何でもありませんし,大人が間違っているわけでもありません.にもかかわらず,なぜ私は幼女を求めるのか.それは結局のところ,私にはよくわかりません.ただ,強いて言うならば,私は「生きたい」のかもしれません.思考を止め,自分の感情を黙殺し,ただ盲目的に自分の属する集団の「空気」に流されて,「タテマエ」ばかり語る大人たちは,(その是非を別として)死んでいると私は感じます.私はそうはなりたくない,死にたくないと思うわけです.私は自分の意思を持ち続けたい.社会がどう言おうが,自分の好きな何かを愛し,自分の正しいと思う何かを信じたい.正直者が最後に救われるかどうかなど関係なく,私は正直であり続けたい.私はただ生きていたいのです.だからこそ,社会の混沌に「殺される」前の,たしかに生きている幼女の心は,かくも美しいのではないでしょうか.




[1] 「ご注文はうさぎですか?」に関連するスラング.https://dic.nicovideo.jp/a/%E3...
[2] 「幼女戦記」はタイトルに釣られはしたが一話切りしたのであまり知らない.
[3] 例え公正世界仮説が嘘だったとしても,それは優しい嘘なのかもしれない.もし親からのしつけを,悪である自分を更生させようとしてくれていることと解釈できなかったら,それは単なる暴力としか映らない.たしかに親や教師の言うことは別に真実でも何でもないし,その真実でも何でもない信念に基づいて下される体罰は(それが良かれと思ってされることであったとしても)拷問以外の何物でもないように思われるが,子供がそれに気づいてしまったら気が狂いかねない.自分が理不尽な暴力に晒されているが,自分が無力であるためにそれに逆らうことも,親を離れて生きていくこともできないという圧倒的現実には,気づかない方が幸せなのではないかと思う.
[4]  (3) 人によって何が何を正しいとするのかという基準が異なり,口論が生じることは極めてよくある.例えば親と学校の先生で,何が正しいのかについて意見が食い違ったとき(互いに矛盾したとき)はどうすればよいのか.互いに矛盾する二つの答がいずれも正解というのはどういうことなのか.例えば学校の先生の方が間違っていると考えるのならば,その先生は「自分で自分を正義だと思っているが客観的には別に正義ではない」ということになる.そういうケースがあってもなお,「何が正義なのかは子供にも容易に理解できるもので,自分が正義を誤解することなどありえない」といえるのか?
そして,なにをもって,自分の信じている正義に一切の誤解がない(=もし意見の違う他者がいたら,そいつが間違っている)と証明できるのか?自分の意見に多くの人が納得するならば自分の意見は正しい,とよく考えられるが,果たして多くの人から支持されるものが正しいと決めつけてよいのか?多数者の意見は絶対か?そして,自分が他者に意見を説明する際,自分の意見は何も正しくないものの詭弁を使って他者を説得している可能性もあるのではないか?自分が詭弁を使っていないとどうして証明できる?
(4) 真面目に努力をしているにも関わらず不幸な人間もいるのではないか?果たしてそういう人間を,「本人は努力をしているつもりになっているだけで努力が足りない」と決めつけられるか?その本人がどれだけの努力をしてきたのかなんて,外から見ただけで全て把握しきれるものではないだろうし,本人の心中を見透かさない限りわからないのではないか?実際,自分の努力や苦労は周りの人々に100%理解されていると思うか?
 さらに,(3)で述べたように自分の信ずる正義が客観的に見て間違っている可能性がいくらでもありうるのだとすれば,正義であろうと努力することによって,むしろ自分が正義から遠ざかる可能性もいくらでもあるのではないか?(1)で述べたように,哲学者たちが2000年以上にわたって議論を重ね,追い求めてきたにも関わらずたどり着けなかった(答えに近づいているのかすらわからなかった)「正義」なるものに,どうして自分が多少努力しただけで近づけるといえるのか?
[5] ここで説明しているのは,社会適合者の生産がうまくいった場合のみであって,必ずしもこの通りにいかず「社会不適合者」が生まれてしまう可能性も多々ある.例えば最初に親がいわゆる「毒親」で,信仰に値する神様というよりは単なる暴君に過ぎなかった場合,公正世界仮説そのものが抜け落ちるかもしれない.ある程度努力が報われた経験(例えば親に努力をほめられたとか)があるからこそ公正世界仮説が信じられるのである.また,中学・高校などで体育会系の部活やスクールカーストの束縛を経験しなかった者も,理不尽を受け入れ社会に適合する傾向が薄まり,反抗期が長引くかもしれない(私はそういうタイプである).これが社会不適合者である.
[6] もちろん,これは親がある程度まともだった場合であって,酷い虐待を受けるなどした場合はこの限りではない.
[7] もしかすると,あまり高度な教育を受けたりせず,前近代の閉鎖されたムラ社会の中や閉鎖的な修道院の中で一生を過ごしたりすれば,信仰が汚されることはなく,一生純粋でいられるのかもしれない.そのムラ社会の風習を汚すものが外部から入ってくることはなく,密接な相互監視によって「悪人」が確実に裁きを受ける環境であれば,人は純粋であり続けることができるのかもしれない.もちろん,21世紀を生き,高度な教育を受け,インターネットでも使って既に様々な考え方に触れてしまった私たちには,もはやそんな生き方などありえないが.

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なんちゃってラジオ「心理学マン」

 梅の花も咲き満ちる頃ですね。二月も半ばを過ぎて街の通りを歩いていると、ふっと花の匂いが鼻をかすめます。辺りを見渡せば、咲きはじめの白い梅の枝が、見知らぬ家のレンガ塀の向こうから差し伸ばされています。そんなときに出会う庭木としての一本の梅の匂いと、実を取るために世話されている梅園の梅の匂いは、違っているように感じます。満開の梅園の木の下に立つと、はちみつに似た匂いが降ってくる気がするのです。品種の違いでしょうか。花そのものの匂いに、花と同じくらい身近なその実を加工した食べ物の匂いが無意識にオーバーラップしてくるからかもしれません。
 匂いは、目に見えるものよりずっと言葉に言い表すことが難しい分、心の中でつけられている日々の記録に十分には位置付けられていないように思います。時間軸の目盛りの上を、匂いの記憶がふわふわと手から離れた風船のように滑っているのです。だから、現在のもとへその記憶の風船が気ままに近寄ってきて、いま目の前にしているものの匂いにときどき、重なるのかもしれません。

 本来二月下旬の担当であった私がこんな時期にブログを更新しているのは、私のカレンダーでは二月が続いていたからです。ほかの月が三十一日、少なくても三十日はあるにも関わらず、申し訳程度に閏年があるとはいえ、二月にだけ二十八日しかないというのはおかしいと思いませんか。暦というのは、社会の統治者が民衆の生活を支配するために作るものです。フランス革命後の新政府では新たな暦が作られました。明治維新後の日本は、欧米の新思想とともに、その太陽暦を取り入れました。大学生の春休みは数日分、権力者によって不当に搾取されているのです。私達の大切な時間を資本家から奪還しようではありませんか。

 ここまで、リスナーの皆さんからのお便りのコーナーでした。次は『街角ことばキャッチ』のお時間です。このコーナーでは、日々の生活の中で出会った、ちょっと面白いことばの使い方を紹介していきたいと思います。第一回目の今日のテーマは、「心理学マン」です。
 大学の試験期間前の平日のことでした。私が大学構内を歩いていると、こんなことばが生きのいいトビウオのように耳に飛び込んできました。「俺、心理学マンになるから」
 私の目が吸盤のように吸い付いつけられた先には、一回生か二回生の元気な感じの青年がいました。彼はそのセリフを、友人に向かって言ったのでした。
 心の琴線に触れるのは、ことばとことばの組み合わせの物珍しさです。いままで聞いたことがない、でもなんとなく腑に落ちることば。いつのまにか言い古されて慣用表現化していたことばから未知の生物のように脱皮したことば。状況をぴったり言い表していて、気持ちよくて、でもよく考えたらそのことばの使い方、普通じゃなくない? と疑問がむくむく湧き上がってくるような、誤用と新しい用法の間をさまようことばです。
 きっと「俺、心理学マンになるから」という表現は、「俺、テストをパスするために、これからたくさん心理学の勉強をするから」という意味合いなのでしょう。そこで「心理学マン」は、「心理学マスター」と同じフィーリングで使われているのでしょう。でも、「心理学」と「○○マン」の結合なんて初めて聞いたのに、どうしてこうもしっくりはまるのでしょうか。「○○マン」のほかの用法を探っていきましょう。スパイダーマン、バットマン、アンパンマン、スーパーマン、ウルトラマン……。前三つと後ろ二つのグループに分けてみましょう。前半グループは、「○○」の部分を外見と能力のモチーフにし、「○○」と一体化しています。外見と能力が「○○」に特化しているとも言えるでしょう。一方、後半グループは特性は「マン」のまま能力値だけが爆上がりしていると言えます。挙げる用法が少ないままいささか独断的に判断してしまいますが、この場合「心理学マン」は前半グループの使われ方に属していると考えられます。つまり「心理学マン」は、高い能力が心理学にシフトしているわけです。
 ここまでは、「心理学マン」と「心理学マスター」はほぼ重なる概念と言っていいでしょう。しかし先述の青年が「マスター」ではなく「マン」を選んだということは、青年の中に「マン」と「マスター」の異なる位置付けがあったはずです。青年の中に積み上げられたことばの地層が、「マン」を選び取らせたのです。そして私の中の、青年からつながった地層が、そのことばを受け入れさせたのです。「マン」は先程も言ったように、能力だけでなく外見さえも「○○」と一体化しています。人間のまま知識だけ「○○」に習熟した「マスター」よりも、「○○」にその身と人生を捧げる存在といえるのではないでしょうか。つまり「心理学マン」は、「マスター」よりも心理学に密着すること甚だしいのです。「マスター」が客観的な研究者目線だとしたら、「マン」は主体的に心理学を実践する存在といえるかもしれません。
 もう一面、「マン」から広がる地平があります。前半と後半のグループの共通点は、その超人的な能力で平凡な人々を助けるヒーローであることです。どちらかというと壮年や老人の渋さを連想させる「マスター」と、「マン」の持つ若さと華々しさ、圧倒的なパワー。がむしゃらに心理学を修めた「心理学マン」の活躍は、心理学IIの単位を取るにとどまりません。その豊富な知識を生かして、一緒に講義を受けた友人が試験をクリアするために手を貸すことでしょう。「マン」の持つ意味の重なりは、そんな想像まで広げさせます。 
 「心理学マン」の変身姿ってどんなだろう。頭に電極がついて、夢を食べるバクみたいに口をとんがらせた仮面をかぶっているのだろうか。そんな想像にふけりながら、長い春休みを送っています。

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権力は私物ではありません

 エッセイのネタになりそうなできごとを書きます。
 最近、妙な掲示を見ました。
 ある日、ホームセンターに行くと、「当店ご利用の方以外が駐車された場合、警察に通報します。」とありました。確かに、店を利用しないのに店の駐車場を使うことはよくないでしょう。ですが、それは犯罪ではありません。もし予防したいのなら、「罰金を科します」とだけ書けば十分です。別に武器を持った人が違法駐車するわけではないのですから、違法駐車に対して警察を使うのはおおげさです。
 また、あるマンションの駐輪場には、「当マンション居住者以外が駐車した場合、警察に通報します。」とありました。確かに、マンションの防犯は大切ですし、人の家の駐輪場に停めるのはよくないことです。ですが、もっと重大な犯罪宗さに追われている警察の方を、このような小さなことで呼び出すのは、ご迷惑でしょう。警察にお手間を取らせることなく、自分たちで解決をすべきことではないかと私は考えます。
 それから、あるお店の前に、不法投棄がなされていました。その後、その店のシャッターに「防犯カメラに映っています。名乗り出ない場合は、警察に通報します。」と書いた掲示が貼られました。確かに、警察の威力をもってしなければ名乗り出ないでしょうし、不法投棄は立派な犯罪です。ですが、やはりこれが警察の出動を必要とするような事件だとは思えません。
 さらに、ある小学校では、ウサギ小屋の屋上にはしごをかけて登ろうとする児童に対し、「がっこうのたてものは、がっこうのものです。のぼったら、おまわりさんをよびます。」と書いた掲示が設けられたそうです。確かに、建造物違法進入にあたるかもしれませんし、そもそも子どもには危ないです。ですが、それなら、「警察を呼びます」と書かずに、初めから「あぶないからやめなさい」と書けばよい話です。
 このように、警察を呼ぶと脅して軽い違反を予防しようとする掲示が最近目につきます。これは、2点において間違っていると私は考えます。
 1点目に、そもそも警察は、重大事件(殺人、窃盗、暴行など)を犯した人物をとりしまる人です。国家権力として武器の使用も許されているのは、民間では解決できな問題を、武力をも用いて解決するためです。(例えば、武器を持った強盗は、自分たちではどうにもできないので、警察を呼んで捕まえてもらいます。)もし警察の方が、小さなことで忙しくなったら、重大な事件をとりしまることができなくなり、共同体の迷惑になります。(協調性のかけらもない私が言うのもなんですが)たとえ、脅しだとしてもむやみに警察に頼り、共同体全体の安全を顧みない利己的な態度が、「~したら警察を呼びます」という言葉の奥に潜むように思います。
 2点目に、もし、同じ地域に住む人の誰かが国家権力の行使を常にほのめかしているとしたら、われわれは安心してつきあえません。「何かあったらこの人は警察を呼んで解決しようとする、トラの威を借るキツネだ。」「われわれのことを、犯罪者扱いしようとしているのか。」と思うばかりです。自分たちのことは、できるだけ自分たちで解決しないと、円滑なつきあいも難しくなります。
 この2点から、「~したら警察を呼びます」という掲示は、権力をむやみに使おうとする利己的・高圧的な態度ではないかと私は恐れます。(おそらく考えすぎ)そもそも、警察が国家の公共機関であることを忘れて、自分の私物であるかのようにむやみに呼ぶのは、(あるいは呼ぶとほのめかすのは)権力の私物化と言ってもよいでしょう。まずは自分たちの問題を自分たちでなるべく解決することが、「自由」、「対話」、「グローバル」などと唱える前に必要です。

