解釈するということ
“Virtual”という単語を耳にする機会が、以前よりも格段に増えてきました。
手垢のついた言説にはなりますが、この”Virtual”という単語の正しい意味をご存じでしょうか?
”Virtual Reality”はしばしば「仮想現実」と訳されますから、「仮想的な」あたりを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。そう思いながら嘗て使っていた英単語帳を捲ってみれば、”Virtual”の項目には第一の訳語として「実質的な」という言葉が登場します。「仮想的な」と「実質的な」というのは、類語、というよりもむしろ対義語のようなもので、この2つの訳語が並んでいる様子には、違和感を覚えずにはいられません。
あるVirtual Reality関連の書籍でもこの問題に触れて、日本語文化内に適切な訳語がないため、苦肉の策で「仮想的な」などと訳している、という旨のことが語られています。
試しにGoogleで検索をかけてみれば、訳語に「バーチャル」と表示され苦笑いするほかありません。
しかし、文化的相違と翻訳の試みが引き起こすこのような問題は何も”Virtual”という単語に限った話ではなく、明治時代には西洋の言葉を翻訳する際に対応する日本語が存在しないため多くの新造語が生まれたというのはご存知の通りです。
翻訳においてこのような相違を埋める手立てには、上で述べたような近似的な訳出、新語の造語の他に、カタカナ語のような借用語を用いるという手段もあるでしょう。
しかし、翻訳を「意味の解釈」の過程の一種だと定義するならば、新語の造語や借用語の使用は問題の形を書き換えただけで、表現の本質的な意味は何ら解釈されていません。
例えば、”individual”を「個人」という新造語で置き換えたところで、「個人」という単語の意味が別のすでに意味の分かっている日本語で説明されなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。同様に、”lens”を「レンズ」と書き換えたところで、その実物を見たり、原理や利用方法を説明されたりしなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。
すなわち、ある単語を解釈するには、意味が分かっている別の単語に置き換えるか、あるいは意味が分かっている別の単語を複数用いて具体的な説明を与えるか、そうでなければ百聞は一見に如かずとばかりに言葉に頼らない説明をするか、のいずれかしかありません。
立場を変えて言い換えれば、言葉を理解するには、別の言葉を用いるか、見るなどの言葉に頼らない体験によって理解するかしかない、ということです。しかし、言葉を理解するために別の言葉を用いるとしても、そのためにはそれに用いる「別の言葉」の方を理解している必要があります。これを理解するにはそのまた別の言葉が必要で、と無限ループになってしまいますから、どこかで必ず言葉に頼らない意味の理解が必要になります。
いわゆる「言語の文化的相違」というもののなかにはここに起因するものも多いことでしょう。言語を使わずに体験などによって理解される概念と、それらの言語的な組み合わせによって理解できる概念しか言葉として用いることができないのですから、住む地域の気候や産業、歴史文化の違いなどによって得られる体験が違えば、言語に存在する概念にも当然違いが生じます。
では、同じ言語を使っている人たちの間では、概念は完全に共有されているのでしょうか?もちろん答えは否です。「雪」といったとき、関西出身の私と、東北地方出身の誰それが想起するそれは全く異なっているでしょうし、「権利」という言葉を聞いたときに思い浮かべる概念的イメージは、工学部の私と法学部の方々とでは随分と異なっていることでしょう。
その中で、ある程度の共通部分を持っているからこそ、私たちは同じ言語を話す者として問題なく意思疎通を行うことができますし、ある程度の差異があるからこそ、嚙み合わない会話に歯痒い思いをすることもあるのです。
そしてこのことは、文章を書く、ということを趣味に活動している私たちのような人間にとっても、非常に重要な意味を持ちます。
現代文の講義を高等学校で受けた方なら誰しも、「この表現の解釈は読者にゆだねられている」という表現を耳にしたことがあるでしょう。ですが、先の議論を踏まえれば明らかなように、文章に登場するほとんどの単語の解釈は読者の過去の体験や経験に大きく依存しているものであって、むしろ、その意味が一意に定まるように、言い換えれば表現から想起される対象のイメージが読者の経験や体験によらず概ね一致するように文章を書く、ということの方が至難の業なのです。
