fc2ブログ
 

 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2023-09

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

フィクションを描くことについて

どうも、7月下旬担当のいとらです。
今は8月? それも下旬の?
まあまあ、夏休みってなぜか時間が圧縮されるんで、実質3日遅れくらいじゃないですか?

とまあ冗談はさておき、最近小説を書きながら、あるいはそれ以外の時間、とみに考えることがありまして。何かというと、タイトルの通り、フィクションを描くってどういうことなのだろう、ってことです。
事の発端は今年の3月。私は新入生を騙したいというただ一心により、新歓冊子にあたかも私が卒業していなくなるかのようなこれまでの振り返りを載せました。その性格の悪さは置いておくとして、とにかく、その際に私は、在り得たかもしれない可能性の一つという"てい"でそれを書いたのですが、これがどうにも引っかかる。そもそも私は他の可能な世界なんて見たことないのに、今書いてる物語だってどこかに矛盾を内包していてそもそも存在可能性がないかもしれないというのに、なぜ当たり前のようにフィクションの世界を想像し、書くことができているのだろう、と。
可能世界意味論、という考え方があります。これは、ある言明の意味は、その言明が真となるような可能世界の集合によって規定されるというものです(と少なくとも私はこう定義しています)。この概念を数学的に書き換えれば、論理式の意味は、その論理式を満たすモデルによって定義されるということになり、であれば一階述語論理の完全性定理によってその正当性が保証されるだろうということで、私はある程度この考え方に納得していたわけです。
この考えに基づけば、フィクションの物語が表すものというのは、その物語で語られていることが真となるような可能世界の集合であると言えます。そう言い切ってしまうのも味気ないような気もしますが、可能世界の集合が我々の想像できないくらいに豊かであるのだと言われれば、納得もできましょう。
しかし、そもそも書かれているもの自体に矛盾が内包されてしまっていたら、話は別です。この場合、その物語を満たす世界など存在できませんから、その物語の意味は空ということになってしまいます。世の物語は大半が矛盾だらけ(私見)ですから、では本当に意味を持つ物語など、ほとんどないのではないか。だけど、我々は矛盾しているとわかっていても、そこから何か(感動とか教訓とか)を得ることはできるているわけで、こうなるといよいよフィクションを描くということの意味合いがわからなくなってきます。
この思索を突き詰めていくと、これはフィクションだけの問題ではありません。私たちが日常発している言葉であったり、あるいは厳密性が求められるような学問で交わされる言葉であっても同じことでしょう。もちろん現実世界を忠実に切り取れているのであればそこに矛盾は内包され得ないわけですが、そんなことは現実的に不可能なわけで、何を言うにしたってそれがナンセンスと化してしまう可能性を私は受け入れるしかないのか、というか受け入れる受け入れないの問題なのか、とそういうことまで考え始めてしまいます。
この話に結論はありません。何と言っても現在進行形で考えていることですから。
とはいえ少し思うのは、言葉には意味を超越した何らかの力(スピリチュアルな意味ではなく、単に人間の脳活動に影響を及ぼすという程度の意味です)があるのではということです。情報伝達を超えた何か。もしそういうものがあるのだとしたら、そこにこそ私が小説を書く意味も生まれてくるのでは、と。
たとえば、冒頭に書いた、「3日遅れくらいじゃないですか?」というのだって、1か月が3日であることはby definitionであり得ないわけですが、だからといってその言明から感じるものはあると思います(あってほしい……ユーモアとか)。そういうものを煮詰めていった先に、私の書きたい文章があるのではと、最近は考えています。
なんて、それこそフィクションみたいな言明ですが。

Edit 22:11 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

昔馴染み

どうもこんにちは。3月上旬担当のいとらです。

……そう、上旬担当なのです。
本当は3月10日くらいには書こうかなと思っていたんですけどね。最近思ったよりも忙しく、酒を飲んだり、酒を飲んだり、車を運転したり、酒を飲んだりしていたら今日になっていました。と、この並びだとまるで酩酊状態で運転しているかのようですけども、それぞれの読点の間に一日が経過しています。いやあ、一日って短いもんですね。
とまあ、私の堕落っぷりについてはこのくらいにして。

