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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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人を堕落させる力

 こんにちは。最近いきなり冷え込むようになりましたね。ついこの前衣替えしたばっかりだと思っていたらもう一枚重ね着が必要なぐらいになってきました。

 それはさておき、私は最近小説を書けていません。忙しかったとか、最近うまく寝れないとかそういう言い訳はあるにはあるのですが、そういう些細な事情は常にあるので、単に調子が出ないということだと思います。

 それと関連していたりいなかったりする話なのですが、私は高校のころから小説を書いていました。むしろ量的な意味では当時の方が書いていました。SSとか二次創作とかが含まれたり、書いてる内容は今よりもひどいものだったりなので質的には今の方が高いと思いますが。学校に拘束される時間は今の方が明らかに短いし、当時は受験勉強とかもあったはずなのになぜ今より多くの創作を行っていたのか。はっきりとしたことは分かりませんし、今でも疑問ですが、一つの仮説として現実世界の満足度に依るのではないかと私は思っています。

 別に当時暗い過去があったわけではないですが、受験勉強は嫌いでしたし高校もそこまで楽しいというほどではなく、創作をしていた時間が一番楽しかったような気がします。今は好きなときに寝て好きなときに遊び、やらなければならないこともあまりなく、自由になるお金の量も増えています。その結果精神が堕落し、何事も安易な方向に走るようになってしまったのではないか、そんなことを思う今日この頃です。

 大学について私の中で一つ象徴的なエピソードがあります。昔甲子園で田中将大と齋藤佑樹が投げ合って私は子供心にすごいと思いました。その後田中将大はプロ入りして大活躍し、今はメジャーへ。一方齋藤佑樹は大学入学後プロに入るも、なかなか苦戦しています。このことと自分の現状を照らし合わせ、やはり大学には人を堕落させる力があるのではないか。このことが大学が人を堕落させることの例として用いられることが適切かどうかは分かりませんが、私にはそう思えてなりません。

 そんな訳でそろそろまともとは言わないまでも普通ぐらいの人間に戻りたいと思う今日このごろです。

Edit 20:27 | Trackback : 0 | Comment : 1 | Top

定義の話

9月11日はまだ上旬。そんな気持ちでいっぱいの白澤です。
ブログ管理画面にログインするときに思ったのですが、少し感覚が開くとパスワードをすぐ忘れます。毎回いくつか入力して思い出すのですが、メモするわけにも使い回しするわけにもいかずなかなかままなりません。

今回は全く書く事を考えていなかったのですがふと小説を書くときに思った定義の話でも書こうかと思います。特に目新しい話でもないので「もうその議論は知ってる」という方は読み飛ばしてください。

そもそもの発端は私が書いていた小説に出てくる学校です。風紀委員に鏡が持ち込み禁止だと言われるのですが、校内には鏡があります(当然ですね)。それで気になって調べたクラスメートが「これは鏡じゃない! 鏡みたいな別物だ!」と報告してくるというシーンです。それで小説の方は「鏡に似た景色が映るものは良くて鏡はだめなのか! これは怪しい! オカルト的な何かで鏡がだめなのかも!」という風に展開していく予定なのですがそれを書いていて少し引っかかりました。そもそも鏡持ち込み禁止に引っかかると言われそうですが。

一般的な鏡とは少し材質が違うとしても鏡と同じ機能を果たす以上、それは鏡なのではないか。そう考えると上記のシーンが訳の分からないシーンになってしまう訳です。そもそも鏡の定義とは材質ではなく映すという機能の方にあるような気もします。ちなみに手元の辞書を引いたら『光の反射を利用して、顔や姿を映して見る道具。ガラス板の裏面に硝酸銀溶液などを塗って作ること。古くは銅合金などの金属製』とありました。これで言えば、ガラス板があればとりあえず鏡で、あと金属であれば「古い」と形容詞がつくものの鏡と言えなくはなさそうです。ではすごいテカテカするプラスチックがあったらそれは鏡なのでしょうか。現時点では鏡とは言わなさそうですが、それが普及すれば鏡になりそうな気もします。

とはいえファンタジーとかオカルトとかそういうのが実在する世界観だと鏡というものは何かを映すという以上の意味を持ちます。鏡の中に世界があったり、邪を祓う効果があったり、三種の神器の一つも鏡ですし。プラスチックのすごいテカテカした鏡がそういう存在になるような気はあまりしません。

そんなわけで定義というのはフレキシブルなものだと思いました。それ故に共通理解が少なそうなものについて書くときは定義をしっかり示しておくのが大事でしょう(当然にして今更の結論)。今回の鏡については分かりやすくするために鏡に見えるけど材質はもう全然違うものとかにするのが良さげな気がします。

Edit 11:03 | Trackback : 0 | Comment : 1 | Top

人間の同一性について

二回の白澤です。
本当は自己紹介がてら創作論とか書きたかったのですが、一年ほどここに所属していてもあまり蓄積されてこなかったのであまり語れることはありません。強いて言えば、「考えるより書く」ということを大事にしています。

それはさておき、ちょっと前に友達と「人間の同一性」をめぐって議論になったのでそれについて書きたいと思います。簡単に言いますと、「人間は何をもって同じ人間と言えるのか」ということです。

そもそもの発端はドッペルゲンガー(ここでは人間と出会うと体を乗っ取ってしまう幽霊的なもの)について話していたときです。ドッペルゲンガーがある人物を乗っ取り、その人物になりきろうとした場合、最終的にそいつは本人になるのでしょうか。私はそうなるとは思えませんが、友達によると同じ環境で育つことによって徐々に中身も漸近していくのだそうです。

