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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2019-11

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わたしのかきたかったもの

 どうも,M2なので追い出されつつあるしっちーです.6年間の,長かった私の学生生活がもうすぐ終わろうとしていますが,その数々の思い出が走馬灯のようにフラッシュバックするばかりです.
 思い返せば,学部1回生の頃の私はほとんど素人に近い画力しか持っていませんでした.絵を描くとしても,たまに絵の技法書を開いてはちょっとだけ模写などをする程度.もちろん小説など書けるわけもありませんでした(あの頃から「小説を書きたいなあ,でも一体どうやったらストーリーなんか作れるのか」と悩んではいたのですが).アニメなどを見ることすらなかったので,創作的な教養も皆無と言ってよかったでしょう.あの頃の私は,今の私からは想像もつかないほど,創作者としてはLv.0もいいところでした.しかし,6年間の学生時代を経て,そして3回生という中途半端なタイミングで入会してからの4年間の未定時代を経て,私は創作者としてかなりのレベルアップができたのではないかと思います.まだまだ未熟なことは言うまでもありませんが.
 さて,何年か前の未定ブログ記事で書いた通り,私は絵を描くことにおいて,とにかく自分の描きたいものを追求することを何よりも重視してきました.私は地道なトレーニングや勉強を嫌うクズっぽい性格なので,美大受験生のように模写などをして地道に画力を積み上げることは向いていません.そういう地道で味気ない練習は,私には1日平均1時間もできればいい方でした.しかし,自分の描きたいものを描くのであれば,楽しいので(当然それも一筋縄ではいかないものの)1日平均2時間でも3時間でも可能なわけです.確かに後者は効率的な練習法ではないかもしれませんが,少なくとも私にとっては圧倒的にこっちの方が上達が早い.
 私は何が好きなのであり,何に心を動かされるのか? 私は何を表現したいのか? 何のために絵を描いているのか? 何を描けば,このどうしようもない渇望が癒されるのか? 私はここ5年くらいそういうことを自問自答し続けてきました.5年間,累計何千時間もかけて絵を描き,色々な作品を消費し,時々挫折して鴨川を眺めながら物思いに耽り続けてきた今,少しはその答が明確にできる気がします.今回は,長きにわたる学生時代の創作活動を締めくくるにあたって,私が結局何を描きたかったのかを言語化することを試みます.

アリス・イン・ラックランド

 おそらく説明するまでもないかと思いますが,私は幼女ばかり描いてきました.十代後半以降の少女もそこそこ描いていますが,そういう少女にしても,精神的にどこか子供らしさや純粋さのある少女であることがほとんどです.だからこそ,私が去年のNFで出した集大成的な作品集は「Alice in Lackland」であったわけです.
ではなぜ,私はここまで幼女ばかり描いてきたのか.その点については,2年くらい前に一度記事を書いています.簡単に言えば,幼女は「少女的なかわいさ」と「精神的な純粋さ」を持つ存在であるからです.

その少女的可愛さは,傷つき,疲れ切った心を癒してくれる.そしてその純真無垢さは,汚れてしまった心を浄化し,汚れる前の人間本来的な心のあり方を思い出させてくれる.幼女とは結局のところ,不条理と矛盾と混沌とに満ちたこの世界の中で,それでも腐らずに生きたいと願う人々にとっての,一服の処方箋なのではないでしょうか.

 大まかな結論はあの記事から特に変わりませんが,今ならもう少し色々と語れることがあります.特に,子供らしい「精神的な純粋さ」というものが一体何なのかについては,当時はあまりはっきりとはわかりませんでしたが,今なら少しだけ言語化できる気がします.

あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃぁ^~

 まず,「少女的なかわいさ」というのについて書いておこうと思います.世間的には「かわいい」という言葉はあまりにも無節操に使われ過ぎていて,その概念はあまりにも多くのものを含みすぎている気がするので,まず,どういう「かわいさ」が問題となっているのかを明確にする必要があるでしょう.「かわいい」には色々な方向性があって,私が思いつく限りでは以下のようなものが挙げられます.

・動物的なかわいさ(小動物等がもつかわいい感じ)
・植物的なかわいさ(花や植物,あるいはそれをモチーフにしたデザイン等が醸し出すかわいい感じ)
・形状的なかわいさ(動物の赤ちゃん・人間の幼児・デフォルメされたキャラクターが持つ丸み等が醸し出すかわいい感じ)
・少女的なかわいさ(フリル・リボン・ハート・暖色等の少女的アイテム・モチーフが醸し出すかわいい感じ)
・顔的なかわいさ(単純に顔が整っている女性について「かわいい」と表現するもの)

 最近,私は植物をモチーフとしたデザインをよく使っている気がしているので,私が求める「かわいい」には,少女的なものだけでなく,植物的なものも含まれるといえるかもしれません.最近植物図鑑の購入を検討しています.顔が可愛いのは2次元では当たり前のことなので,特に問題にする必要はないでしょう.
 私は「少女的なかわいさ」(例えばフリフリの服を着たかわいい幼女とか)を目にしたとき,どうも謎の高揚感と多幸感に襲われます.その感情を形容することは困難で,精々「尊い」,「無理」程度しか言えません.あるいは,「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」[1]というスラングも妥当な表現だと思います.そして私は,その高揚感と多幸感を求めて,ただひたすらにかわいい絵やデザインを追求するわけです.
 なお余談ですが,twitterとかを見ていると,こういう方向性の「かわいさ」を求めて美少女/美幼女を描く人々は意外にもごく少数であるように思います.まず男性の絵描きについて言えば,かわいい服やデザインに興味を持つ人が極めて少ないことは言うまでもないでしょう.一方女性はと言うと,そういう方向の興味を持つ人は多いのでしょうが,多くはその興味はリアルの自分が着飾ることに費やされるのであって,かわいいものに触れたいという欲求を,絵を描くことで満たす人々は少ないように思われます.案外私はマイナージャンルの住人なのかもしれません.

「純粋」なるもの

 さて,単純にかわいい少女が描きたいだけであるのならば,王道をゆく女子高生でも描いていればいいはずで,別に幼女を描く必要性はないはずです.それでもなお私が幼女(あるいは精神的な幼さや純粋さを持つ少女)を好んで描くのは,私にとって「精神的な」幼さや純粋さが重要なものであるからです.ここでは「精神的な」という点を強調しておく必要があります.肉体的に幼女であるかどうかというよりは,精神的に幼女であるという点が重要なのです.例えば「幼女戦記」のターニャ・デグレチャフは私にとっては別に愛すべき対象ではない[2]一方で,「ご注文はうさぎですか?」のココアは存在自体が尊い.
 それでは,精神的な純粋さとは一体何なのであり,何ゆえに尊いものなのでしょうか.それを言語化することは(少なくとも私が何年も考えなければならなかった程度には)困難で,書こうとすればとても長くなります.まずは「精神的な純粋さ」が一体何であるのかを,幼子が成長して大人(社会適合者)になり,純粋さを失っていく過程をみながら,一つ一つ紐解いていきましょう.何か大げさな言い方になりましたが,別に私は普遍的な真理の探求をするわけではなくて,単に私の個人的な結論を述べるだけです.

公正な世界
 
 私たちはおそらく,小学校低学年くらいまでは,正義の存在を純粋に信じるのではないかと思います.つまり,この世に真善美が明らかに存在し,正義は必ず勝ち,善人は必ず幸せになると信じるわけです.この世には万人に適用されうる正義というもの(言い換えれば人として正しい生き方,人間の生き方の模範解答)が明確にあって,その模範解答に従うものは絶対に幸せになったり天国に行ったりできる一方で,それに従わない者(悪人)は絶対に幸せになることなどない.仮に一時的に味をしめたとしてもいずれ必ず裁きが下り,地獄の業火に焼かれてもらうことになる.悪事を働いたバイキンマンは必ずアン・パンチによって空の彼方に消し飛ばされるのであり,働き者のアリは最後には例外なく幸せになる一方で怠惰なギリギリスは必ず餓死する.
 以上の信念を公正世界仮説とでも呼びましょう.この信念とセットになっているものとして,自分には正義が如何なるものなのかを知ることができる(それを知る手段が明確にある),という信念もあるでしょう.結局何が正義かなんて知り得ないのに「正義は勝つ」なんて叫ぶことはできないでしょうから.
 自分が正義を明確に知っているからこそ,努力さえすれば自分は正義(人生の模範解答)に近づくことが可能なのであり,だからこそ努力すれば必ず幸せになれる,というのも成り立ちます.「真面目」に努力すれば必ず正義になることができ,正義である者は必ず幸せになれる,ゆえに努力すれば幸せになれる,という論法ですね.逆に,不幸な者は努力していないとか,不幸な者は何か悪事を働いているに違いない,というのも成り立ったりします.「自己責任」という言葉で失業者などを(ただ怠惰なだけの奴で救うに値しないとして)切り捨てたり,何かの犯罪事件で不幸な目に遭った被害者が「被害者にも何か落ち度があったのではないか」と言われたりすることは,私たちの社会ではよくみられる現象です.
 話が少し脱線したので戻します.私たちは幼い頃は,「何が正義であり,何が悪なのかを明確に知る手段がちゃんとある」と純粋に信じるわけですが,より具体的には,親や学校の先生が言うことを真理だと信じていて,親や学校の先生が正義を指し示してくれると信じています.「わーるいんだーわーるいんだー,先生に言ったろー」などとよく言ったものです.親や先生は絶対的存在であり,彼らに褒められるということは自分が正義であることの証左なのであり,一方で彼らに叱られたり殴られたりしたら自分が悪であるということになります[3].もっとも,そんなことを純粋に信じられるのは,すでに述べた通り小学校低学年くらいまでなのでしょうけれど.

