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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2023-12

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あけましておめでとうございました

 令和三年の元旦の空は、関東地方から九州地方に渡り太平洋側は広く快晴となりました。内陸にある私の家の近くでも今年は初日の出が見られると聞いて、つい先程、着込みに着込んで拝みに行きました。
 おはようございます。令和二年十二月上旬担当であった入ヶ岳です。当時は「すぐ書くから」というようなことを言っていましたが、考えていた内容が思ったように文にならず、このように新年まで持ち越すはめになりました。申し訳ないことですし、前年の荷物を今年へ持ち込むのは良くなかろうということで、今さらながら筆を執らせていただきます。
 さて、全ては散歩がてらのことです。令和三年一月というこの瞬間にわざわざ初日の出を拝むというのは、ご来光を前に祈るということは、何らかの含むところを持ちそうなものですが、私個人に限っては何も考えてはおりません。ただ朝は晴れるそうだと知って、なら日の出が見えるじゃないかと、思った時には目覚ましをかけていました。七年程前、引っ越してすぐの元旦にも同じことをしています。
 空は実際よく晴れましたが、その分非常に寒い朝です。分厚いセーターに毛のコート、革の手袋をして、首元にはマフラーを巻きましたが、顔の冷たさだけはどうにもならず、時々両手で耳を覆って吹く風を凌ぎながら住宅地を歩きました。
 東の稜線を見るには家から少し離れて、下り坂を望む開けた空き地に出なくてはなりません。七年前に覚えたことです。ところがいざ坂道まで足を伸ばしてみますと、知らぬ間に新しい駐車場が出来ていまして、昔とは景色から違っておりました。恐らくこの辺りという場所へ立ってみたものの、舗装のせいで位置がずれたのでしょうか、どうにも心もとない視界の狭さでしっくり来ず、それ以前に大した用もなく長居するべき場所ではありませんでしたので、少し下がった位置の空き地、というよりただの砂利道に陣取って日の出を待つこととしました。
 背後の空には月が照っています。まだ夜の光り方でした。朝焼けた空はどこか薄ぼんやりとしていまして、これが六時四十五分頃のことです。
 調べたところ日の出の予想時刻は午前七時五分頃とのことでしたが、私の住む辺りは住宅地の近くまで山が伸びてきていますからこれは当てになりません。実際私が立っていた場所も数十メートル先には小高い丘と竹藪があり、その奥にも稜線が遠く視界の果てまで広がっていました。この竹藪が曲者で、恐らく太陽の通り道を塞いでしまっているだけでなく、朝焼けの色すら通さないせいで一体どこが最も明るいのか、つまり、どこから太陽が昇ってくるのかもよく分かりません。仕方なくぼうっと「そのあたり」を眺めて時間を過ごしました。
 ずっと手袋をして携帯も見ないので時間が分かりませんが、町の遠くから鐘の音が聴こえたのは、つまりそれが朝の七時だったということなのでしょうか。
 にわかに竹藪の向こうが煌めいてまいりました。稜線の向こうに日が昇り始めたのです。太陽そのものは案の定隠れてしまっていますが、あの竹藪というのが案外に捨てたものではなく、背に受けた陽光の作る黄金色の鱗粉のような木漏れ日を私に見せてくれました。少し上には端切れのような小さな雲が、朝焼けの空よりも濃い桃色に照って浮かんでおりまして、風の強い朝ですから、それらが見る見る形を変えていくのもまた面白い眺めでした。
 数分ほどはそれを見て過ごし、正直なところ朝の散歩としてはかなり満足していたのですが、眼前の明かりに反して吹く風はいよいよ冷たく、いずれにせよ元日から風邪を引いては堪らないということで早々に撤収することとしました。日の出と竹藪に背を向けて坂を上っていきますと、白んだ西の空では沈みかけの月がとっくに光を失っていました。