さて、その二番目の「酒を飲んだり」についてですが、具体的には高校の頃の友人二人と会っていました。二人は高校の部活の同期です。ところが、この部活について説明するのは少し面倒でして、一言で説明するならば、工作全般を扱う部活という感じです(部活名についてはあえて書きませんけれども、キラキラネームのような名前だったとだけ記しておきます)。「何でもあり」という点については名称未定と似ているのですが、活動内容は微妙に重なっているところが少なく、部活では例えば木を切ったり機械を作ったりプログラミングしたりしていました。それに加えて私たちの代では、ボードゲームをしたりクイズをしたりと好き勝手していて、どちらかと言うと大学のサークルに近かったのかなと思います。
そんな部活の同期とは、高校の卒業後もそれなりに仲良くしていたのですが、前に会ったのがいつだったかと思い出してみると、そういえばその時「まだお酒飲めないよね」みたいな話をしていましたから、私が二十歳になる前、つまり二年以上も前ということになるらしいのです。二年というのは長いもので、お互いどんな風に呼び合っていたかとか、どういう口調で喋っていたかとかを忘れてしまうほどです。特に私なんかはすっかり大学生活に染まってしまっていますから、前と同じように喋れるだろうかと不安でもありました。
二人とは大学の前で待ち合わせして、近くの店で食事をし、酒を飲み交わし、それから街を練り歩きました。私の地元は温泉街が繁華街となっているようなところで、大学生らしき集団が大声で騒ぎながら足湯に浸かったりしていました(私たちもそのような集団の一つだったかもしれません)。そうやって街を歩きながら、最近どんなことしてたかとか、卒業後どうするのかとか、そういう話をしました。こんな風に会うのも今後は難しくなるんだろうな、なんて話も。気が付けば遠慮なんてものはなくなっていて、最近はめったに出ない方言も使っていました。
やっぱり、二人は私にとってかけがえのない人たちなんだなって思います。
大学に入ってから、私はいろんな人に会って、こんなにも個性的な人たちがいるんだと驚かされ続けてきました。それでも、二人の個性は大学で出会った人たちと比べても引けを取らないくらいに際立っているように感じて、それは今回、会って話をしていても変わらないどころか一層増すばかりで、これは単に仲がいいからそう感じるだけなのか、あるいは偶然特徴的な人と出会っていたのだろうか、なんて考えます。特別でない人なんていない、という言明もありますけれど、それだけで片付けてしまうのも味気ありませんから、ここではそれに加えて、私たちは人と関わりながら育つ中で、その人の特別さに一際価値を置くようになるのではないか、という仮説でも立ててみることにしましょう。検証は、今後の人生でするとして。

もとはと言えば、卒業すると会いづらくなるからというので、わざわざ地元に集まったのですけど、どういうわけか、この春の間に今度は二人が京都に来てくれるということになりました。
いやあ、また忙しくなりますね。

Edit 20:55 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日常と非日常

こんにちは。名称未定会長のいとらです。

と、この名乗りも今日で最後となるわけです。明日からは次期会長が会長になります(トートロジー)。これからも私は会長と名乗ることはできますが、名称未定の歴史もそれなりに長いので、同じ称号を持つ人は大勢いますからね。この世界で唯一無二の存在たる「名称未定会長」と比べると、称号としての箔は弱まっている気がします。

ともかく、今日は大晦日、一年の締めくくりとなる日なわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は久しぶりに実家に帰り、餅つきだとか、おせちの準備だとか、結構年末らしいことをしております。一人暮らしだと季節感もなくなってしまいますからね、今日は○○の日だからあれやってこれやって、というのは割と新鮮な感じです。
しかし、昔は年の終わりと聞くとそれだけでテンションが上がっていたものですが、今はそんな感慨は全然わかなくなってしまいました。今日で今年が終わるからといって、世界の何が変わるというわけでもありませんし、年越しという事象にいまいち蓋然性を抱けないんですよね。何となれば年の境を夏にしたって問題ないはずですし、どの暦を使うかでいつが年明けかは変わってきます。なんなら、日本時刻での年明けとアメリカ時刻の年明けとで半日以上ずれているわけなので、年が変わる瞬間なるものも、他の任意の時刻と同等の価値しか持ちえないのではないか、なんて思ってしまいます。
まあ、あれこれ理由をつけてみましたけど、要するに特別な日に対する特別感を感じなくなったという話です。これは大晦日に限らず、他の祝日や年中行事全般に言えることなんですが、例えば年越しそばを食べることに関して、わざわざ年越しのときに食べなくてもいいじゃないか、そばくらい好きな時に食わせろ、とそんなことを思います。だから誕生日にケーキを食べようとは思わないですし、ハロウィンに仮装したいとはなりませんし、クリスマスにリア充を爆破したりはしません。そんなの、好きなときにすればいい話ですからね。リア爆しろ!
……冗談はさておき、実際のところ、普段できないことをするきっかけとして必要だというのもわかるんです。特別な日の特別感を味わうのもそれはそれで楽しいでしょうし。結局、私がそういう童心を忘れてしまったというだけの話です。