それにしても、ただの掲示にここまでかみつく私は考え過ぎなのでしょうか。病んではいないのでご安心ください。

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美しい地の文を目指して

 こんにちは、入ヶ岳です。今回は、小説を書くに当たって気をつけたいと思っていることの一つ、地の文についてお話してみたいと思います。
 地の文というものに関しまして予め定義しておきますが、これは小説を構成する要素の一つです。小説の構成というと、例えば起承転結の流れであったり、プロローグと本文、エピローグといった物語の仕組みについて考えることも出来るのですが、ここでの構成というのはもっと形式的なもので、キャラクターが実際に話す「会話文」と、それに対しての「地の文」を考えるものです。
 地の文は、言葉にならない感情や風景、状況を表す部分であり、小説にとって非常に重要なものです(会話文だけの小説というのも少なからず存在しますが、今はそれらの作品のことは考えないことにします)。
 さて、私はこの地の文について、ある悩みを抱えています。それは直球も直球、「地の文がうまく書けない!」というものです。
 思うに、地の文には役割が多過ぎるのです。状況の説明に風景描写、登場人物の感情描写等々。それらをバランス良く、かつ読者に読みづらさを感じさせないように整列させるというのは、実際かなり困難な作業です。少なくとも私にとっては。
 このことについて強く悩み始めたのは、本格的に小説を書き始めてから、つまり、大学に入ってからのことです。地の文はただの状況説明ではありません。単なるナレーションでも無ければ、一人称人物の感想文を垂れ流す部分でも無いのです。それがほんの少しであれ頭で理解できてきたが故に、私は悩むのです。これは、ひょっとしたら良い変化であると言えるのかもしれません。苦しいですが。文章を書くために「稚拙! 下手くそ!」と自分をなじっていますが。深夜に書いた文章を朝になって確認した時等は、一瞥するなり奇声を上げてDeleteキーを押すこととなるわけです。原稿を深夜に書くのはやめましょう。
 先日、拙作をサークル内で発表する機会がありました。そこで痛感したのは、いくら作者が設定を内心で練っていたとしても、それが文章内でうまく表現できていなければ何も無いのと同じ、ということです。物語の真相、登場人物の隠された内心等を、読んで判る形、少なくとも「何かある」と匂わせることをしなければ、読者は何も気付かずに作品を通り過ぎています。私の書いた作品が、暴き出す価値のあるような内容になっているか、というのは今後の課題でもありますが、少なくとも、伝えたい内容があるなら、伝わるように書くのは作者である私の義務なのではないかと考えています。勿論、万人に作品内容が正確に伝わることは有り得ませんし、私自身それを目指しているわけではありませんが、「こんな人に楽しんでもらいたい」というターゲットがあるならば、そのターゲットが読み解けるような文章にしなければ意味が無いのです。
 伝えたい内容を、伝わる程度の隠し方で文章に混ぜ込む……その手段は例えば比喩表現であったり、情景描写であったりするわけです。私の頭の中の物語を、どうやって自然に文章へ出力するか。難しい問題です。私はずっと悩んでいます。問題解決の一助にならないかと、作品を読んだり、逆に小説を書いてみたりしている日々です。試行錯誤の末に答えがあるのかはまだ分かりませんが、こんな苦悩をもどこかで楽しく感じている自分が居て、やはりどうにも小説書きというのはやめられそうにないと、そう思ってしまうわけです。

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さくらさけ


みなさん、こんにちは。
1月中旬担当の光彩です。

本日は、センター試験の準備日として、ほぼすべての講義がお休みでした。センター試験、もう1年前のはずなのですが、今でもよく覚えています。
前日の下見の際、会場の場所がわからなくて、大学内を小一時間歩きさまよったとか。このような人がいるので、下見の重要性が説かれるのでしょう。
試験当日、自宅から自転車で会場入りし、友人に感心されたとか。30分ほどかかりました。当然ですがとても寒かったです。
試験後、暗くて道がわからなくなり、試験の出来よりも迷子になったことに泣きそうになりながら帰宅したとか。なぜ行きとは違う道で帰ろうとしてしまったのでしょうね。
大学入試は、一生のうちでも有数のイベントだと思います。私も、きっと忘れることはないでしょう。このような場所で言っても誰にも届かないとは思いますが、全国の受験生のみなさん、自分の希望を叶えられるように、しっかり頑張ってください!

さて、ひとの試験についてとやかく言う前に、大学でも来週から試験でございます。頑張っている受験生の悪い見本にならないように、私もしっかり勉強しなければなりません(笑)。

それでは、桜咲く春の訪れを祈念して。お読みいただきありがとうございました。


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リア充の痕跡



久しぶりにブログ担当になりました神無月です。
なぜかスマホから編集画面が開けなかったのでPCから編集しています。

私事ですが実に10年ぶりに東京に行ってきました。ゼミの関係なので交通費支給ですが日帰り弾丸上京となりました。おかげで東京見物は全然していませんがハチ公と渋谷のスクランブル交差点は見たのでよしとしましょう。
コミケとか一回行ってみたいんですけれどね。まあグリモアの公式ブースに行きたいなあという気持ちを2年連続で押し殺しているうちに今年は出店しなかったっぽいんですが。来年からもグリモアさんいないならもう行かなくても良い気もしてきます。ハマれるジャンルが少ないとこうなる。

最近はゼミ発表の準備ばかりだったので上京以外に特に書くことがないですね……。発表の終わった今は暇さえあればヘルシングOVA(20周年記念のBlu-rayBOX)をぼちぼち見ていく日々です。わたしは大尉推しです。

あ、NFのことでも書きます。
塗り絵コーナーに私の描いた線画を提供していたんですが、たしか3日目に行ったら後ろの壁に、ものすごく特殊な塗り方をされた私の線画が貼ってあったんですね。

聞いてみたら、カップルが右側と左側で半分ずつ塗っていったらしいんですね。

リア充の痕跡wwwと一躍話題になり、お焚き上げに入れようとか呪いの儀式に使おうとか散々ネタにされました。ていうかネタにしました。サークル設立以来初めてのことではないでしょうか。

このまま何年も代々受け継がれていったりするのでしょうか……。そうしたらいつかこの絵何?となることもありそうなので、ここに由来を残しておきます。




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♪マジキレそう 体が震える @冬の京都

どうも。最近寒くないですか?
いつぶりなのかわからないブログ投稿です。「元」八坂です。
「元」と付けたのは、改名したからです。
今は「八朔」を名乗っています。
ブログのタグ(カテゴリ―?)に関して言うと、この記事では八坂で、次からは八朔タグになると思います。タグが二つ付けれたらなぁ……と思わなくもないです。

冬は、日照時間が短いのでマジ寒いし早起きしにくいし鬱になりやすいし冬コミがあることを除けば本当最悪な季節のように思えますが、多分鬱っぽい思考のせいでますますそう思うようになっている気もしないですね。

あーあ!!!早く夏にならねえかな!!!というかまだ年明けてねえわ!!!

無気力が過ぎるのでレポートも書けない、絵も描けない、ゲームもご無沙汰、有意義な休日って何なんだよと思ってたらもう日曜日が終わりそうだし頭の中にはずっと重たいものが詰まってる気分だし(多分脳みそ)奮発して買ったウォッカの原液ぜ~んぜん溶かせる気がしないし……

あーあ!!!早く現人神になれねえかな!!!不敬罪ですね!!!すみません!!!

前の記事が半年強くらい前というのも驚きですが、なんか激動の半年だったので色々わからなくなってます。逆に書くことがない。創作論とか書こうとしましたけど色々調べてたら逆に何もわからなくなってしまいましたよ。作ったもん勝ちですよ本当。やっぱり机上の空論じゃなくて作品で殴らないと。

あ、僕の創作物がしばしば神ばっかなので多分上の叫びは無意識の顕在化ですね!!!

余談ですがstart君が主催したNFのキャラ創作ではいい感じのものが出来たと思ってます。
気に入ったので写真撮って置いてました。ランダムで引いたのにツモがすごくないですか?あとこれ神様なので僕の創作の格好の例ですね。
2018年度NFキャラ創作企画一例(八朔作) 
あと当日企画では絵しりとりの担当でしたが、解読できないモノがあったので次からは解読できないやつはすっ飛ばしてくれるようにルールのところに書かないとですね。

在学三年目にして初めて隣の漫研さんの会誌読んだんですけど本当上手くてうずくまってしまいました。嘘……私の漫画……しょぼすぎ……?
やはり作品で殴らなければいけません。
そういえばオンデマンド本も企画本原稿二つとも締切ぶち破ってたしレポートも毎度ギリギリだしなんか大学入ってから色々ギリギリなことばっかだしマジ最近寒いし……

あーあ!!!寝て目が覚めたら原稿出来てないかな!!!出来てねえか!!!そりゃそうだ!!!

本当に根っこまで面倒くさがりなので色々なことがピンチです。この面倒くさがり具合はどうやら完全に私が悪いわけではないらしいことが心療内科でわかったのですが、原因は分かってもこの社会では締切をぶち破ってしまうと人権は無いんですよね……現実はとても非情です。鬱です。いや鬱とは診断されてないです。
頑張るためのお薬を処方されたので飲んで頑張りたいんですけど、お薬飲むのが面倒くさいの完全にバグだと思います。F#CK!!! 頑張るぞい!(某画像)

そういうわけで前々からなんですが何か描いて描いて承認欲求を満たさないと生きていけないサブカルクソヴォーイになってしまいました。でも作品作るよりもとりあえず明日の朝は目を覚まさないと死です。単位を取らなければならない!健康的な生活を送らなければならない!!
私の欲求と環境からの要請が噛み合ってくれないからもう叫ばずにはいられない!叫ぶと体が温まりますよね!でも無印●品で綿製の肌着とパジャマとコート買ったから私はもう寒くないです!

あったかい!!!QoL上がった!!!涙が出る!!!

最近コンビニとか自販機で「あったか~い」紅茶を買い始めました!
「あったか~い」を飲み始めたらおっさんの始まりらしいのですが、高1の時に凍える京都駅の自販機で買っちゃったので僕の青春は高校始まってすぐ終わりました!

やっぱりあったかい!!!QoL上がった!!!鼻水が出る!!!

この記事を読んでくれた皆さん、チャンネル登録と高評価ボタンはありませんが、代わりに無印●品で綿製の肌着を買って、コンビニで「あったか~い」飲み物買いましょう!そしてコンビニ店員の方々に感謝の念を送りつつ月曜日から頑張りましょう!

こんな記事はここで終わりです!さようなら!バイバイ!

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NF企画「キャラクター創作」まとめ

 今年のNFにおいて、「キャラクター創作」という企画を担当させていただきました入ヶ岳愁です。キャラクター創作というのは、ランダムに決まったお題を基にキャラクターを自由に考えるというもので、今年になって初めて登場した企画です。
 まずはこちらの「キャラクター創作シート」をご覧ください。
bandicam 2018-11-29 15-53-57-331 
 シート上部はキャラクターの大まかな設定を記入する欄となっているのですが、この①、②、③を埋める内容を、今回はカードをランダムに引くことで決めていただきました。①や②は25種類以上の選択肢がありますので、組み合わせの数は膨大です。
 お題があるとは言え、一からキャラクターを作る以上、時間のかかる企画です。担当者としては、正直人気が出るのか不安な状況の中、一先ずNF前日に50部のキャラクター創作シートを印刷しました。
 結果として、企画は人気を博したと言って良いと思われます。というのも、NF最終日になって50部あったシートが尽き、私はコンビニまで走ることとなったのです(油断しておりました)。沢山のご参加、本当に有難うございました!

