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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2023-01

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解釈するということ

“Virtual”という単語を耳にする機会が、以前よりも格段に増えてきました。
手垢のついた言説にはなりますが、この”Virtual”という単語の正しい意味をご存じでしょうか?
”Virtual Reality”はしばしば「仮想現実」と訳されますから、「仮想的な」あたりを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。そう思いながら嘗て使っていた英単語帳を捲ってみれば、”Virtual”の項目には第一の訳語として「実質的な」という言葉が登場します。「仮想的な」と「実質的な」というのは、類語、というよりもむしろ対義語のようなもので、この2つの訳語が並んでいる様子には、違和感を覚えずにはいられません。
あるVirtual Reality関連の書籍でもこの問題に触れて、日本語文化内に適切な訳語がないため、苦肉の策で「仮想的な」などと訳している、という旨のことが語られています。
試しにGoogleで検索をかけてみれば、訳語に「バーチャル」と表示され苦笑いするほかありません。

しかし、文化的相違と翻訳の試みが引き起こすこのような問題は何も”Virtual”という単語に限った話ではなく、明治時代には西洋の言葉を翻訳する際に対応する日本語が存在しないため多くの新造語が生まれたというのはご存知の通りです。
翻訳においてこのような相違を埋める手立てには、上で述べたような近似的な訳出、新語の造語の他に、カタカナ語のような借用語を用いるという手段もあるでしょう。
しかし、翻訳を「意味の解釈」の過程の一種だと定義するならば、新語の造語や借用語の使用は問題の形を書き換えただけで、表現の本質的な意味は何ら解釈されていません。
例えば、”individual”を「個人」という新造語で置き換えたところで、「個人」という単語の意味が別のすでに意味の分かっている日本語で説明されなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。同様に、”lens”を「レンズ」と書き換えたところで、その実物を見たり、原理や利用方法を説明されたりしなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。
すなわち、ある単語を解釈するには、意味が分かっている別の単語に置き換えるか、あるいは意味が分かっている別の単語を複数用いて具体的な説明を与えるか、そうでなければ百聞は一見に如かずとばかりに言葉に頼らない説明をするか、のいずれかしかありません。
立場を変えて言い換えれば、言葉を理解するには、別の言葉を用いるか、見るなどの言葉に頼らない体験によって理解するかしかない、ということです。しかし、言葉を理解するために別の言葉を用いるとしても、そのためにはそれに用いる「別の言葉」の方を理解している必要があります。これを理解するにはそのまた別の言葉が必要で、と無限ループになってしまいますから、どこかで必ず言葉に頼らない意味の理解が必要になります。

いわゆる「言語の文化的相違」というもののなかにはここに起因するものも多いことでしょう。言語を使わずに体験などによって理解される概念と、それらの言語的な組み合わせによって理解できる概念しか言葉として用いることができないのですから、住む地域の気候や産業、歴史文化の違いなどによって得られる体験が違えば、言語に存在する概念にも当然違いが生じます。

では、同じ言語を使っている人たちの間では、概念は完全に共有されているのでしょうか?もちろん答えは否です。「雪」といったとき、関西出身の私と、東北地方出身の誰それが想起するそれは全く異なっているでしょうし、「権利」という言葉を聞いたときに思い浮かべる概念的イメージは、工学部の私と法学部の方々とでは随分と異なっていることでしょう。
その中で、ある程度の共通部分を持っているからこそ、私たちは同じ言語を話す者として問題なく意思疎通を行うことができますし、ある程度の差異があるからこそ、嚙み合わない会話に歯痒い思いをすることもあるのです。