この問題を回避する方法は、私が思いつく限り4つ存在します。
1つ目は、詳細な記述によって解釈の誤差範囲をできる限り小さくする、というものです。単純明快な手法ながら、文章が異常に冗長になってしまうなどいくつかの致命的な課題を抱えています。
2つ目は、解釈の差異を許容することです。たとえば文芸作品では、物語の描く対象に対する表現をある程度抽象化し、具体的な表象については読者に一任する、というものがしばしば存在します。こういった作品は、映画などの他の媒体によって映像化されると、見る人の間で「自分の描いていたイメージと違う」というようなことが起こりがちではありますが、そういった点まで含めてこのような作品の特性ということができるでしょう。
3つ目は、事前に意味の合意がとれた語彙を使用する手法です。論文やレポートのような科学的な文章を書く際にしばしば用いられる方法で、例えば「この分野で『河川』といえば以下の定義を満たすものを指す」というように用語の意味や指し示す対象をあらかじめ定義しておくことで、冗長性を回避しつつ表現の一意性を担保します。
4つ目は、文章の対象集団を一定の作品経験や知識を持つ人々に限定する、という手法です。
サブカルチャーの分野で一時期話題に上っていた「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系」と呼ばれる作品群がわかりやすい例でしょう。これらの作品は、いわゆる「ドラクエ」を連想させる西洋中近世の世界観と「魔法」や「ギルド」といった概念が、それぞれ非常に似通った形で登場します。これらの単語がさす対象の作品間の類似性は、これらを映像化した諸作品を見てみれば明らかです。
「中近世ヨーロッパ」という非常に曖昧な世界観表現と、「魔法」という一見して想起する対象が個人の作品経験によって大きく左右されそうな言葉が、なぜこのようにほとんど同等の概念を指す存在としていくつもの異なる作品に登場するのでしょうか。それはこれら作品の著者と想定される読者集団がみな、「ドラクエ」に代表されるRPGといくつかの著名な中世ファンタジー作品の作品経験を共有しているからにほかありません。
それらの作品経験という前提があってこそ、「魔法」といえばこういうもの、「ギルド」といえばこういうもの、といった表現に対する概念の一意性が、詳細な説明を行わずとも保証されているのです。
作品経験を前提にした表現、というのは何もこれに限った話ではありません。たとえばイギリスではよくシェイクスピアの作品になぞらえた表現が用いられますが、シェイクスピアという劇作の中での表現を用いることで、その作品経験を持つ人にとっては、言葉の指示内容を限定しやすくなる効果があるでしょう。
日本語作品から例を挙げるならば、「水中で逆立ちした格好の遺体」と表現すると、想起されるイメージにはばらつきが出るかもしれませんが、「犬神家の一族のような」という言葉を付け加えるだけで、作品経験を持つ人にとってはイメージが一意に定まる、というようなものです。
作品経験以外の知識を前提とする例としては、料理本などに現れる「少々」などの曖昧な表現がこれにあたるでしょう。私のような料理をしたことがない人間にとってはそれが0.1gなのか10gなのかまるで見当もつきませんが、料理に慣れている人間にとってはその言葉が示す意味内容がある程度共有されているはずです。
では、私たちが文章を書くときに取るべき手法は上の4つのうちどれでしょうか。これは当然一つに定めるべきものではなく、状況によって使い分け、時には組み合わせて使っていくべきものです。しかしどのような手法をとるにしろ、「言葉」に対する概念の一意性というものは案外自明ではないものであって、自分が書いている文章は、そのまま自分の思った通りに解釈されてくれるものではない、というのは肝に銘じておくべきでしょう。
長くなりましたが、このあたりで今回は終わりにさせていただこうと思います。この文章がどのくらい私の思った通りに解釈されるのか、まるで分かったものではありませんが、春休みの暇に任せた書き散らしが、正確に解釈される必要もありませんね。それではまたいつか。
手垢のついた言説にはなりますが、この”Virtual”という単語の正しい意味をご存じでしょうか?