 さて、実際集まったキャラクター設定に関しましては、担当者として全て目を通させていただきました。「個人的に特に好きだったキャラクターTOP3」といったものをやりたいとも考えたのですが、許可の関係もあり、断念することと致しました。実際のところ、今回の企画では優劣は本質的なことではなく、参加していただけた方が楽しんでいただけたのならば、それが何よりのことだと考えております。
 ただ、せめて企画がどのように成ったかということはお伝えしたく、2枚の写真を以下に貼らせていただきたいと思います。何十人もの方々が、楽しみ、或いは苦心しつつ見事生み出された幾つもの魂をお見せして、今回の企画の締めとさせていただきます。本当に、有難うございました。35221.jpg 35222.jpg 

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書きたいもの、描きたいもの

 こんにちは、11月中旬担当の入ヶ岳愁です。11月中旬としてはぎりぎり間に合っているものと考えております。
 さて、今回は表題の通り、書きたいものと描きたいものについて綴ってみることとしました。私はSTART名義で絵も描いていますので、二通りの漢字においてそれぞれ「かきたいもの」が存在するという次第です。まずは「書きたいもの」について述べます。
 個人的な話をしますと、私は自分の書く小説のジャンルについて悩み続けながら今日を生きています。小説の主題はこれでいいのか、主題は前面に押し出すのか文章の奥深くに沈み込ませるのか、冒険小説を書くのか恋愛小説を書くのかミステリを書くのか、等々。小説を書く方は多かれ作風の悩みというものを抱えたことがあるのではないかと思われますが、私が特に具体的な「テコ入れ」を意識したのは高校三年生の冬でした。
 受験勉強をしてください。
 その頃私が悩んでいたこと、それは、自分の書く小説が軒並みやったらめたら暗いということでした。バッドエンド自体に抵抗は全く無いのですが、当時の私は、「バッドエンドしか書けないのは安易な逃げなのではないか」と考えました。暗い小説を書くのが手癖のようになっているのが気に入らなかった私は、ある機会に小説を書く際、意識してハッピーエンドを書いてみたのです。
 いや、受験勉強をしてください。センター一ヶ月前ですよ。
 ともあれ、結果として私は一ヶ月で三作のハッピーエンド小説を書き上げることができました。しかし、執筆中はかなり苦しみましたし、出来上がった内容も自分にとって納得の行くものではありませんでした。ここで今回のテーマに繋がるのですが、私にとってハッピーエンドというのは「書きたいもの」では無かったと考えられます。というか、「ハッピーエンドを書きたい」という欲求が先走った結果、中身の薄い小説が出来てしまったのでしょう。ハッピーエンドを書くのではなく、書きたい話がハッピーエンドであるのが自然な形なのでしょうから。
 当時の私の危機感は、自分の書きたいものを言語化できていなかったが故のものだと思われます。小説を書く時、どうしても「良いものを」書きたくなってしまうのですが、客観的に見て完全に善い小説という概念が存在するわけではありません。どれだけ偏っていても、書きたいものを最大限効果的に文章化することを目標とすべきと、今の私は考えています。では、私の書きたいものとは何でしょう。それこそを考えていきたいと思っている今日この頃です。これは恐らく一朝一夕で掘り下げられる課題ではないでしょう。私の中から何が掘り出されるのか、楽しみです。
 続いて、絵に関してです。とは言え、こちらはより歴が浅いこともあり、まだまだ現時点で自分の描きたいものが紙面上に出力出来ているとは思っていません。文字を打てばとりあえず文章になる小説(その上で様々な技巧的要素が必要なことは言うまでもありません。例えば私はこの文章が冗長になってしまっていることに頭を抱えています。つまり、こんな挿入文が入っていることに。)とは違い、絵はまず違和感の無い描写が出来なければ話になりません。伝えたいテーマもメッセージも、イラストに拙い部分があればそこに吸い込まれ、消え失せてしまうでしょう。まだまだ鍛錬を積む段階です。

 さて、長々と個人的なことを並べてきましたが、私は現状、かきたいもの、得意なものを探し続けています。それを探す過程においてやはり、様々な種類の作品に挑戦する(読む書く双方において)のは肝要と思われます。インプットとアウトプットをバランス良く行う、というのが当面の目標なのですが、これが中々に難しいというのも、また本音なのです。

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11月祭

11月祭レポート 11月23日
私は今日は15時から16時までの間しか会場に行っていないので、一日が終わったときの大学の様子を書きます。
図書館を出ると、もう暗くなっていて、吉田南の方から、18時の鐘がカーンとなる。クスノキ前で演舞を終えたよさこいの人々が、列をなして歩いていて、彼らの着ている青い法被のような衣装が、薄闇の中ではっきりと見える。自転車を押しながら歩く人や横並びにぞろぞろと帰っていく人、その中を半ば無理に通ろうとする自転車で、時計台の周りはごった返している。法学部棟から聞こえるハリーポッターのテーマ曲と人のがやがやした声が混ざり合った音を聞きながら、私はふと「もし京都市が景観条例に続いて騒音条例を出し、11月祭での音出しが禁止されたら、今のように賑わった11月祭はなくなってしまうだろうか。」と寂しい思いに駆られた。

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11月祭

11月22日 木曜日 NFレポート
9時半ごろ会場に向かい、開店準備を微力ながら手伝う。段ボールを組み立てて模造紙を貼って「名称未定」と大書した看板を急いで作る。会場は普通の教室を半分に分けて、段ボールをガムテープでつないで、白い模造紙で覆った壁を立ててある。
 10時になると、お客さんがやってくる。全部セットは少々高いので、個人誌やポストカードがよく売れる。意外なことに、時間のかかるキャラ創作ーキャラクターの属性を表すカードを引いて、それにあったキャラクターおよびそれを用いた短編を書くというものーがけっこう人気である。
 私の担当していた俳句コーナーは、紙の大きさもまちまちで、歳時記も置いていないので、やる人が少ない。私がレジの片手間に書いた謎の短歌(字が汚くて誰も読めない)が、むなしく後ろの壁の模造紙を埋めるだけである。(その中で、孟浩然の春暁をもじって、「春眠暁を覚えず 夏眠暁を覚えず 試験あれど覚えること能わず 単位落つること甚だ多し」というめちゃめちゃな漢詩は見るものの笑いを誘う。)
 私はNF委員としてシフトを決めたのだが、色々考えた結果、4時間連続シフトの人が出てきてしまった。あまりに申し訳ないので、昼食時間は私が代わりに入る。それくらいは当然である。ただただ申し訳ない。
 来る人に「このサークルはいったい何のサークルなのか」「このサークルは漫画研究会と何が違うのか」などと聞かれる。我々でさえそれは疑問である。とりあえず、「紙の上でできる創作なら何でも」と言えば、何とか通じるが、それでも定義は難しい。
 17時15分から、オーイシマサヨシと言う人のライブがあり、段ボール壁の奥にいた先輩方は皆それに行く。閑散とした会場でレジ係をしていると、OBの方がいらっしゃった。彼は5年ほど前の方で、このサークルでリレー小説企画を始めた人らしい。最初は、リレー小説の完全版をブログにアップしていたそうで、我々もするべきなのか悩む。
 そうこうしているうちに、初日は終わった。まだ平日だから人は少ないが、個人誌がけっこう売れた。一方で、レジに残ったお金が、本当にあるべき量のお金と合わず、レジの人々を悩ましている。おそらく、私がレジの釣銭を用意するときに、釣銭の数をきちんと把握していなかったせいであろう。

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NFレポート

11月下旬担当の葱です。今回はNFについてレポートします。NFレポート 前夜祭 11月22日
4限目が終わって、ルネに行く。17時ごろには6人ほど集まって、マテキ(物資保管者)の家に荷物を取りに行ったり、会場に荷物を運んだりする。5限が終わった18時ごろになると、空はすっかり真っ暗になって、道は段ボールや屋台の鉄板を運ぶ学生でごった返してくる。ルネのあたりの歩道などは、自転車がいつも以上に飛び交い、安全に歩くことすらままならぬほどである。そのような中を、大きな段ボールを担いで、腕を痛めながら歩く。手押し車に載せた荷物が慣性の法則でずり落ちるのを直しながら、えっちらおっちらと進んでいく。吉田南のグラウンドは、おまつり広場と称して、屋台が立ち並び、大きな舞台がたつ。正門前に来る頃には、グラウンドではめらめらと焚火が燃え上がり、応援部のらっぱや太鼓が雷のような大音声を立てている、まさに今11月祭が始まっているのである。われわれは4共23で会場準備をする。会場は段ボールで壁を作って、会員部屋と店スペースとにわけるので、その壁をまず作る。段ボールをガムテープでつぎはぎして、白い模造紙を両面テープで貼って壁を作るのだが、口で言うほど簡単ではない。私などは、おろおろと眺め、じゃまになりながらも何かしら手伝う。途中で物資が足りなくなり、ダイコクドラックに走らねばならなくなる。買い出しに行ったのは私だから忸怩たる思いである。それでも皆さんのご尽力で何とか終わる。私はただただやることなすこと空回りしていた。ある程度終わって、サイゼリヤに食事に向かう。正門を抜けると、11月祭テーマを書いた看板が見える。今年のテーマは「NFテーマは当局により撤去されました」であったと思う。「お互い当局、学外者と呼び合う中で、一体何が生まれるのか。まずは互いに敬称で呼び合うのが大事ではないのか。」「今度は何が撤去されるのか。」と、何とも複雑な気持ちになるが、それよりも寒さが身に応える。サイゼリヤで食事をして店を出ると、前夜祭が終わった後でサイゼリヤに来た人で、1階がごったがえしている。酔っ払いの中を歩いて会場に帰り、明日の準備をして、ぽちぽち人が帰っていく。かくして私も帰宅した。

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食べるときは食べる

10月下旬担当の葱です。遅くなってすみません。
 最近スマホを見ながら食事をする人をよく見かけます。 パソコンを付けるやいなやサンドイッチを開けて食べ始める人、かったるそうな顔でひじをつきながら菓子パンをかじりつつツイッターに見入る人、手製の弁当をつつきながらときどき画面をスワイプする人など、様々です。若い人もお年寄りも、日本人も留学生も観光客もそうします。私は同時に二つのことができませんから初めからしません。また、昼食はちゃっちゃと食べたいですし、いちいち箸を置いて画面を見るのはあまりに面倒そうです。そもそも人から連絡はほとんど来ないのでしょっちゅうスマホを見る必要はないので、わざわざ食べるときまでスマホを見る意味がないのです。
私が幼い頃は食事は集中して食べるものと教えられたのに、スマホを見ながら食べることが老若男女や人種を問わずなされています。それが誰も気にしないくらい一般化しています。人は一体スマホを見ながらご飯を食べているのか、それとも、ご飯を食べながらスマホを見ているのでしょうか。食べるという、生命維持にも心の洗濯にもコミュニケーションにも大切な行為すら何かしながらでなされています。果たしてこれはいいのか、私にはわかりません。

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ハロウィンが過ぎても10月は終わらない。

 こんにちは。10月中旬担当のひがんばなです。ちょっと人より眠かったせいで前期の取得単位数が残念なことになった人健1回生です。後期は心機一転、まだ全休はしておりません。未定のみなさんを含め周囲の方々から「絶起する人」みたいな認識をされている私ですが、後期はぜひそれを払拭していきたいですね。(もう手遅れ?そんなことはない)

 それはともあれ。名称未定に入会してはや半年以上ですが、とても楽しく過ごさせていただいて、ありがたい限りです。毎週水曜日にルネに行ってパフェを食べながら例会に参加するのは、私の大きな楽しみであります。水曜日全休しても例会は行く、何ならルネが閉まった後でも円陣*だけ参加する、といったような前期の微笑ましいエピソードからもそれが伝わりますね。他の方の作品を拝見したり、何より自分の創作物を発表する場があるのは大きなモチベーションであります。「誰かの目に触れる(かもしれない)」と思うと全然違いますので。私は高校の時もっぱら独りでキャラ創作に励んでいたのですが、なんと3年生の時、それを面白がってくれ且つハイパー美麗な絵を描いてくれる神のような友人が出現し、創作の楽しさが跳ね上がるという経験をしましたので、重なる部分があります。(何をやっているのだ受験生よ。ちなみにその方はセンターの二日目、理科が終わった後に新しい絵をくださいましたね笑)その親愛なる友人とは今も交流があり、私のペンネーム「ひがんばな」もその方の作品に由来するものです。

 そう、ペンネームといえば。前期のあいだ描く描く詐欺を続けていた私ですが、ついに今回未熟ながら1枚完成させまして、それは「まんじゅしゃげ」という名前で出すことにしました。未定には文も絵も、という両刀の方が何人かいらっしゃいますが、その中に創作媒体ごとに名前を使い分ける先輩がいらっしゃって、「いいな~名前の使い分け」ということで。ひがんばな調子にのりました。まあ形から入るのもありですよね!というわけで後期は「まんじゅしゃげ」としての活動も頑張っていきたいと思います。今回本当に、下手でも何でもいいから取りあえず一つ完成させるのが大事だ、ということを実感しましたので。それではこの辺で。後期はまじめに授業に出、絵をいっぱい描いていきたいと思います。(絶対4年で卒業するんだからな~~焦)

*円陣・・・活動場所であるルネが閉まった後、出入り口付近にたむろし談笑する、名称未定の恒例風景。

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日本語って難しいね(結論)