そしてこのことは、文章を書く、ということを趣味に活動している私たちのような人間にとっても、非常に重要な意味を持ちます。
現代文の講義を高等学校で受けた方なら誰しも、「この表現の解釈は読者にゆだねられている」という表現を耳にしたことがあるでしょう。ですが、先の議論を踏まえれば明らかなように、文章に登場するほとんどの単語の解釈は読者の過去の体験や経験に大きく依存しているものであって、むしろ、その意味が一意に定まるように、言い換えれば表現から想起される対象のイメージが読者の経験や体験によらず概ね一致するように文章を書く、ということの方が至難の業なのです。
この問題を回避する方法は、私が思いつく限り4つ存在します。
1つ目は、詳細な記述によって解釈の誤差範囲をできる限り小さくする、というものです。単純明快な手法ながら、文章が異常に冗長になってしまうなどいくつかの致命的な課題を抱えています。
2つ目は、解釈の差異を許容することです。たとえば文芸作品では、物語の描く対象に対する表現をある程度抽象化し、具体的な表象については読者に一任する、というものがしばしば存在します。こういった作品は、映画などの他の媒体によって映像化されると、見る人の間で「自分の描いていたイメージと違う」というようなことが起こりがちではありますが、そういった点まで含めてこのような作品の特性ということができるでしょう。
3つ目は、事前に意味の合意がとれた語彙を使用する手法です。論文やレポートのような科学的な文章を書く際にしばしば用いられる方法で、例えば「この分野で『河川』といえば以下の定義を満たすものを指す」というように用語の意味や指し示す対象をあらかじめ定義しておくことで、冗長性を回避しつつ表現の一意性を担保します。
4つ目は、文章の対象集団を一定の作品経験や知識を持つ人々に限定する、という手法です。
サブカルチャーの分野で一時期話題に上っていた「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系」と呼ばれる作品群がわかりやすい例でしょう。これらの作品は、いわゆる「ドラクエ」を連想させる西洋中近世の世界観と「魔法」や「ギルド」といった概念が、それぞれ非常に似通った形で登場します。これらの単語がさす対象の作品間の類似性は、これらを映像化した諸作品を見てみれば明らかです。
「中近世ヨーロッパ」という非常に曖昧な世界観表現と、「魔法」という一見して想起する対象が個人の作品経験によって大きく左右されそうな言葉が、なぜこのようにほとんど同等の概念を指す存在としていくつもの異なる作品に登場するのでしょうか。それはこれら作品の著者と想定される読者集団がみな、「ドラクエ」に代表されるRPGといくつかの著名な中世ファンタジー作品の作品経験を共有しているからにほかありません。
それらの作品経験という前提があってこそ、「魔法」といえばこういうもの、「ギルド」といえばこういうもの、といった表現に対する概念の一意性が、詳細な説明を行わずとも保証されているのです。
作品経験を前提にした表現、というのは何もこれに限った話ではありません。たとえばイギリスではよくシェイクスピアの作品になぞらえた表現が用いられますが、シェイクスピアという劇作の中での表現を用いることで、その作品経験を持つ人にとっては、言葉の指示内容を限定しやすくなる効果があるでしょう。
日本語作品から例を挙げるならば、「水中で逆立ちした格好の遺体」と表現すると、想起されるイメージにはばらつきが出るかもしれませんが、「犬神家の一族のような」という言葉を付け加えるだけで、作品経験を持つ人にとってはイメージが一意に定まる、というようなものです。
作品経験以外の知識を前提とする例としては、料理本などに現れる「少々」などの曖昧な表現がこれにあたるでしょう。私のような料理をしたことがない人間にとってはそれが0.1gなのか10gなのかまるで見当もつきませんが、料理に慣れている人間にとってはその言葉が示す意味内容がある程度共有されているはずです。

では、私たちが文章を書くときに取るべき手法は上の4つのうちどれでしょうか。これは当然一つに定めるべきものではなく、状況によって使い分け、時には組み合わせて使っていくべきものです。しかしどのような手法をとるにしろ、「言葉」に対する概念の一意性というものは案外自明ではないものであって、自分が書いている文章は、そのまま自分の思った通りに解釈されてくれるものではない、というのは肝に銘じておくべきでしょう。

