「慰霊や鎮魂を営むということに関する雑感」
ごきげんよう。8月中旬担当のゆっくりと申します。今回は、最近ちょっとだけ思ってみたことを、文章にしてみました。読み辛かろうとは存じますが、お許しください。ではでは、お付き合い下されば幸いです☆
本邦に生を享けて、この時期ほど、《一般的な》「慰霊」とか、「鎮魂」とか、そのような事を意識せざるを得ない時期も中々になかろう。テレビニュースなどの媒体では、我々はかかる営みの殆どを眼前にすることができる。その中で、短歌、俳句を含む文学営為をもまま目にする。
ところで、このようなムードや営みは、何も現代に生きる我々の専売特許であった訳でもない。当然だが、武力を用いた闘争は、死者を伴う。これは、神武東征、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の内乱、南北朝の動乱などを例に挙げるまでもなく、あらゆる武力衝突の最中には死者が生じ、その時々の信仰の形式と様式に従ってその魂が鎮められてきたのである。
ここで、筆者が長年疑問としていたある定式がある。それは、《文学=鎮魂》と呼ばれる定式である。元々、民俗学や宗教史において語られていた人々の信仰の發露としての様式は、なんだか社会科学の定式のような――そう、非常に高度に学問的に純化された――香りさえする。言うまでもなく、様式はそれまでの営みから掬いあげられるものに過ぎない。このような疑問を持ちつつ――疑問、というより、この高度な定式のあまりの純度の高さに、行為主体としての自覚がどこか《ふわふわ》としていて――茫漠と過ごしていたのだが、ここ最近、佐伯真一氏のご論考[1]を拝読するにつけ、つらつらと雑考を胸中に膿むに至りて、恥ずかしげもなく開陳するものである。
佐伯氏に、『平家物語』を題材として、生者が死者を鎮魂・慰霊する[2]ことに関する考察がある。各論についてはご紹介する能力がないのは全く無念なことであるが、すなわち、生者から死者に向けられる言葉は、一様に怨霊を讃えるばかりでなく、説得、威圧などの様々な作用を持つ。という説である。
また、兵藤裕己氏の以下のようなご論考[3]も、大変魅力的である。すなわち、霊は《ヨリマシ》=語り手に憑依し、《モノ語り》をさせる。という所論である。俳句や短歌において、作中主体が死者である場合には、この類型が該当しよう。
『平家物語』の時代には、神道、儒教、仏教、道教などが混淆の様を呈しているのは明らかであろう。
十把一絡げに慰霊や鎮魂といっても、様々な様式や形式が、800年前から人々の信仰に在ったということが確認できればよい。『平家物語』に関する論考を選んだ行論上の必然性はない。ただ単に、筆者の専攻に近かった。それだけである。
かかる諸論を念頭に、我々はどのように我々の慰霊を自覚して行為すればよいのだろう。重要なことは、曖昧模糊とした手続きを一個包装とせずに、自らのどのような営みが、霊や個人へのどのような想いや祈りと、どのような様式や形式において連関し、どのように遂行可能なのか…について、《割と》真剣に考えてみることであろう。
信仰や想いと、様式や形式と…どちらが先行するかと問われると、「相互補完」…という、これまた逃げの一手を打つしかない。ただし、緩やかに相互規定をしているのだから、信仰と理性的手続きとは、互いに規定し、荘厳し合う。
叙上の様な想い遣りを踏まえて、今季も私は招魂復魄に従事し、先祖のお寺に参る。「礼と云い、礼と云う。玉帛を云わんや」(『論語』陽貨篇)ではないが、血の通った儀礼を営まなければならない。なにより、都会生活でボロボロになった自己規定のために。そう、これらの営みも、結局は現世と常世の関係から語られることを逃れられない。そして、私の未熟な精神は、前者を重視する。現在の私のお盆の形態など、頽廃しきったものである。だからこそ、自己規定なりの儀礼を全うすることで、自己規定は達成されねばならない…[4]
以上、愚にもつかない雑感を述べてしまった。「『平家物語』と、お前のしょーもない考えと、必然性を寄越せ!」と問われると、申し訳の仕様もない。