”Virtual Reality”はしばしば「仮想現実」と訳されますから、「仮想的な」あたりを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。そう思いながら嘗て使っていた英単語帳を捲ってみれば、”Virtual”の項目には第一の訳語として「実質的な」という言葉が登場します。「仮想的な」と「実質的な」というのは、類語、というよりもむしろ対義語のようなもので、この2つの訳語が並んでいる様子には、違和感を覚えずにはいられません。
あるVirtual Reality関連の書籍でもこの問題に触れて、日本語文化内に適切な訳語がないため、苦肉の策で「仮想的な」などと訳している、という旨のことが語られています。
試しにGoogleで検索をかけてみれば、訳語に「バーチャル」と表示され苦笑いするほかありません。
しかし、文化的相違と翻訳の試みが引き起こすこのような問題は何も”Virtual”という単語に限った話ではなく、明治時代には西洋の言葉を翻訳する際に対応する日本語が存在しないため多くの新造語が生まれたというのはご存知の通りです。
翻訳においてこのような相違を埋める手立てには、上で述べたような近似的な訳出、新語の造語の他に、カタカナ語のような借用語を用いるという手段もあるでしょう。
しかし、翻訳を「意味の解釈」の過程の一種だと定義するならば、新語の造語や借用語の使用は問題の形を書き換えただけで、表現の本質的な意味は何ら解釈されていません。
例えば、”individual”を「個人」という新造語で置き換えたところで、「個人」という単語の意味が別のすでに意味の分かっている日本語で説明されなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。同様に、”lens”を「レンズ」と書き換えたところで、その実物を見たり、原理や利用方法を説明されたりしなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。
すなわち、ある単語を解釈するには、意味が分かっている別の単語に置き換えるか、あるいは意味が分かっている別の単語を複数用いて具体的な説明を与えるか、そうでなければ百聞は一見に如かずとばかりに言葉に頼らない説明をするか、のいずれかしかありません。
立場を変えて言い換えれば、言葉を理解するには、別の言葉を用いるか、見るなどの言葉に頼らない体験によって理解するかしかない、ということです。しかし、言葉を理解するために別の言葉を用いるとしても、そのためにはそれに用いる「別の言葉」の方を理解している必要があります。これを理解するにはそのまた別の言葉が必要で、と無限ループになってしまいますから、どこかで必ず言葉に頼らない意味の理解が必要になります。
いわゆる「言語の文化的相違」というもののなかにはここに起因するものも多いことでしょう。言語を使わずに体験などによって理解される概念と、それらの言語的な組み合わせによって理解できる概念しか言葉として用いることができないのですから、住む地域の気候や産業、歴史文化の違いなどによって得られる体験が違えば、言語に存在する概念にも当然違いが生じます。
では、同じ言語を使っている人たちの間では、概念は完全に共有されているのでしょうか?もちろん答えは否です。「雪」といったとき、関西出身の私と、東北地方出身の誰それが想起するそれは全く異なっているでしょうし、「権利」という言葉を聞いたときに思い浮かべる概念的イメージは、工学部の私と法学部の方々とでは随分と異なっていることでしょう。
その中で、ある程度の共通部分を持っているからこそ、私たちは同じ言語を話す者として問題なく意思疎通を行うことができますし、ある程度の差異があるからこそ、嚙み合わない会話に歯痒い思いをすることもあるのです。
そしてこのことは、文章を書く、ということを趣味に活動している私たちのような人間にとっても、非常に重要な意味を持ちます。
現代文の講義を高等学校で受けた方なら誰しも、「この表現の解釈は読者にゆだねられている」という表現を耳にしたことがあるでしょう。ですが、先の議論を踏まえれば明らかなように、文章に登場するほとんどの単語の解釈は読者の過去の体験や経験に大きく依存しているものであって、むしろ、その意味が一意に定まるように、言い換えれば表現から想起される対象のイメージが読者の経験や体験によらず概ね一致するように文章を書く、ということの方が至難の業なのです。