長くなりましたが、このあたりで今回は終わりにさせていただこうと思います。この文章がどのくらい私の思った通りに解釈されるのか、まるで分かったものではありませんが、春休みの暇に任せた書き散らしが、正確に解釈される必要もありませんね。それではまたいつか。

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虚無感と春風

3月上旬担当の鏡蛍です。こんばんは。
春休みの折り返しの季節、初春の穏やかになりつつある気候に背中を向けて家で引きこもってばかりいる日々が続いているのがきっと私だけではないと信じています。
旅行にでも行くことができれば気も晴れるのかもしれませんが、まだまだ社会情勢も中途半端であまり派手な外出は控えるようともいわれるいわば摩擦係数の高い状況下では、私の弱い意志の力で体を外に引きずりだすのはどうにも無理があります。

従ってアルバイトや習い事、その他の強制力が働かない限りはずっと家にいることになるのですが、しかしこの生活にはある一つの大きな課題が付きまといます。
それはすなわち「虚無」です。家に一日中いるという生活は、本を読んだり、コンピュータを触ったり、勉強したり、人によってはアニメやドラマにゲーム、趣味など意外とすることはいくらでもあるものです。もし休暇の長さが1週間足らずであれば、それだけでも十分に充実した日々を過ごすことができるでしょう。しかし休みに入ってひと月を超えてくると話は変わってきてしまいます。
本を読んでいてふと集中が切れた時や録画したアニメを見終えた時、不意に「虚無感」というものに襲われることがあります。別段暇なわけでもなく、場合によっては読書や勉強など、客観的に見て意味のあると思われる時間の使い方をしているにもかかわらず、です。
今回はこの「虚無」というものについて、少しだけお話ししたいと思います。

なぜ虚無感が生まれるのか、それはひとつには、自分が現在行っている行為に本質的な意味を見出せないことに原因があるように思えます。人が虚無感、虚しさを覚えるのは、代表的には自分のしてきた行為や努力が水泡に帰してしまうことが分かった時ではないでしょうか。
例えば、やらなければならないと思い時間をかけて取り組んでいた課題が、実は不要だとわかった時、私たちは押し寄せるような疲労感と脱力感、そして虚無感を味わうでしょう。ではこの「長期休暇の虚無」も同じ理由によるものなのでしょうか。
違う、ということは、上で説明したことと照らせばほとんど明らかなはずです。この長期休暇の虚無というのは、行動それ自体が無意味かどうかとは無関係なのですから。

ではこの虚無感の原因とは何なのでしょう。ここで虚無感の原因として有名なものをもう一つ上げてみましょう。
それはすなわち慣れ、飽きです。「来る日も来る日も同じ仕事、同じ日々の繰り返しで嫌になる」なんていうセリフは、少なからずどこかで聞いたことがあるでしょう。まさしくこれは同じことを繰り返した飽きによる虚無感であるといえます。繰り返しばかりの日々を送っていると、その毎日にだんだんと積極的または本質的な意味を見出せなくなってしまうというのは、分からない道理ではないでしょう。刺激の少ない長期休暇において、これと同じような状態になってしまうということは十分にありえます。読書や趣味的活動をしてもなんとなく集中できないのは、すなわちそれに(読書や趣味に、というよりも刺激の少ない状況それ自体に)飽きてしまっているからなのです。

しかし虚無感の原因にはもう一つ大きなものがあるのではないか、と私は思います。
それはすなわち、「リアルタイム性のある活動」の欠如です。そもそも普段、趣味以外の「飽き」の影響を受けにくい物事を行う時に、いちいちその本質的な意義を問うことなどありません。なぜなら往々にしてその必要性は明らかだからです。以下でその例を見てみましょう。