ところで、人間は「人格」「記憶」「体」の三つにより構成されているとみることが出来ます。ではこのうちのどれが欠けていれば違う人間となり、どれがそろっていれば人間ではないのでしょうか。よく「外見で人を判断してはいけない」「人間は外見より中身だ」というようなことは言われますし、「体」ぐらいは異なっても同じ人間と言えるような気もします。記憶についてはどうでしょうか。記憶喪失になった人を同じ人間として見ることは出来るでしょうか。とはいえ記憶喪失になった人間に対して「お前はもう元のお前ではない」と言い放つことは問題があるような気がします。最後に「人格」ですが、これについてはわかりづらいです。記憶の違いや体の違いは客観的な基準で判断できますが、そもそも人格については主観的にしか「異なる」という判断が下せない気がします。さらに人間の人格は変わりゆくものです。ドッペルゲンガー的なものが出てこなくても、衝撃的な事件に直面するなどすれば人格が変わることはありえる気はします。

というようなことを議論していたらすごい時間が経つのが速かったです。また、この議論で気が立って無関係の友達に議論をふっかけて論破しようとし、非常に迷惑がられたこともありました。結論を出すことはなかなか難しいですが、議論をすることは楽しかったです。

Edit 00:05 | Trackback : 0 | Comment : 5 | Top

悪役の話

 こんにちは、白澤です。

 創作論を書く流れになりかけてますが、最近原稿とか読書とかから少し遠ざかっているので少し別な話を書きます。悪役の話です。物語は何かと何かの対立の図式であることが多いです。分かりやすいところでは探偵と犯人だったり、勇者と魔王だったりします。主人公の対立相手が悪役であるとは限りませんが、とりあえず何らかの点で主人公と対立している人物を悪役とします。悪役の動機にはいくつかのパターンがあります。

1.純粋な悪・純粋に強さを求めて
 特に悪役であることは気にせず、他の人にどう罵倒されようとも耳をかさないというのが典型な気がします。大体、強さとか純粋さとかが見ていて格好いいことが多いです。

2.善の心を持ちつつも悪堕ち
 大切な人に受け入れられないとか、大切な人が死んだとかで悪の心に目覚めるパターンです。最後に説得を受けて改心したり、倒された後に仲間になったりします。

3.大目標のために小を切り捨てる
 おおむね自分では正しいと思っていることを犠牲をはらってでも実行するパターンです。最後に論破されたりされずに自分を貫いて負けたり様々です。

4.目的・動機は正しいが手段がおかしい
 そのままです。主人公にも悪役にもそれなりの事情や理由があって、どっちもどっちであることもあります。

 他にも色々あるとか3と4はどっちかに統合できるのではないとかあるかと思いますが、最近の私のブームは4です。特に動機とか目的にはおおむね共感できるのに何でこんな方法をとってしまったんだ、と切ない気持ちになるのが好きです。

 具体例を挙げますと(以下一部ネタバレ有り)、物語シリーズセカンドシーズンの千石撫子が私の中でこの典型です。色々解釈はあるかと思いますが、私の中では彼女は主人公との心の距離がうまくコントロール出来ずに一方的に近づきすぎ、その反動で狂気に落ちたことになっています。私も人との心の距離の取り方はよく分からないので大いに共感するところはあるのですが、ああいうことをしてしまうのは間違っていると言わざるを得ず、切ない気持ちになりました。

 以上、私の趣味の垂れ流しでした。

Edit 01:04 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

もうすぐNF

 こんにちは、二回目の白澤です。

 今週の木曜日からNFということで、準備も佳境に入っております。私はとある映像作品にちょっとだけ出演したり、絵はがきを印刷したりしております。NFにおこしの際は是非「創作屋さん」へもどうぞ(4共23)。

 それはさておき、前回は自己紹介で終わったので、今回はちょっとだけ自分の創作に対する考え方について書こうと思います。以下は全て私の主観に基づく意見なのでそのつもりで読んでくだされば幸いです。

 以前ネットで某作品の感想についての色々な意見を読んでいたのですが、その作品の展開への批判的な意見に対して「~ではよくあること」「別に~自体は不自然なことではない」という反論がありました。まあざっくり言いますと、部活もので強豪校が弱小校に負けるというよくある展開ですね。確かに現実の甲子園などでも明らかに実力で勝っている高校が負けることはよくあります。物語においてもいわゆる王道的な展開です。

 しかし私が思うのは、物語にとってリアリティが大事なのではなく、おもしろさの方が大事だということです。リアリティが大事だと言われるのはあまりにもリアリティを欠いた話は読者が非常に読みづらく、結果的に読みづらい・感情移入しづらいなどにより結果的におもしろくなくなるという理由からだと思うのです。先ほどの例で言えば、「強豪校が弱小校に負ける描写に不自然なところがあり、納得いかない」という批判に対し、「強豪校が弱小校にたまたま負けるという事実はよくあって別に不自然ではない」という事実は免罪符にはならないと思うのです。だからその手の批判に対しては「これこれこういう描写があるから別に不自然ではない」という反論をすべきだと思うのです。もちろん何をもって不自然とするかは個人の主観によるので一致しないとは思うのですが。

 まあ、まとめてしまえばリアリティがあってもおもしろくない話は良くないし、リアリティがないせいでおもしろさが削がれるのも良くないという当たり前の結論になるのですが。最後までわざわざ読んでくださってありがとうございます。

Edit 18:35 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:小倉
中旬:暮四
下旬:double quarter です。

 

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