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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2016-12

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幼女論

 どうも,しっちーです.ここ数日で本格的に冬っぽくなり,重装備が必要な季節となりました.ポケモンGO廃人1) たる私にとっては非常に辛い季節です.寒さに耐えながら何時間もポケモンを探して歩き回っていると,指先は凍り付き2) ,文字通り体の芯まで冷やされるわけですが,まあいいでしょう.


 さて,そろそろ年の瀬も近づき,今年の私の作品を見返していると,やはり幼女ばかりであることに気づかされます.NFの創作屋さんにも何作品か投げましたが,塗り絵を除いて全て幼女だった気がします.私はなぜ幼女ばかり描いているのか?私は何を求めて絵を描いていて,幼女はそれをどう満たしているのか?私はそんな問いに直面せざるを得ません.幼女とは何か──この記事では,そこを考察してみたいと思います3)

 第一に,幼女は基本的に少女的な可愛さを持ちます.私は幼女を描くことによって,その少女的な可愛さに癒され,「あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃあ^~」という状態になりたいわけです.これは確かに大きな要素であり,私が幼女を描く理由の8割くらいを「少女的可愛さ」が占めます.しかし,これだけでは幼女を描く理由にはなりません.なぜなら,単に可愛いものを描いたり見たりしたいのならば,一般的によく描かれる女子高生でも描いていればいいからです.

 第二に,幼女は「子供らしい純粋さ」を持ちます.私は多分,その純粋さに触れて癒されることを求めています.悪い意味で大人になってしまい,心が歪み汚れきってしまった私は,幼女の穢れなき目で見つめられて浄化されて灰燼になりたいとか思うわけです.この辺はあまり上手く表現できませんが,ともかく純粋無垢さというのは,私にとって強力な癒しであるようです.

 以上のように私は,多分「少女的可愛さ」と「純粋無垢さ」を求めています4).これが当てはまるのは大体幼女ですが,例えば世間知らずのお嬢様とか,森の妖精とかも該当するといえるでしょう.実際,私はよく,そういうキャラを創作して描きます.


 「少女的可愛さ」というのはこれまで多くの人々が追い求めてきたもので,その実体は比較的はっきりしています.例えば『ご注文はうさぎですか?』にわかりやすく凝縮されていますし,その少女的可愛さによる癒しの力は,「あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃあ^~」というスラングとともによく知られています.しかし「純粋無垢さ」というのは随分とぼんやりとしたものです.「純粋である」とは,一体どういうことでしょうか.綺麗な心とは一体何でしょう.「汚れがない」「歪みがない」とも言えますが,この混沌とした世界の中で,何が真っ当で,何が汚れ歪んでいるのかなど,簡単にはわかりません.

 ただまあ,「純粋とは何か」よりも「『純粋ではない』とは何か」の方が考えやすいのは確かなようなので,色々「汚れたもの」を考えてみましょう.まず思いつくのは,別に卑猥でも何でもない物体を,「何か卑猥なものに見える」と言い出し,極端な場合「けしからんから規制しろ」とか言い出す人々でしょうか.自分が汚れた色眼鏡をかけていて,汚れた色眼鏡を通して物を見るからそれが汚れているように見えるだけなのに,物そのものが汚れていると信じて疑わない人々です.

 こういう「滅茶苦茶な解釈」は純粋なものの対極にあるといっていいでしょう.twitterでよく見かける,ツイートに謎の解釈を加えてよくわからないことをリプライで語りだすクソリプマン.別に何でもない普通の言葉を,自分に対する悪口と解釈する被害妄想狂.自分に向けられた嫌悪をツンデレ的反応と解釈するストーカー.色々見かけますが大体精神的な病気です.

 次に思いつくのは,「悪い意味で大人になった人たち」でしょうか.例えば,別に意味のない,それがあることで誰かが得をするわけでもないマナーとかルールとかを,「みんながそうしているから」というだけで盲目的に従い,そのマナーやルールに従わない者を,「空気を読め」と言いながらヒステリックに攻撃する人々が挙げられます5).滑稽な,思考停止した典型的日本人です .その場に幼女がいたら,きっと「どうしてそんなルールがあるの?」とでも,鋭い問いをぶつけることでしょう.

 あとは偽善でしょうか.自分の本心に嘘をつく行為とも.例えば,「子供たちの未来のために」などときれいごとを言って政治活動をしていながら,その本心では「そんなことを言っている私はかっこいい」というつまらない優越感を求めているだけの人とか.あるいは,自分が不快に感じるというだけの作品に関して,「公序良俗に反するから規制しろ」と適当にそれっぽい理由を取り繕って叫ぶ人とか.いわゆる「意識高い系」もここに含まれるでしょう.口では努力だとか貢献だとか綺麗なことを言っていても,その本心はただの承認欲求であり,「大人たち」からよく見られたいだけに過ぎない.根底にあるのは100点のテストを親に自慢する小学生と何も変わらない態度です6)

 最後に絶望や学習性無力感を挙げておきましょう.鼠に電気ショックを加えるとその鼠は逃げようとしますが,それを逃がさず,電気ショックを加え続ける.すると,その鼠は,電気ショックからは逃げられないのだと絶望(学習)します.そして,逃げられる状況にあっても,電気ショックから逃げなくなり,電気ショックを受け入れるようになります.人間でいえば,ブラック企業からは逃れられないのだと絶望し,死んだ魚のような目をしながら働き続ける社畜が挙げられるでしょうか.こういうのもピュアな心の対極にあるものだと思います.

