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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2019-02

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権力は私物ではありません

 エッセイのネタになりそうなできごとを書きます。
 最近、妙な掲示を見ました。
 ある日、ホームセンターに行くと、「当店ご利用の方以外が駐車された場合、警察に通報します。」とありました。確かに、店を利用しないのに店の駐車場を使うことはよくないでしょう。ですが、それは犯罪ではありません。もし予防したいのなら、「罰金を科します」とだけ書けば十分です。別に武器を持った人が違法駐車するわけではないのですから、違法駐車に対して警察を使うのはおおげさです。
 また、あるマンションの駐輪場には、「当マンション居住者以外が駐車した場合、警察に通報します。」とありました。確かに、マンションの防犯は大切ですし、人の家の駐輪場に停めるのはよくないことです。ですが、もっと重大な犯罪宗さに追われている警察の方を、このような小さなことで呼び出すのは、ご迷惑でしょう。警察にお手間を取らせることなく、自分たちで解決をすべきことではないかと私は考えます。
 それから、あるお店の前に、不法投棄がなされていました。その後、その店のシャッターに「防犯カメラに映っています。名乗り出ない場合は、警察に通報します。」と書いた掲示が貼られました。確かに、警察の威力をもってしなければ名乗り出ないでしょうし、不法投棄は立派な犯罪です。ですが、やはりこれが警察の出動を必要とするような事件だとは思えません。
 さらに、ある小学校では、ウサギ小屋の屋上にはしごをかけて登ろうとする児童に対し、「がっこうのたてものは、がっこうのものです。のぼったら、おまわりさんをよびます。」と書いた掲示が設けられたそうです。確かに、建造物違法進入にあたるかもしれませんし、そもそも子どもには危ないです。ですが、それなら、「警察を呼びます」と書かずに、初めから「あぶないからやめなさい」と書けばよい話です。
 このように、警察を呼ぶと脅して軽い違反を予防しようとする掲示が最近目につきます。これは、2点において間違っていると私は考えます。
 1点目に、そもそも警察は、重大事件(殺人、窃盗、暴行など)を犯した人物をとりしまる人です。国家権力として武器の使用も許されているのは、民間では解決できな問題を、武力をも用いて解決するためです。(例えば、武器を持った強盗は、自分たちではどうにもできないので、警察を呼んで捕まえてもらいます。)もし警察の方が、小さなことで忙しくなったら、重大な事件をとりしまることができなくなり、共同体の迷惑になります。(協調性のかけらもない私が言うのもなんですが)たとえ、脅しだとしてもむやみに警察に頼り、共同体全体の安全を顧みない利己的な態度が、「~したら警察を呼びます」という言葉の奥に潜むように思います。
 2点目に、もし、同じ地域に住む人の誰かが国家権力の行使を常にほのめかしているとしたら、われわれは安心してつきあえません。「何かあったらこの人は警察を呼んで解決しようとする、トラの威を借るキツネだ。」「われわれのことを、犯罪者扱いしようとしているのか。」と思うばかりです。自分たちのことは、できるだけ自分たちで解決しないと、円滑なつきあいも難しくなります。
 この2点から、「~したら警察を呼びます」という掲示は、権力をむやみに使おうとする利己的・高圧的な態度ではないかと私は恐れます。(おそらく考えすぎ)そもそも、警察が国家の公共機関であることを忘れて、自分の私物であるかのようにむやみに呼ぶのは、(あるいは呼ぶとほのめかすのは)権力の私物化と言ってもよいでしょう。まずは自分たちの問題を自分たちでなるべく解決することが、「自由」、「対話」、「グローバル」などと唱える前に必要です。

それにしても、ただの掲示にここまでかみつく私は考え過ぎなのでしょうか。病んではいないのでご安心ください。

Edit 12:32 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

美しい地の文を目指して

 こんにちは、入ヶ岳です。今回は、小説を書くに当たって気をつけたいと思っていることの一つ、地の文についてお話してみたいと思います。
 地の文というものに関しまして予め定義しておきますが、これは小説を構成する要素の一つです。小説の構成というと、例えば起承転結の流れであったり、プロローグと本文、エピローグといった物語の仕組みについて考えることも出来るのですが、ここでの構成というのはもっと形式的なもので、キャラクターが実際に話す「会話文」と、それに対しての「地の文」を考えるものです。
 地の文は、言葉にならない感情や風景、状況を表す部分であり、小説にとって非常に重要なものです(会話文だけの小説というのも少なからず存在しますが、今はそれらの作品のことは考えないことにします)。
 さて、私はこの地の文について、ある悩みを抱えています。それは直球も直球、「地の文がうまく書けない!」というものです。
 思うに、地の文には役割が多過ぎるのです。状況の説明に風景描写、登場人物の感情描写等々。それらをバランス良く、かつ読者に読みづらさを感じさせないように整列させるというのは、実際かなり困難な作業です。少なくとも私にとっては。
 このことについて強く悩み始めたのは、本格的に小説を書き始めてから、つまり、大学に入ってからのことです。地の文はただの状況説明ではありません。単なるナレーションでも無ければ、一人称人物の感想文を垂れ流す部分でも無いのです。それがほんの少しであれ頭で理解できてきたが故に、私は悩むのです。これは、ひょっとしたら良い変化であると言えるのかもしれません。苦しいですが。文章を書くために「稚拙! 下手くそ!」と自分をなじっていますが。深夜に書いた文章を朝になって確認した時等は、一瞥するなり奇声を上げてDeleteキーを押すこととなるわけです。原稿を深夜に書くのはやめましょう。
 先日、拙作をサークル内で発表する機会がありました。そこで痛感したのは、いくら作者が設定を内心で練っていたとしても、それが文章内でうまく表現できていなければ何も無いのと同じ、ということです。物語の真相、登場人物の隠された内心等を、読んで判る形、少なくとも「何かある」と匂わせることをしなければ、読者は何も気付かずに作品を通り過ぎています。私の書いた作品が、暴き出す価値のあるような内容になっているか、というのは今後の課題でもありますが、少なくとも、伝えたい内容があるなら、伝わるように書くのは作者である私の義務なのではないかと考えています。勿論、万人に作品内容が正確に伝わることは有り得ませんし、私自身それを目指しているわけではありませんが、「こんな人に楽しんでもらいたい」というターゲットがあるならば、そのターゲットが読み解けるような文章にしなければ意味が無いのです。
 伝えたい内容を、伝わる程度の隠し方で文章に混ぜ込む……その手段は例えば比喩表現であったり、情景描写であったりするわけです。私の頭の中の物語を、どうやって自然に文章へ出力するか。難しい問題です。私はずっと悩んでいます。問題解決の一助にならないかと、作品を読んだり、逆に小説を書いてみたりしている日々です。試行錯誤の末に答えがあるのかはまだ分かりませんが、こんな苦悩をもどこかで楽しく感じている自分が居て、やはりどうにも小説書きというのはやめられそうにないと、そう思ってしまうわけです。

Edit 03:04 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

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