公正な世界の欠陥

 私は個人的に,公正世界仮説は別に真実でも何でもないと思っています.子供たちが純粋に信じているような公正世界仮説をここで一旦整理しましょう.

(1) 万人の認める絶対的正義や真理が存在する.「善い行動」と「悪い行動」が存在し,あらゆるケースにおいて行動の模範解答が存在する.「善い人間」と「悪い人間」,「善い人生」と「悪い人生」も存在し,人生の模範解答が存在する.
(2) 「善い人間」は周囲の人間を幸せにし,それが社会的に望ましいだけでなく,本人も必ず幸せになる.一方,「悪い人間」は必ず不幸になる.正義は必ず悪に対して勝利する.
(3) 何が正義で,何が悪かは明確に知ることができる.親や学校の先生に聞いたら普通に答えてくれるものであるし,「大人になったらわかる」みたいな,理解の難しいものでもない.誤解が生じることもあり得ない.
(4) 真面目に努力すれば誰もが正義になることができるのであり,努力すれば誰もが幸せになることができる.逆に,不幸な人間は真面目に努力をしていないだけであり,自業自得である.

 …なんだか虫唾が走りますが,まあとりあえず公正世界仮説をボコっておきましょうか.

(1) 万人の認める明確な正義の基準,あるいは人生の模範解答(それに従いさえすれば誰でも幸せになれる)があるというのならば,なぜそんな重要なものが教科書などにおいて厳密かつ詳細に明文化されていないのか.明確な正義の基準があるというのなら,なぜ裁判をする必要があるのか(裁判などしなくても,その明確な正義の基準とやらに従って,被告人に対してごく簡単に断罪が可能なはずではないか).
 あるいは,哲学者などが2000年以上にわたって延々と議論を重ねてきたのに,なぜ明確な一つの「人生の模範解答」が見つかっていないのか.もしそんなものがあるのなら,とっくに見つかっていて何かの教科書に書かれていて,初歩的な科学の知識のように万人に共有されているはずではないか.
(2) 法では裁けない悪人はこの世にはいくらでもいるし,彼らが絶対に不幸とは言い切れないのではないか.学校で校則を破っていたり,クラスでいじめをしていたりするDQNが不幸にみえるだろうか.パワハラ上司は不幸に見えるだろうか.もちろん彼らが痛い目を見ることはあるだろうが,痛い目を見ずに弱者を虐げ続け味をしめ続けるケースもいくらでもあるのではないか.
 そして正義は悪に対して必ず勝利するというのであれば,人類が長い歴史を経てもなおこの世に悪が存在し続けているのはなぜか.勝てていないではないか?
 
 …これ以上は長ったらしい割に話の本筋と大して関係がないので,この辺にしておきましょう.続きは註[4]に書きます.ただ,最後に一つつけ加えておきたい.こういう公正世界仮説の一番クソなところは,「自分が絶対に正義である」という信念とセットになっているところです.だってそうでしょう.自分が正義かどうかいまひとつ確信が持てないのに,「正義は必ず勝つ」なんて言えるでしょうか.自分が正義でない可能性があるにも関わらず「正義は必ず勝つ」だの「悪は必ず裁きを受ける」だのが成り立つのだとしたら,自分はいつ正義の裁きを受けてもおかしくないということになる(自分に神の裁きが下るのは明日かもしれないし,5秒後かもしれない).そんなの気が狂うでしょう.「自分が絶対に正義である」(=もし自分と考えの違う奴がいたらそいつは悪である)と信じ込める傲慢で鈍感な奴しか,公正世界仮説なんか信じられないのです.

反抗期

 さて,以上のように,小学校低学年くらいまでの子供が信じている,「こうしなければならない(これをするのが善い)」/「これをしてはならない(これをするのは悪い)」という諸々の正義,およびその前提となる正義/悪の概念,公正世界仮説は,何もかも下らない嘘であるという疑義が濃厚かと思います(少なくとも私はそう考えます).
 一方,今まで純粋に公正世界仮説を信じてきた子供たちも,小学校高学年くらいになると,その胡散臭さに気づき始めるのではないかと思います.
 生命を無暗に奪ってはならないとか,人に迷惑をかけてはいけないとか,自分がされて嫌なことを人にしてはいけないとか,ここまで子供たちは様々な規則を大人たちから押し付けられてきました.それらに背こうものなら大声で怒鳴られたり,職員室に呼び出しを喰らったり,「愛の鞭」と称して体罰を受けたりするのであり,無力な子供たちはそれらに全く逆らうことはできません.そういう体験を経て,子供たちは,生命を無暗に奪う行為や人に迷惑をかける行為がそれだけ「悪いこと」であると理解するでしょう.そして,そういう悪事を働く人間は裁きを受けるのが妥当であると理解することでしょう.あるいは,そういう悪人に対しては怒りを抱くのが自然なのであり,恫喝したり殴ったりしても構わないと学ぶことでしょう.
 しかし小学校高学年くらいにもなると,子供たちは,裁かれるべき(腹の立つ)悪人があまりにも多すぎることに気づくはずです.例えば私なんかは,小学校4,5年くらいの頃に,廊下を歩いていたらいきなり後ろから見知らぬ先輩に蹴られたことがあります.あまりにも理解不能だったので妙に覚えているのですが.クラスの中にいじめらしき行為はいくらでも見当たるでしょう.見渡してみれば,校則に違反した不道徳的行為などいくらでも存在します.それにしても,そういう不道徳行為を取り締まらない大人たちは一体何をしているのでしょうか?
 社会に目を向ければ,より「悪人」の存在は数多く目につくはずです.「食べ物を粗末にしてはならない」にもかかわらず,例えばうなぎや恵方巻のように大量の食品を廃棄するコンビニ.精神を病んで死ぬくらいまでに従業員を酷使するブラック企業.学校でのいじめで自殺者が出たら証拠隠滅と保身に専念する教師たち.ちなみにピュアだった中学生くらいの頃の私は,学校でも社会でも公然と行われている男女差別に腹を立てていた気がします.
 これまで自分に説教をしてきた親や教師自身の不道徳行為も目に付くでしょう.例えば私の父なんかは煙草を吸っていて周囲に副流煙の害を及ぼすわけですが,こんなものは「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳からすればどう考えても認められないことです.あれほど「人に迷惑をかけるな」と自分に対して言い,時には体罰まで下してきた人物がそういうことをする.片づけをしろと口うるさく言ってきたあの父が,よく見ると飲んだ後のビール缶を放置していたりもする.
 そして,以上の不道徳行為をした人間は,ちゃんと裁きを受けているでしょうか.小学校で教えられた通り,悪人は不幸な目に遭っているでしょうか.クラスのDQNは不幸そうに見えるでしょうか.実態はむしろ真逆な気さえしてきます.そして,真面目に努力をしてきた人は,ちゃんと幸福になっているでしょうか.
 以上のようにして,小学校高学年くらいの子供たちは,親や教師の言うことに少しずつ矛盾を感じ取るようになっていきます.もう親や教師の言うことは盲信できなくなるでしょう.大人たちは胡散臭い存在にしか見えなくなる.法で裁かれない腐った奴が社会に溢れていると思えてくる.こうしてはっきりと,反抗期の傾向が現れるのではないかと思います.