 最後に種明かしをしておきましょう。帰る途中の上り坂にはある高さを境に光の分かれたところがありまして、後ろの空を振り返ると、そこには馬鹿馬鹿しいほどはっきりと太陽が浮かんでいたのです。
 思わず笑みが浮かびました。先程まで私の立っていた場所は左右に視界が広い一方で、その位置の低さから目の前の竹藪に日の出を阻まれてしまっていたのですが、少し上れば視界こそ狭いものの竹藪は邪魔をしなくなり、実を言うとその狭い視界の先にこそ太陽は昇ったのでした。
 思えば七年前にも竹藪越しに初日の出を見たのであればあんな新鮮味を感じるはずもないわけで、昔の私の方が陣取りとしては正しかったこととなります。駐車場にはおれずとも、どうせ人通りの無い早朝ですからすぐ横の道端にでも突っ立っておけばよかったのです。なので今までつらつらと述べてきたことは、単に天体観測に失敗した私の照れ隠しに過ぎないというわけでした。皆さんも来年以降初日の出を拝む時には、何より高い場所に立ち、日が昇る方角をしっかりと把握しておきましょう。
 それではお別れに、煌々と照る太陽を見て愉快になった私が撮った初日の出の影の写真をお見せしようと思います。太陽そのものも綺麗ではあるのですが手元の携帯ではうまく撮れませんし、あまり見すぎると目が痛くなってしまいますので。

 というわけで、あけましておめでとうござい、ました。


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日記を書くのが苦手です

 六月上旬担当の入ヶ岳です。度重なる遅延とすっぽかしを経て、恥ずかしながら本日投稿までたどり着きました。にしてはブログタイトルが舐めすぎかもしれませんが、ブログと日記は違うということで、悪しからずご了承ください。


 幼稚園頃の朧気な思い出ですが、私は一時期自分のことを「ウチ」と呼んでいました。きっかけは一体何だったのか、大阪に住んでいた従姉妹の影響かもしれませんし、同じ組や近所の女の子から口調が移ったのかもしれません。何か信念を持ってそうしていたというわけではなく、ただその時の私には「ウチ」という響きがしっくり来たのだと思います。私が「ウチ」だったのはごく短い間、恐らく一ヶ月未満で、その後の私は数年の間「ぼく」でした。どういう心境で再び一人称を変えたのかは思い出せないのですが、それを言ったら「ウチ」の前が何だったのかも分かりません。四歳、五歳の記憶というのは普通、それくらいあやふやなものかと思います。
 別に大きな事件ではありませんが、そうした幼少の記憶がふと思い出されるのは、懐かしくも楽しい体験です。その日の夕食の席で、家族にも雑談の種として「ウチ」の件を語ってみました。すると目の前に座る母親は首を傾げ、「そんな時期があったとは覚えていない」と言うのです。しまった、と思いました。私はてっきり、母も私の一人称について何か覚えていると思っていたのです。しかしこう否定されてしまうと、あれがはたして本当にあったことなのかすらも怪しくなってきます。私はかつて少しの間一人称を変えたのかもしれませんし、変えたという誤った記憶を抱えているだけなのかもしれません。一人の古い記憶ほど当てにならないものもそう無いでしょう。過去に自信を持てなくなったのが、何より寂しいことでした。