 さて,結局のところ,純粋とは何か,というのはよくわかりません.そもそも純粋というのは,「何かである」というよりは,「何でもない」ものかもしれません.幼女は何も知らないがゆえに,あらゆる精神的汚染から自由です.その心は何も描かれていない,真っ白なキャンバスみたいなものなのかもしれない.しかし,ただ一つ確実に言えることは,幼女の持つ純粋さというのは,ただ単にそれを見て癒されるだけのものではなく,我々にとって目指すべきものであり,ある種の憧れを含んだものであるということです7).ここまで挙げてきた汚れた人間になりたいと思う人はあまりいないでしょう .大多数の人々が,幼女のように純粋でありたいと願うのではないでしょうか8)

 とはいっても,この闇だらけの社会の中で,純粋であり続けることは簡単ではありません.わけのわからないルールを押し付けられ,それに従わされることもあるでしょう.ブラック企業に呑まれ,死んだ魚のような眼をして働き続けることもあるでしょう.圧倒的な権力や同調圧力に屈し,自分の本心を歪めてしまうこともあるかもしれません.不条理と矛盾に,「そういうものなのだ,それでいいのだ」と納得してしまうかもしれません.そして,何か凝り固まった信念に取り憑かれることもあるかもしれません.大学にいるうちはわりと汚れずにいられます.しかし,社会に出たら最後,我々は思考停止して,家畜のような「悪い意味での大人」になってしまうのかもしれません.


 幼女とは何か?今やその答えに至るときです.その少女的可愛さは,傷つき,疲れ切った心を癒してくれる.そしてその純真無垢さは,汚れてしまった心を浄化し,汚れる前の人間本来的な心のあり方を思い出させてくれる.幼女とは結局のところ,不条理と矛盾と混沌とに満ちたこの世界の中で,それでも腐らずに生きたいと願う人々にとっての,一服の処方箋なのではないでしょうか.


────────


この記事は12月上旬にアップロードする予定だったものですが,卒論に忙殺されていたため遅れてしまいました.申し訳ありません.

1) 誇張を含む.本当のポケGOガチ勢から見れば,私などちっぽけな存在である.
2) スマホを操作するため,手袋をつけるわけにはいかない.
3) ここで論じる幼女という言葉には,一切の性的または犯罪的な意味を含まない.私が幼女という言葉を用いるだけで,私がロリコンのように見られかねないが,別に私はロリコンではないし,性犯罪に走りたいと考えているわけでもない.私が性犯罪者のような邪悪な目で幼女を見ているわけではないというのは,念のためよく強調しておきたい.私は幼女(というよりは後述する広義幼女)を愛している.幼女に限らず,私は自分の描いた人物をすべて愛している.私は彼女らに幸せであってほしいとしか思っていない.そして,その幸せそうな,可愛らしい姿を見て癒されたいとしか思っていない.これは犯罪に手を染めるロリコンの態度とは全く異なる.彼らは幼女を,自らの快楽のための道具として扱っているに過ぎないのであり,そこに幼女への愛は存在しないのである.
4) この二つを満たすものを広義幼女とでも呼ぼう.なお,ごちうさの登場人物は広義幼女であるといってよい.
5) こういうのは「キッチュ」と呼ばれるものである.ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』参照.ちなみにこのキッチュ,私が今書いている卒論のテーマでもある.
6) 幼女も100点のテストを親に自慢するような真似をするだろう.しかし意識高い系の人々と決定的に異なるのは,圧倒的成長などときれいごとを言って表面を取り繕ったりはせず,自分が承認欲求のため,褒めてもらうために頑張ったことを素直に認める点である.
あと,私は様々な人々について偉そうに「汚れている」とか言っているものの,私は汚れていないと言う気はない.最初の方で述べたように,私も既に汚れているし,今後もっと汚染されうる.
7) 純粋さに憧れるとは言ったが,幼女のように,何も知らないことによって純粋になることは現実的ではない.現実的にどうすれば純粋であれるのかは,色々と方法は考えられるものの,長くなるし面白くないし説教臭いし書かないことにする.そういう真面目な話は嫌いだ.というか,要は人として正しくあればよいのだが,何が正しくて何が間違っているかなど簡単に語れるものではないし,語りたくない.
8) こういう言い方は反論を認めないみたいで嫌だが,多分「別に自分は汚れていてもいい」と言っている人々は,すでに汚れていると思う.