こんばんは、書く書く詐欺を続けて幾星霜、もはや後のなくなった八橋大社です(今回も本来は上旬の予定でありました)。

ブログでは、いつか個人的な創作論を開陳したいと思っていたのですが、自分の中でもまとめ切れていないので、今回はとりあえず「読みやすい文の書き方とは」という小学生並みのことを述べてみたいと思います。

高校の頃から字書きを僭称しておりますが、時々「どうやったらわかりやすい文書けるの?」と訊かれることがあります。これに対する答えをいろいろ考えてきたのですが、現状の私の答えは以下のようになります。

***
 個人的に、文章には「文の流れの中で重みをもたず、さらっと読み流す(読み流してほしい)部分」と、「文の流れの中で重みをもち、意識が向く(向けてほしい)部分」とがあり、作者の意図(物語)における両者と文章表現における両者とが一致しているものが、まず読者のスムーズに読み進められる文章であると思います。
 「重み」と言いましたが、個人的には「(文の)ウェイト」と呼んでいます。「テンション(緊張)」と呼んでもいいかもしれません。要するに、「ウェイトのある部分にはウェイトのある表現、ウェイトのない部分にはウェイトのない表現」を心がけるということです。
 主観的な定義なので言語化しづらいですが、「ウェイトのない部分」とは、動作表現や様態表現で描写の背景に溶け込む部分、あるいは「さりげない」部分、あるいは「ト書き的な」部分、「あまり目を向けてほしくない」部分であります。
 文章の流れの中でウェイトを置かない部分にウェイトのある表現を用いてしまうと、読者はそこで小さな「ひっかかり」あるいは「つまづき」を感じてしまい、それがその文章の読みづらさにつながります。書き手はおおよそ文章に熱量を込めてしまうので、どうしても全般的にウェイトのある文章になってしまいがちです。そこで、ウェイトが置かれていない部分では意識的に表現を見直し、文章のウェイトを削ぎ落す必要があります。これによりウェイトの適切なバランスが生まれ、より読者に意識を向けてほしい箇所への凝集が形成されます。(※個人の感想です)

 では、ウェイトの調整のために個人的に日頃留意していることを以下に挙げます。

①「ひらがなにする勇気」を持つこと
 ウェイトが生じる部分、それは第一には「漢字」です(個人の感想です)。つまり、いらぬところで漢字を使うと、脳内で文章の咀嚼にエネルギーが割かれ、視覚的にもうるさく、そこにいらぬウェイトが生まれてしまいます。
 よく陥る失敗点として、「なんでも漢字に変換してしまう」があります。PCで書いていると、予測変換で漢字表記がサジェストされるので安易に漢字を使ってしまいがちですが、中にはあえてひらがなを選んだ方がいいものも多くあります。例えば「の様な」「何故か」「所謂」「仕舞う」「出来る」「無い」「(個別具体の事物を指さない)物」「(~して)居る」「煩い/五月蠅い」「姦しい」「~し得ない」「筈」といった類のものです。「例えば」もこれに入るかもしれません。これらは文章表現においてそのウェイトの優先度が低く、ゆえに「さらっと」読み進められた方がよいものです。そこであえてひらがなにとどめておくことで、文章の滑りは良くなります。
 また、同義で複数の読み方ができる感じ表現も、詩作のような語感を大事にしたい局面ではひらがなにすべきか漢字にすべきかをよく吟味します。例えば、「良い」には「よい」と「いい」という二つの読み方があり、意味はさして変わりませんが語感は大きく違います。なので、どちらか一方の読み方で読んでほしいという意識があれば、ひらがなでそれを明確にしたほうがよいでしょう。他の例としては、「違える(ちがえる/たがえる)」や「」などが挙げられます。なお、「良く」には「念を入れて行う」や「程度がはなはだしい」「頻度が高い」といった意味もありますが、「良く」という漢字表記にはどうしても「良質」という意識が(個人的に)つきまとうので、これも「よく」とひらがなで書きます。送り仮名などで読み方に迷いが生じえない場合はこれらはこの限りではありません。ウェイトとからめて言えば、「上質である」という意味がより強調されるのは「よい」読みの方である(と私は思っています)ので、そのように「これはよいものだ」という意味を強調したい(ウェイトを置きたい)場合は「よい」と読みを指定する、といった具合です。これまでの私の「良い」「いい」「よい」「よく」の使い分けはこのような理由によります。この「~による」も、変換では「依る」「拠る」「因る」「由る」「縁る」などが出てきます。漢字で表現したほうがその意味するところははっきり語義的に定まりますが、ここはそのような重きを置くところではありません(と私は判断しました)。
 動作表現でも、本来的意味を失ってその他の慣用的表現に組み込まれているものは本来のウェイトを失っているといえます。この峻別もだいぶん主観的なものですが、個人的には「~しうる」や「できる」などがその例かと思います。
 名詞(「為」「物」「人」など)については形式名詞と実質名詞の区別でひらがなか漢字かが定まるようです。
 他には、意味的に連続しない漢字表記が続く場合も、どちらかをひらがなにしたほうが読みやすい場合があります。語がひとまとまりにも見えしまい、引っかかりになります。上の方にある「日頃留意していること」も、「日ごろ留意していること」としたほうがいいかもしれません。
 しかしながら、あまりにひらがなが続く文も当然読みづらいものです。なので、そこはバランス感覚が重要です。たとえば、「それをいうのはけだしわずらわしいことだ」という文はひらがなが続きすぎな気もしますが、「其れを言うのは蓋し煩わしい事だ」もウェイトがごちゃごちゃしています。その中庸を探っていくことになります。私は「それを言うのはけだし煩わしいことだ」あたりで手を打つでしょう。

②読点(、)の場所に気をつけること
 ウェイトの発生源の第二は、「読点の前後」です(※個人の感想です)。時々、あまりに長い文章、あるいは読点の極端に少ない文章を目にしますが、それでは読者の注意力が続かず、メリハリがないためにウェイトが分散してしまいます。また長い文章は構造が何回になりがちです。個人的には、続いてきた文章が読点で切れた箇所でいったん意識に一呼吸入り、その前後にくる語にウェイトが置かれるように思います。この読点の場所に気をつけるだけで、文章は驚くほど読みやすくも読みにくくもなります。
 ①の最後に上げた文に、私なら「それを言うのは、けだし煩わしいことだ」と読点を入れます。これで「それをいうのは」という意味に区切りがつき、そのあとの「けだしわずらわしいことだ」という結論部分に向けてウェイトが置かれ、メリハリがつきます。ためしに、自分の書いた(特に急いで書き上げたり徹夜で書いたりした)レポートの文章の読点をいじってみると、変化の大きさに驚きます。
 日本語は近代になるにつれ読点が増えひらがなが増えてきていると嘆く節をどこかで読みましたが、知ったことではありません。読みやすい文を書いたほうが勝ちなのです。

③文章表現のマナーを守ること
 前提条件のようなものですが、文章表現上の決まり事が守られないと、それは読みづらさにつながります。たとえ言語表現上うまくウェイトの処理ができていても、文字表現が誤った用法になっていると読者は(少なくとも私は)「気になって」しまいます。これは意図せぬウェイトの発生になります。これは長編小説になればなるほど気になってきます。名称未定の会員の方の作品にも、たまに指摘できる点があります。留意すべきルールとしては、以下のようなものがあります。(※なお、これらはあくまで慣習的に守られているものにすぎず、その一般的な表現に慣れ親しんでいる読者が読みやすい、ということです)

〇数字の算用数字/漢数字の区別:基本的に横書き文では算用数字、縦書き文では漢数字を用います。

〇漢数字の記数法(の統一)
 これは難しい問題で、どうやら戦後には論争にもなったようですが、ざっくりいえば「203」を
「二百三」とするか「二〇三」とするか、という話です。俗に前者と「トンボジュウ方式」、後者を「イチマル方式」というようです。4桁以上になると、「2018」を「二千十八」とするか「二〇一八」とするかの問題に加え、「二、〇一八」はどうかという問題も生じます。な
漢数字のコンマには読点(、)を用います。また、小数点には中黒(・)を用います。
 個人的には、桁数が増えるにつれてトンボジュウ方式では読みづらくなるのでイチマル方式をおすすめしたいところです。ですが、イチマル方式の場合も4桁ごとの単位語(万、億、兆……)は書いたほうが読みやすいでしょう。イチマル方式でも例外は多く、慣用表現(「五十歩百歩」、「三位一体」など)や不定表現(「数十メートル」、「数千人」など)はトンボジュウ方式で表します。
 詳しくは「漢数字 表記」や「トンボジュウ方式」などで調べてみてください。大事なのは、文中で記数法を統一的に使うことです。複数の方式が混在していると、読みにくいことこの上ありません。

〇発話をあらわす鍵括弧(「」)の末尾の句点
 〈「~~。」〉や〈「~~」。〉ではなく、〈「~~」〉とするのが一般的です。

〇3点リーダーとダッシュ
 3点リーダー(…)やダッシュ(―)は、2個続けて使う(……、――)のが一般的です。ダッシュはフォントによっては間がかすかに開いてしまうので、気になる場合は、そこだけダッシュがつながるフォント(例えばMS明朝)を使いましょう。

〇縦書きの場合のアルファベットの表記
 これも難しい問題ですが、1文字の場合は縦置き、2文字以上の単語や分の場合は横置きとするのが一般的なようです。2文字以上の語でも、頭字語(「NGO」、「NATO」など)は縦置きとするようですが、長い単語(「MERCOSUR」など)は読みやすさの点から横置きとする方法もあります。単位については、縦書きではカタカナ表記(「グラム」、「ヤード」など)とすべきとされますが、Wordなどでは縦書き用にも合字の記号(「㎏」、「㏏」、「㎠」など)が用意されていますので、そちらを使ってもよいでしょう。

いずれにしても、肝要なのは「表現方法を統一する」ことです。不統一な文面は、それだけで読む気を削ぐことにもなります。


***
 以上、長々と所感を述べました。これが、私の思う「読みやすい文章」を書くにあたって留意すべきと思われる点です。他にもいろいろあるとは思いますし、くりかえしますがこれは私の主観です。一般に適用できるかは疑問ですし「ウェイト論」は文意も散漫ではありますが、これが私の文章論の基礎でもあります。

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気になっている言葉 ②

名称未定ブログ9月下旬担当葱です。
夏休みの間に感じた気になった言葉を集めました。
➀ 天使 
 女性や子どもの愛らしい様子を表現する際に用います。昔は美人を「天女のようだ」と表現することはしばしばありましたが、今ではそこも「天使のようだ」と表現することが多いです。本来、天使は子どもがかわいらしい様子を表現する際に用いる言葉だったはずなのですが、天使で表せる内容がどんどん広がっていったようです。これは日本人の中でならよいのですが、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒と話すと誤解が生じるのではないかと不安に思います。

②処理
私がある図書館の地下書庫に行った時のこと、書庫の扉に「ムカデが侵入しましたが、無事処理しました。」と書いた張り紙がありました。これは「ムカデが侵入しましたが、殺しました。」という意味です。確かに、「殺す」という物騒な言葉を使うのはよろしくないかもしれません。しかし、本来生き物の命を奪うことは、大変勇気がいることです。しかし、この文章では、ムカデはあたかもごみか何かのように「処理」される存在になっています。(せめて退治しましたならわかるのですが。)これは、果たして適しているのか悩みます。もし、ムカデではない別の大きな生き物(例えばネコ)を殺すことを「処理」すると書いたなら、書き手の倫理観を疑われるでしょう。私たちは殺生せずに生きてはいけませんから、生き物を殺すことをどう表現するかは大きな問題です。

③かわいい
とっくに指摘されていますが、かわいいという言葉が多義語化しています。世間の言うかわいいの指す内容を列挙すると以下の通りです。いとおしい(「我が子可愛さ」になど)、愛らしい、いじらしい、愛くるしい、艶がある、綺麗、美人、しおらしい、ちんまりとして見た目が良い(マカロンを指す際などに使用?)、見ていて感じが良い、慕わしい、鮮やか、インスタ映えする、ギャップ萌えする、思わず顔がほころぶ感じ、思わず写真に撮りたくなる、などさまざまです。そのため、お菓子からおじさんまであらゆるものにかわいいという言葉を付すことが出来ます。私としては、「かわいい」ですべてが表現されると、後代の人々が我々の文章を読んだときに意味がわからなくなるのではないか、と不安に思います。(枕草子の「をかし」を訳すのに迷うのと同じです。)

④総長
高校では校長先生のことをA校長と言わずに、校長先生と言います。しかし、大学では総長先生のことを総長先生ではなく、A総長と言います。この違いはどこから生じたのでしょうか。ちなみに、私のいる大学では、総長先生のことをゴリラと呼んでいるので、この違いは別に問題ないかもしれませんが。

⑤無能
何もできないことを言いますが、最近は「気が利かない」、「自分の求めているレベルの仕事ができない」、「才能がない」「もたもたしている」などの意味を表現します。無能はあまりにも強い罵倒表現ですから、そこまで連発するのは問題ではないかと思いますが、いかがでしょう。