理不尽への適合

 理不尽なことがあまりにも多すぎる.中学校にもなると,クラスに存在するスクールカーストはより露骨なものとなっていくでしょうし,部活の中に強力なカーストが存在するとも多いでしょう(特に体育会系の部活の場合).教師も露骨な贔屓をしてくるかもしれません.視界に存在する「理不尽なもの」は加速度的にその数を増やしていく.さらにその理不尽は,もはや単なる一生徒には逆らうことも叶わぬ,絶大な強制力を備えていきます.
 反抗期の少年少女は,社会への絶望に苛まれることでしょう.それと同時に,混乱にも陥るはずです.例えば部活の中で上級生から下級生への(体育会的な)いじめが行われていたとします.最初はそのいじめが間違っていて,その部活が悪の温床だと思うかもしれません.しかし,その部活で自分以外が,いじめを「そういうものだから」と受け入れていたとしたら? 上級生が偉いのは当たり前のことだという風潮があったとしたら? それでもたった一人で,この部活はおかしいと言い続けられるでしょうか.自分一人が正しくて,その部活の人々が間違っていると言えるでしょうか.既に述べたように,誰が正義で,誰が悪かを明確に証明する方法などどこにもありません.そんなものがあるなら裁判は要らない.結局考えてみたところで,自分の考えが正しいという保証などどこにもないのです.自分が間違っている可能性は永遠に否定できません.それで,どうしてその部活に存在する体育会的カーストに立ち向かえるでしょうか.どうしてたった一人で部活一つに挑めるのでしょうか.
 こういう場合,大多数の人は,自分が間違っていて,自分が社会不適合者なだけだと考えるのではないかと思います.
絶望的な同調圧力の中で,自分の頭で善悪を判断することを断念し,自分の属する集団の「部族の風習」に身を任せることが,反抗期を終わらせていきます.何かしらの善悪の基準を信じ,それを他者にあてはめるからこそ,この社会の様々な理不尽が目に付くのです.そういう理不尽に対する怒りは,自分が明確に善悪を判断することができる(自分の判断が絶対に正しい)という信念があってこそ生じるものです.ならば,自分の考えが本当に正しいかどうかに確信が持てないのに,自分の考えを他者に適用して,その他者を悪とみなし,怒りを持ち,「裁き」を下すことは不可能でしょう.学校のクラスや部活などに存在する圧倒的な同調圧力は,自分が明確に善悪を判断することができるという信念を破壊し,善悪についての思考停止を招きます.こうして反抗期の少年少女は,社会に存在する様々な理不尽に一々目くじらを立てなくなっていくどころか,一見理不尽に見えるそれらに自分が適応しなければならないと考えるようになります.
 もちろんそういう絶対的圧力は,学校のクラスや部活だけでなく,どこにでもあります.大学で言えば,研究室なんかはよく理不尽の温床になります.私の研究室の教授はどうみても学生を恫喝し人格否定しまくっていますし,当然のように(むしろ学費を払っている側である)学生をタダ働きさせています.卒業後に卒論について学会発表や論文投稿をやらされたりもする(もちろん無給).でも教授は,飲み会で学生に対して,いかにも優しく諭すような(「君のために言っているのだ」と言いたげな)調子で「本当はそんなに怒っていない」とか言ったり,その仕事(タダ働き)は京都大学の学生としての当然の使命なのだとかよく言ったりするもので,そうやって説得されると,教授を悪と断定してあれに立ち向かうことは案外簡単ではありません.繰り返しますが,私が正義であって研究室や教授が悪であるという保証はどこにもありません.考えれば考えるほどに,自分が単なる社会不適合者なだけで,自分が教授の言うことを理解していないだけという可能性が目に付いたりします.私はこの研究室での三年間を通して,最後まで折れることはなかったと思いますが,そこで折れて思考停止し,教授に洗脳されていった先輩たちを,私は何人も見てきました.
 就活でも,会社に入ってからも,こういうことは繰り返され続けます.それに適応し続けることで,大人は大人として完成されていきます.社会人になって10年もすれば,立派な「社会適合者」が完成することでしょう.この段階に至った社会適合者は,それまで適応してきた数々の集団の中で「そういうものだから」と受け入れてきた,数々の「部族の風習」を同時に信じています.それらの「部族の風習」は別に一貫しているとは限らないというか,むしろ互いに矛盾しまくっていることがほとんどでしょう.というかそもそも,小学校などに適応するために受け入れた,「人に迷惑をかけてはいけない」,「人の嫌がることをしてはいけない」みたいな純粋な道徳と,中学校での体育会的部活に適応するために受け入れたカーストくらいの時点で酷い矛盾が生じています.その上にも矛盾が無数に重なり続けます.

「大人」なるもの

 大多数の人は,自分の言動に矛盾があると何かしらの不快感をもちます.例えば「煙草をやめる」と宣言したのに煙草をやめられなかったりしたら不快感が生じますし,その不快感を埋め合わせるために何かしらの言い訳(防衛機制)をしたくなるものです.認知的不協和とかいうやつです.でも大人(社会適合者)にはそんな不快感はあまりないので,互いに矛盾する無数の行動規範(ダブルスタンダードならぬ「マルチスタンダード」)を抱えていても精神が崩壊したりしません.もしふとした瞬間に,自分の「マルチスタンダード」を不快に思うことがあったとしても,器用に言い訳をするなり,その不快感を無視して忘れるなりして,うまく自己防衛ができるのではないかと思います.そもそも,大人はあまりに矛盾に矛盾を重ねすぎていて,今更その「マルチスタンダード」を解消できるわけもありません.反抗期以降の記憶をリセットしない限りは多分無理でしょう.
 その上,大人は「マルチスタンダード」のそれぞれを真面目に信じてはいないように思われます.ここで言う「スタンダード」(社会的に共有されている,支配的な力を持つ規範)はしばしば「タテマエ」と呼ばれ,「ホンネ」と区別されます.つまり大人にとって,互いに矛盾するそれぞれの規範は別に「ホンネ」ではなくて,自分は本当は同意していないけど社会的にそう信じなければならないだけ,という意味合いを持たせているわけです.だから自分の行動規範に何かの矛盾があったとしても別に構わないし,嘘であると暴かれてしまっても構わない.矛盾を指摘されたら,「それはタテマエでしかないから」,「何本気にしてるの?(笑)」,「君は言葉を文字通り解釈し過ぎだ,アスペかな?」,「空気を読め」とでも言って逃げればいいのです.
 ただし,大人(社会適合者)が善悪に関心がないとか,善悪の判断をしないというわけではないでしょう.確かに目上の人や多数者の判断がある場合はそちらを優先して思考停止するかもしれませんが,目下の人(例えば後輩や自分の子供など)に対しては自分の判断が絶対的に正しいものと信じ,悪とみなした相手に制裁を下すのではないかと思います.そしてその制裁は時として苛烈を極め,パワハラに発展することもあるでしょう.もちろん,本当に自分の考えが正しくて,後輩の言うことが間違っていると断言できるのかとか,後輩が間違っているとしてもそこまで好き放題やっていいのかという点には,鈍感に思考停止するのでしょうけれど.
 一つの解釈としては,大人というのは,目上の人や多数者に対してはとことん従順で,自分の頭で考えることもなく付き従う一方で,目下の人に対しては好き勝手やる「小物」であるのかもしれません.あるいは,互いに矛盾する多数の行動規範を持ちながら,あまり悩むことなく行動が可能で,矛盾を指摘されたら「それはタテマエだから」とうまく逃げる器用さを備えた人々といえるのかもしれません.
 またあるいは,集団の圧力やカーストに屈し続け,それらを前にして歯向かうことも,何かしらの疑いを向けることもできないという巨大な絶望とトラウマを心に湛えた被害者なのかもしれません.中学校や高校などで不運にも体育会的組織を経験し,そこで自分の意思を奪われたのかもしれない.逆に,大人になってもある程度「自分の意思」を持っていて,ある程度「思考停止」せずに済んでいる人は,単に幸運なだけなのかもしれません.

矛盾と混沌への適応過程

 長くなってしまいましたが,ここで一旦,子供が大人へと成長し,社会に適合する過程をまとめてみましょう[5].

(1)幼少期(~小学校低学年):親や教師の(しばしば暴力的な)しつけに強制され,この世に正義が存在し,善き人間と悪しき人間(あるいは善き行動と悪しき行動)が存在し,善き人間だけが幸せになると信じ込むようになる.もちろんこの世界観(公正世界仮説)は多くの欠陥を含んでいるが,その欠陥に気づくことはない.
(2)反抗期(小学校高学年~):社会に無数の悪が存在することに気づいていく.そして,これまで自分が信じてきた親や教師もまた,多くの悪を含んでいることに気づいていく.大人や社会が信じられなくなる.
(3)反抗期の終わり(中学校~二十代):クラスや部活などの集団に属する中で,その集団内に存在する理不尽に歯向かうこともできず,それらを正義(「そういうもの」だから)と判断して受け入れていく.集団の持つ圧倒的な強制力を前に,自分の善悪の判断を貫き通すことができず,自分の頭で思考することに絶望を覚えていく.
(4)社会適合者の完成:様々な集団に適合し,それぞれの集団内における行動規範を思考停止しながら受け続けた結果,状況に応じて柔軟に「マルチスタンダード」を使い分ける大人が完成する.もはや言動に一貫性など見られないが,自分の言動に矛盾が生じていることを気にかけないほどに図太い.目上の人間や多数者の判断には無思考かつ忠実に従うが,目下の人間を相手にした場合のみ善悪の判断を行い,傲慢なほどにその判断が正しいと思い込む図太さももつ.

 一応付け加えておくと,私は別に,社会適合者が悪だとか病的だとか言いたいわけではありません.反抗期で何にも屈さず,自分の信ずる正義を貫き通すのが正しいのかと言うとそうでもないと思います.既に述べた通り,その自分の信ずる正義とやらが正しいとは限らないわけですから.もちろんその方が自分の思想や行動規範について(比較的)一貫性はあるでしょうが,だからといってその思想や行動規範が正しいことにはなりません.
 大人(社会適合者)というのは,例えるならば一部の行動はキリスト教の教義に従って行い,また一部の行動はイスラム教の教義に従って行うみたいな人々でしょう.それと比べて,果たして一貫したキリスト教徒や一貫したイスラム教徒の行動が「正しい」といえるでしょうか.キリスト教だろうが,イスラム教だろうが,両者を中途半端に混ぜ合わせて矛盾を黙殺した何かだろうが,どれも人生の模範解答でも(全人類が共有すべき)絶対的に正しい教義でもないと思うのですが.
 まあ,もし一貫した行動が正しいと思う方がいたら,明日から(たとえば)聖書原理主義者として生きてみてください.多分一貫性はかなり上がると思います.聖書の記述にも矛盾はあるでしょうけれど,この社会の混沌よりは多分マシです.

