fc2ブログ
 

 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2023-04

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

待つ日々にたえて貴方のあらざれば

「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
 僕がこんな和歌の書かれた手紙を桜の樹の下で拾ったのは、大学入学直前の春の日のことでした。
その日、僕はこれから始まる新生活に心躍らせ、半ば浮き足立ちながら散歩をしていました。下宿から琵琶湖疎水に沿って道を下り、東鞍馬口通りを少し過ぎる。そこには小さな公園があり、その隅に、満開の桜の樹がありました。僕は、多くの日本人がそうであるように、桜の吸引力に引き寄せられて花を見上げました。しかし数分もすればその光景にも見飽きてしまい、視線をふと下げる。すると視界の端、桜の樹の根元に、薄い桃色をした手紙が落ちているのを認めたのです。
 僕は少し迷ってから、それを拾い上げました。誰かの落とし物ならそのままにしておくべきかもしれないけれど、いつか散った桜の花びらにそれが埋もれてしまうのではないか、とふと考えたのです。その手紙を広げると、先の和歌が。在原業平の歌。ただ書いてあるのはそれだけで、送り主も、宛先もありません。そこで僕は、ふと思いつきで鞄からペンを取り出し、その和歌の隣にこう書き付けて、手紙を元の場所に戻しました。
「世の中にたえて桜のなかりせば花に埋もるる消息もなし 暮四」
 そして次の日。僕は昨日の手紙のことが気になって、またあの桜の樹へと足を向けました。するとやっぱりあの手紙が。拾い上げて中を見ると、「消息も花もなければ君と我交わらざらん泥濘む轍 白戸」
 この日から、この手紙を通して、白戸さん(筆跡から多分女性でした)との和歌の詠み合いが始まったのです。
 それから一週間ほど経った頃でしょうか。大学の入学式の前日。その頃には、白戸さんとの手紙を通じた詠み合いはほとんど日課になっていました。もう桜の花は散りかけていたため、手紙は花びらに埋もれていました。その日の歌は「あくる日のいつか散る花にべもなく来たる夕陽が照らすその時」僕はなんとなく違和感を覚えました。なんだか言葉のチョイスが不自然で、意味も通りづらい。そしてふと気づきました。折句です。句の頭文字を取ると、「あいにきて」。僕は何と返せばいいか分からず、その日はそのまま手紙を元に戻しました。
 次の日も、随分と迷いましたが、結局はあの桜の樹へは行きませんでした。入学式がありましたし、多分そこにいるだろう白戸さんに会ったとして、どんな顔でどんな会話をすればいいのか分からなかったから。あとは単純に、白戸さんと会うことが漠然と怖かったのです。
 そこから、白戸さんとの詠み合いはなくなりました。桜は完全に散り、手紙も消えてしまいました。無論、私はあの日のことを後悔することになります。
 だから、と繋げるのは少しおかしな話ですが、私は今度の紅萌祭で配るビラの裏に、この話をベースにした、白戸さんに関する小説を書きました。ペンネームも白戸にしてあります。何か、まるで桜の樹の下で手紙を拾うような巡り合わせで、彼女に僕のことが伝わるように。

Edit 22:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

靴紐

最近の日記です。

・喫茶店で頼んだソフトクリームにさくらんぼがついていた。真っ白な背景に鮮やかなほどの赤。幼い子どものささやかないたずら心みたいだ。それを摘んで実をひと口で頬張ると、わずかな甘さと酸っぱさを感じる。割合に大きな種を吐き出してしまえばもうその味は残っていなくて、あとはひたすらに甘いソフトクリームがあるだけ。やっぱりいたずら心に似ている。

・月を見上げない日はないんじゃないか、と思う。夜になると、いや、昼の間も、ふと空を見上げて月を探してしまう。ドアの鍵を閉めるのと同じような、外出時のルーティーンになっている。自分が月に何を求めているのかは分からないけれど、毎回数秒は見上げてしまう。

・秋の終わり、夜の準備をしているような暗い水色の空に薄い月が浮かんでいた。俺は頭の中で「夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ」と呟いた。自然に頭に湧いて出てきていた。確か紀貫之だったように思う。こういった風に、現実と詩歌が繋がる経験は気持ちがいい。そんなことをぼんやりも考えているうちに信号が青になって、俺は前を向く。

・昼の青空に浮かぶ月は世界の終わりによく似ている、と思う。その不釣り合いな感じというか、あり得なさがそう思わせているのかもしれない。というか月のこと書きすぎだろ。初恋か?