ところで、今年も色々なことがありましたね。甲子園とか、コミケとか、去年できなかったことが今年こそはと開催されました。京大ではなんとNFが今年二回も開催され(!?)、対面授業も段階的に再開されていきました。名称未定でも、制限付きですが対面での活動を行うようになりました。
しかし同時に、コロナの状況に振り回された一年でもありました。前々から企画していたイベントを中止せざるを得なくなることもあったでしょうし、大学は対面授業とオンライン授業を頻繁に切り換えたので、それに順応できずにいた人もいたかもしれません(私ですが)。

思えば現代人は文明の力によって、同じような日々を繰り返す環境を作り上げてきました。それは安定して豊かなものですが、同時に退屈なものだったりもします。その「日常」の中にあって、毎年味わえる些細な非日常というのは、なるほどうまくできたシステムなのかもしれません。同じ非日常でも、予測のできないものに振り回されるよりかは、毎年同じように祝える日があった方が楽しい気がします。ええ、リアルはフィクションより嫌なことが多いですからね。最近、そんなことを思います。

今年も、家族で大晦日を過ごせて幸せです。

そんなわけで、最近考えていた日常と非日常についてでした。みなさんは、年の瀬にはどんなことを思いますか?

そういえば、良いお年を、という表現は大晦日には使わないらしいですね。なんでも、「良いお年を」というのは今年やるべきことを終わらせて、良い新年を迎えてください、という意味なのですが、大晦日にはやるべきことは終えているはずだから、と言うような理由らしいです。まあ、私は今こうして今年中にやるべきものを書いてるんですけどね。あはは。

ただまあ、せっかくの大晦日にそんな細かいことを気にするのも馬鹿らしいので、ここはこの挨拶で締めると致しましょう。

よいお年を!

Edit 19:15 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

台詞を書くって難しい

 どうもこんにちは5月下旬担当のいとらです。
 小説を読むときに何に注目するかというのは人それぞれだと思いますが、私なんかだと台詞を中心に読んでいるところがありまして(もっと具体的にはキャラ同士の会話ですが)、そのため自分が書く小説においても台詞回しには力を入れるようにしています。私は小説をまともに書くようになってからかれこれ三年目(!?)に入ろうかというところですが、未だに台詞中心主義のようなものは自分の中に残っていまして、せっかくなのでこの場を借りて小説内の台詞について私が考えている事柄を書き連ねてみたいと思います。

