萩原朔太郎「詩の原理」
先日旅行の際に読んでいた萩原朔太郎の「詩の原理」(新潮文庫・昭和29年刊)を自分のために要約しておきますが、せっかくなのでここにも投下しておきます。参考になればいいなあ。あ、要約は何故かL・Wの論考風です。何故だろう。
朔太郎「詩の原理」は、当時の(50年代の)詩壇の状況から朔太郎が詩をどのようにして分類すべきか(つまり自由詩は韻文ではないのに詩なのか)ということを死ぬほどわかりやすく書いている。科学と文学の対立、客観主義と主観主義の対立、絵画と音楽の対立、小説と詩の対立、エピック(叙事詩)とリリック(抒情詩)の対立からあらゆる詩を整理した、と著者はしている。いい加減に論旨を書いておけば次のようになる。
0:詩とは詩的精神を持って書くものである。それは本質的に情緒的である。
01:つまり心(ハート)で書くのだ。
02:詩人の精神は現前する存在を超えて飛翔している。
021:つまり「イデア」的な欲求である。詩人はそこに到達する「夢(dream)」を見ている。
1:すべての芸術(文学、音楽、絵画等すべての表現)は事象を表現する。
11:ただし芸術は単なる表現ではなく、それがたとえ芸術的な感情によって駆動されていても科学や冒険行為を含まない。
2:芸術の表現はまず人間の観照能力(観察能力)によって支えられている。その観照の方法は二種類存在する。
211:一方は客観的な見方である。
2111:客観的観照は美術や小説、大きくは科学の方法に属している。
212:他方は主観的な見方である。
2121:主観的観照は音楽や詩、大きくは芸術の方法に属している。
213:これらの例は相互に対応しあう。つまり相対的に見て主客を判別できる。
3:観照の作法によりこれらの表現一般が系統的に分化している。
31:まず科学と芸術が前者を客観的、後者を主観的として分別できる。
32:次に芸術の絵画と音楽は前者を客観的、後者を主観的として分別できる。
33:芸術の残り、文学は詩と小説に分別できる。なぜならそれは前者が後者に比して物事の描写を客観的に行うからである。
34:詩の叙事詩と抒情詩は、前者を客観的、後者を主観的として分別できる。
341:よって最後に残ったもっとも主観的なものを本流の詩と考えることができる。
4:客観的描写と主観的描写の間での描写の意味は異なる。
41:客観的表現は「物事が起こったままを説明する」ことである。
411:そこに主観は入り込まない。
4111誰が見ても同じように世界は描写される。
42:主観的表現は「物事が起こったその意味を表現する」ことである。
421:そこでは主観が世界の存在様式に溶解し、彼の見たような世界が描写される。
4211:つまり彼の精神内で世界が持つ(宇宙的)「意味」を描写する。
43:双方は優劣をもたない。ただの見方である。
5:「表現のための表現」と「生活のための表現」は分離され、それが表現の分化の原因となる。
51:例えば冒険者の表現(冒険行為)は「表現のための表現」と言うことができる。
511:そのため彼は冒険のために冒険そのものへ向かう。冒険譚を書くのではなく。
5111:彼は「表現しない表現者」となる。
512:しかし表現しない彼は表現者ではない。
52:冒険譚を書く行為は「生活のための表現」ということができる。
521:彼は(一向に満足されない)既存の生活を超越するために書く。
5210:ただし「イデア」的なものを目指した表現は完成されることがない。
5211:よって彼は「表現を持たない表現者」となる。
522:つまり彼も表現者ではない。
53:このため表現は「表現しない表現者」、「表現を持たない表現者」の間で二分されている。
531:この対比は「客観的観照」と「主観的観照」に対応している。
6:表現者とはこれら両方の性質を併せ持ち、かつ十全に生かすことのできる人間である。
61:より正確に表現すれば、表現者は「主観的観照」を用いた「夢」を熱心に求めながら、それを「客観的観照」によって表現に固定しなければならない。