なぜコンビニでアルバイトをしている大学生は、レジに並ぶ来店客に応対するのでしょう。なぜ一人暮らしの大学生は晩御飯の買い物に行くのでしょう。なぜ授業を受けている大学生は教授の講義をメモに取るのでしょう。なぜ大学生は明日締め切りのレポートを書くのでしょう。
考えるまでもありません。それは、「今すぐにそうしなければ問題が何らかの発生することが分かっているから」です。ここでいう「今すぐに」というのは数分から数時間まで状況によりさまざまですが、とかく本質的にそれをすることが自分自身の人生にとって価値があるかなどということはさておいて、今しなければならないことというのが与えられているからこそ、人間はその作業に従事しうるのです。
「それをしなければ問題が発生するのだから、それをすることには価値がある。だから自分がいまやっていることは無駄な行為ではない。」
そうしてその行為を正当化することで、人は虚無感を覚えることなく生活を送ることができるのです。

そして上の議論の対偶(もちろん正確な意味ではありません。自然言語による伝達に論理的厳密性を求めてはいけません)を取れば、最初に提示した問の答えが導かれます。
私が、私たちが長期休暇中の自己研鑽のような本来有意義な諸活動に対して虚無感を感じてしまうのは、「それを行わなかったとして明示的に問題が発生しないような活動であるから」なのです。

……なんて、3月の風のように乾いた文章で論理立てて私のここ数日に言い訳をしたところで、誰かが報いてくれるわけではありません。やっぱり理屈っぽい性格というのは利のないものですね。
きっとより時間的深度を持った視点を持つことができれば、諸行為についてそれを今やらなければならないことだと自らに納得させることも可能なのでしょうが、今のところ私にそれを実行するいいアイデアはありません。誰か知っていたら教えてください。

ただ最後に、「3月上旬担当」のブログ、というのは一つの「今やらなければならないこと」として、私の長期休暇の虚無をかき消すのに少しは役に立った、ということだけは書き添えておくことにしましょう。

Edit 11:19 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

喩えるならそれは

1月中旬担当の鏡蛍です。こんばんは。
お正月気分も醒めてしまってそろそろ入学試験の季節という頃ではありますが、肌を刺す空気はますます冷たく、外に出るたびに爪のせいで先が破れかかった安物の手袋を恨んでしまう今日この頃です。
お正月といえば今年は時勢柄初詣にも行けませんので楽しみといえば飽き足りるほどの食事くらいのもので、やはりお節料理の話題を欠かすことはできないのですが、このお節料理はご存知の通りその構成要素一つ一つが縁起物であって、そこにはいろいろな「いわれ」がこめられています。

例えば海老は、ヒゲを生やし腰が曲がった姿から長寿の象徴とされます。また伊達巻は巻物に似た形から学業成就を、数の子は子孫繁栄を意味しているといわれます。
これらはある意味、料理の見た目などを何か他のもので喩えているということです。この喩えるという行為は文を書くときにもしばしば問題になることであって、時に私の頭痛の種ともなります。(この「種」、というのも一つの喩えかもしれません。)
ということで今回は、「喩える」ということについてお話ししたいと思います。

比喩というものはなにも文学に限るものではなく、時には実用的な意味を持つものです。
たとえば物の見た目や食べ物の味を説明するなどのように一口に言葉では説明しづらいものを相手に伝えたいときがそうです。手垢のついた比喩を挙げてしまうならば、「血のような赤」「砂糖のような甘さ」「刺されるような痛み」などがこれにあたるでしょう。他にも「サイコロステーキ」だとか「浅葱色」、「盆地」、「スター俳優」、「ねずみ講」などのように言語に組み込まれている比喩表現も存在します。
そして言語に組み込まれているからには文化にも紐づけられているのであって、実際に上で挙げた「盆地」はその良い例でしょう。「盆地」は英語で”basin”ですが、これは洗面器という意味の言葉です。対象が同じでも想起するものが文化により異なるというのは非常に面白いことではないでしょうか。
このように比喩表現にはいわゆる「ありふれた表現」というものがたくさんあることが分かりますが、伝わりやすい比喩というものはそもそも多くの人に共通のもののはずなのですから、これは当然といえるでしょう。