Edit 22:41 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

考えるということからの脱却について考える序論


最近日増しに寒くなってまいります。みなさま風邪など引かれませんよう。
さて、12月上旬担当の方がまだ記事をアップされておりませんが、中旬に入ってしまったので先に投稿してしまいます。

今回は考えるということ、それから脱却しうる方法について、考えてみたい所存です。

考えることを脱却する方法を考えることによって得る。この矛盾を前提とした作業がどこまで意義を持ちうるかということは、人によって受け取り方が異なるのではないかと思います。厳密に科学的な方法――そのモデルとして私は数学の証明を思い浮かべるのですが――の場合、前提となる条件に矛盾が生じている場合、そこから導かれる帰結もまた何らかの形で矛盾を抱えたものにならざるを得ないことと思います。証明は無に帰します。

しかしながら、言語によってこの過程を表現した場合、それは全然無であるとは言えません。なぜならそこに一つの進行があるからです。

内的矛盾を抱えていても物事として存在していて、それが他への影響をあたえる限りでは、その存在意義がまったくゼロになるということは考えにくいと思います。例えば神様ということも、あらゆる矛盾した前提から帰結する存在ではありますが、その存在が人々に与える影響は限りなく大きいのですから。

前置きが長くなりましたが、そもそも考えるということを脱却する必要性があるのかどうか、あるいは絶対的な必然性がないとしてもそこに何らかの意義があるのかどうか、それをまずは考えてみたいと思います。

考えることは人間に必要なことです。しかし、考えることによって何か発生するデメリットはあるでしょうか。それは「考え疲れ」です。考えすぎると人は疲れるのです。これは経験的に知られることであって多くの人が同意することでしょうが、必ずしも万人に当てはまることではないでしょう。

しかし、考え疲れからの脱却、これだけでも多くの人に「考えないこと」がもたらす良い効果であることは否定されません。そこで今回は、考え疲れを起こした人を対象に、その方たち向けに考えることを脱する方法を提供できればと思います。考えないことのもたらす効用はこれ以外にも種種雑多あるでしょうが、それは各人がこの方法を手に入れた上で、どう使うかを考えればよいことでしょう。

ただし、以下でその方法にたどり着けるかどうかは、保証できません。

さて、考えるということが現実生活をする上で非常に有効な手段であることは疑いありません。人が生きていく上で、考えずに物事を運ぶことはほとんどありません。また、普通に「何も考えていない」と私達が呼ぶような意識状態下にある場合でも、実際には何か専念しなければならないこととは別のことを考えているという状態であることが、非常に多いように思います。

勿論、全然何も考えていないという状態もまた存在するかもしれません。しかし私たちは何も考えていない状態の自分の考えを想起することは原理的に不可能です。なぜなら何も考えていないのですから。後から考えて、あの時何も考えていなかった、と思うにしても、それが本当に何も考えていなかったのか、あるいは何かぼんやりとでも考え事をしていたのかを判別することは、非常に難しいです。もし何も考えていない状態の残滓があるとすれば、それは「ハッと我に返る」ときだけでしょうが、それも全くの無思考状態から我に返ったのか、それとも別の思考から我に帰る思考にゆきついたのかを判別することは、極めて困難です。

故に、「考えない」ということ自体、それを実際に意識的に実行する(この時点で矛盾が生じます)ことは、不可能です。それは意識的でない形で達成するか、あるいは意識的にしても、「考えないようにする」という形での意識下において達成することはできず、「混濁的」な意識を意識的に発生することによって達成するしかありません。意識的に混濁を引き起こすということが、必ずしも考えないことにつながるとは限りませんが(考えが錯綜した状態に留まる可能性もあります)、もし混濁を発生させるとしたら、それにはどのような方法があるでしょうか。

最も手っ取り早い方法は、考える装置である身体に対して何らかの物理的な刺激を与え、それによって混濁を引き起こすことであろうかと思います。薬物、殴打、その他。これに関しては様々な方法が挙げられるでしょうが、もっとも確実に考えないようにする方法は、死ぬことでしょう。多く世間で考えられているように、肉体が死を迎えると意識が消滅するという科学的見地に立てば、それほどシンプルな方法はありません。

しかし、人間は考えることによって生きており、考えることが我々に大きな効用をもたらすことは、先に述べたとおりですし、多くの方が同意してくださることと思います。また、意識そのものが消滅してしまった場合、考えないということは実現されるかもしれませんが、その効用を享受する意識主体が消滅してしまうので、その効用は空中分解してしまうでしょう。(このことから考えると、考えないことには厳密には主体が必要ない――そもそも考えないということは非存在なのだから当然ですが――という事実が明らかになりますが、それはまた別の話です。)

……

Edit 21:30 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

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今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

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下旬:氷崎光 です。

 

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