・世界は名前によって出来ていることを、最近強く実感する。アベリアの花も寒椿も、その名前を知ってから視界に飛び込む回数が増えた。特に椿なんかはあんなに鮮烈な色をしているのに、名前を知るまでは全く見えていなかった。もったいない。世界の名前を大事にしていきたい。でも、名前をつけずにいたいものも確かにあって、少し困ってしまう。

・靴紐を結ぶ。時計を合わせる。楽器のチューニングをする。世界に自分を合わせる行動。これらが苦手だ。靴紐はすぐ解けるし、時計やチューニングはすぐまたずれる。ただの不器用とかたづけてしまってもいいけれど、何か抽象的な意味を付与してもいい。とにかくこれらの行動をしているとき、なんだか少し寂しくなる。

・アンディウォーホル展に行った。ウォーホルは戦後アメリカの大衆消費社会を象徴する画家で、反復などの技法が有名。展示の仕方もそれに倣った意欲的なもので面白かった。特にキャンベルのトマト缶には感動した。まさか生で見られるとは思ってなかったな

・『蚊』という小説を書いた。一年前から構想だけはあって、最近ようやく形にできた。大人と子供、性愛と純愛、恋と信仰。様々な二項対立をそこに込めた。蚊と乳房は男女の間にあるそれらを表現するためのメタファーのつもりだった。しかしそれを他サークルの人に見せたところ、それはもう多種多様な解釈をされてしまって、思惑通りにメタファーを機能させるのは難しいと感じた。

・京セラ美術館で気に入った作品 
河合健二『曙光』
下村良之介『月明を翔く(弥)』
徳岡神泉『流れ』

・『冬蜂の死にどころなく歩きけり』村上鬼城の俳句。最近ひよんなことから知った句で、一目惚れしてしまった。そう、これなんだよ。俺は俳句にささやかな悲劇を求めている。

Edit 20:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

没作品『道連れ』

 暮四です。NFお疲れ様でした。そしてありがとうございました。外部誌はなんと完売、コピー本やポストカードもたくさんお買い求めいただけました。自分たちで作ったものを直接お客さんに手渡しできるのはやはり感慨深いですね。これからも名称未定をどうぞよろしくお願いします。
 さて、今回のNFで発行したテーマ本に、私は『手前の大路』という紀行文を寄稿しました。しかし実は、この作品を書く前に没にした文章があったのです(な、なんだって~!)。本来はこちらを寄稿するつもりだったのですが、あまり内容に納得できなかったので没にしました。その後、その原稿はパソコンのフォルダの奥深くで眠っていたのですが、NFが終わって一息ついたタイミングでそれを読み返してみました。やはり未だに内容には納得していませんが、このまま日の目を見ることなく消えていくこの原稿の身の上を思うと袖が濡れてしまったので、供養としてこのブログに投げておきます。よかったらご覧ください。暮四でした。

『道連れ』

 道から外れて歩くのが、彼の癖だった。いつも彼は歩道を歩かずに、車が通るすれすれの所を歩いていた。僕は彼の斜め後ろ、安全な歩道を行きながら、どうしてそんな所を歩くのか訊ねたことがある。
「なんか馬鹿にしてるみたいだろ。つまり、世界って呼ばれるものの全部をさ」
 彼は笑ってそう答えた。僕にはその意味が分からなかった。僕はずっとそうだったんだ。僕は常に彼の一歩後ろを生きていた。はじめて出会った三年前のあの頃から、彼は全てにおいて僕より秀でていた。一応日本一の大学と呼ばれるうちの大学に首席で入学し、講義にもろくに出ていないのに試験は常に満点近くを取っていた。勉強だけでなく、スポーツも、音楽や芸術でさえ、彼は悠々とこなしていった。
 彼は、つまらない言葉でまとめてしまえば天才だった。少なくとも他の学生たちは彼をそう呼んで、その神性を疎んでいた。
 でも、僕は彼を違う言葉で評したい。彼は優しい人だった。彼と違ってどこまでも平凡な僕に、彼は話しかけてくれた。彼は、僕の唯一の友達だった。いや、今思えば違ったのかもしれない。彼と僕との関係は、友達だなんて対等なものではなかったように思う。彼が僕に与えるだけで、僕は彼に何も与えていなかった。受験に受かるための勉強を十八年間続けてきただけの僕は、世界というものとの関わり方が分からなかったのだ。悪意だとか、嘘だとか、歪みだとかいうような、剥き出しの世界に対し僕はあまりにも無防備だった。きっと彼はそんな僕を見かねたのだろう。世界は全て彼を介して僕の前に現れるようになった。親鳥が餌を小さくしてから雛に与えるように、彼は剥き出しの世界を、かみ砕いて僕に与えた。彼は賢いから、複雑なこの世界を、馬鹿な僕にもわかりやすいように解釈する術を知っていたのだ。
 だから、それこそ親鳥に対する雛のように、僕は彼の後ろをついて回っていた。僕にとって、彼がいる方向が前であり、正解だった。彼はそんな僕のことをどう思っていたのだろうか。