しかし、ありふれた比喩が常に良い伝え方であるわけではありません。例えば雲を「わたがし」「わたあめ」に喩えて表現するのはいわゆるテンプレートな比喩の代表です。しかし「わたがしのような雲」という表現は、雲についていつでも使えるわけではありません。雨雲はもちろん、おぼろ雲やすじ雲、うろこ雲もこの比喩には適さないでしょう。またひつじ雲や入道雲、わた雲は「わたがし」に準えることができるかもしれませんが、この「ひつじ雲」、「わた雲」といった表現それ自体が優秀な比喩表現なので、文章中で子どもの無邪気さを表現したいような場合や心理的な描写に敢えて組み込みたい場合を除けば、この「わたがし」の比喩はあまり使いどころがないようにさえ私個人の感想としては思えます。(ちなみに「入道雲」というのは坊主頭(または坊主頭の妖怪)に見立てて名付けられたというのが通説のようです。これも良い比喩ですね)
どのような比喩がその場面に適しているかというのは、伝えたい相手や文章のジャンル、雰囲気によっても変わってくるものです。例えば同じ真っ赤な傘でも、推理小説やホラーであれば「血のような赤」が適切でしょうし、日常漫画なら「郵便ポストのような赤」が適切な場面もあるかもしれません。法学部同士の会話なら法律用語を、工学部同士の会話なら物理学の言葉を喩えに用いるのは大いに有効なことでしょう。しかしその比喩を別の人に使ってしまうと、全く通用しないというような場合もあるかもしれません。

説明の伝わりやすさという点もそうですが、やはり機知に富んだ会話や文章を望むなら、少しは捻りのある比喩を使いたいものです。ただこれは口で言うほど簡単なことではなく、上手い比喩というのはなかなか思いつきません。脣を蛭と喩えた川端康成のような真似はそうそうできるものではないのです。

また、狙って綺麗な表現を使おうとするとかえって伝わりづらくなってしまう場合というのもあります。
満天の星空を「降るような星空」と表現するのはありきたりな表現ですが、これが「星が話しかけてくるような空」というようにちょっと気取って言われることがあります。これはちょうど、船が夜間にライトを使ってモールス信号を送るように、たくさんの星がきらきらと明滅している様子を表現しているのでしょう。このような擬人法は文学的(というよりも「文学チック」?)ではありますからロマンチストには好まれますが、あまり多用するとかえって意味が伝わらなくなってしまうものの代表でもあります。
例えば「炎が踊っている」「雪が舞っている」は十分伝わりますが、「氷が踊っている」といわれてもなかなか情景が想像しづらいでしょう。これは静的な印象の強い「氷」を動的な様子を表す擬人法の「踊る」と安易に組み合わせたことが原因です。もちろん何か特殊な状況で氷が踊っているように感じられる場面というのはあるかもしれませんが、それならばもう少し説明が必要でしょう。

比喩には他にもメタファー(隠喩)やシネクドキ(提喩)、メトニミー(換喩)など様々な種類があります。「顔から火が出る」「黄色い声援」のような慣用句は隠喩の代表例ですね。提喩というのは抽象的な上位の言葉を使って下位の具体的な一つを表す(たとえば「花」と言って「桜」を表す)ことや、逆に具体的な言葉を使って抽象的な概念を表す(たとえば「パン」と言って「食糧」を表す)ことを意味します。換喩とは「坊主頭が走ってきた(実際に走ってきているのは坊主頭の人)」や「扇風機を回す(実際に回っているのは扇風機のプロペラ)」のように部分を以って全体を表すような喩えのことです。