子供の心

 ここまで説明すれば,私が求めている美しき子供の心が一体何であるのかを明らかにすることは,もう可能でしょう.大人と子供の違いは何か.それは一言で表現するならば,何からも目を背けず自由に思考を行おうとする態度であり,本当の「思想の自由」なのかもしれません.自分が美しいと思うものを「美しい」と言う.自分が間違っていると思うものを「間違っている」と言う.私はそういう正直な心の在り方を美しいと感じます.もちろん社会で生きていく上では,自分の感情をストレートに口に出すとしばしば面倒なことになるので,表には出せないこともあるでしょう.それでも,口には出さないとしても確かに何かの感情を持っていて,その感情がたとえ社会的に認められないものであっても,自分がその感情を持っていることを悪びれず,それを抑圧してはいないことが美しいのだと思います.
 大人(社会適合者)の心は抑圧だらけといえるでしょう.矛盾した言動をとり,その自分の言動に何かしらの不快感を持つことがあったとしても,それを黙殺する.自分の属する集団のシキタリが正しいのか間違っているのか(少なくとも,自分がそれを受け入れられるのか受け入れられないのか,自分はそれが好きか嫌いか)という感情を一瞬持つことがあったとしても黙殺し,「それが社会のルールだから」と言ってただ従うだけ.目下の者相手に好き勝手にパワハラをするときに,「本当にそんなことをしていいのか」という感情を少し持ったとしても,その感情を黙殺する.
 きっと社会適合者だって,社会で生きていく上で,あれが嫌だとか,あれは間違っているとか,そういう感情を持つことはあるのだろうと思います.成人の知能を持っていながら,自分の言動の矛盾に気づかないわけもない.しかし社会適合者は,その感情に向き合うことはないでしょう.向き合ってしまったら最後,きっと社会にはもう適合できなくなるのです.例えば,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という疑問を持ち,それで「パワハラはいけない」という結論を出したところで,今更何ができるでしょうか.自分の属する組織に存在する(自分以外がやっている)パワハラに憤りを持ったりするのでしょうか.自分にその組織の何かを変えられるでしょうか.変えられるとして,果たしてそもそも自分のパワハラに対する憤りは「正しいもの」で,組織の方が間違っていると断言できるでしょうか.それは「空気を読まない」行動ではないでしょうか.社会人としてそれは正しいのでしょうか.そして,そこまで悩んで,自分の組織内での立場を悪化させるリスクを負ってまで得るものは何でしょうか. 結局,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という自分の感情を気にかけて,何を得るのでしょうか.
 
過ぎ去りし時を求めて

 大人が純粋であり続けることは超絶に困難です.というか不可能でしょう.自分の心に浮かぶ様々な感情から目を逸らさず,一々直視していたら,きっと気が狂います.
 大人になればさまざまな可能性が否応なしに見えてきます.いま机の上に置いてある紙で,何かの拍子に自分の小指をシュッと切る可能性.今自分と仲良く喋っているこの人が,本当は自分のことを嫌っている可能性.自分が良かれと思ってやったことが,実は周りの人には迷惑でかないという可能性.自動車を運転しているときに不慮の事故によって突然死ぬかもしれないという可能性.
 読者の皆さんもこういう,恐ろしげな想像をふとした瞬間にすることがあるかもしれませんが,そういう可能性を無視することなく一々直視していたら,きっと気が狂ってしまうのではないかと思います.たしかにこの世界はどこまでも不確定で,一秒先の未来すら確実に予言することはできなくて,私たちはどこまでも無知です.大人になると,どうしてもその不確定性が否応なしに目に付きます.しかし,その不確定性に正直に向き合ってしまったら,おそらくSAN値がすぐに0になるでしょうし,少なくとも恐ろしくて家から出られないはずです.でも,純粋であるということはそういうことです.私もきっとある程度は思考停止をし,さまざまな危険を黙殺していることでしょう.

「小さい頃,一歩踏み出したら,地面が崩れ落ちて,穴に落ちて死ぬんじゃないかと,そう思って,歩くことさえ躊躇っていた時期がある.あり得ん話じゃない.だが,誰もそんなことは気にしてない.俺はそれが不思議だった」 ──ゴブリンスレイヤー

 子供はその頭の悪さによって,純粋な心が社会の混沌やこの世界の不確定性によって汚され,ダメージを受けることから守られているのでしょう.頭が悪いからこそ,公正世界仮説を純粋に信じて生きていくことができます.その教義の汚点や矛盾に気が付くことも,親や教師の言動の矛盾に気づくこともありません.自分は正しい行いをしていて,神さまがそれを認めてくれていて,きっと将来自分は幸せになれるだろうと思っています[6].もちろん,自分を取り巻く無数の危険にも,5秒後に自分が死んでいる可能性にも意識が向きません.
 ですが,大人になった以上はそうはいきません.もう何かを純粋に信じることはできません.自分の感情を一々直視してもいられません.残酷なまでに不確定なこの世には,純粋に信じるに値する,絶対的な正義も真実も「人生の模範解答」なく,私たちの幸せは何一つ保証されないのですから[7].
 子供のような純粋さを失い,ある程度は思考停止を重ね鈍感になってしまうことは,生きていく上で仕方のないことなのかもしれません.いや,実は仕方のないことでも何でもなくて,自分がただ純粋であるために努力することから逃げるために,自分に対して都合のいい嘘をついているだけなのかもしれません.自分で自分の思考停止には気づけないのです.私にはもう何もわからない.
 ただ確かなことは,もう私はあの頃には戻れないということです.いま自分と喋っているこの人は自分のことが嫌いなわけがないとか,自分の信ずる正義が間違っていることなどあるわけがないとか,純粋に信じることのできた,幸せなあの頃に戻ることはできません.例えば私は誰かと会話をするとき,自分の不用意な発言によってその人に不快感を与える可能性とか,相手を退屈させる可能性とか,自分の言っていることが根本的に間違っている可能性とかを念頭に置きつつ,色々考えて,神経を尖らせて慎重に話します.もちろんそんなことを考えていたらコミュ障にしかなりませんし,疲れます.しかし,色々な危険性が見えてしまう以上そうせざるを得ないのです.私は子供のように馬鹿ではありませんし,社会適合者のように鈍感でもありません.会話の中で人間関係が破壊される危険性に目を向けることもなく,「自信」をもって人と話すことができたあの頃には,私はもう戻れないのです.

幼女と和解せよ

 美しいと思うものを美しいと正直に言い,正しいと思うものを正しいと正直に言う,子供らしい純粋な心を,私は美しいと思います.それこそ50時間でも100時間でもかけて,きれいな目をした幼女の絵を描きたいと思う程度には.そして私は,できるだけ純粋な心を持ち続けたいと思います.たとえ社会不適合者として苦しむことになろうとも,私は自分が何を好んでいて,何がしたいのかを忘れたくはありませんし,自分の頭で何かを考え続けることをやめたくはありません.しかし,私は自分ではそう望んでいても,きっと既に,自分でも気づかないうちにある程度は「汚れている」のでしょう.私だってある程度は,社会に存在する理不尽を無批判に受け入れ,社会で生きる上で生じる不快感と向き合わず,「社会とはそういうものだから」で片づけていることでしょう.この世界の圧倒的な不確定性から目を背け,傲慢にも自分が安全なところにいると信じ込んでいるところもあるでしょう.私が社会適合者に対して鈍感だの思考停止しているだの言っていながらも,実はそこらの社会適合者と大して変わらない可能性だって否定できません.
 少なくとも子供とはいえない年齢になってしまった私は,もはや純粋であり続けることも,子供の心を取り戻すこともできません.むしろ大人相応の知能を持ってしまった私が子供のような純粋さを取り戻し,外界からのあらゆる刺激に対して敏感になってしまったら,それこそ気が狂いかねないともいえます.大人にはそれに合った世界観や心の在り方があり,子供にはそれに合った世界観や心の在り方がある.大人が子供の心を持ったって,気が狂うだけなのかもしれません.
 それではなぜ,私は純粋な心を美しいと思い,可能な限り純粋でありたいと願うのでしょうか.別に子供のように純粋であることは正しいことでも何でもありませんし,大人が間違っているわけでもありません.にもかかわらず,なぜ私は幼女を求めるのか.それは結局のところ,私にはよくわかりません.ただ,強いて言うならば,私は「生きたい」のかもしれません.思考を止め,自分の感情を黙殺し,ただ盲目的に自分の属する集団の「空気」に流されて,「タテマエ」ばかり語る大人たちは,(その是非を別として)死んでいると私は感じます.私はそうはなりたくない,死にたくないと思うわけです.私は自分の意思を持ち続けたい.社会がどう言おうが,自分の好きな何かを愛し,自分の正しいと思う何かを信じたい.正直者が最後に救われるかどうかなど関係なく,私は正直であり続けたい.私はただ生きていたいのです.だからこそ,社会の混沌に「殺される」前の,たしかに生きている幼女の心は,かくも美しいのではないでしょうか.




