キャンプについて
8月中旬担当の入ヶ岳です。今回は、表題の通りキャンプについてお話したいと思います。
創作論、絵の話、今書こうとしている小説の方向性……そういったことを話すのも勿論良いのですが、たまには創作以外のことを語るのも良いかと考えました。創作については後半に書きます。
さて、一週間ほど前のことですが、私は人生で初めて、何人かで集まって能動的にキャンプを行うという体験をしました。自分達でキャンプ場を予約し、準備をして、器具をレンタルし、火起こしをして肉を焼く。これが大変に楽しいものでした。
常日頃から時折、早朝にふらりと家を出ては、数時間歩き続けて隣県に出るようなアウトドアぶりを見せる私ですが(ドアからアウトしているだけとも言います)、今まで「野外で泊まる」という発想には至ってきませんでした。岐阜や長野に行きたい、奈良の奥に行きたいといった願望は抱いていたのですが、どうにも計画が固まらず、旅が実行に移されることは無かったのです。自分が本当にしたいことは何なのか、掴みかねていたということなのでしょう。それが今回のキャンプではっきりしました。
私が求めていたものは、恐らく創作世界的な非日常の体現だったのです。
止まること無く回り続ける日常という歯車に巻き込まれることを避け、自らの社会の影響外まで脱出してしまうこと。まあ、単に羽休めですとか、そのように言い換えることも出来るかもしれません。そこで真に必要なのは歩くことではなく、誰にも邪魔されない場所で、自分の意思のままに行動することなのでしょう。キャンプというのは、非日常体験の場としてはうってつけです。
というわけで、私は一気にキャンプにはまります。先週のキャンプ時にいくつかのキャンプ用品を購入、帰宅後も某登山用品店等で必要なものを揃え始めました。直前に『ゆるキャン△』を視聴していたこともあり、アニメに登場したキャンプ用品もいくつか購入し、無事創作世界に自らを投影することが出来ました(突然ですが私は志摩リンです)。実を言うと、明日にも一通りのものが揃うので、早速キャンプに出かけようと考えております。夏が終わる前に。
ここまで私のキャンプ事情についてお話しましたが、このような個人的なことを綴った理由の一つとして、私が飽き性であることが挙げられます。
私は今、キャンプがしたい。たまらなくしたくて、こうして装備まで揃えたにも関わらず、時間と共に私という人間は、キャンプに飽きてしまうかもしれないのです。非日常を求めた結果であるキャンプが日常となってしまった時、それでも私はキャンプをしたいと思えるのでしょうか。分かりません。ただ私は、自分が「キャンプが好きだ」という想いを失ってしまう可能性を思うと、寂しく、そして恐ろしいのです。
ですから、こうして文章に遺します。記録された自分の想いは、その瞬間のままいつまでも遺り続けるのですから。例えば、私は小学校時代から小説を書いてきましたが、過去の作品は出来る限り残しておいています。黒歴史等とよく言われますが、そして実際それらは今の自分から見ても酷い出来ですが、過去の私はその文章の中に居るのです。私はそれを読んで、過去に思いを馳せることが出来るでしょうし、当時の考え方、感じ方を今の自分へと活かすことが出来るかもしれません。加えて、私の書いた作品を誰かが読んだとして、何かを感じたとしたら、それはどれほど素晴らしいことでしょう。過去の私は今の世界での小さな波紋となり、キャンプが好きだという想いも、一種永遠のものとなるのです。
何やら脱線してしまいました。要は、今の感情を書き遺すことで、後から思い出として楽しめるし、今の感情はその瞬間の真実として生き続けると、そういう話です。
今回書いたことは総じて私の内側へ向いたものとなってしまい、チラシの裏じみています。しかし、私の頭の中のチラシをこうした場で少しだけお見せするというのも、悪くないかと考え、深夜に一気に綴っております。朝になった時の私は、この文章をどう感じるのでしょうか。分かりません。
ただ分かることは、私が今非常にキャンプに行きたいということです。まだ見ぬキャンプ場で私が何をするのか、想像するだに楽しい。明後日には昨日になっている明日は、今日の私にとってたまらなく面白い未知なのです。そんなわけで、今のところ私は愉快に生きておりますと、そういうお話でした。