他にも、文や修飾語を使ってより細かく比喩内容を表現することもあります。これは比較的簡単に新規性のある喩えを考えることができるので、いろいろと試してみると面白いかもしれませんね。
例えば「授業中に自分と同じ苗字の人が当てられたときの一瞬の焦りとその後のほっとするような安心感」を、「朝寝坊をしたと思ったら今日が休日だと気づいた時のような気持ち」と表現するのはどうでしょうか。
あるいは、「課題やテストにおいてわずかなミスで満点を逃したときの悔しさ」はどのように表現すればいいでしょう?「音楽ゲームでフルコンボを逃したときのような」だと状況が似すぎていてかえって比喩として優秀とはいえないかもしれません。「トランプのタワーをあと一歩のところで崩してしまったような」では状況が限定されすぎていますね。「上手に作れたオムライスで最後の盛り付けに失敗したときのような」などは、伝わる人には伝わるのではないでしょうか。
上手い喩えを考えるというのはなかなか難しいものです。冬の初め頃に時折ある暖かい日に外に出たときに「上着を一枚着せられたような感覚」になることがありますが、このような喩えは多くの場合、考えて思いつくのではなくその場面に実際に行き会った時に不意に浮かんでくるものなのでしょう。

それでは最後に一つ、質問をして終わりにましょう。喩えるならそれは、平安貴族の雅な歌合せのようなものかもしれません。
この冬の耐えがたい寒さを、あなたなら何に喩えますか?

Edit 15:58 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

膏薬はどこにでも

10月下旬担当の鏡蛍と申します。はじめまして、こんにちは。
こんにちはと言っておきながらこれをご覧になっている方は今何時にアクセスしていらっしゃるのか少し不安になってきてしまいました。文書や録音など情報が受け取られる時間帯が特定できない媒体ではいつも挨拶に困ってしまいます。

朝の挨拶は何時から何時、昼の挨拶は何時から何時まで、というのはしばしば他愛無い無駄話の話題にも上がりますが、夕方過ぎから未明頃まで使える「こんばんは」が一日に占める時間的な割合が最も高いように思えます。すなわちこれは、とりあえず「こんばんは」と書いておくのが最も適切である可能性が高いということを示しています。では改めて、こんばんは。

……と、いうのはこのページへのアクセス数が時間帯によらず一定である、などという非自明な仮定をもとにした詭弁にすぎません。私はよく理屈っぽい人間だなどと言われることがありますが、こんな猫の餌の足しにもならないような言葉をつらつらと並べるのが「理屈っぽい」というのなら、それは困った性癖というものです。

さてそんな私ではありますが、理屈ばかりに拘泥して生きているわけでもありませんし、そんなふうに生きていくわけにもいきません。人並みにノスタルジアのような感傷に心を酔わすことも間々あるかもしれません。
しかし私は実家住まいの未成年なので遠く思い馳せるべき故郷も時間軸の負方向に懐かしむべき昔もそれほど持ち合わせてはいません。私がそのセンチメントを抱くのは、野辺に咲く花でも祖父母の家にある古い器械でも、ましてや卒業アルバムでもありません。それは例えば僅かに煤け、しかし適切に清掃管理されていて朽ちてはいない公園のベンチであったり、半年前に流行った音楽を耳元で流しながら不意に目に入る窓の向こうの変哲のない街並みであったりします。この感傷は一体何でしょう。

人文科目のレポートを書く時のように四半時間ほど腕を組んでじっと考えてみました。結論としては、きっとそれはあるべきものがあるべき姿でそこにある違和感のない”一様さ”への感傷なのでしょう、というのが私の答えです。
その場面をそのまま16:9のワイドフレームにあてはめて後に見返したときに懐古に浸ることができるだろう場面、そんな未来から現代を眺めるような仮想的ノスタルジアを私は感じていたのかもしれません。

いつだったかある有名な神社に両親に連れられて行ったとき、その山深さと水の流れの中に立っていた一種コントラストさえ生み出してしまいそうなほど鮮烈な橙色の真新しい鳥居を私が好めなかったのは、きっとその鳥居が風景の一様さを侵していたからなのでしょうね。

なんて、これも「早まった一般化」。詭弁になってしまいそうですから、これくらいにしておきましょうか。では、おやすみなさい。

Edit 18:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:会長
中旬:暮四
下旬:氷崎 です。

 

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