[1] 「ご注文はうさぎですか?」に関連するスラング.https://dic.nicovideo.jp/a/%E3...
[2] 「幼女戦記」はタイトルに釣られはしたが一話切りしたのであまり知らない.
[3] 例え公正世界仮説が嘘だったとしても,それは優しい嘘なのかもしれない.もし親からのしつけを,悪である自分を更生させようとしてくれていることと解釈できなかったら,それは単なる暴力としか映らない.たしかに親や教師の言うことは別に真実でも何でもないし,その真実でも何でもない信念に基づいて下される体罰は(それが良かれと思ってされることであったとしても)拷問以外の何物でもないように思われるが,子供がそれに気づいてしまったら気が狂いかねない.自分が理不尽な暴力に晒されているが,自分が無力であるためにそれに逆らうことも,親を離れて生きていくこともできないという圧倒的現実には,気づかない方が幸せなのではないかと思う.
[4]  (3) 人によって何が何を正しいとするのかという基準が異なり,口論が生じることは極めてよくある.例えば親と学校の先生で,何が正しいのかについて意見が食い違ったとき(互いに矛盾したとき)はどうすればよいのか.互いに矛盾する二つの答がいずれも正解というのはどういうことなのか.例えば学校の先生の方が間違っていると考えるのならば,その先生は「自分で自分を正義だと思っているが客観的には別に正義ではない」ということになる.そういうケースがあってもなお,「何が正義なのかは子供にも容易に理解できるもので,自分が正義を誤解することなどありえない」といえるのか?
そして,なにをもって,自分の信じている正義に一切の誤解がない(=もし意見の違う他者がいたら,そいつが間違っている)と証明できるのか?自分の意見に多くの人が納得するならば自分の意見は正しい,とよく考えられるが,果たして多くの人から支持されるものが正しいと決めつけてよいのか?多数者の意見は絶対か?そして,自分が他者に意見を説明する際,自分の意見は何も正しくないものの詭弁を使って他者を説得している可能性もあるのではないか?自分が詭弁を使っていないとどうして証明できる?
(4) 真面目に努力をしているにも関わらず不幸な人間もいるのではないか?果たしてそういう人間を,「本人は努力をしているつもりになっているだけで努力が足りない」と決めつけられるか?その本人がどれだけの努力をしてきたのかなんて,外から見ただけで全て把握しきれるものではないだろうし,本人の心中を見透かさない限りわからないのではないか?実際,自分の努力や苦労は周りの人々に100%理解されていると思うか?
 さらに,(3)で述べたように自分の信ずる正義が客観的に見て間違っている可能性がいくらでもありうるのだとすれば,正義であろうと努力することによって,むしろ自分が正義から遠ざかる可能性もいくらでもあるのではないか?(1)で述べたように,哲学者たちが2000年以上にわたって議論を重ね,追い求めてきたにも関わらずたどり着けなかった(答えに近づいているのかすらわからなかった)「正義」なるものに,どうして自分が多少努力しただけで近づけるといえるのか?
[5] ここで説明しているのは,社会適合者の生産がうまくいった場合のみであって,必ずしもこの通りにいかず「社会不適合者」が生まれてしまう可能性も多々ある.例えば最初に親がいわゆる「毒親」で,信仰に値する神様というよりは単なる暴君に過ぎなかった場合,公正世界仮説そのものが抜け落ちるかもしれない.ある程度努力が報われた経験(例えば親に努力をほめられたとか)があるからこそ公正世界仮説が信じられるのである.また,中学・高校などで体育会系の部活やスクールカーストの束縛を経験しなかった者も,理不尽を受け入れ社会に適合する傾向が薄まり,反抗期が長引くかもしれない(私はそういうタイプである).これが社会不適合者である.
[6] もちろん,これは親がある程度まともだった場合であって,酷い虐待を受けるなどした場合はこの限りではない.
[7] もしかすると,あまり高度な教育を受けたりせず,前近代の閉鎖されたムラ社会の中や閉鎖的な修道院の中で一生を過ごしたりすれば,信仰が汚されることはなく,一生純粋でいられるのかもしれない.そのムラ社会の風習を汚すものが外部から入ってくることはなく,密接な相互監視によって「悪人」が確実に裁きを受ける環境であれば,人は純粋であり続けることができるのかもしれない.もちろん,21世紀を生き,高度な教育を受け,インターネットでも使って既に様々な考え方に触れてしまった私たちには,もはやそんな生き方などありえないが.

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絵描きのタイプ分類の話

どうも,しっちーです.

24歳,学生です.

24歳学生になりました.とても感慨深いです.正直,これを言った時点で私の書くべきことは9割くらい書き終わっていますし[1],私の人生の意味も9割くらい果たされていると思うのですが,まあここで記事を終えるのもあれなので,なにかをちょっとだけ書いておくことにしましょう.

三つの価値
 趣味絵の世界ではよく,「ただ自分のために,自分の好きな絵を描けばいい」とよく言われています.趣味なのだから,誰の目も気にせず,人からの評価も気にせず,自分らしくあってよいのだと.私もまあそんな感じで自分のために絵を描くわけですが,世の中にはイラストレータのように人のために絵を描く人もいれば,美大受験生のように画力を積みまくる人たちもいます(偏見).
 あなたは何のために絵を描くのでしょうか.これを考えるために,作品の価値を三つに分けてみると面白いのではないかと思います.ちなみにこの話,絵描きだけでなく創作者全般に適用できると思います.
(1) 独善的価値: 一言でいうならば「個性」.自分は価値を見出しているが,他者が必ずしも価値を見出すとは限らないもの.自分自身の好み.自分らしさそのもの.
(2) 普遍的価値: 一言でいうならば「画力」.自分にとっても,他者にとっても──すなわち,万人が共通して価値を見出すもの.リアリティ,作画崩壊のなさ,作品の投稿頻度など.
(3) 流行価値: 自分は必ずしも価値を見出さないが,世間が価値を見出しているもの.流行しているアニメやゲーム,あるいは流行の絵柄・作風など.

誰のために描くのか?
 さて,どうでしょう.あなたは,自分の個性をどのくらい重視して,画力をどの程度重視して,流行をどの程度重視しますか.あなたの絵は,独善的価値が何%で,普遍的価値が何%で,流行価値が何%でしょうか.私にとっては自分の好みを曲げて流行に合わせてやることなんざ拷問でしかないので,流行価値が0%であることは確かです.私の絵は,独善的価値が50%,普遍的価値が50%くらいでしょうか.
 この配分について,色々なタイプを考えることができます.きっと絶対的に正しい配分はありません.あなたは,以下のどのタイプでしょうか.どのタイプの絵描きになりたいと思いますか.
(1) 独善的価値タイプ
 独善的価値がほぼ100%,その他がほぼ0%という,自分らしさを徹底的に追及し,それを真っ直ぐ表現する非常に稀なタイプです.ぱっと思いつくのが(失礼ながら)ピカソみたい絵ですが,ピカソはピカソで画力を極めつくしたその先にあの画風を持っているわけで,画力はむしろカンストしており,難しいところです.いわゆる「ヘタウマ」がここに分類される気がしますが,人間のメンタルの強さの制約上,現実的には存在しないタイプなのかもしれません.普遍的価値が0%に近いので世間的には下手と言われ続けますが,その独特にして奇妙な画風は刺さる人には強烈に刺さります.
(2) 普遍的価値タイプ
 普遍的価値がほぼ100%,その他がほぼ0%のタイプです.偏見ですが,美大受験生とかが当てはまりそうな気がしています.ここから個性を追求することも流行を追求することもできて,何にでもなれる強みを持ったタイプです.他者からの評価も中々高いでしょう.
(3) 流行価値タイプ
 流行価値がほぼ100%,その他がほぼ0%のタイプです.完全なる無個性も完全なる無画力もないでしょうから,多分そこまで極端な人はいなくて,現実的には10%-10%-80%みたいな人がいそうです.流行というのは何も世間全体の話だけではなくて,自分のいる集団や年齢層にうけるものが描ければ十分に流行価値があると言えるでしょう.私と完全に真逆のタイプなので,どんな人なのかは私にはあまり想像がつきませんが,ミーハーみたいなイメージでしょうか.画力はあまりないでしょうが仲間に恵まれるはずです.
(4) 独善的価値+普遍的価値タイプ
 流行を嫌うストイックなタイプともいえるでしょう.趣味で絵を描いている人のうち,目立って個性の強い人という感じでしょうか.画力に比してあまり世間的な評価は高くなく,twitterではフォロワー数が少なめでしょう.私はこのタイプ(になろうとした出来損ない)といえます.
(5) 普遍的価値+流行価値タイプ
 イラストレーターと呼ばれる人はほぼここに入るのではないかと思います.twitterではしばしば万単位のフォロワーに恵まれ,評価は非常に高いでしょうし,相応の実力もある強力なタイプです.もちろん,イラストレーターとして完全に無個性な絵柄というのは存在しないので,現実的には10%-50%-40%みたいな配分になるでしょう.
(6) 独善的価値+流行価値タイプ
 流石にこんな人はまず存在しないでしょう.自分の好きなものや自分の美的感覚と,世間的な流行・美的感覚には差がありますが,その対立をどうやって埋めるのでしょうか.要は目指すべき方向性,美醜の基準そのものが決まらないのでこのタイプは存在しないはずです.
(7) 独善的価値+普遍的価値+流行価値タイプ
 おそらく全ての絵描きの中で最も大きな割合を占めるであろう,ごく普通のタイプです.普通としか言いようがありません.ただ,私の独断と偏見で世間的な平均値を予想するならば,20%-40%-40%くらいな気がしますし,33%-33%-33%というのはちょっと個性的寄りなのではないかと思います.