⑥我が国
国土は特定の人間の持物ではないはずなのに、なぜ「わが」をつけるのでしょうか。ナショナリズム論の題材にちょうどよさそうな問題ですね。

⑦自由
誰にもわかりません。

以上私が気になった言葉でした。

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あれは平成最後の夏のことじゃった……(合宿レポ)

 何にでも平成最後と付けるこの風潮がどちらかと言えば大好きな③です。

 さて、名称未定では毎年九月ごろに希望者を募ってサークルで合宿を行っています。
 しかし、まあ何分ここは創作を趣味にしている人が集まったサークルなので、必然的にインドア派が多数になるわけです。なので参加希望者も少なくささやかなもので、毎年4、5人ほどでそのへんにふらーっと行ってぬるーっとしてくる感じが未定合宿の伝統だったのですよ。
 今年もそんな感じかなーと思っていたのですが、今年は少々、ちょっぴり参加者が増えまして。

 総勢ほんの16人ほどが参加を希望したわけです。

 いやいや待っていただきたい。16人てあなた困りますよ。普通この規模の人数が多いことを形容する時って何らかのスポーツが出来るって言いますけど、16人って絶妙に何にでも形容できないじゃないですか。ぱっと思いつく限りだと野球は18人、サッカーは22人、バスケは10人、バレーは12人、聖杯戦争は14人ですからね。なんとも16人という人数はもどかしいものです。

 ……失礼、少々混乱しました。ともかく16人という人数、例年比三倍という参加者を聞いた合宿係の③はそれくらいの衝撃を受けたということです。
 こいつは適当に合宿の準備とかを片付けることもできないし、昨年のように合宿レポートを三行で済ませるという暴挙もちょっと出来そうにありません。あ、詳しくは一年前の僕の記事をご覧ください。
 ともあれ、流石に極インドア派の③もそこそこ真面目に色々手続きとかをして合宿に臨みました。どれほど真面目だったかはこれから述べるレポートでお分かりいただけるかと思います。
 では、参加者の皆さんが撮って下さった写真をふんだんに交えつつ、合宿のダイジェストをお送りします。
 また、プライバシーに配慮して希望した会員は顔をぼかし処理させていただいてます。別に心霊写真とかでは多分ないので安心してご覧ください。

 それともう一つ。今記事で使用する写真は大体スマホで撮影したものでサイズが相当大きく、ブログに乗せるうえでは一部しか映らないことがあると思いますが、これを全部サイズ修正するのは③の気力では不可能なので、気になった写真はクリックしてフル表示していただきたく存じます。全体的にガバガバですまない……

 まず、今回の合宿、行き先は和歌山県の白浜という場所です。これは何年か前の未定合宿でも行った場所で、真面目な③は色々調べるのが面倒だったので当時参加していた先輩とか白浜に合宿経験のある同期とかから聞いた情報をそのまま採用しつつおおまかな予定を決め、合宿当日を迎えます。


 一日目

 新大阪から特急くろしおという電車に乗って白浜まで向かいます。正直言って今回の合宿のある意味最難関がここでした。
 何故ならここに辿り着くためには、大学生の天敵、睡眠時間を強制的に引き延ばす能力を持ち、皆から「絶鬼」と呼ばれ畏れられている悪魔を打倒する必要があったからです。
 ですがそこは優秀な未定会員たち、誰一人欠くことなく電車に乗ることに成功しました。ありがとうございます。
 電車内では皆思い思いに、僕は今夏噂の「ペンギン・ハイウェイ」を読みつつ電車内での時間を過ごし、三時間ほどの旅の後白浜に到着しました。

▼白浜のイメージキャラクターだそうな。可愛い。
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その後は半自由行動です。「とれとれ市場(詳しくは後述します)」という場所に行って贅沢な昼食をとる会員もいれば、海に行ってぱしゃぱしゃする会員、宿泊場所に行って早速引きこもる会員等さまざまです。
特別どこかに行く、ということはありませんが、合宿一日目は大体こんなものです。

ちなみに今回の宿泊場所は「京大白浜海の家」という場所で、京大に所属する学生や教員ならばタダで利用できる素晴らしい施設です。このおかげで合宿の費用を大幅に削減することが出来ました。やや僻地に立っていますが、海も近く、「円月島」という白浜で有名な観光名所もすぐそこにあります。

▼波打ち際でたそがれる会員たち。
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▼「円月島」とはこんな感じの場所です。本来は下の穴に夕日が沈む瞬間が非常に美しいのですが、
 今回は天候に恵まれませんでした。だがこれはこれでよし。
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 夕食も思い思いにとり、その後は未定合宿恒例のパーティータイムです。
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 ある意味この時間が未定合宿の本番で、会員が思い思いに持ち寄ったトランプやボードゲームでお酒やお菓子を食べながら遊び倒します。この瞬間が一番生き生きしている会員も数多くいます。流石インドアサークル。

 初日はこんな感じで過ぎていきました。


 二日目

 二日目は自由行動です。というのも、真面目な③は細かく合宿の予定を定めるなんて手間のかかることがどうしても出来なかったので、「よし会員に丸投げしよう!」というこの上なく行き当たりばったりな計画を聞こえのいいオブラートで包んだ結果こうなった感じです。ともあれ二日目がスタートしました。

 各自で予定や行き先を決めたところ、参加者は主に「待機班」「神社班」「もふもふ班」に分かれることとなりました。
待機班は、昨夜遊びが少々盛り上がってしまい(超ソフトな表現)寝るのが遅くなってもうちょっと寝ていたい人や、海で遊び足りなかった人など。
神社班は、その名の通り神社等に目的地を定めた人。
そして③も参加したもふもふ班は、「アドベンチャーワールド」という所に行きました。すみませんが他の班の行動を詳しく把握してはいないので、二日目前半はこちらのレポートだけにさせていただきます。
「アドベンチャーワールド」とは、白浜でも屈指の人気観光地であるテーマパークです。動物園と水族館と遊園地が合体したような場所で、多種多様な体験が出来、何より動物をもふもふできるコーナーがあります。
 動 物 を も ふ も ふ で き る コ ー ナ ー が あ り ま す 。
 大事なことなので二回言いました。これが「もふもふ班」の由来であり、ぶっちゃけると③にとって二日目の目的の半分以上はこれでした。③の一族は遺伝的にもふが大好きなのです。遺伝だから仕方ない。
 まずはざっとパーク内を見て回ります。

▼サーバルちゃんです。
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▼先輩がたくさんいますね……
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▼イルカショーです。何か最近FGOでこんなの見た気がする。
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そして個人的にお待ちかねのふれあいコーナーです。イッヌとふれあえるらしいです。

▼ひと目で尋常じゃないもふもふだと見抜いたよ
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▼はぁ~~~~~???????
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 いやちょっと可愛すぎましたね……存分にもふらせていただきました。全然逃げたとかせず普通に触る分には全然こっちの自由にさせてくれるんです。なんて素敵なイッヌ様なんだ……
大変堪能させていただき、午後二時ごろにアドベンチャーワールドから海の家まで戻って来ました。
 しかし、二日目はまだまだこれからです。

 と、ここで少々時系列が過去に飛びます。合宿の前日にとある会員からこんなメールが届きました。

先輩会員「③君。海の家ってバーベキューのコンロ貸し出してるらしいよ」
     ③「……………………ファ!?」

 BBQ。バスターバスタークイックじゃないよ。それは夏合宿には必須級の素敵イベントです。しかし真面目な③は海の家がそんなサービスまで受け負っていることなど欠片も知りませんでした。いやそんなサービスがあるとなれば開催すべき。やるとしたら二日目の夜だろう。しかしコンロ以外の網や炭、食材等は自分たちで用意する必要があるので、当日調達する必要がある。ある先輩がレンタカーを借りて下さっているとはいえ海の家は僻地、天候とかもあるしアドリブでどこまでいけるか……と不安を抱きつつアドベンチャーワールドから帰ってきた③でしたが。

 帰ると同時に体力の雑魚さを遺憾なく発揮して即座に寝落ちてしまい。

 起きたらなんかバーベキューの用意が有志の会員によって完璧に整っていました。

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 各種買い出しも終了、食材の仕込みも完璧、設備も用意済み、後は焼くだけの状態です。
 ……やだ、うちの会員、優秀すぎ……?

 かくして心配していたバーベキューが拍子抜けするほどあっさり開催の運びとなったわけです。
 焼く作業も、料理上手な先輩会員が素晴らしい手際でやって下さったので、真面目な③は──もう枕言葉要りませんね、③はもうひな鳥もびっくりなくらいのレベルで食べるだけの存在になり果てました。炭火焼きおいしい。

▼あぁ^~いいっすね^~
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▼にく~~~~~!
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▼そして集合写真です。なんだこの名称未定……まるで大学のサークルみたいじゃないか……
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 そんな感じで、盛況のうちにバーベキューは終了できました。
 また余談ですが、名称未定おつまみ研究部が
「さきいかを炭火で炙る」
 という悪魔のおつまみを残った炭火で開発していたことをここに記しておきます。

▼悪魔的発想っ……!
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 ですが、実はまだ合宿二日目は終わりません。
 この後、有能な未定会員によってなんと、

 花火が用意されていたのです!!

 強すぎる。夏をよく理解していらっしゃる……
 そういう訳で、二日目の締めに海岸に移動して夜の海を眺めつつ花火という圧倒的夏イベントを行うことになりました。

▼しばし童心に帰る未定会員たち。
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▼ねずみ花火!
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 そして最後は勿論線香花火です。

▼なんか奇跡的に取れた荒ぶる線香花火ショット。
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 花火の途中、近くの京大の施設で実習に来ていた他の京大生さんとも偶然出会って一緒に花火を楽しみました。こういった旅先での出会いも旅の醍醐味の一つです。良い。

 と、こちらの予想以上に素敵イベント盛りだくさんとなった合宿二日目でした。


 三日目

 三日目は流石に午後には電車に乗らないといけないので二日目とは違い全員行動です。
 まずは、海の家のお隣にある京大白浜水族館に行きました。
 京大生であれば無料で学費が泳いでいるのを眺められるということで、一時間ほど自由に鑑賞タイムです。

▼泳いでますねぇ
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▼うにです。食べたい。
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▼えびです。食べたい。
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▼かにです。食べたい。
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 疲れがたまっているらしく休憩する会員も多かったですが、ぼちぼちと引き上げてバスに乗ります。

 続いては、前述した「とれとれ市場」という場所に向かいました。
 ここも有名な観光地の一つで、主に海産物を取り扱う市場です。
 そして、この場所の最大の特徴は、購入した新鮮な魚介類をその場で食べられる、という所です。
 刺身系ならご飯を買って海鮮丼にするもよし、バーベキューコーナーもあるので魚介を焼いて食べるもよし、です。
 そういう訳で。

▼食べました!
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▼肉でも魚でもバーベキューをするという至上の贅沢! 良い!!
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 市場の近くには温泉もあるので、そちらに行ってゆっくり温まってきた会員もいたようです。
 とれとれ市場はお土産コーナーも豊富なので、それらを購入するなりのんびり食事をしつつ過ごすなりしつつ過ごしたのち、バスで駅まで移動、そして帰りのくろしおに乗って、新大阪で解散です。

 以上が、今年の未定合宿でした! ちょっと色々書くことが多すぎてそろそろ指が痛いです!


 そういう訳で、参加者兼合宿係として軽ーく全体の感想でも。一言で言うと、
 想像の三倍くらい充実した合宿だった
 ということです。
 最初に言った通り、このレポートを読んでくださった方ならもうお分かりでしょう。
 そう、この合宿、驚くほど③は働いてません。
 いやほんと申し訳ない限りなのですが、実は当初僕が決めていた予定は
 一日目:海の家に行って後は自由
 二日目:自由
 三日目:水族館行って適当にお土産買って帰る
 これだけです。マジです。
 よもやこれだけの予定であれほど様々なイベントが出来るとは。バーベキューとか花火とかは完全に他の会員がアドリブで用意してくださった感じです。勿論参加者が有志で色々やって下さることは期待していたのですが、ここまでとは想定していませんでした。こちらのミスとかも結構あったんですが、有能な会員がカバーしてくださいましたし。未定の底力を知った。

 おかげさまでこちらも大変楽しかったです。合宿を盛り上げる手伝いをして下さった数々の会員の皆さん、また参加してくださった皆さん、本当にありがとうございました! よろしければ、来年もおねがいします!

ではこの辺で。合宿お疲れ様でした!