あとはまあ、「主観」と「客観」の相克であるとか(中世の抑圧・スコラ学派の次にルネサンス・人間性の発露が来たことを考えよ)、自由詩はそれが詩的精神によって駆動される限り詩であるとか(韻文、散文の区分は曲解されており、それゆえ散文詩は韻を持たない韻文であるなどいう詭弁は不自然である)いう話だった。あとはまあ、日本人の話であって、日本人は宗教も何もない極めてリアリスティックな民族であり、「主観」「客観」が分化せず、それゆえ言語が洗練されえない。詩といっても猥雑で平板な音がダラダラと続くのみであって、短歌以上のリズムを作りようがなく、日本には短歌と俳句しかない。(短歌は主観的、俳句は客観的な立場で対となっているが、俳句は気質から見てベタな客観性、つまり「侘びさび」であり、主観的表現に反動したいわゆる叙事詩とは位相を異にする)
「本来の詩とは抒情詩である」というような主義のために、朔太郎の体系は表現を狭量なものとしているようだ。例えば形式主義を推し進めた詩が最近登場している。「形式から/形式のみで観照を主観的なものに変貌せしめている」という問いにはこれは答えられない。具体的にはルビの振り方とかをより現代的に推し進めたものや、段組の構成を極端に推し進めたもの。これらは紙面の中で語られる詩の形式であって「音読されない詩」である。これらは一概に音律によって判断することができない。まあ叙事詩と抒情詩の対立関係(正確には浪漫派・象徴派から自然主義、あるいは高踏派へ反動する流れ)のあたりからこの問いに対しては部分的に答えが与えられている。
いわく、「最近詩派の本質は、一言にして言えば「象徴派への反動」である。即ち彼らは情緒を排して、ある種の抑圧されたる、逆説的な意思による権力感情を高調している。(中略)こうした内容を有する詩が、形式においてどんな表現を写してくるかは、考えるまでもなく明らかであろう。最近の多くの詩は、この点においてもまったく象徴派に敵愾している。あの象徴派のぬらぬらした、メロディアスで柔軟な自由律は、最近詩派の趣味性から手厳しく反感される。表現派や立体派の求めるところは、鉄と機械によってがっしりと造られている、骨格のたくましいリズミカルのもの、即ちクラシックの形式詩体でなければならない。けれども彼らは、すでに象徴派を経てシンボリズムの洗礼を受けている故に、古典詩学の同じ形式には、再度帰ることを欲していない。彼らの求める様式はクラシズムからその古風な美と詩学とを除いたところの、新しき様式における意匠であろう。」(p173)
「そもそも詩の本質感はなんだろうか。詩は「存在(ザイン)しないもの」への欲情である。(中略)されば詩におけるクラシズムは、あまりに情熱的な詩人の血が、北極の氷結した吹雪の中で、意思の抑圧されることに痛快する、一種の逆説的詩学に他ならない。彼らのそこに求めるものは、ストア的律格の厳正さと、がっしりした韻律の骨組みと、そしてあらゆる意思的な抑制とから、すべての生ぬるい主観を圧し、センチメンタルな情緒を殺し、それの痛快から逆に飛躍しようとする意欲である。(中略)この種の詩は主観を抑制することによって、逆にかえって主観を飛躍させ、情緒を苛めつけることによって、却って最も強いセンチメントを高調させる。そして実に、それゆえにこそ「詩」が詩としての魅力を持つのだ。」(p189-190)
歴史的な経緯もそれなりに追えているため、近代詩の参考にはなる。
読んでてわりとイライラするけれどお薦めでーす。
最後にいくらか記録すべきこと・面白かったことを引用しておきます。
(p151)
「それ故に芸術の主眼点は、単に個々の事実や現象やを、無意味に書き並べることにあるのではなく、むしろこれらの背後にある、真の「意味そのもの」を直感し、直ちにこれを表現することになければならぬ。(中略)換言すれば、対象における一々の部分を忠実に写生しないで、物をそれの全体から、本質において直感してしまうのである。」