おわりに
 これは個人が「何を重視するか」というだけの話であり,実際のその人の能力値とは別の話です.例えば,私が個性と画力をそれぞれ50%の配点で重視するからといって,私の能力値がたとえば個性値100,画力値100,流行値0だというわけではありません.私は画力向上のために楽しくない鍛錬を積み続けるのが嫌いなので画力値は上がってないでしょうし,私の絵柄や作風も5%くらい世間的な流行と一致しているでしょうから,私の能力値は個性値100,画力値50,流行値5みたいな感じになると思います.
 あなたはどのタイプの絵描きになりたいと思いますか.どの能力値にリソースを振りたいと思いますか.その辺りを明確にしてみると,絵を描く目的が明確になって,なんというか,なんかいいことがあるかもしれません.


[1] これをやりたいがために,私が自分の誕生日に合わせて12月中旬のブログ担当を確保しておいたことは,もはや言うまでもない.

なお,この記事はしっちーのブログのこ↑こ↓から絵描きの心の闇を取り除いてマイルドにしたものである.

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幼女論

 どうも,しっちーです.ここ数日で本格的に冬っぽくなり,重装備が必要な季節となりました.ポケモンGO廃人1) たる私にとっては非常に辛い季節です.寒さに耐えながら何時間もポケモンを探して歩き回っていると,指先は凍り付き2) ,文字通り体の芯まで冷やされるわけですが,まあいいでしょう.


 さて,そろそろ年の瀬も近づき,今年の私の作品を見返していると,やはり幼女ばかりであることに気づかされます.NFの創作屋さんにも何作品か投げましたが,塗り絵を除いて全て幼女だった気がします.私はなぜ幼女ばかり描いているのか?私は何を求めて絵を描いていて,幼女はそれをどう満たしているのか?私はそんな問いに直面せざるを得ません.幼女とは何か──この記事では,そこを考察してみたいと思います3)

 第一に,幼女は基本的に少女的な可愛さを持ちます.私は幼女を描くことによって,その少女的な可愛さに癒され,「あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃあ^~」という状態になりたいわけです.これは確かに大きな要素であり,私が幼女を描く理由の8割くらいを「少女的可愛さ」が占めます.しかし,これだけでは幼女を描く理由にはなりません.なぜなら,単に可愛いものを描いたり見たりしたいのならば,一般的によく描かれる女子高生でも描いていればいいからです.

 第二に,幼女は「子供らしい純粋さ」を持ちます.私は多分,その純粋さに触れて癒されることを求めています.悪い意味で大人になってしまい,心が歪み汚れきってしまった私は,幼女の穢れなき目で見つめられて浄化されて灰燼になりたいとか思うわけです.この辺はあまり上手く表現できませんが,ともかく純粋無垢さというのは,私にとって強力な癒しであるようです.

 以上のように私は,多分「少女的可愛さ」と「純粋無垢さ」を求めています4).これが当てはまるのは大体幼女ですが,例えば世間知らずのお嬢様とか,森の妖精とかも該当するといえるでしょう.実際,私はよく,そういうキャラを創作して描きます.


 「少女的可愛さ」というのはこれまで多くの人々が追い求めてきたもので,その実体は比較的はっきりしています.例えば『ご注文はうさぎですか?』にわかりやすく凝縮されていますし,その少女的可愛さによる癒しの力は,「あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃあ^~」というスラングとともによく知られています.しかし「純粋無垢さ」というのは随分とぼんやりとしたものです.「純粋である」とは,一体どういうことでしょうか.綺麗な心とは一体何でしょう.「汚れがない」「歪みがない」とも言えますが,この混沌とした世界の中で,何が真っ当で,何が汚れ歪んでいるのかなど,簡単にはわかりません.

 ただまあ,「純粋とは何か」よりも「『純粋ではない』とは何か」の方が考えやすいのは確かなようなので,色々「汚れたもの」を考えてみましょう.まず思いつくのは,別に卑猥でも何でもない物体を,「何か卑猥なものに見える」と言い出し,極端な場合「けしからんから規制しろ」とか言い出す人々でしょうか.自分が汚れた色眼鏡をかけていて,汚れた色眼鏡を通して物を見るからそれが汚れているように見えるだけなのに,物そのものが汚れていると信じて疑わない人々です.

 こういう「滅茶苦茶な解釈」は純粋なものの対極にあるといっていいでしょう.twitterでよく見かける,ツイートに謎の解釈を加えてよくわからないことをリプライで語りだすクソリプマン.別に何でもない普通の言葉を,自分に対する悪口と解釈する被害妄想狂.自分に向けられた嫌悪をツンデレ的反応と解釈するストーカー.色々見かけますが大体精神的な病気です.

 次に思いつくのは,「悪い意味で大人になった人たち」でしょうか.例えば,別に意味のない,それがあることで誰かが得をするわけでもないマナーとかルールとかを,「みんながそうしているから」というだけで盲目的に従い,そのマナーやルールに従わない者を,「空気を読め」と言いながらヒステリックに攻撃する人々が挙げられます5).滑稽な,思考停止した典型的日本人です .その場に幼女がいたら,きっと「どうしてそんなルールがあるの?」とでも,鋭い問いをぶつけることでしょう.

 あとは偽善でしょうか.自分の本心に嘘をつく行為とも.例えば,「子供たちの未来のために」などときれいごとを言って政治活動をしていながら,その本心では「そんなことを言っている私はかっこいい」というつまらない優越感を求めているだけの人とか.あるいは,自分が不快に感じるというだけの作品に関して,「公序良俗に反するから規制しろ」と適当にそれっぽい理由を取り繕って叫ぶ人とか.いわゆる「意識高い系」もここに含まれるでしょう.口では努力だとか貢献だとか綺麗なことを言っていても,その本心はただの承認欲求であり,「大人たち」からよく見られたいだけに過ぎない.根底にあるのは100点のテストを親に自慢する小学生と何も変わらない態度です6)

 最後に絶望や学習性無力感を挙げておきましょう.鼠に電気ショックを加えるとその鼠は逃げようとしますが,それを逃がさず,電気ショックを加え続ける.すると,その鼠は,電気ショックからは逃げられないのだと絶望(学習)します.そして,逃げられる状況にあっても,電気ショックから逃げなくなり,電気ショックを受け入れるようになります.人間でいえば,ブラック企業からは逃れられないのだと絶望し,死んだ魚のような目をしながら働き続ける社畜が挙げられるでしょうか.こういうのもピュアな心の対極にあるものだと思います.

 さて,結局のところ,純粋とは何か,というのはよくわかりません.そもそも純粋というのは,「何かである」というよりは,「何でもない」ものかもしれません.幼女は何も知らないがゆえに,あらゆる精神的汚染から自由です.その心は何も描かれていない,真っ白なキャンバスみたいなものなのかもしれない.しかし,ただ一つ確実に言えることは,幼女の持つ純粋さというのは,ただ単にそれを見て癒されるだけのものではなく,我々にとって目指すべきものであり,ある種の憧れを含んだものであるということです7).ここまで挙げてきた汚れた人間になりたいと思う人はあまりいないでしょう .大多数の人々が,幼女のように純粋でありたいと願うのではないでしょうか8)

 とはいっても,この闇だらけの社会の中で,純粋であり続けることは簡単ではありません.わけのわからないルールを押し付けられ,それに従わされることもあるでしょう.ブラック企業に呑まれ,死んだ魚のような眼をして働き続けることもあるでしょう.圧倒的な権力や同調圧力に屈し,自分の本心を歪めてしまうこともあるかもしれません.不条理と矛盾に,「そういうものなのだ,それでいいのだ」と納得してしまうかもしれません.そして,何か凝り固まった信念に取り憑かれることもあるかもしれません.大学にいるうちはわりと汚れずにいられます.しかし,社会に出たら最後,我々は思考停止して,家畜のような「悪い意味での大人」になってしまうのかもしれません.


 幼女とは何か?今やその答えに至るときです.その少女的可愛さは,傷つき,疲れ切った心を癒してくれる.そしてその純真無垢さは,汚れてしまった心を浄化し,汚れる前の人間本来的な心のあり方を思い出させてくれる.幼女とは結局のところ,不条理と矛盾と混沌とに満ちたこの世界の中で,それでも腐らずに生きたいと願う人々にとっての,一服の処方箋なのではないでしょうか.


────────


この記事は12月上旬にアップロードする予定だったものですが,卒論に忙殺されていたため遅れてしまいました.申し訳ありません.