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長編一作書き終えて。それとラブコメの話。

九月上旬担当のいろりです。
八月下旬頃には自転車を漕いでいると勝手にネタを考え始めたので不思議なものです。やはり何か書くのが好きなのかもしれないなんてことを思います。
さてタイトルの通り、新人賞に応募すべく八月一日から毎日コツコツ書き進めていた物語を昨日書き終えました。・・・・・・訂正。正確には今日でした。分量の関係で初めに応募しようと思っていた新人賞の規定を超えてしまったので応募する新人賞を変えました。それによって締め切りが八月三十一日から九月三十日に伸びたので、締め切りを延ばすのは良くないと思いつつも終盤にはだれてしまい結局八月三十一日に間に合いませんでした。・・・・・・とと、ちょっとどうでもいいですね。
なんにせよ疲れました。
キャラクター設定がガバガバで台詞には困るし、がっちり固めたはずのプロットもキャラクターの感情を何も考えていない。結局、執筆中はプロットに指定されているいくつかのチェックポイントの間をアドリブで走るなんていう暴挙に及ばねばなりませんでした。
しかし、それらの反省点を踏まえて次回作に取りかかることが出来るなど、色々学べることも多かったです。
何より驚いたのが実は自分が思っていたよりも、会話劇が好きだということです。
くだらない会話を書いているときは割とキャラクターが勝手に話してくれますし、一度はそのおかげで内容は覚えていませんが幸せな夢を見られたこともありました。
会話劇が生きてくるのはラブコメでしょう。
そういうわけで今僕はとてもラブコメが書きたい。
ラブコメといえば僕が初めに呼んだのは「さくら荘のペットな彼女」です。次はラブコメかどうかは分かりませんが「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」次が「冴えない彼女の育て方」それから先は覚えてないです。
ではどうしてこんな話をしているのかというと、最近「神アプリ曰く、私たち相思相愛らしいですよ? ♯【攻撃力】全振り幼なじみは俺がデレるとすぐヘタれる」を読んで「うわ、ラブコメって切なっ」と思ったからです。まあもちろんタイトルの通り当然その作品には今のところぱっと見て切ない場面は見当たりません。しかし、読み進めるにつれ胸が苦しくなりました。まず、これは一人称小説なのですが、主人公があるヒロインのことがとても気になっているのが伝わってくる。けれど・・・・・・まぁラブコメなので色々あるわけです。ヒロインも複数いて全員が主人公に好意を寄せているのも伝わってくる。いわゆる、ハーレムものですね。しかし、よっぽどのことがない限り主人公と結ばれるのは一人。うわ、切なっ、とそういうわけです。
いままで冴えカノも含めてハーレムものは結構読んできましたがこんなことを思ったのは初めてです。多分これは物書きを始めたからでしょうね。近頃は純粋に物語を楽しむだけでなく、表現など色々気にするようになりました。例えば、どうでもいいことですけど死者数四百五十三人と書いてあった場合、これは適当に考えた数字なのかあるいは何か根拠があるのか、など。
で、話を戻しますとハーレムもののラブコメは切ないという話。しかも僕はサブヒロインに肩入れしてしまう性格のようでなおさら切ない。
では切なくないハーレムラブコメとは。
初めから主人公が悩むことなくメインヒロインとくっついてしまい、加えて他のヒロインの描写が少ない場合。
例えばラブコメではないですけどSAOとか・・・・・・あ、もう思いつきません。
次にハーレムエンドなラブコメでTo Love るをあげようと思ったのですがあれは違った気がします。真にハーレムエンドなラブコメもあるのかもしれませんが知りません。
でも個人的にとらぶるは切なくないんですよね。
「エロマンガ先生」は切ないし、「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」は切なくない。「妹さえいればいい。」や「弱キャラ友崎くん」は切ないけど、「友人キャラは大変ですか?」は切なくない。「りゅうおうのおしごと!」は切なくないです。
もうすこし挙げることも出来ますが長くなるので止めておきます。
で、少し考えてみるときっと僕が切ないと思うかどうかは主人公がちゃんとすべてのヒロインと向き合っているかどうか、でしょうか。
ふむ・・・・・・多分今までに挙げた作品には全て当てはまる気がしています。
向き合っていなければ、ハーレムは物語を盛り上げる一因として機能するに留まるのかもしれません。
と、まぁこんなところですかね。
いずれ今回かき上げた長編は「なろう」か「カクヨム」あたりにいずれ投稿する気でいますので興味があれば読んでみてください。
ではではここまで読んでくださりありがとうございました。ここらで筆を置かせていただきます。

今回挙げた作品はおすすめなので未読作品があればぜひ!


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キャンプについて

 8月中旬担当の入ヶ岳です。今回は、表題の通りキャンプについてお話したいと思います。
 創作論、絵の話、今書こうとしている小説の方向性……そういったことを話すのも勿論良いのですが、たまには創作以外のことを語るのも良いかと考えました。創作については後半に書きます。

 さて、一週間ほど前のことですが、私は人生で初めて、何人かで集まって能動的にキャンプを行うという体験をしました。自分達でキャンプ場を予約し、準備をして、器具をレンタルし、火起こしをして肉を焼く。これが大変に楽しいものでした。
 常日頃から時折、早朝にふらりと家を出ては、数時間歩き続けて隣県に出るようなアウトドアぶりを見せる私ですが(ドアからアウトしているだけとも言います)、今まで「野外で泊まる」という発想には至ってきませんでした。岐阜や長野に行きたい、奈良の奥に行きたいといった願望は抱いていたのですが、どうにも計画が固まらず、旅が実行に移されることは無かったのです。自分が本当にしたいことは何なのか、掴みかねていたということなのでしょう。それが今回のキャンプではっきりしました。
 私が求めていたものは、恐らく創作世界的な非日常の体現だったのです。
 止まること無く回り続ける日常という歯車に巻き込まれることを避け、自らの社会の影響外まで脱出してしまうこと。まあ、単に羽休めですとか、そのように言い換えることも出来るかもしれません。そこで真に必要なのは歩くことではなく、誰にも邪魔されない場所で、自分の意思のままに行動することなのでしょう。キャンプというのは、非日常体験の場としてはうってつけです。
 というわけで、私は一気にキャンプにはまります。先週のキャンプ時にいくつかのキャンプ用品を購入、帰宅後も某登山用品店等で必要なものを揃え始めました。直前に『ゆるキャン△』を視聴していたこともあり、アニメに登場したキャンプ用品もいくつか購入し、無事創作世界に自らを投影することが出来ました(突然ですが私は志摩リンです)。実を言うと、明日にも一通りのものが揃うので、早速キャンプに出かけようと考えております。夏が終わる前に。

 ここまで私のキャンプ事情についてお話しましたが、このような個人的なことを綴った理由の一つとして、私が飽き性であることが挙げられます。
 私は今、キャンプがしたい。たまらなくしたくて、こうして装備まで揃えたにも関わらず、時間と共に私という人間は、キャンプに飽きてしまうかもしれないのです。非日常を求めた結果であるキャンプが日常となってしまった時、それでも私はキャンプをしたいと思えるのでしょうか。分かりません。ただ私は、自分が「キャンプが好きだ」という想いを失ってしまう可能性を思うと、寂しく、そして恐ろしいのです。
 ですから、こうして文章に遺します。記録された自分の想いは、その瞬間のままいつまでも遺り続けるのですから。例えば、私は小学校時代から小説を書いてきましたが、過去の作品は出来る限り残しておいています。黒歴史等とよく言われますが、そして実際それらは今の自分から見ても酷い出来ですが、過去の私はその文章の中に居るのです。私はそれを読んで、過去に思いを馳せることが出来るでしょうし、当時の考え方、感じ方を今の自分へと活かすことが出来るかもしれません。加えて、私の書いた作品を誰かが読んだとして、何かを感じたとしたら、それはどれほど素晴らしいことでしょう。過去の私は今の世界での小さな波紋となり、キャンプが好きだという想いも、一種永遠のものとなるのです。

 何やら脱線してしまいました。要は、今の感情を書き遺すことで、後から思い出として楽しめるし、今の感情はその瞬間の真実として生き続けると、そういう話です。
 今回書いたことは総じて私の内側へ向いたものとなってしまい、チラシの裏じみています。しかし、私の頭の中のチラシをこうした場で少しだけお見せするというのも、悪くないかと考え、深夜に一気に綴っております。朝になった時の私は、この文章をどう感じるのでしょうか。分かりません。
 ただ分かることは、私が今非常にキャンプに行きたいということです。まだ見ぬキャンプ場で私が何をするのか、想像するだに楽しい。明後日には昨日になっている明日は、今日の私にとってたまらなく面白い未知なのです。そんなわけで、今のところ私は愉快に生きておりますと、そういうお話でした。

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気になっている言葉 

 葱です。ブログを書くのが遅くなりました。今回は、最近気になっている言葉について書きます。
 少し前から、「女子力」という言葉が広く使われています。男にとって、この言葉ほど定義しにくいものはありません。特に以下の6点が理解できません。
➀ 女子が何歳までの女性を対象とするのか。一般に未婚の若い女性のことを言いますが、既婚女性でも主観的判断によって女子に分類されることはしばしばあります。(また、なぜ男性は男子会や男子アナと言わないのでしょうか)
② なぜ男子力がないのか(あっても困りますが)。もしあるなら、『anan』あたりが特集を組みそうなものです。
 ないとなると、恋人たちの間で(同性も含む)は、「あなた男子力ないわね」はないのに、「君は女子力がないね」だけはあるという多少不平等な状況が生じますね。
③ なぜ女性力ではなく女子力なのか。
④ 一体何をする能力のことを指すのか。
 ある解釈では、手の込んだ料理を作る能力と解されることがあります。では、テレビに出てくるカリスマシェフと称されるおじさんは女子力が高いのでしょうか。また、きれいに身づくろいすることを指すこともあります。では、毎回自分で手の込んだ化粧をする歌舞伎役者は女子力が高いのでしょうか。どちらもそうではありません。
⑤ なぜ性別に基づく区別なのか。例えば、学生力などの社会的身分、若者力などの年齢、日本人力などの人種などで区切った能力があってもよさそうなのにそれがありません。
⑥ 一体だれが言い出したのか。特定の誰かが言い出したなら著作を読んで定義を確かめることは可能ですが、それができません。

 以下6点は私の理解できない点です。
 私は生物学上男に分類されるので、女子力の何たるかを知らずとも平穏に暮らすことができます。また今のところ、多くの女性はこの言葉を特に気にせずに生きているようです。(インスタ女子なるものは別として)ただ心配なのは、女子力という言葉が、性別によって個人の自由を制限する抑圧的な言葉になることです。すなわち、女子力という定義不能な言葉には、女子力に欠けるとされる行動を女性がやりにくくする可能性があります。(過労死した東大生が「女子力がない」と言われたことを悩んでいたのを思い出してください)
 人間は生物学上は男性か女性かのどちらかに生まれます。(LGBTの人がいることも忘れてはなりません。子どもを産まないことを生産性がないと言ってしまうのは、先祖代々続いてきた命のバトンを工場機械操業のように見なしているかのようで、違和感を感じます。)また、時がたっても男女の社会的違いは残っており、性別に基づく行動規範が未だ存在し、人間はうまれもった性別に多少行動を縛られています。性規範にはかつて合理的に見えたものもあるかもしれませんが、時として一方の性、あるいはどちらでもない人を束縛することがあります。
 現在は、だんだんと、自分の性別に縛られずに自分のつきたい職に就き、自分の学びたいことを学べるようになってきました。その中で、時代に逆行するとは言わないまでも、珍しく性別と行動を結びつける「女子力」という言葉が登場しました。明確な定義がない以上これが将来どんな言葉になるかはわかりません。しかし、定義のない言葉が拡大解釈されて人々を縛ることは歴史上しばしばあります。男女LGBTを問わず、この「女子力」という言葉には多少とも注意を払っていただけると幸いです。

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夏がきた


みなさん、こんにちは。
7月下旬担当の光彩(ひかり)です。

テスト週間も終わり、いよいよ夏休みが目前に迫ってまいりました。
2ヶ月ほどの長いお休みははじめてなので、いかに無為に過ごさないようにするか、悩んでおります。
本は読みたいですし、映画も観たいのですが、ここは創作サークルの一員として、創作も進めたいなと思います。

こうやって現を抜かしているうちに、先日、英語のSummerの綴りを忘れてしまいました。
ドイツ語のSommerと間違えてしまったのです(こちらも夏という単語です)。
少しは勉強しないと、秋という存在すら忘れて、ずっと夏休み気分な気がするので、ほどほどにお勉強もしたいと思います(笑)。

それでは、よい夏休みをお過ごしください! お読みいただきありがとうございました。


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あといくつ寝ると夏休み?