創作論、絵の話、今書こうとしている小説の方向性……そういったことを話すのも勿論良いのですが、たまには創作以外のことを語るのも良いかと考えました。創作については後半に書きます。
さて、一週間ほど前のことですが、私は人生で初めて、何人かで集まって能動的にキャンプを行うという体験をしました。自分達でキャンプ場を予約し、準備をして、器具をレンタルし、火起こしをして肉を焼く。これが大変に楽しいものでした。
常日頃から時折、早朝にふらりと家を出ては、数時間歩き続けて隣県に出るようなアウトドアぶりを見せる私ですが(ドアからアウトしているだけとも言います)、今まで「野外で泊まる」という発想には至ってきませんでした。岐阜や長野に行きたい、奈良の奥に行きたいといった願望は抱いていたのですが、どうにも計画が固まらず、旅が実行に移されることは無かったのです。自分が本当にしたいことは何なのか、掴みかねていたということなのでしょう。それが今回のキャンプではっきりしました。
私が求めていたものは、恐らく創作世界的な非日常の体現だったのです。
止まること無く回り続ける日常という歯車に巻き込まれることを避け、自らの社会の影響外まで脱出してしまうこと。まあ、単に羽休めですとか、そのように言い換えることも出来るかもしれません。そこで真に必要なのは歩くことではなく、誰にも邪魔されない場所で、自分の意思のままに行動することなのでしょう。キャンプというのは、非日常体験の場としてはうってつけです。
というわけで、私は一気にキャンプにはまります。先週のキャンプ時にいくつかのキャンプ用品を購入、帰宅後も某登山用品店等で必要なものを揃え始めました。直前に『ゆるキャン△』を視聴していたこともあり、アニメに登場したキャンプ用品もいくつか購入し、無事創作世界に自らを投影することが出来ました(突然ですが私は志摩リンです)。実を言うと、明日にも一通りのものが揃うので、早速キャンプに出かけようと考えております。夏が終わる前に。
ここまで私のキャンプ事情についてお話しましたが、このような個人的なことを綴った理由の一つとして、私が飽き性であることが挙げられます。
私は今、キャンプがしたい。たまらなくしたくて、こうして装備まで揃えたにも関わらず、時間と共に私という人間は、キャンプに飽きてしまうかもしれないのです。非日常を求めた結果であるキャンプが日常となってしまった時、それでも私はキャンプをしたいと思えるのでしょうか。分かりません。ただ私は、自分が「キャンプが好きだ」という想いを失ってしまう可能性を思うと、寂しく、そして恐ろしいのです。
ですから、こうして文章に遺します。記録された自分の想いは、その瞬間のままいつまでも遺り続けるのですから。例えば、私は小学校時代から小説を書いてきましたが、過去の作品は出来る限り残しておいています。黒歴史等とよく言われますが、そして実際それらは今の自分から見ても酷い出来ですが、過去の私はその文章の中に居るのです。私はそれを読んで、過去に思いを馳せることが出来るでしょうし、当時の考え方、感じ方を今の自分へと活かすことが出来るかもしれません。加えて、私の書いた作品を誰かが読んだとして、何かを感じたとしたら、それはどれほど素晴らしいことでしょう。過去の私は今の世界での小さな波紋となり、キャンプが好きだという想いも、一種永遠のものとなるのです。
何やら脱線してしまいました。要は、今の感情を書き遺すことで、後から思い出として楽しめるし、今の感情はその瞬間の真実として生き続けると、そういう話です。
今回書いたことは総じて私の内側へ向いたものとなってしまい、チラシの裏じみています。しかし、私の頭の中のチラシをこうした場で少しだけお見せするというのも、悪くないかと考え、深夜に一気に綴っております。朝になった時の私は、この文章をどう感じるのでしょうか。分かりません。
ただ分かることは、私が今非常にキャンプに行きたいということです。まだ見ぬキャンプ場で私が何をするのか、想像するだに楽しい。明後日には昨日になっている明日は、今日の私にとってたまらなく面白い未知なのです。そんなわけで、今のところ私は愉快に生きておりますと、そういうお話でした。
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