(p189)
「故に詩における権力感は、常に非所有のもの、自由の得られないものに対する、弱者の人間的な羽ばたきである。換言すれば、詩人は詩を作ることによって、表現からの権力を得、貴族を現在しようとする。」
(p201)
「しかし吾人の悩みは、いかにもして日本語の音律から、より長編の詩が作りたいということにある。おそらくこの同じ悩みは、昔の詩人たちも感じていた。(去ればこそ古来種々の新しい詩形が工夫されたのだ。)ではこの悩みを解決すべく、われわれはどうしたら好いのだろうか?先に言った短歌の内部的有機律を、そのまま長編の詩に拡張したらどうだろうか。否。それは無効である。なぜなら詩の骨格たる外形律が、すでに単調を感じさせる場合において、内部的なデリケートな繊維律は、何等の能力をも有し得ないから。それでは五七や七五の代りに、他の六四、八五等の別な音律形式を代用したらどうだろうか。考えるまでもなく、これはどっちも同じことだ。今日西洋音楽に唱歌するため、しばしば六四調や八五調の韻律されたものを見るけれども、その単調なことはいずれも同じく、かえって七五音より不自然さだけが劣っている。
そこで最後に考えられることは、一つの詩形の中において、五七を始め、六四、八五、三四等の、種々の変わった音律を採用し、色々混用したらどうだろうということだ。この工夫は面白い。だがそれだったら、むしろ始めから韻律を否定するに如かずである。なぜなら一つの文の中で、八六、三四、五七等の、種々雑多な音律を取り混ぜるのは、それ自ら散文の形式だからだ。韻文の韻文たる所以のものは、一定の規則正しき法則によって、反復や対比の律動を持つからである。雑多な音律が入り混じった不規則のものだったら、少なくとも辞書の正解する「韻文」ではない。すなわちそれは「散文」である。
故にこの最後の考は、詩の音律価値を高めるために、逆に詩を散文に導く――少なくとも散文に近くする――という、不思議な矛盾した結論に帰着している。そして実に日本の詩のジレンマが、この矛盾したところにあるのだ」
朔太郎「詩の原理」は、当時の(50年代の)詩壇の状況から朔太郎が詩をどのようにして分類すべきか(つまり自由詩は韻文ではないのに詩なのか)ということを死ぬほどわかりやすく書いている。科学と文学の対立、客観主義と主観主義の対立、絵画と音楽の対立、小説と詩の対立、エピック(叙事詩)とリリック(抒情詩)の対立からあらゆる詩を整理した、と著者はしている。いい加減に論旨を書いておけば次のようになる。
0:詩とは詩的精神を持って書くものである。それは本質的に情緒的である。
01:つまり心(ハート)で書くのだ。
02:詩人の精神は現前する存在を超えて飛翔している。
021:つまり「イデア」的な欲求である。詩人はそこに到達する「夢(dream)」を見ている。
1:すべての芸術(文学、音楽、絵画等すべての表現)は事象を表現する。
11:ただし芸術は単なる表現ではなく、それがたとえ芸術的な感情によって駆動されていても科学や冒険行為を含まない。
2:芸術の表現はまず人間の観照能力(観察能力)によって支えられている。その観照の方法は二種類存在する。
211:一方は客観的な見方である。
2111:客観的観照は美術や小説、大きくは科学の方法に属している。
212:他方は主観的な見方である。
2121:主観的観照は音楽や詩、大きくは芸術の方法に属している。
213:これらの例は相互に対応しあう。つまり相対的に見て主客を判別できる。
3:観照の作法によりこれらの表現一般が系統的に分化している。
31:まず科学と芸術が前者を客観的、後者を主観的として分別できる。
32:次に芸術の絵画と音楽は前者を客観的、後者を主観的として分別できる。
33:芸術の残り、文学は詩と小説に分別できる。なぜならそれは前者が後者に比して物事の描写を客観的に行うからである。
34:詩の叙事詩と抒情詩は、前者を客観的、後者を主観的として分別できる。