 三年生の秋の日、彼は突然消えた。その年初めて金木犀が香った日で、また通学路の彼岸花が枯れていた日でもあった。大学に問い合わせると、彼は退学したとのことだった。そんなそぶりは一切なかったのに、僕の世界からは彼の痕跡の一切が消えていた。その時になって初めて、僕は彼の家も連絡先も知らないことに気がついた。
 彼は結局戻ってくることはなく、いつの間にか年を越していた。僕はしばらく外に出ていなかった。それは彼がいなくなって悲しいから、なのか。きっとそうではなかった。僕は怖かった。彼を介さない、剥き出しの世界に相対することが、どうしようもなく恐ろしかった。僕は大学に行かなくなり、今期の単位を全て落としていた。
 家にこもったままのある日、電灯に照らされた部屋中の埃がやけに気になったものだから、僕は久しぶりに窓を開けた。その時、冷たさの残る夕暮れの空気の間を縫うようにして、かすかに春が香った気がした。少し、外に出てみようと思った。
 とりあえず、近くにある公園を目指した。久しぶりの太陽の光は暴力的な熱を纏い、傾いた陽の光は直接に僕の肌を刺した。彼が前にいない世界はどうも他人行儀で、通り過ぎる誰もが僕を見ているように感じた。世界の全てが、僕を敵視していた。その視線から逃げるように、僕は下を向く。
「あ」
 自分が、道から外れて歩いていることに気がついた。 

Edit 14:38 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

美術館に要らないもの

・絵の題
・絵の説明
・額縁
・音声ガイド
・仰々しい看板
・入り口の映像
・有名な絵の前座みたいな立ち位置にされている絵
・学割のために学生証を見せる、あの時間
・自撮りしてる人
・美術館にわざわざドライフラワーを持ち込む輩
・物販
・謎のポストカード
・時折流れるアナウンス
・手を繋いで絵を見てるカップル
・揚々と絵の解説をするおじさん
・割とでかい声で喋ってる人
・謎の批評家
・全く立ち止まらずに歩いていく人
・飽きたのか隠れてスマホ触ってる人
・閉館時刻
・休館日
・再入場はできません
・順路がよく分からない展示
・撮影可能な絵
・無言で催促してくる後ろの人
・絵の前からなかなか退かない人
・そういったモラルに小煩い奴
・俺以外の人間
・俺

Edit 21:02 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

朝三暮四

 七月上旬担当の暮四です。今年度より名称未定に入会しました。お見知りおきをどうぞよろしくお願いいたします。私にとって初めてのブログ、何を書くべきか悩みましたが、ここは無難に、普段から私が書いているような形で日記を投稿いたします。

・梅宮大社へ花菖蒲を見に行った。その日は梅雨のど真ん中だったけれど雨は降らなかった。花菖蒲は雨に濡れていると相場が決まっているので残念。少し雨を待ってみたが、自分が傘を持っていないことに気がついたので帰った。

・美術館が好きだ。これを人に言うとよく誤解されるのだが、別に絵画が好きだというわけではない。嫌いでもないけれど。そうではなくて、絵画を見ることが好きなのだ。絵画の前に立つと、自分と絵画の間には緊張した静謐みたいなものが生まれる。その中でのみ私は私の身体を少しだけ忘れて、私の内部を見つめることができる。だからきっと絵画を見るのが好きというのも間違いで、絵画を通して自分自身を見つめ直すのが好きなんだろうな。そして絵画から目を離したときの、緊張が解けて現実に戻ってくる感じも、そんなに嫌いじゃない。

・二十歳になった。成人年齢は十八歳に引き下がってしまったので、二十歳というものはお酒とたばこが買えるようになる以上の意味を持たなくなってしまった。それでもやはり二十歳というのは、何か象徴的な節目であるような気がしている。慣れないお酒を呷りながら、昔のことを思い出す時間が少しだけ増えた。