 記憶をはっきり留めておきたいのなら、四六時中ビデオを回せば良いのかもしれません。しかしそれで見えるのは世界の外面、その中にいる人間の人となりまでは残りませんから、なんだか不十分な気もします。では、小さい頃から日記でも書いておくというのはどうでしょう。人によってはある程度有効な気がします。ですが私の場合は、日記というのがどうにも苦手で書く気になれません。続かないというのもありますが、その日あったことについて、自ら改めて語り直すのが躊躇われるのです。何があったか、ならまだ書けます。今日の夕食はアジフライでした。これが書いているうちにアジの開きに変わるようなことはありません。しかし形にならぬ思考や心情は、刻一刻と移ろう上にひどく複雑です。たとえば、今日は街でたまたま友人と会ったとしましょう。私はその時嬉しかったのでしょうか、気まずかったのでしょうか。あるいはただの一言で語り得ぬ心情がそこにあったのだとしたら、「嬉しかった」と書くだけでは不正確ということになります。しかし難儀なことに、私の心情は書いたものに追従する形で変化します。違うと思いつつも一度「嬉しかった」と書けば、何となく嬉しかったような気がしてきて、他の複雑なあれこれは捨象され形を失うのです。思考の整理とはまた違う、これは歪曲に近い。数年後の私が日記を見返した時、そこに残るのは「嬉しかった」という実体の無い文字列でしかありません。
 あるがままを書く、というのがそもそも不可能なことは理解しているつもりです。私自身、そんな究極を求めているわけではありません。作文は常に選択と解釈を伴いますから、書かれていることは徹底的に著者の主観、推敲された物語と言えるでしょう。しかし、捏造は選択でも解釈でもない。「私は怒っている」と日記に書く私は、多分怒っていません。根深い悪癖として、私は現実を文字に起こそうとした時、事実あったことよりも物語としての骨格に拘ってしまうのです。自らの内心を吐露する気も、生活を写し取る気もきっとありません。常に物語としてより良い像を求めている。あるいは求めるものなど無く、ただ自分と向き合うことから逃げているだけなのかもしれません。私が「ウチ」の件を家族に伝えたのは夕食の席でなく休日の午後です。私はその時「しまった」なんて思わなかった。しかしそう書いた方が、物語のテーマは伝わりやすいでしょう、読者に。つまり私は現実を書いているように見せかけて、書きたい虚構を初めから据え置いている。本当に悪い癖です。ありがちなことなのだとして、私はあって良いことだと思いません。
 私は日記を書くのが苦手です。自分が書いた自分の主観を、主観であるとすら信じられないからです。文字にしていない記憶とて抗い難く歪んでしまいますが、文字だけは特に恐ろしい。それでも克服すべきとは思っていますので、こうしてキーボードを前に両手を揉み合わせつつ、考え考えブログを書いています。「ウチ」の件は、既に記憶から霧散しつつあり、瑣末事であるからこそ書こうという気になったのですが(なってない! 後付けで理由を書くな。私はこの文章を、記事を仕上げた果てに調味料のように挟み込んでいる。しかしこの一文を私は消さずにおきたいと思う)、残念ながら今回もあまり上手くいっていません。

 こんな人間ではありますが、創作は私にとって大変楽しい営みです。それはなぜか。現実を無視できるからでしょうか。きっと違います。小説は何でも書けますが、何を書いてもいいわけではないからです。現実に起こる出来事と物語は常に影響しあい、共鳴しています。もちろん、自分の内心から目を背けてもいられません。むしろ強く向き合うことになるでしょう(創作サークルのブログとして念の為に述べておきます。本記事、特にこの前後に書かれた創作に纏わるあれこれは、あくまで私がそう思っているというだけです。これは半分予防線ですが、半分は「こう考えなければいけない」と思ってほしくないが故の補足です)。
 私が好きなのは、物語が本質的に作者である私自身からも束縛されないという点です。それが創作であるならば、私は当初の構想と違う物語が描かれるのを恐れなくて良いのです(全く思い通りに書けないとなるとやはり歯痒いですし、もう少し手綱を握っていたいとは思いますが)。初めに書きたかったことから作品が歪んでくるのは茶飯事です。しかし、書きたくないものが書き上げられた経験は私の場合ありません。まあ多分、書きたくないものが書かれようとしている時はまず完成できていないのでしょうが。
 机に向かって小説を書いていると、まだ見ぬ白紙の中にふと書きたい一節を発見することがあります。前から書きたいと思っていた物語と自然に繋がりを見せ始めることもあります。あるいは、全く私の意識していなかった知らない物語が、ふいに目前へ立ち上がってくることもあります。想定外でありながら、気付けばそれらを書きたいと思う自分がいるのです。その時私は、「自分はこれが書きたかったのか」と眼を見開きます。今まで知らなかった、これから大好きになる物語を読んだ時の気持ちにも似ています。大きな喜びの一つです。
 あるいは私はここでも、創作という舞台においてすらも、書いたものに内心を合わせるという過ちを犯してしまっているのかもしれません。それを否定はできないでしょう。しかし、過去の内心を塗り替えることと、新しく物語を編んでいくことは私には別物に見えます。今まで自分の意識の内に存在しなかったものを彫り出し、それをうつくしいと、胸の内に温めて育て上げたいと初めて思えたのならば、それこそが豊かさであると信じたいのです。