341:よって最後に残ったもっとも主観的なものを本流の詩と考えることができる。
4:客観的描写と主観的描写の間での描写の意味は異なる。
41:客観的表現は「物事が起こったままを説明する」ことである。
411:そこに主観は入り込まない。
4111誰が見ても同じように世界は描写される。
42:主観的表現は「物事が起こったその意味を表現する」ことである。
421:そこでは主観が世界の存在様式に溶解し、彼の見たような世界が描写される。
4211:つまり彼の精神内で世界が持つ(宇宙的)「意味」を描写する。
43:双方は優劣をもたない。ただの見方である。
5:「表現のための表現」と「生活のための表現」は分離され、それが表現の分化の原因となる。
51:例えば冒険者の表現(冒険行為)は「表現のための表現」と言うことができる。
511:そのため彼は冒険のために冒険そのものへ向かう。冒険譚を書くのではなく。
5111:彼は「表現しない表現者」となる。
512:しかし表現しない彼は表現者ではない。
52:冒険譚を書く行為は「生活のための表現」ということができる。
521:彼は(一向に満足されない)既存の生活を超越するために書く。
5210:ただし「イデア」的なものを目指した表現は完成されることがない。
5211:よって彼は「表現を持たない表現者」となる。
522:つまり彼も表現者ではない。
53:このため表現は「表現しない表現者」、「表現を持たない表現者」の間で二分されている。
531:この対比は「客観的観照」と「主観的観照」に対応している。
6:表現者とはこれら両方の性質を併せ持ち、かつ十全に生かすことのできる人間である。
61:より正確に表現すれば、表現者は「主観的観照」を用いた「夢」を熱心に求めながら、それを「客観的観照」によって表現に固定しなければならない。
あとはまあ、「主観」と「客観」の相克であるとか(中世の抑圧・スコラ学派の次にルネサンス・人間性の発露が来たことを考えよ)、自由詩はそれが詩的精神によって駆動される限り詩であるとか(韻文、散文の区分は曲解されており、それゆえ散文詩は韻を持たない韻文であるなどいう詭弁は不自然である)いう話だった。あとはまあ、日本人の話であって、日本人は宗教も何もない極めてリアリスティックな民族であり、「主観」「客観」が分化せず、それゆえ言語が洗練されえない。詩といっても猥雑で平板な音がダラダラと続くのみであって、短歌以上のリズムを作りようがなく、日本には短歌と俳句しかない。(短歌は主観的、俳句は客観的な立場で対となっているが、俳句は気質から見てベタな客観性、つまり「侘びさび」であり、主観的表現に反動したいわゆる叙事詩とは位相を異にする)
「本来の詩とは抒情詩である」というような主義のために、朔太郎の体系は表現を狭量なものとしているようだ。例えば形式主義を推し進めた詩が最近登場している。「形式から/形式のみで観照を主観的なものに変貌せしめている」という問いにはこれは答えられない。具体的にはルビの振り方とかをより現代的に推し進めたものや、段組の構成を極端に推し進めたもの。これらは紙面の中で語られる詩の形式であって「音読されない詩」である。これらは一概に音律によって判断することができない。まあ叙事詩と抒情詩の対立関係(正確には浪漫派・象徴派から自然主義、あるいは高踏派へ反動する流れ)のあたりからこの問いに対しては部分的に答えが与えられている。
いわく、「最近詩派の本質は、一言にして言えば「象徴派への反動」である。即ち彼らは情緒を排して、ある種の抑圧されたる、逆説的な意思による権力感情を高調している。(中略)こうした内容を有する詩が、形式においてどんな表現を写してくるかは、考えるまでもなく明らかであろう。最近の多くの詩は、この点においてもまったく象徴派に敵愾している。あの象徴派のぬらぬらした、メロディアスで柔軟な自由律は、最近詩派の趣味性から手厳しく反感される。表現派や立体派の求めるところは、鉄と機械によってがっしりと造られている、骨格のたくましいリズミカルのもの、即ちクラシックの形式詩体でなければならない。けれども彼らは、すでに象徴派を経てシンボリズムの洗礼を受けている故に、古典詩学の同じ形式には、再度帰ることを欲していない。彼らの求める様式はクラシズムからその古風な美と詩学とを除いたところの、新しき様式における意匠であろう。」(p173)