この問題を回避する方法は、私が思いつく限り4つ存在します。
1つ目は、詳細な記述によって解釈の誤差範囲をできる限り小さくする、というものです。単純明快な手法ながら、文章が異常に冗長になってしまうなどいくつかの致命的な課題を抱えています。
2つ目は、解釈の差異を許容することです。たとえば文芸作品では、物語の描く対象に対する表現をある程度抽象化し、具体的な表象については読者に一任する、というものがしばしば存在します。こういった作品は、映画などの他の媒体によって映像化されると、見る人の間で「自分の描いていたイメージと違う」というようなことが起こりがちではありますが、そういった点まで含めてこのような作品の特性ということができるでしょう。
3つ目は、事前に意味の合意がとれた語彙を使用する手法です。論文やレポートのような科学的な文章を書く際にしばしば用いられる方法で、例えば「この分野で『河川』といえば以下の定義を満たすものを指す」というように用語の意味や指し示す対象をあらかじめ定義しておくことで、冗長性を回避しつつ表現の一意性を担保します。
4つ目は、文章の対象集団を一定の作品経験や知識を持つ人々に限定する、という手法です。
サブカルチャーの分野で一時期話題に上っていた「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系」と呼ばれる作品群がわかりやすい例でしょう。これらの作品は、いわゆる「ドラクエ」を連想させる西洋中近世の世界観と「魔法」や「ギルド」といった概念が、それぞれ非常に似通った形で登場します。これらの単語がさす対象の作品間の類似性は、これらを映像化した諸作品を見てみれば明らかです。
「中近世ヨーロッパ」という非常に曖昧な世界観表現と、「魔法」という一見して想起する対象が個人の作品経験によって大きく左右されそうな言葉が、なぜこのようにほとんど同等の概念を指す存在としていくつもの異なる作品に登場するのでしょうか。それはこれら作品の著者と想定される読者集団がみな、「ドラクエ」に代表されるRPGといくつかの著名な中世ファンタジー作品の作品経験を共有しているからにほかありません。
それらの作品経験という前提があってこそ、「魔法」といえばこういうもの、「ギルド」といえばこういうもの、といった表現に対する概念の一意性が、詳細な説明を行わずとも保証されているのです。
作品経験を前提にした表現、というのは何もこれに限った話ではありません。たとえばイギリスではよくシェイクスピアの作品になぞらえた表現が用いられますが、シェイクスピアという劇作の中での表現を用いることで、その作品経験を持つ人にとっては、言葉の指示内容を限定しやすくなる効果があるでしょう。
日本語作品から例を挙げるならば、「水中で逆立ちした格好の遺体」と表現すると、想起されるイメージにはばらつきが出るかもしれませんが、「犬神家の一族のような」という言葉を付け加えるだけで、作品経験を持つ人にとってはイメージが一意に定まる、というようなものです。
作品経験以外の知識を前提とする例としては、料理本などに現れる「少々」などの曖昧な表現がこれにあたるでしょう。私のような料理をしたことがない人間にとってはそれが0.1gなのか10gなのかまるで見当もつきませんが、料理に慣れている人間にとってはその言葉が示す意味内容がある程度共有されているはずです。
では、私たちが文章を書くときに取るべき手法は上の4つのうちどれでしょうか。これは当然一つに定めるべきものではなく、状況によって使い分け、時には組み合わせて使っていくべきものです。しかしどのような手法をとるにしろ、「言葉」に対する概念の一意性というものは案外自明ではないものであって、自分が書いている文章は、そのまま自分の思った通りに解釈されてくれるものではない、というのは肝に銘じておくべきでしょう。
長くなりましたが、このあたりで今回は終わりにさせていただこうと思います。この文章がどのくらい私の思った通りに解釈されるのか、まるで分かったものではありませんが、春休みの暇に任せた書き散らしが、正確に解釈される必要もありませんね。それではまたいつか。
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