7月上旬担当のいろりです。ちょうど何をするにも中途半端な時間が出来たので書きます・・・テスト勉強は?という声が聞こえてきそうです。

自己紹介やら何やら書こうと思います。
理学部です。
まずペンネームですが、美少女ってだけでずいぶんと生きやすいと思うので美少女になりたいのですがそもそも性別が違いますし無理です。なのでせめて名前だけでもかわいらしい名前が良いと思ったので「いろり」にしました。「いろり」は割と有名なアニメ化もされたラノベヒロインからそのまま取ってきました。僕の知ってるヒロインで一番かわいい名前のはずです。
 前回内部誌では「火鉢いろり」でお話を書きましたが苗字が欲しかったのでそうしただけで、これからもしっくりくるまで苗字はころころ変えると思います。名称未定ではそのままでいきますけど。現時点最有力は「桜いろり」とかかわいくていいなーと思ってます。ですのでみなさん呼ぶときはいろりの方を使ってください。
 創作活動ですが、絵描きでもあり物書きでもあります。どちらも始めようと思ったのはラノベがきっかけで、この作品がきっかけ、というようなラノベはないのですがラノベを読んでる内に書きたいし描きたい、と思い始めました。すこしラノベについて話すと僕の一番好きな作品は、「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」です。ラノベに限らず僕の知ってる作品の中で一番好きです。なので多分、というか意識してこの前書いた物語では主人公はダンまちのベルくんに寄せましたし、同じような表現も使ったりしました。ダンまちの何がすごいかというとまずはそのキャラクターの多さです。しかも台詞を読んだだけで誰がしゃべったのか分かるぐらい書き分けられている。キャラクターが多いと話は広げやすいし、質も上げやすいとは思うのですがかき分けはとても難しいと思います。あとは、創り手になってみて気づいたことですが、ほかのラノベと比べて風景描写とか心情表現にずっと多くの紙幅を割いている。結構これは珍しい作風な気がします。このおかげでバトルシーンがめちゃくちゃ熱い。ピンチを救う主人公のかっこよさが、おもわずおぉっと唸ってしまうぐらい良い。
 実は、漫画は読まないしソシャゲもしない・・・というような感じで暇を潰すと言えば僕にとってはラノベを読むか絵を描くか何か物語を書くかしかないんです。なので一時間とか二時間とかラノベを読むには短すぎる時間が出来ると最近は絵を描いて過ごしていたのですが、現在テスト勉強しないといけませんし、無限に時間のかかる絵に手を出すわけにはいかず、すごく暇になりちょうどブログの担当やーん、ということでブログを書くことにしました。
最後に軽めの創作論というか最近気づいたことでも。
書き始めるまでは物語で一番大事なのは話だと思っていたんですがそうでもなさそう。というのもキャラクターが魅力的なのって多分すごい重要な気がします。で、その魅力的な書き方というのは、弱点とか隙を作ることが一番簡単で効果的なのかな、と。もちろんかっこいいとかが一番効果的だとは思いますけど、かっこいいとか思わせるためにはそう見せるためにある程度の物語が必要なので手間がいる。
 ここまで読んでくれた方は、読みづらっと思っていると思います。思いついたことをつらつらと構成とか何も考えずに書いているので許してください。それと語彙が物書きとは思えないぐらい低レベルです・・・。修正はだるい・・・もとい眠いので止めておきます。ここまで読んでくださりありがとうございました。ではこれからもよろしくお願いします。
 

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梅雨は明けたのだろうか

 初めまして。6月下旬担当の灰戸です。7月2日は6月下旬であるという前提の元、話を進めます。

 入会早々例会にも参加しない幽霊と化してしまったので皆様からすると「お前誰やねん!」って感じだと思います。そこで、今日はこのブログを使って簡単な自己紹介でもさせていただこうかなと思っておりますのでどうぞお付き合いください。

 私は工学部電電1回の灰戸朔夜と申します。呼び方はご自由にどうぞです。

 大学に入る前も大学に入ってからも創作活動は行っていないので、このペンネームもまだ役割を発揮していないのですがこれからこのペンネームで活動して行くつもりです。本名のアナグラムなのですが我ながら少々格好良すぎる名前をつけてしまったので、名前負けしないような作品を作っていければいいなと考えております。

 絵の方は全く描けないので、文章を作る側の人間としてやって行こうと思っています(文章が書けるとは言ってない)。間に合いそうであれば今度のオンデ本の方に投稿したいと思っていますが、現状ほとんど創作が進んでいないので、まあ絶望的かと……

 前期の前半は早く家に帰りたいという欲に負けてしまいサークルの例会に参加できないことが多かったのですが、最近その欲を振り払いルネに行ってみたところ、名称未定のメンバーが分からない、という非常事態が起きて結局家に帰るという現象が起きました(笑)。新歓コンパに参加しなかった過去の自分を叱りつけてやりたいです……
 そういうわけで、幽霊ポイントがかなり高くなっています。

 ここからは創作から消費に移って自己紹介したいと思います。

 好きなものはアニメとラノベ。要するにオタクです。と言いたいところですがニワカではないにせよ重度のオタクでもないので、軽度なオタクと行ったところでしょうか。というかむしろただのアニメ好きなのでしょうか。そこら辺の分類についてはよく分からないのですが、アニメやラノベの話をしていただければきっと話が広がるので嬉しいです。創作活動をしてみたいと思ったのもアニメの影響なので、この話はこの自己紹介には欠かせないものだと思ったので書かせていただきました。

 今書くべき自己紹介文はこれくらいでしょうか。強いていうなら微積の単位を落としそうだということくらい。
 ということで、今回のブログ締めさせていただきたいと思います。例会に参加できたらいいなと思いつつも、きっと幽霊として細々と活動すると思うので、私を認識することのできるシックスセンスをお持ちの方(もちろんそんなものはお持ちでないという方も)、どうぞよろしくお願いします。

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やる気元気バフ〇リン

お久しぶりです、5月中旬担当のぼるです。(タイトルは語呂が良いからつけただけで内容には一切関係ありません)

スマホのメモ帳にブログのネタを長々と書いて貯めてたのですが、自分の中でまとまらなかったので遅くなりました。

というのも4回生になり研究室に配属されると勉強なり絵以外の趣味なりが忙しくてブログどころか創作もロクに……

現在2回生くらいからの専門の内容を勉強し直しているのですが、試験だけ勉強してパスしてきたツケがまわってきたという感じです。

数ヶ月前は院試勉強しながら漫画描こうと意気込んでいたんですけどね……



ちなみに本来ブログに書こうとしてたのは

「絵はたくさん描くと上達するけどそこから難しいのでまずは名称未定の会誌に定期的に出すとこから始めよう」

的なことでした。

あとなんか良いこと言いたかったんですけど思いつかなかったのでやめました。



学部や個人の状況によって忙しい時期は違うしそのあたりは平等でもないですが、暇な時に創作なり勉強なり趣味なりやりたいことを達成できる馬力というか気合いがほしいですね。

そういうことを言いたかったので今回書きました。

それを可能にするには遠い目標、近い目標、健康な心身、金銭的な余裕、根性などを持つことだと思います。



いろいろ頑張っていきたいですね。

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間違い訂正

葱です。すみません、さっきのブログのタイトルを間違えました。正しくは、「変な夢」です。

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応援について

 皆さん、こんにちは。葱です。
 今までに私が見た変な夢について書きます。
2017年11月
 私は雪深い山のホテルの前にいる。ホテルは3階建てで、壁に看板も装飾もない白いコンクリート造りである。私の身長より高く雪が積もっているが、なぜかホテルに雪は積もっていない。ホテルに入るが、誰もいない。2階の食堂に行くが、誰もいない。食堂はカウンターと家庭用の四角いテーブルがあるだけで、がらんどうである。食堂の壁には5枚ほどお札が貼ってある。午前2時ごろ部屋で寝ていた私は目が覚める。ベッドの足元に誰か立っている。暗闇でぼんやりと赤い着物が見える。金糸で川が縫ってある真っ赤な振袖を着た女が立っている。その女の顔を私は見る。女の髪は黒く、腰まで垂れている。肌は芝居のドーランを塗ったように白く、突き出た頬骨は青く色がついている。女の目はライチのように大きくむいている。目は白目がなく、動物のように真っ黒である。女は私を見て、口を開ける。口は黒っぽい紫で、青い歯をむき、犬歯がつきだし、真っ赤な舌を見せている。私はここで怖くなったが、身体が動かない。
 すると、私はまた別の場所にいる。狭いワンルームマンションの一室で、部屋の真ん中に不透明な風呂用の扉がついている。扉の向こうから四つん這いになった人間が突進し、体当たりして扉を押し開けようとする。私は体を扉に押し当てて、入ってこないようにする。扉ごしにぼんやり見えるそいつの姿は、私と同じ服で同じ髪型で同じ背格好である。私はここで、そいつが私のドッペルゲンガーであることに気づく。ドッペルゲンガーに遭うと死ぬというから、私は必死に開けさせまいとする。そいつは何度も体当たりし、顔を扉に押し当てる。そいつの口もとが扉に押し当てられる。その口は耳までさけ、口元についた血が扉にべったりつく。私は怖がる。私の腕はしびれてくる。もう腕が耐えられない。扉を支える手の力が弱まる。そいつはついに扉を押し開ける。
 ここで目が覚めました。不思議な夢でした。
まだあります。
2018年1月
 私は劇場(おそらくなんばグランド花月)で舞台を見ている。歌舞伎に出てくるような日本家屋の大道具がある。その家屋はふすまがすべて金ぶすまである。そのふすまをパーンっと開けて、「あーっ!連歌が読みたくなーーるーーっう!」と叫ぶ石川さゆりが出てくる。石川のメイクは濃く、浅丘ルリ子のような目になっている。髪は巻貝のように巻かれている。衣装は歌番組に出るときのような白い留め袖である。照明が消え、暗い中に青い照明が入る。舞台袖から20人ほどの中国人の子どもたちが出てくる。一瞬にして整列し、前の子どもの肩に手を当てて、下を向く。石川は小走りで子どもたちの先頭に立つ。舞台が明るくなると、「まんが日本むかしばなし」のOP曲が流れる。石川と子どもたちの列はぐねぐねと龍が飛ぶような動きをする。まるで長崎くんちの龍踊りである。先頭に立っている石川は、オードリー春日の芸「鬼瓦」をしながら上半身を左右に大きく振っている。 えんえんそれが続く。

 以上、私の見た変な夢でした。小説の種に使いたい方はどうぞお使いください。皆さんの創作の役に立つことを期待します。

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知識と解像度

八坂です
個人的に上旬は十日までだと思っているのですが、今日に至るまで死ぬほど忙しかったので今日ようやく更新出来るようになりました
にしてはゴールデンウィークの記憶がないのですが…
多分慣れない実験で疲弊していたのがそのまま尾を引いて死んでたんだと思います
んで水曜締切のレポートと実験の予習と未定の原稿を放置していたら月火水木と死ぬほど忙しくなりました
こういうのを自業自得と人は呼ぶのだと思います
それと今年度のWeb管のメールを会員に回すまでおちおち落ち着いてブログも書けなかったので…

以上のような個人的事情はどうでもよくないのですがどうでもよいとして、私たち初めてのものは何というか、大きく見えたりしませんか?逆に知ってるものは小さく思えたり

私の学科では三回から専門の実験が入るのですが、何しろ一回のときの全学共通の実験とは勝手が違うものでして慣れない操作にあくせくしたり現にしていたりします 買わされた実験ノートもやたらでかく感じました
この感覚は何かに似ているなと思ったら、そう、一回のときに初めて線形代数の問題を解いたときや教科書を買ったときに抱いた感覚です
大学に入ってから初めて解く行列はややこしく思いましたが今はある程度はそうでもないと思いますし
あのとき買わされた教科書も、初めはでかくて重いしこれ毎日もっていかないといけないのかと絶望しましたが、学年が上がったらさらにでかくて重いのを買わされて、それに比べると初めての教科書が小さくて軽いように感じました
ちなみに教科書は初めは毎日持っていきましたが、不真面目なのでもはや持って行ってません(家の復習で使う)
受験とか模試の時に京大に来た時も、時計台や吉田南総合館(口の字状のあの建物)がやたら大きく感じたのですが、今は見かけてもこれといった感情も抱かない風景になりました

子供のころの風景と違って体も成熟しているので身体的差異はほとんどないはずなのですが、私の中で何が変わったのかというとそれは経験と知識量なのだろうと思いました
この感覚にしっくりくる言葉が中々思いつかなかったのですが、先日解像度という言葉を目にしてようやく腑に落ちました
ああ、京大で過ごすうちに京大に対する自らの解像度が上がったのだ、と
初めて見るものは大きく、知っているものは小さく感じる理由もなんとなくわかるようになりました
初めてのものは解像度が低く輪郭がぼやけているので自分の知っているものとの大きさの比較が難しいので結果大きく感じ、
逆に知っているものは解像度が高く、細部まで比較ができるため大きさが測りやすくなるので小さく感じるのだと

ここまで自分の勉学の話でしたが、創作にもおおよそ同じことが当てはまるように思います
例えば私は市川春子先生の作品(代表作:宝石の国)が好きで、初めて読んだとき話の展開のすさまじさに圧倒されました
しばらく経って、ネットとかで作劇のメカニズムとか色々知るようになり、もう一度読み返してみました
例えば主人公は常に困らせろ、だとか主人公以外の脇役たちも描かれていないだけでそれぞれの事情は進行している、とか緊迫した展開をずっと続けると緩い展開を補うために読者が笑い出しちゃうから程々に展開は緩めるべし、とか…
そういったセオリーを意識しながらもう一度読み返したところ、無意識に読み過ごしていたとことがそういったセオリーにとても忠実だったことが分かったりしました

創作、というと0から生み出そうとしたとき荒涼たる砂漠に放り出されるような感覚が誰しもあると思います
つまり創作に対する解像度が「低い」のです
この解像度を「高く」するにはどうしたら良いか?
各分野で色々な手法があると思いますが、私は絵描きなので絵の例で言うと、
「模写」「デッサン」「落書き」
この三つだと思います
「模写」で先人たちの筆遣いを追体験して、「デッサン」で観察眼を養い理論を学び、「落書き」で自分の中でかみ砕いた絵に関する入力情報を出力する
「模写」は二次元の嘘も含まれるので三次元の本物の構造を知るべく「デッサン」をして、「落書き」のズレをまた「模写」、「デッサン」で補う…こういうループを繰り返すと自他共に絵の解像度は「高く」なるはずです
創作物は全て似たような理論で構築されているので、創作物であれば何でも見てみるのも良いかと思います
作劇に関するなら小説に始まり漫画、イラスト、演劇、ドラマ、映画、アニメ、これら周辺の書物
人体に関してなら解剖学や形態学、医療サイトなどを覗くのもアリですし
パースなら建築でも取り扱いますしレンズについてはカメラ沼の人々が詳しかったり…

一般に、分からないことのどこが分からないのかを認知するのはとても難しいと思いますが、経験と知識が異なる分野でも応用できてそんな悩みの手助けになるのではないか?と思いこんなことを書きました(こんなことを知っていても私の原稿が進むわけではありませんが…)

気が付いたらやたらと長文になりましたので解像度の話はここらで筆を置きたいと思います

新会員の方々の原稿楽しみです それでは

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総会だよ、全員集合!