1) 誇張を含む.本当のポケGOガチ勢から見れば,私などちっぽけな存在である.
2) スマホを操作するため,手袋をつけるわけにはいかない.
3) ここで論じる幼女という言葉には,一切の性的または犯罪的な意味を含まない.私が幼女という言葉を用いるだけで,私がロリコンのように見られかねないが,別に私はロリコンではないし,性犯罪に走りたいと考えているわけでもない.私が性犯罪者のような邪悪な目で幼女を見ているわけではないというのは,念のためよく強調しておきたい.私は幼女(というよりは後述する広義幼女)を愛している.幼女に限らず,私は自分の描いた人物をすべて愛している.私は彼女らに幸せであってほしいとしか思っていない.そして,その幸せそうな,可愛らしい姿を見て癒されたいとしか思っていない.これは犯罪に手を染めるロリコンの態度とは全く異なる.彼らは幼女を,自らの快楽のための道具として扱っているに過ぎないのであり,そこに幼女への愛は存在しないのである.
4) この二つを満たすものを広義幼女とでも呼ぼう.なお,ごちうさの登場人物は広義幼女であるといってよい.
5) こういうのは「キッチュ」と呼ばれるものである.ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』参照.ちなみにこのキッチュ,私が今書いている卒論のテーマでもある.
6) 幼女も100点のテストを親に自慢するような真似をするだろう.しかし意識高い系の人々と決定的に異なるのは,圧倒的成長などときれいごとを言って表面を取り繕ったりはせず,自分が承認欲求のため,褒めてもらうために頑張ったことを素直に認める点である.
あと,私は様々な人々について偉そうに「汚れている」とか言っているものの,私は汚れていないと言う気はない.最初の方で述べたように,私も既に汚れているし,今後もっと汚染されうる.
7) 純粋さに憧れるとは言ったが,幼女のように,何も知らないことによって純粋になることは現実的ではない.現実的にどうすれば純粋であれるのかは,色々と方法は考えられるものの,長くなるし面白くないし説教臭いし書かないことにする.そういう真面目な話は嫌いだ.というか,要は人として正しくあればよいのだが,何が正しくて何が間違っているかなど簡単に語れるものではないし,語りたくない.
8) こういう言い方は反論を認めないみたいで嫌だが,多分「別に自分は汚れていてもいい」と言っている人々は,すでに汚れていると思う.

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これから絵を描き始める人へ

 長い春休みが終わり, 春光うららかな季節になりました. 大学には珍しく人があふれ, 新生活に胸を躍らせてその純粋な目を輝かせた一回生が, 南部構内を賑わしています. 不安を抱きながらも名称未定の扉をたたく新入生の初々しさは, たいへん趣深いものです. 今はやる気と活力に満ち溢れた彼らは, やがて堕落し, 1か月もたてば徐々にこのキャンパスから姿を消していくわけですが, 欲望に染まり闇へと堕ちていく彼らの姿にはカタルシスを禁じ得ません.

 さて, 今回はしっちーがブログをお送りします. 私は二年前の春からイラストを描いているのですが, 描き始めた頃からずっと作画崩壊に悩まされています. そして最近になって, いい加減作画崩壊に決着をつけようと, 人の顔と人体の描きかた, その構造を一から学び直すことにしました.

 初心に立ち返って絵の描き方というものを見直していると, 私としては色々と思うところがあります. 今回はその辺りを語ることにし て, テーマは「これから絵を描き始める人へ」としましょう. ちょうど, 名称未定に新しく入って絵を描き始めようと思っている読者も多いことでしょう. 具体的に絵の描き方を細かく述べるわけではなく[註1], 絵を描く上での抽象的で精神的な方針を語りたいと思います. ただし私は一枚絵しか描かないものですから, 漫画等のことはよくわからないもので, 一枚絵以外に関しては微妙に当てはまらないこともあるかもしれません. 逆に, イラストだけでなく創作全般に当てはまることもあるかもしれません.



 まずは絵を描く上で最も重要なことをお話ししましょう.
もっと, 熱くなれよおおおおおおおおお!!!
この一言に尽きます. 誰しも自分の好きなものを描いているときは本気になれるはずです. 例えば美少女が好きなのであれば, いま描いている美少女に対して手を抜くことはできないでしょう. 髪の毛のなびき方はこうでなければならないとか, 太腿のラインはこうでなければならないといった直接的なこだわりが出てくるだけでなく, その少女が着ている服のデザイン, 周囲の背景, 環境光や構図などに関してもこだわりたくなるのではないでしょうか. その「美しく表現したい」という, 煮えたぎるマグマのような心の熱さを自覚し、何よりも大切にしてください. これこそ, 絵を描く上での最大のエネルギーです.

 誰しも, 自分が愛してやまない存在が何か一つはあるはず. 建物を愛し, それを描くことに熱くなる人. ある特定のキャラクターを愛し, それを描くことに熱くなる人. あるいは, 特定のシチュエーションや人間関係といった, 形のないものを愛する人もいるでしょう. 自分が愛してやまぬ, それに関して底なしに熱くなれるものを探してみてください. [註2]

 熱い血を燃やし続けている限り, 作品の質は上がり続けるはずです. それは至極当然のことで, 熱くなっていればいま描いている作品に手を抜くことなどできるわけもなく[註3], 書店やネットにいくらでも転がっているイラスト講座を見ないわけにはいかないからです. 強制的かつ自動的に, 画力や表現力, 作品の内容は磨かれざるを得ない. もっと熱くなれよ. 熱い血燃やしていけよ. 人間熱くなったときが, 本当の自分に出会えるんだ!だからこそ, もっと, 熱くなれよぉおおおおおおお!!!



 絵を描く上で重要なことをもう一つ語っておきます. 絵描きの道を志す人は, ほぼ例外なく人の顔から練習を始め, 次に全身を描く練習をすることでしょう. 建物マニアや風景マニアでもない限りは背景は後回しになることと思います. そして, 背景を苦手とし, 人物が(背景に比べれば)得意だという人が多いように思います. 要するに人体が基本的かつ簡単なものであると思っている人をよく見かけるのですが, これが重大な誤解であることは指摘しておかねばなりません.

 この世界に, 人体より複雑な物体は存在しません. これは声を大にして, フォルティシシモ[註4]にして言いたいところです. 所詮円柱や直方体程度の集まりに過ぎず, 機械的に作図してしまえる背景と比べれば, 人体は多数の骨と筋肉が絡み合った複雑な構造を成し, 直立ポーズですら一筋縄ではいきません.[註5] それだけでなく, その骨と筋肉はつねに動き, また外力の影響を受けながら複雑怪奇な様相を示します. 人体の構造を知ってもなお, 人体を描き切るには不十分です. 例えば人がボールを投げている絵を描こうにも, ボールを投げるときに人体にどういう外力が働き, それに骨と筋肉はどう呼応するか(どういう位置にあって, どういう方向を向き, 筋肉はどのくらい膨張しているか)を知らなければなりません. 構造だけでなく, 個別のポーズにおいてその構造がどう挙動するかを知る必要があります. [註6]

 ですから, 人の顔や全身をうまく描けなくても落ち込まないでください[註7]. あなたが挑んでいるのはラスボスです. ゲームの序盤にラスボスに挑むようなものです. 勝てるわけがない. 一瞬で文字通り粉砕されます. むしろ正確に描ける方がおかしいのであり, 背景・風景(物体)の方が圧倒的に単純で簡単です.

 背景が難しくみられる一方で, 人体を比較的簡単に思われるのは, 単に熱くなれるか熱くなれないかの問題に過ぎないと私は思います. 特定のキャラクターを愛し, それを描くことに熱くなれる人は多い一方, 背景や風景に熱くなれる人は比較的少数です. つまり単純に背景を描くモチベーションが弱く, 多少壁にぶつかっただけで心が折れてしまうのではないかと私は思うのです.

 そこで, 背景に対して熱くなれないという人は, 背景をキャラクターの服と同等に考えてみてください. 背景は服と同じく, キャラクターを引き立てるものであり, 本質的な(絵の中での役割での)違いはありません. 自分の愛して止まないキャラクターに醜い服を着せることはできるでしょうか. いや, できないはずです. それと同様に, 自分の愛するキャラクターを醜い背景で囲み, 粗末なステージに立たせることはできないはずです. そう考えてみれば, 背景に対しても熱くなれる──いや, 熱くならざるを得ないのではないしょうか.

 背景に限らず, その絵の中にある全要素についても同様のことがいえます. そうして, 自分の愛する存在の周囲に存在するあらゆるものに対して, 燃え尽きるほどにこだわり続けていれば, きっと幅広い画力が得られることでしょう.



長くなりましたが, 私が語るべきことは以上です. 私はそこまで絵が上手いわけでもないので, 以上を参考にしたところで神絵師になれるとは限りませんが, 私程度のちょっとした画力であれば(簡単にとは言いませんが)得られるのではないかと思います.

 絵を描くことに特別な才能は要りません. 一般的に言われるような先天的な美的センスは全く必要ありません. 思い通りに描けないのはセンスがないからではなく, 単にいま描こうとしている物体をちゃんと理解していないからです. それは知識の問題でしかありません. 知らないものを描けるわけがない. ただそれだけの簡単な問題に, センスなどといいうものを持ち出すのは極めてナンセンスです. 繰り返しますが, 絵を描くことに才能など必要なく, 絵描きの世界への扉は誰に対しても開かれています. ただあなたが表現したいと望むか否か. 熱くなるか熱くならないか. それだけに過ぎません.