 個人的な感触として、「」のついている会話文は、ほかの地の文と比べてリアリティが強い。というのも、地の文は描写というフィルターを通して書かれたものであるのに対して、会話文は作中の会話をそのまま貼り付けたものという印象があるからです。
 例えば、「Aさんは私を映画に誘った」という文章はあくまでもただの描写ですが、「Aさんは私に『映画に行かない?』と言った」となるとAさんの台詞が剥き出しで書かれることになります。
 上の例の前者と後者を見比べた時、後者の方が情報量が多いでしょう。どういう口調で、どういう表現を使って言ったのかが読者にも明らかなのです。こうなると、作者としては誤魔化しがきかないわけでして、「Aさんはこんな言い方をする人なのか?」というのを一々考えてしまいます。
『~しない?』という誘い方をAさんは果たしてするのか、「に」という助詞をAさんは言うのか、前に「できれば」とか「よかったら」のような婉曲表現はつけないのか、『見にいく』ではなく『行く』なのか、といったようなことが気になってしまうわけです。
 ほんの些細なことではあるわけですが、この書き方一つで作中の「事実」が変わってしまうと思うと気が抜けないんですね。そして、こういう細かいところの積み重ねが、作品全体の質感に関わってくるんじゃないかなぁというのが、私の思い、というかある種の信仰だったりします。
 まあ、実際の日常会話の場面なんて考えたら、一々助詞を入れるか入れないかなんて気にしてないんですけどね。言葉なんて一回言ってしまえばもう推敲なんてできませんし。
 そういえば昔、「めちゃくちゃ上手い会話文書く人でも、実際の会話が下手な場合も多い」というようなことを聞いたことがあり、それを聞いた当時は、「いやいや頭の中でいい台詞が思いつける人間が話すの下手なわけないじゃないか」などと思っていたのですが、今になって私はそのことを身に染みて実感しています。というのも、この二年間、小説内での会話の書き方はうまくなった自信がありますが、反比例するように普段の会話が致命的に下手になっている気がしているんですね。
 喋り終えてから「こういう表現にすればよかったな」と反省したりはするんですが、どうも口が動いている最中は頭が動かないみたいです。悲しいかな。
 え、反省ってどういうこと考えてるかって?
 ……助詞を入れるかどうかとかですよ。

Edit 23:37 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

新歓例会とテーマについてのあれこれ

 新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。3月下旬担当のいとらです。名称未定の会長をしています。

 本日3/31からdiscordにて新歓例会を実施します。サークルの紹介や、創作についての話、雑談などを行います。チャットのみでも、聞き専でも大丈夫です。詳しい参加方法は、名称未定のホームページやTwitterをご覧ください。新歓は4月いっぱいまで行うので、興味がある方はぜひのぞきに来てください。

 また、4/21には作品発表会を行います。これは、各々が作品をかいて、感想を言い合おうという企画です。
 テーマは「雷」「手料理」「共鳴」の三つです。これらのテーマを参考にしながら、自由に創作を楽しんでみましょう。三つすべてを織り交ぜるというのでも、一つだけ選んでかくというのでも、あるいはこれらのテーマとは関係なく創作してもらっても構いません。
 一ページ程度のものから、気楽にご参加ください。

 ところで、今回テーマを設定したわけですが、みなさんはテーマを決めてかくということに対してどういう風に感じているでしょうか。テーマがあるとかきづらいという方もいれば、逆にテーマがあった方がかきやすいという方もいると思います。
 私は後者側の人間です。私は主に小説を書いているのですが、物語の軸を作るのが苦手なんですね。なので、テーマとして一本軸が定まっていると、そこを取っ掛かりとして肉付けしていけるので、組み立てやすいのです。
 生来私は、ゲームをするときなどにも「制限」を加えてプレイするのが好きでした。例えば、卓球をするときには敢えてペンホルダーではなくシェイクハンドにしてみたりですとか、左手でラケットを持ったりしていました。この根本には、何かを極めるというのが苦手で、つい「新しいルール」での勝負で誤魔化してしまうという私の性格があるのだと思います。
 同様に、小説を書く時にも、何もない状態で「自分の書ける最高の作品を書いてください」と言われると困ってしまうわけです。その代わり「このテーマを扱った上で作品を書いてください」という条件が課されると、ぐっと気が楽になります。
 甘えてんじゃねえぞって? はいその通りです。本当は制限なしに自分の書ける最高のものを書くべきなんだろうなとは思うんですがね。
 とはいえ、創作に対するモチベーションは人それぞれですし、少なくとも自分が楽しめることが一番だとは思うので、こういう人がいてもいいのかなと思っています。

 長々と書きましたが、今回テーマを用意したのは、みなさんがかきやすいようにということです。
 うまくかけるかわからない、ということもあるかもしれません。ですが、まずは挑戦してみてほしいなと思います。ぜひ、私たちと一緒に創作の世界に足を踏み入れてみませんか?

Edit 17:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:Rye
中旬:谷川
下旬:日比谷 です。

 

最新記事

 
 

投稿者別

 
 

最近のコメント

 
 

アクセスカウンター

 

 

月別アーカイブ

 

 

最新トラックバック

 
 

リンク

 
 

QRコード

 

QR