 どうも、③です。
 四月下旬に立候補した記憶はないのですが、何故かブログ上では担当にされていました。
 これは僕の記憶違いか、web管の陰謀なのか、それとも電子の妖精の悪戯なのか、

 そ も そ も 前 回 投 稿 か ら 一 か 月 経 つ の に 何 故 連 投 に な っ て い る の か

 疑問は付きませんが、僕は電子の妖精(小悪魔系美少女後輩)の仕業と信じ更新します。

 まずは、微妙に公私混同で申し訳ありませんが告知です。

 タイトルにもある通り、明後日5/2(水)、4共12講義室で18:30より総会を行います。
 メールでも送りましたが、入会意思のある新入生さんはぜひご参加ください!

 以上、告知終わり。
 今年は何人入ってくれるのか、会員一同少なかった時の恐怖に震えながらお待ちしております。

 では、ここからはせっかくなので新歓例会のお話でも書きましょうか。

 新歓例会にはたくさんの新入生さんや入会したい上回生さんが来てくださいました。
 僕は二回生なので新歓する側になるのは初ですが、三回生以上の先輩曰く今年は結構な盛況とのこと。ありがたい。
 僕自身の感想を一言で述べると、今年の新入生は

 強い

 ええ、これに尽きるかと。
 圧倒的神絵師、尋常ではなく緻密な設定使い、性癖の暴力、等々。
 僕と同じく字と絵の両刀志望さんもたくさんいました。
 しかも、これはあくまで僕の創作方面から見た新入生の印象なので、恐らくここ以外の創作方面における猛者もまだまだ隠れていることでしょう。おお、こわいこわい。もっとやってください。

 名称未定は総合創作サークルの名に恥じず、創作であれば大体のものは受け入れる土壌を持っています。
 新歓例会で雰囲気を味わって、それが気に入った方は是非入会して存分に暴れて下さい。
 やはり、他人が創作頑張っている姿勢は自分の創作意欲も刺激してくれるものですから。

 ……うーむ、あまり書くことがない。
 やはり一か月だけだとあまり書くネタもたまってませんね。
 というわけで、ここからはぬるっと個人的な創作のことを書き連ねておこうと思います。

 絵について。
 ……じ、実はあまり描けてません。
 後述しますが、今ちょっと字の方にかなりリソースを傾注しているので、絵描きとして再始動するのはGW明けくらいになりそうです。きちんと描きたいものはたまってますし、夏コミも申し込んでるのであまり休止してばかりもいられません。
 自分で用意した締め切りに殴られるっていいものですよね(さわやかな笑顔)。
 とりあえず現時点の課題としてはイケメンを描けるようになりたい。

 字について。
 まず、前回の記事にも書いた2月に仕上げた長編小説が、とある新人賞の一次選考を通過しました。わーぱちぱち!
 夏のフルボッコより反省して鍛えなおしてきた方向がある程度間違ってはいなかったと把握できてほっとしております。
 どこまで行くかは分かりませんが、落ちてきてかつ僕のメンタルとか時間とかその他諸々の要素が奇跡的に噛み合えばアップローダに上げる可能性が辛うじてないことも無いかもしれません。その時はいい感じによろしくお願いします。なにこれ曖昧。

 それと、これから話す部分が現在の創作力の大部分を割いているものです。
 新歓例会でも割合多くの人に話したかもしれませんが、
 現在、こことは別のサークルで、
「京大を舞台にした恋愛アドベンチャーゲームを作る」
 というプロジェクトが立ち上がっておりまして、そのシナリオライターの一人が他の都合により少々締め切りに間に合うのが難しそうだと言うことで、その人の担当部分を僕が引き継ぐことになりました。
 ゲームシナリオを書くのは久しぶりで、しかもしばらくハイファンタジーしか書いていなかったもので現代日本を舞台にした物語の書き方が微妙に分からず戸惑っております。
 いやあ……キャラクターって割と簡単に死にかけたりするものじゃなかったんですね……
 しかし、これはこれで勉強になるので頑張って楽しく書かせていただいております。
 締め切りがぶっちゃけやばいにも程があることを除けば、良いものを引き継がせていただきました。

 順調にいけばこのゲーム、今年の夏コミでリリースの運びとなるそうです。
 その際は、ぜひ一度目を通していただけると。

 このようなところでしょうか。そろそろFGOの更新のお時間なのでシャドウボーダーに戻らせていただきます。

 では、新入生の皆さん、総会でお待ちしております!

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圧倒的新歓力、徹底的創作力、新入生のためのzおっと誰か来たようだ

 タイトルに意味はありません!!

 三月下旬担当、③です。タイトルの出オチ感が半端なかったので、帳尻合わせとして本日は真面目にここ一年を振り返ったり新入生に向けて色々話したりすることにします。

 まず、一年の振り返り……一年の……え、もう一年経ってんの(驚愕)。
 だ、大丈夫です。時間を忘れるほど充実した一年を過ごさせていただいたという意味で、時間の割に中身の無さすぎる一年間だったと言うことではありません。断じて違います。違いますってば。

 自分は創作においては字書き兼絵描きの両刀として活動させていただいているのですが、今年度は割合絵描きとしての活動頻度や上達度のほうが高かったように思います。作品の投げやすさや単純に伸びしろが大きかったというのもあると思いますが、先達のアドバイスや各種締め切りにも助けられました。感謝です。
 特にこの春休みは、別サークルの方ですが週一で締め切りを設定すると言う荒業のお陰か自分でもハッキリ自覚できるほど伸びたと思うので、やっぱり締め切り大事。みんなもっと締め切りに迫られて血反吐を吐こうぜ! 納期とクオリティの狭間に追いやられないとクリエイターは成長できないって冴えカノで言ってましたし。

 字のほうも、夏に書いた長編が想像以上にボコにされたので、反省して真面目に脚本術とか勉強を始めました。それまで「ゆーて絵描きはともかく字書きはそこまで理論とか必要なんかねぇ?」と思っていた自分を可能ならば誰かぶん殴ってあげてください。めっちゃ必要でした。少なくとも自分にとっては。
 各種脚本術の本を熟読したことで、自分の弱点とか今まで見えてなかったものが見えてきた予感がします。二月にも十万文字クラスの長編を一本書いてみましたが、まだ理論が染みついてない感あるので、やはり経験か。これまで微塵も手を出す気が起きなかった短編とかも書いてみるべきかと思ってます。もっと成長せねば。

 そんな感じでおおむね創作系に関しては、適度に後悔しつつ成長できたと信じたいです。
 ただ、問題は創作の時間が増えた分インプットの量がこれまでと比べて減っていることでしょうか。やはり時間を食われる小説系を読む量が目に見えて下がってきており、その代わりアニメを見る量が何故か増えました。今年度も私たちの届けるSTEP by STEPでブレンドしたいSHINY DAYS な楽しいアニメライフを過ごさせていただきました。きららばっかじゃねぇかと思われる方、大丈夫です。一つだけきららじゃないの混じってるので。
 いや、大丈夫じゃないですね。この辺りのインプット時間をどこから捻出するか、答えは明らかです。
 そう、授業中ですね。
 いやぶっちゃけ今年度は真面目に授業に出すぎた感ありますねー! そのおかげで進級は問題なく出来ましたが、恐らくもうちょっとサボってもまだ問題ないということを私は成績表から確信しております。その結果加減を間違えてあえなく落単してしまうなんていう雑魚ムーブは? まあ私に限ってあり得ませんし?

 というわけで、次年度の③の成績に乞うご期待。

 このように、各種反省を生かし、フラグも立てつつ二回生ではさらなる成長を目指していく所存、と一先ずまともに締めくくっておきます。

 続いて、時期が時期なので新入生に向けた勧誘をば。

 まず、これを見ている新入生の方々、京大合格おめでとうございます。自分は受験の経験がなんと現役勢の三倍くらいあるので、その苦労も多分三倍くらい知っています。本当に受験お疲れ様でした。存分に新生活への期待を膨らませて下さい。京大はそうするだけの価値があると個人的には思っております。

 次に、こんな自分のぬるぬるした文にここまで付き合って下さった新入生さん、あなたは見込みがあります。名称未定に入りましょう(ダイレクト)。
 ざっくり説明すると、未定は総合創作サークルです。きっとあなたの思っている以上になんでもありのサークルです。先ほど自分は絵描きと字書きの両刀と言いましたが、自分の同期ではそれだけでは飽き足らず、三刀流——どころかもう何ジャンル創作やってるか分からないくらいの人もいます。入ヶ岳 愁さんというのですが。詳しくは彼の記事をご覧ください。
 また、ジャンルだけでなく創作に対する姿勢も様々です。趣味でのんびり楽しんでいる人もいますし、勉強以外の時間はほぼ全部つぎ込んでいるガチ勢もいます。何なら例会でゆるゆるアニメの話をしているだけというのも十分ありです。というか自分も例会は基本そんな感じで過ごしてます。
 とは言え、創作の話だって勿論しますし、皆さん割と気軽に乗ってくれると思います。役立つ知見を持っている人もたくさんいますし、何か創作系の企画を立ち上げてレベルアップを測ったりという活動もできます。
 例会ではそんな感じですが、例会以外でも単純に創作やってる仲間が増えるというメリットもあります。Twitterでの絡みとかも結構あって、仲間が何か作っているのを見て創作意欲を高めたり、TLに自分の絵を流して感想寄越せやオラァ! とふんぞり返っている③って野郎がいたりします。

 他にも色々な活動があり、上で書いたのはあくまで自分の主観によるものです。未定の活かし方は人それぞれだと思うので、まずは例会に来てその雰囲気を味わってみてください。毎週水曜日、カフェテリアルネにて18:00くらいから例会やってるので、まずは気軽に見学に来て、未定のゆるさ、創作感覚、その他諸々を存分にお楽しみください。

 では、会員一同お待ちしております!

Edit 20:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

誰でも何でもウェルカム

3月中旬担当の小松菜です。(中旬とはいつまでなのでしょうね。ごめんなさい)
最近虫の絵ばかり描いているような気が。気のせいか。
それにあまり未定に作品投稿してないので存在意義が薄れかけています。もともとでしたね。

まあそんな懺悔はさておき。

名称未定に在籍して3年。この頃ようやくわかってきたことがあります。

自分の性癖(?)です

なんと私はこれまで自分は何が好きなのか、どんなシチュエーションやキャラが好きなのかよくわかっていませんでした。これまでに触れてきた作品がおそらく他のメンバーと比べて少ないですし、とりあえずアニメや漫画、小説でも読んだものは好きになっていました。そのため好きな作品がバラバラと乱雑な状態でストックされ、私はそれを整理したことがなかったようなのです。

名称未定に入ってキャラクターデザインやシチュエーションなどなどには名前が付けられていることを知りました。そして未定会員は大体自分の好きな作品のどういうところが好き、こういうのが好みと表現できる方でした。
私にも好みがあるかも、と探し始め、ついったーも初めてTL上の様々な作品に触れる機会をいただき、会員に自分の好きな絵やキャラを共有することで最近私の好みが何たるかを知りました。

判明してきた私の好みは「三白眼」「スーツ」「異形」「眼鏡」「ほのぼの」……
といった感じです。

好みがわかってよかったことは他人に手早く好きを表現できること、好きなものを見つけやすくなったことですね。
精神ゲージの回復がこれまでより早くなりました。
自己分析って大事ですね。

皆さんの好みは何でしょうか?
私はまだ好みを確立する途中なので様々な作品に触れて楽しみたいです。
自分が何にはまるのかも未知なのでもし布教したいものがあればどんどんコンテンツを提供してくださいね。

Edit 12:34 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:START
中旬:③
下旬:紅梅
です。

 

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