「そもそも詩の本質感はなんだろうか。詩は「存在(ザイン)しないもの」への欲情である。(中略)されば詩におけるクラシズムは、あまりに情熱的な詩人の血が、北極の氷結した吹雪の中で、意思の抑圧されることに痛快する、一種の逆説的詩学に他ならない。彼らのそこに求めるものは、ストア的律格の厳正さと、がっしりした韻律の骨組みと、そしてあらゆる意思的な抑制とから、すべての生ぬるい主観を圧し、センチメンタルな情緒を殺し、それの痛快から逆に飛躍しようとする意欲である。(中略)この種の詩は主観を抑制することによって、逆にかえって主観を飛躍させ、情緒を苛めつけることによって、却って最も強いセンチメントを高調させる。そして実に、それゆえにこそ「詩」が詩としての魅力を持つのだ。」(p189-190)
歴史的な経緯もそれなりに追えているため、近代詩の参考にはなる。
読んでてわりとイライラするけれどお薦めでーす。
最後にいくらか記録すべきこと・面白かったことを引用しておきます。
(p151)
「それ故に芸術の主眼点は、単に個々の事実や現象やを、無意味に書き並べることにあるのではなく、むしろこれらの背後にある、真の「意味そのもの」を直感し、直ちにこれを表現することになければならぬ。(中略)換言すれば、対象における一々の部分を忠実に写生しないで、物をそれの全体から、本質において直感してしまうのである。」
(p189)
「故に詩における権力感は、常に非所有のもの、自由の得られないものに対する、弱者の人間的な羽ばたきである。換言すれば、詩人は詩を作ることによって、表現からの権力を得、貴族を現在しようとする。」
(p201)
「しかし吾人の悩みは、いかにもして日本語の音律から、より長編の詩が作りたいということにある。おそらくこの同じ悩みは、昔の詩人たちも感じていた。(去ればこそ古来種々の新しい詩形が工夫されたのだ。)ではこの悩みを解決すべく、われわれはどうしたら好いのだろうか?先に言った短歌の内部的有機律を、そのまま長編の詩に拡張したらどうだろうか。否。それは無効である。なぜなら詩の骨格たる外形律が、すでに単調を感じさせる場合において、内部的なデリケートな繊維律は、何等の能力をも有し得ないから。それでは五七や七五の代りに、他の六四、八五等の別な音律形式を代用したらどうだろうか。考えるまでもなく、これはどっちも同じことだ。今日西洋音楽に唱歌するため、しばしば六四調や八五調の韻律されたものを見るけれども、その単調なことはいずれも同じく、かえって七五音より不自然さだけが劣っている。
そこで最後に考えられることは、一つの詩形の中において、五七を始め、六四、八五、三四等の、種々の変わった音律を採用し、色々混用したらどうだろうということだ。この工夫は面白い。だがそれだったら、むしろ始めから韻律を否定するに如かずである。なぜなら一つの文の中で、八六、三四、五七等の、種々雑多な音律を取り混ぜるのは、それ自ら散文の形式だからだ。韻文の韻文たる所以のものは、一定の規則正しき法則によって、反復や対比の律動を持つからである。雑多な音律が入り混じった不規則のものだったら、少なくとも辞書の正解する「韻文」ではない。すなわちそれは「散文」である。
故にこの最後の考は、詩の音律価値を高めるために、逆に詩を散文に導く――少なくとも散文に近くする――という、不思議な矛盾した結論に帰着している。そして実に日本の詩のジレンマが、この矛盾したところにあるのだ」
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