・最近、たびたびマスクを取っている。もちろん人が密集しているときや、だれかと話すときはつけているけれど、周りに誰もいない、静かな夜を散歩しているときなんかはつけるのも馬鹿らしいと思ってしまう。すると、雨上がりのコンクリートから蒸し上がるあの匂いや、茂った草木の青い匂いがよく感じ取れるようになる。ここ数年忘れかけていた匂いだ。夏がもうすぐそこまで来ている。

・雲間から零れた月光に照らされた紫陽花の露や、今出川通りの先に沈む曖昧な色の夕暮れを眺めると俳句を詠みたくなる。きっとそれは単純な表現欲だと思うのだけれど、いざ俳句が作られると、よりよい句をしよう、より評価される句にしようという思いが頭をもたげてくる。有り体に言えば自己顕示欲だ。他人の介入する余地などなく、完全に自分のために何かを作ることが出来たのはいつまでだったろうと考えている。

・「変身」という小説を書いた。フランツ・カフカの「変身」がモチーフ。ところどころにカミュの「異邦人」も引用している。実存主義小説の観点から、自己同一性と自由意志について疑問を投げかける意図で書いた。思春期の男の子が秩序みたいなものに対し反抗的になることと、ある外交販売員が巨大な毒虫になることには、いったいどんな違いがあるのだろう?

・この前下宿を出る際に、玄関からふと部屋を振り返ってみた。廊下の先にある扉は開けっぱなしになっていて、そこから自分の部屋が見える。半分開いたカーテンが、雨の朝の鈍色の光を招き入れている。鈍重な空気に満たされた部屋の中で、整頓されていないあれこれが散乱している。その様子は、失くしてしまった誰かを連想させた。この部屋は誰も失ったことがないのに不思議に感じた。雨の日の空っぽな部屋には、何も失うことなしに喪失の概念だけが存在している。

・先日、横断歩道で立ち往生をしている車椅子のご老体を見かけたので、移動をお手伝いしてそのままお宅の前まで車椅子を押していった。ご老体は細い路地を何本も奥へ入っていったところのアパートに一人暮らしをしていらして、その部屋の前にはいくつかの段差があった。お礼にいくつかの飴を頂いて、帰り道に感じていたのは、罪悪感であった。きっと私たちの社会は色々なものを路地裏に詰め込んでしまっていて、今日私は隠されてしまっていたそれに気づいた形だ。裏返せば私は今まで気づいていなかったのだ。一人暮らしのご老体があまりに不親切な社会な構造というか、あり方の中で暮らしていることに。頂いた飴は、少し酸っぱかった。

・例えば、踏切を待っているとき。あるいは信号や、お会計でもいい。とにかく何かを待っているとき、もしもその時間が永遠に続いたらどうなるのだろうかとふと思う。つまり、電車がいつまでも来なかったら。いつまでも信号が赤だったら。前の人の買い物かごの中身がいつまでも減らなかったら。そんなことを考えている。昔からの癖だ。きっと他の人は待ちくたびれて去ってしまうだろう。でも私は、なんとなくだけど、一人で待ち続けているのではないかと思う。理由はないけれどほとんど確信に近い。でもやっぱり現実の踏切は間もなく開いて、それに少しがっかりしている自分がいる。

・暮四というペンネームについて。きっと気づく人も多いと思うが、「朝三暮四」という故事成語から来ている。夏目漱石が「漱石枕流」という故事成語から名前を取ったのを真似た。「朝三暮四」は目先の利益にばかりとらわれる、という意味だが、これをペンネームに取ったのは自分に対する戒めであり、また皮肉でもある。あとは単純に「暮四」という漢字のイメージが好きだ。暮れた茜色の空を背景に、鴉の影が四つばかり浮かんでいる。

・エッセイや日記のノンフィクション性は、どこまで担保されるのだろうか。そもそも完全なノンフィクションなんて存在するのだろうか。きっと、フィクションとノンフィクション、つまり現実と虚構は対立概念ではないし、両立しうる。世界は現実と虚構に二分されるのではなく、それらが不可分に混ざり合って存在している。現実の中にも虚構は点在するし、虚構の中にもグラデーションのように現実は混ざり込んでいる。松尾芭蕉だって、現実に虚構を織り交ぜながら「おくの細道」を書いた。だからこの日記にも、真に本当のことなんてないのかもしれない。

Edit 23:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:西桜
中旬:谷川
下旬:安野 です。

 

最新記事

 
 

投稿者別

 
 

最近のコメント

 
 

アクセスカウンター

 

 

月別アーカイブ

 

 

最新トラックバック

 
 

リンク

 
 

QRコード

 

QR