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考えるということからの脱却について考える序論


最近日増しに寒くなってまいります。みなさま風邪など引かれませんよう。
さて、12月上旬担当の方がまだ記事をアップされておりませんが、中旬に入ってしまったので先に投稿してしまいます。

今回は考えるということ、それから脱却しうる方法について、考えてみたい所存です。

考えることを脱却する方法を考えることによって得る。この矛盾を前提とした作業がどこまで意義を持ちうるかということは、人によって受け取り方が異なるのではないかと思います。厳密に科学的な方法――そのモデルとして私は数学の証明を思い浮かべるのですが――の場合、前提となる条件に矛盾が生じている場合、そこから導かれる帰結もまた何らかの形で矛盾を抱えたものにならざるを得ないことと思います。証明は無に帰します。

しかしながら、言語によってこの過程を表現した場合、それは全然無であるとは言えません。なぜならそこに一つの進行があるからです。

内的矛盾を抱えていても物事として存在していて、それが他への影響をあたえる限りでは、その存在意義がまったくゼロになるということは考えにくいと思います。例えば神様ということも、あらゆる矛盾した前提から帰結する存在ではありますが、その存在が人々に与える影響は限りなく大きいのですから。

前置きが長くなりましたが、そもそも考えるということを脱却する必要性があるのかどうか、あるいは絶対的な必然性がないとしてもそこに何らかの意義があるのかどうか、それをまずは考えてみたいと思います。

考えることは人間に必要なことです。しかし、考えることによって何か発生するデメリットはあるでしょうか。それは「考え疲れ」です。考えすぎると人は疲れるのです。これは経験的に知られることであって多くの人が同意することでしょうが、必ずしも万人に当てはまることではないでしょう。

しかし、考え疲れからの脱却、これだけでも多くの人に「考えないこと」がもたらす良い効果であることは否定されません。そこで今回は、考え疲れを起こした人を対象に、その方たち向けに考えることを脱する方法を提供できればと思います。考えないことのもたらす効用はこれ以外にも種種雑多あるでしょうが、それは各人がこの方法を手に入れた上で、どう使うかを考えればよいことでしょう。

ただし、以下でその方法にたどり着けるかどうかは、保証できません。

さて、考えるということが現実生活をする上で非常に有効な手段であることは疑いありません。人が生きていく上で、考えずに物事を運ぶことはほとんどありません。また、普通に「何も考えていない」と私達が呼ぶような意識状態下にある場合でも、実際には何か専念しなければならないこととは別のことを考えているという状態であることが、非常に多いように思います。

勿論、全然何も考えていないという状態もまた存在するかもしれません。しかし私たちは何も考えていない状態の自分の考えを想起することは原理的に不可能です。なぜなら何も考えていないのですから。後から考えて、あの時何も考えていなかった、と思うにしても、それが本当に何も考えていなかったのか、あるいは何かぼんやりとでも考え事をしていたのかを判別することは、非常に難しいです。もし何も考えていない状態の残滓があるとすれば、それは「ハッと我に返る」ときだけでしょうが、それも全くの無思考状態から我に返ったのか、それとも別の思考から我に帰る思考にゆきついたのかを判別することは、極めて困難です。

故に、「考えない」ということ自体、それを実際に意識的に実行する(この時点で矛盾が生じます)ことは、不可能です。それは意識的でない形で達成するか、あるいは意識的にしても、「考えないようにする」という形での意識下において達成することはできず、「混濁的」な意識を意識的に発生することによって達成するしかありません。意識的に混濁を引き起こすということが、必ずしも考えないことにつながるとは限りませんが(考えが錯綜した状態に留まる可能性もあります)、もし混濁を発生させるとしたら、それにはどのような方法があるでしょうか。

最も手っ取り早い方法は、考える装置である身体に対して何らかの物理的な刺激を与え、それによって混濁を引き起こすことであろうかと思います。薬物、殴打、その他。これに関しては様々な方法が挙げられるでしょうが、もっとも確実に考えないようにする方法は、死ぬことでしょう。多く世間で考えられているように、肉体が死を迎えると意識が消滅するという科学的見地に立てば、それほどシンプルな方法はありません。

しかし、人間は考えることによって生きており、考えることが我々に大きな効用をもたらすことは、先に述べたとおりですし、多くの方が同意してくださることと思います。また、意識そのものが消滅してしまった場合、考えないということは実現されるかもしれませんが、その効用を享受する意識主体が消滅してしまうので、その効用は空中分解してしまうでしょう。(このことから考えると、考えないことには厳密には主体が必要ない――そもそも考えないということは非存在なのだから当然ですが――という事実が明らかになりますが、それはまた別の話です。)

……

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