Edit 23:36 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

創作者たち

 皆様こんにちは。創作サークル「名称未定」で、本年の会長を務めさせていただいております入ヶ岳と申します。STARTという名前で絵を描くこともあります。
 今回は4月上旬の記事ということで、例えば新入生の方々へ向けて勧誘の言葉など述べてみるのも良いかと思うのですが、私はもう少し回りくどく、「創作活動の仲間」という主題で少々文字を書き連ねさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 世間では、多くの方が創作活動を趣味や仕事とされています。ここ京都大学でもそれは例外ではなく、キャンパスを歩く人々の中にも、きっと創作活動が好きな方がいらっしゃるはずです。
 しかし、ただ歩いているだけでは、同好の士にめぐりあうことは出来ません。創作活動の仲間を見つけるためには、何かサークルなどに入ってみたり、例えば創作サークル、そうです皆様、名称未定、創作サークル「名称未定」を、どうぞよろしくお願いいたしま――

 この勧誘の、どこが回りくどいのでしょう。短絡的でいけませんね。まずもって、何故創作活動の仲間を見つけなければならないのか、その理由が示されていないではありませんか。
 正直に申し上げまして、名称未定で行っているような「紙面に印刷できる創作活動」というのは、概ね一人でも可能な分野だと思われます。小説、イラスト、漫画、詩、俳句、短歌、評論、などなど。もちろん合作という楽しみが存在しますし、事実名称未定ではそのような活動も行っています。しかし私は、創作者の集まる意味は別にあると思っているのです。
 まず、これは名称未定というサークルに限った話ですが、締切があります。これは重要です。特に、私のように尻に火がつかない限り徹底的に動かないような人間にとっては。周りの会員が作品を投稿していく環境に身を置くことで、ようやく重い腰を上げるのです。
 次に、作品の意見交換が出来るという点があります。一人で作品を作った時、それが鑑賞者にどう受け取られるのか、あるいは、何か自分に見えない悪い点が存在しないかと、心配になりませんか。私はなります。私はなるのです! 故に、作品を読んでもらって感想を言って、私も自分が何を表現したかったか述べて、時に全く予想していなかった切り口から改善点が見つかったりするのが、とても嬉しい。創作活動において一番恐ろしい瞬間は「作りたいものが無くなった」と感じた時で、二番目は「これ以上良くならないのではないか」と感じた時であると、私は思っています。自分が何を作りたいか知っているのは自分だけですが、創作者は絶対鑑賞者にはなれませんから、人に見てもらうというのは非常に重要なことではないでしょうか。(ちなみに、見せる相手は基本的に創作者か、一定以上に熟達した鑑賞者が良いと思われます。小説を読まない友人に私の書いた小説を読ませたところで……何だそれは、双方への拷問か?)
 これまで創作活動をしてきたけれど、大学で創作活動をする同士が欲しいという方。これから創作活動をしたくて、一緒に歩いていく仲間がいればと思う方。創作活動に興味を持っているのでしたら、創作サークル「名称未定」はきっと良い活動場所になることかと思います。兼サークルも問題ないです、私は3つ兼ねています。どなたも是非、新歓を覗いてみてください。水曜18時15分からカフェテリアルネ2階にて、5月以降も毎週そこで活動していますのでいつでもどうぞ。

 というわけで改めまして、そうです、皆様名称未定を、創作サークル「名称未定」をどうぞよろしくお願いいたします。おはようございます、大きな声と変なサークル名で失礼いたします、創作サークル「名称未定」でござい――