[註1] 具体的な描き方・技法についてはたいして絵の上手くない私に聞くよりは, pixiv等に数多ある, 神絵師たちの書いた講座を読んだ方がよい.
[註2] 探してみて, などと簡単に言っているが, これは決して簡単なことではない. 例えばR18なものが好きだったとして, それを描くことに熱くなるのは(周囲の人々の目があるので)勇気のいることである. 自分が好んで描いていたはずのものが, 本当は描きやすかったから描いていたに過ぎなかったとか, 流行に従っているに過ぎなかったということもあるだろう. こういったノイズ(欺瞞)を排し, 自分が心の底から愛せるものを探すには, じっくりと自分自身を見つめ直す必要があると思う.
[註3] 締め切りによる制約のためできないこともある.
[註4] fff
[註5] 正面から水平に眺めた直立の人体なら描ける者は多いと思うが, 全てのアングル(水平角度0~180°, 垂直角度-90~90°)を正確に描ける者はそういないだろう. 少なくとも私は描ける自信は全くない. 最も簡単なはずの直立ポーズですらこの難度である.
[註6] あるポーズにおいて骨や筋肉はどう挙動するかを覚え, そこから解剖学の知識により体の輪郭線と起伏を計算するよりは, 初めから計算結果(体の輪郭線と起伏がどうなるか)を覚えてしまった方がシンプルである. 要するに「このポーズをこのアングルから見ればこう見える」というパターンをひたすら暗記するわけだが, 絵を描くものはまず例外なくこの思考回路で人体を描いているのではないか, と私は考えている. つまり人体を正確に作画崩壊なく描くには, ひたすらパターンを覚えればいいのでは, という結論に達する. 一般的に言われる「画力」の本質とは結局のところ, 膨大な知識の塊と, それを補助する物体への理解(理解したうえで覚えた方が楽なのは言うまでもない)であると私は思う.
[註7]顔に関しては骨の可動部が顎しかないため, まだ捉えやすい部類に入る. 表情筋の話をすると多少複雑にはなるが. 顔は骨や筋肉を立体的に考えて, パターンに頼らずに一から計算するのが現実的に可能な物体である. 人の顔を立体的に捉えるうえで, ヒトカク(http://www.asahi-net.or.jp/~zm5s-nkmr/index.html)が非常に参考になる.

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残響の失地王

ここ数日で一気に寒くなり, 冬らしくなってきましたが, 皆様いかがお過ごしでしょうか. 朝は冷気が上着を貫通する程度に冷え込み, また夜も日に日に長くなり, 一限への出席がつらい季節となりました. 布団によって蝕まれていく単位, 寒風に混じって聞こえてくる留年の足音. どうも, しっちーです.

「しっちーって誰だろう」「しっちーとは何だったのか(哲学)」という読者もいるでしょうから, まず簡潔に自己紹介でも記しておきます.
◆名称未定の新入生(2015年度)
◆工学部地球工学科の三回生. 土木勢. うたろう氏とは同じ学科.
◆イラストを描く人. 漫画は描いたことはなく, 一枚絵を生産する.
◆NFイラスト本の表紙を描いていた人. あとNF名称未定企画で後ろに絵を貼っていた人. 胸焼けしそうなくらいガーリーで甘ったるいもの(キャラクターに限らず, 服や小物なども含む)が非常に好き[註0]. 作品は大体そういう要素を含む.
◆絵以外の趣味はぷよぷよとかゲーム音楽とか. ちなみにぷよぷよサークルにも入っており, そっちで会長を務めたりNFで企画を出したりもしていた.

 *

 御託を並べるのはここまでとして, 他の記事に倣い, 徒然なるままに何かを垂れ流すことにしましょう. 何を語るか割と迷うところではありますが, 今回はとりあえず絵に関する話題, 「リバーブ効果」なるものについて語ることにします.

 リバーブは残響を意味します. おそらく皆さんのお使いのメディアプレイヤーにその機能がついていることでしょう. 音楽に残響がかかり, 室内(浴室といえばもっとわかりやすい)でその音が反響しているように聞こえるエフェクトのことです. これをかけることで, 何かその音楽が, より「良く」なったように思える. どう「良い」のかは私の貧弱な音楽語彙では表現しかねますが, ともかく何かクオリティが向上している感じがあるわけです.

 なぜそう感じるのか?何年も前, 私が幼い頃[註1]に聞いた話なので色々と不確かですが, どうもリバーブによって音に「ぼかし」をかけることで, 聞く者にとって音が理想的に解釈されるらしいのです. これはミロのヴィーナスみたいな現象です. ミロのヴィーナスは腕のない石像ですが, 腕がないことによってむしろ価値が上がっているとされています. つまり, 腕がないことによって, 見る者が理想通りの腕を想像できるがゆえに, クオリティが向上してしまったわけです. リバーブに関してもこれと同様のことが起こっているらしい.

 絵の話題は唐突に始まります. 絵を描く上では, 完成された線画よりもラフや構想段階の方が良かったというのはよくあること(というよりは, 人によっては常にそうなのかもしれない)です. なぜこんなことが起こるかというと, 何本もの線を乱雑に重ねて描いたラフ絵を見るとき, 人はその何本かある線のうち最も理想的な線を選び出して見てしまうため, 理想的な線で構成された完璧な絵が見えてしまう──というのは, 絵を描く人ならば一度は聞いたことがある話でしょう[註2]. この現象を, 私は自分の頭の中では「リバーブ効果」と呼んでいます. ただの個人的な造語です. 前述のリバーブと原理が同じだからこう呼ぶわけです.

 なぜ落描きが楽しく感じられるのか. それはリバーブ効果の賜物と言ってよいでしょう. 丁寧に清書したりも色塗りしたりもしない落描きは, リバーブ効果を受けて手間不相応に美しく映えます. 落描きの向こうに理想の線画が, ある種の幻覚として見えるわけです. その費用対効果たるや絶大なもので, 「落描きとラフを描くのは好きだがペン入れや塗りは好きではない」と言う絵師が多いのも頷けます. なお, 似たようなことが落描き/ラフのみならず構想段階でもあって, 「こんな絵/漫画が描きたいなあ」と構想している段階では素晴らしいものができそうで楽しくても, いざ手を動かしてみると思い通りにいかないというのは, よくあることだと聞きます. 一部が未確定な, 残響のようにぼんやりとした存在は, その先に理想を映すわけですね.

 ところで, ここまで書いておいて何ですが, 私は落描きが嫌いです. 最大の理由は作画崩壊で, デッサン力が極めて低い[註3]私が落描きをしたところで, あたり線が入り混じっていて作画崩壊した, 気持ち悪くて汚いものしかできないからなのですが, まあそこは置いておくことにしましょう. ここで語るべき理由はそっちではありません. 私は「絵を描くのが好き」というよりは, 「絵を磨き上げるのが好き」な人間です. 線一つ, 色一つに対して, これは見た者にとってどう映るだろうかとか, ここはこう修正した方が面白いんじゃないかとか, そういうことを延々と考えながら絵を丁寧に磨き上げていくことを好みます. 落描きというのは私にとっては, スルメをほとんど噛まずに飲み込むみたいな行為であって, これをやっていても中々テンションが上がらないのです.

 こんなことを言う人間は中々見かけないもので, これはもしや, どこかのラノベの主人公が持っている特殊能力のように, 私が特殊な画力を持っているのではないかという期待が湧いてきます. しかし, 現実はそんなに甘くはないようです. 確かにそういう人間は少数派ではあるけれど, 普通にどこにでもいるらしい. ある絵師がtwitterで呟いていたことですが, どうやら絵師には二つのタイプがあるらしいのです. すなわち, 絵のクオリティを高め, 磨き上げていくことに快感をもつイラストレーター系の絵描きと, 自分の考えたストーリーやネタを表現することに快感をもつ漫画家系の絵描きががいるのだと. もちろんこの中間というのもありますし, 前者α:後者βの混合みたいなのもあります. 私はイラストレーター系8:漫画家系2くらいの成分であるような気がしますが, 皆さんはどうでしょうか. 自分がどちらのタイプなのかを考えてみると面白いかもしれません.

 さて, 絵を描かない人にとってもわかりやすく, みたいなことを意識して書いていたら, 説明がくどくて長い[註4]割には内容が薄くて何が言いたいのかわからない, クソみたいな文章ができてしまいましたが, まあいいでしょう. ここまで読んでくれた方に感謝しつつ, これにて筆を置くことにします.



[0] 無論私がその可愛い服や小物を装備しても薄気味悪い生物にしかならないため, 現実にそういうものを収集しているわけではない. せいぜい店先に置いてあるものを「あぁ^~」とか思いながら眺めるだけである.
[1] 必ずしも幼少を意味しない. 精神的に今より幼かったあの頃.
[2] 清書の際には一本の線を選び出さねばならない. そこで理想的な線を選べなかったとき, 線画のクオリティはラフに劣ってしまう.
[3] 私の最大にして最悪の弱点である. 早く何とかしたいが, そもそも早く何とかできていたら苦労などしない.
[4] 感想文等を要求された時に限ってはこういう長ったらしいのを書きたいものである. ちなみにこの文章で原稿用紙7枚程度が埋まる.

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