Edit 11:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

美しい地の文を目指して

 こんにちは、入ヶ岳です。今回は、小説を書くに当たって気をつけたいと思っていることの一つ、地の文についてお話してみたいと思います。
 地の文というものに関しまして予め定義しておきますが、これは小説を構成する要素の一つです。小説の構成というと、例えば起承転結の流れであったり、プロローグと本文、エピローグといった物語の仕組みについて考えることも出来るのですが、ここでの構成というのはもっと形式的なもので、キャラクターが実際に話す「会話文」と、それに対しての「地の文」を考えるものです。
 地の文は、言葉にならない感情や風景、状況を表す部分であり、小説にとって非常に重要なものです(会話文だけの小説というのも少なからず存在しますが、今はそれらの作品のことは考えないことにします)。
 さて、私はこの地の文について、ある悩みを抱えています。それは直球も直球、「地の文がうまく書けない!」というものです。
 思うに、地の文には役割が多過ぎるのです。状況の説明に風景描写、登場人物の感情描写等々。それらをバランス良く、かつ読者に読みづらさを感じさせないように整列させるというのは、実際かなり困難な作業です。少なくとも私にとっては。
 このことについて強く悩み始めたのは、本格的に小説を書き始めてから、つまり、大学に入ってからのことです。地の文はただの状況説明ではありません。単なるナレーションでも無ければ、一人称人物の感想文を垂れ流す部分でも無いのです。それがほんの少しであれ頭で理解できてきたが故に、私は悩むのです。これは、ひょっとしたら良い変化であると言えるのかもしれません。苦しいですが。文章を書くために「稚拙! 下手くそ!」と自分をなじっていますが。深夜に書いた文章を朝になって確認した時等は、一瞥するなり奇声を上げてDeleteキーを押すこととなるわけです。原稿を深夜に書くのはやめましょう。
 先日、拙作をサークル内で発表する機会がありました。そこで痛感したのは、いくら作者が設定を内心で練っていたとしても、それが文章内でうまく表現できていなければ何も無いのと同じ、ということです。物語の真相、登場人物の隠された内心等を、読んで判る形、少なくとも「何かある」と匂わせることをしなければ、読者は何も気付かずに作品を通り過ぎています。私の書いた作品が、暴き出す価値のあるような内容になっているか、というのは今後の課題でもありますが、少なくとも、伝えたい内容があるなら、伝わるように書くのは作者である私の義務なのではないかと考えています。勿論、万人に作品内容が正確に伝わることは有り得ませんし、私自身それを目指しているわけではありませんが、「こんな人に楽しんでもらいたい」というターゲットがあるならば、そのターゲットが読み解けるような文章にしなければ意味が無いのです。
 伝えたい内容を、伝わる程度の隠し方で文章に混ぜ込む……その手段は例えば比喩表現であったり、情景描写であったりするわけです。私の頭の中の物語を、どうやって自然に文章へ出力するか。難しい問題です。私はずっと悩んでいます。問題解決の一助にならないかと、作品を読んだり、逆に小説を書いてみたりしている日々です。試行錯誤の末に答えがあるのかはまだ分かりませんが、こんな苦悩をもどこかで楽しく感じている自分が居て、やはりどうにも小説書きというのはやめられそうにないと、そう思ってしまうわけです。

Edit 03:04 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

NF企画「キャラクター創作」まとめ

 今年のNFにおいて、「キャラクター創作」という企画を担当させていただきました入ヶ岳愁です。キャラクター創作というのは、ランダムに決まったお題を基にキャラクターを自由に考えるというもので、今年になって初めて登場した企画です。
 まずはこちらの「キャラクター創作シート」をご覧ください。
bandicam 2018-11-29 15-53-57-331 
 シート上部はキャラクターの大まかな設定を記入する欄となっているのですが、この①、②、③を埋める内容を、今回はカードをランダムに引くことで決めていただきました。①や②は25種類以上の選択肢がありますので、組み合わせの数は膨大です。
 お題があるとは言え、一からキャラクターを作る以上、時間のかかる企画です。担当者としては、正直人気が出るのか不安な状況の中、一先ずNF前日に50部のキャラクター創作シートを印刷しました。
 結果として、企画は人気を博したと言って良いと思われます。というのも、NF最終日になって50部あったシートが尽き、私はコンビニまで走ることとなったのです(油断しておりました)。沢山のご参加、本当に有難うございました!

 さて、実際集まったキャラクター設定に関しましては、担当者として全て目を通させていただきました。「個人的に特に好きだったキャラクターTOP3」といったものをやりたいとも考えたのですが、許可の関係もあり、断念することと致しました。実際のところ、今回の企画では優劣は本質的なことではなく、参加していただけた方が楽しんでいただけたのならば、それが何よりのことだと考えております。
 ただ、せめて企画がどのように成ったかということはお伝えしたく、2枚の写真を以下に貼らせていただきたいと思います。何十人もの方々が、楽しみ、或いは苦心しつつ見事生み出された幾つもの魂をお見せして、今回の企画の締めとさせていただきます。本当に、有難うございました。35221.jpg 35222.jpg 

Edit 17:54 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:安野深砂
中旬:西桜
下旬:氷崎光 です。

 

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