ただ、自らが行っている様々な宗教的行為をもう一度分析してみると、その多様さと雑駁さ、無秩序さとに驚かされる。『平家物語』の時代の人々も、きっと、多様な信仰を持っていたのだ。更に言い訳をすると、本稿は元々、中世人の鎮魂・慰霊に現代人が如何に寄り添うか、そのパラレルさにシンクロしたいという欲求の、遠く昔からの《応答》を、21世紀にどのように現出せしめるか、であったのだが、水は低きに流れ、素より能力も何もなく。あまり人の悪口〈あっこう〉も書きたくないし…
800~900年前の人々の想いに寄り添うには、理性(お勉強)が足りませぬ[5]。向後の課題と致しとうございまする。
末筆となりましたが、拙文掲載の機会をお与え下さった関係各位に、そしてお付き合いくださった皆様に、篤く御礼を申し上げます。
それでは、猛暑の砌、お身体をお労り下さいませ。恐々謹言。
[1]佐伯真一氏「『平家物語』と鎮魂」(鈴木彰氏・三澤裕子氏編『いくさと物語の中世』汲古書院2015年に所収)
[2]「鎮魂」や「慰霊」の語義は時代によって推移するという点に関しては、坂本要氏「「鎮魂」語の近代――「鎮魂」語疑義考 その1――」(『比較民俗研究』第25号、2011年)を参照。いかなる言葉も、そのフレームから逃れ得るものではないが、本稿では「生者が死者に対して祈る種々の営み。」という程の意味で用いる。
[3]兵藤裕己氏『平家物語の読み方』筑摩書房2011年(初版は『平家物語〈語り〉のテクスト』筑摩書房1998年)
[4]「葬送・追善を行うことが権力継承を示す〈政治〉たることはいつの時代も同じである。」(上島享氏「法勝寺創建の歴史的意義」(『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会2010年、初出は2006年、492頁)を読んだ時、身体を貫いた感動をまだ覚えている。
[5]いうまでもなく、文学は文化諸階層の精華であり、それら集中的反映と凝縮である。世阿弥を論ずるまでもなく、理性が大部分を占めるのは全く当然のことであって、「事物を言祝ぐ力を既に失っているのではないか」と思わせるような営為とそれらを珍重する風潮には、差し当たり抗っておきたい。
本邦に生を享けて、この時期ほど、《一般的な》「慰霊」とか、「鎮魂」とか、そのような事を意識せざるを得ない時期も中々になかろう。テレビニュースなどの媒体では、我々はかかる営みの殆どを眼前にすることができる。その中で、短歌、俳句を含む文学営為をもまま目にする。
ところで、このようなムードや営みは、何も現代に生きる我々の専売特許であった訳でもない。当然だが、武力を用いた闘争は、死者を伴う。これは、神武東征、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の内乱、南北朝の動乱などを例に挙げるまでもなく、あらゆる武力衝突の最中には死者が生じ、その時々の信仰の形式と様式に従ってその魂が鎮められてきたのである。
ここで、筆者が長年疑問としていたある定式がある。それは、《文学=鎮魂》と呼ばれる定式である。元々、民俗学や宗教史において語られていた人々の信仰の發露としての様式は、なんだか社会科学の定式のような――そう、非常に高度に学問的に純化された――香りさえする。言うまでもなく、様式はそれまでの営みから掬いあげられるものに過ぎない。このような疑問を持ちつつ――疑問、というより、この高度な定式のあまりの純度の高さに、行為主体としての自覚がどこか《ふわふわ》としていて――茫漠と過ごしていたのだが、ここ最近、佐伯真一氏のご論考[1]を拝読するにつけ、つらつらと雑考を胸中に膿むに至りて、恥ずかしげもなく開陳するものである。
佐伯氏に、『平家物語』を題材として、生者が死者を鎮魂・慰霊する[2]ことに関する考察がある。各論についてはご紹介する能力がないのは全く無念なことであるが、すなわち、生者から死者に向けられる言葉は、一様に怨霊を讃えるばかりでなく、説得、威圧などの様々な作用を持つ。という説である。
また、兵藤裕己氏の以下のようなご論考[3]も、大変魅力的である。すなわち、霊は《ヨリマシ》=語り手に憑依し、《モノ語り》をさせる。という所論である。俳句や短歌において、作中主体が死者である場合には、この類型が該当しよう。
『平家物語』の時代には、神道、儒教、仏教、道教などが混淆の様を呈しているのは明らかであろう。
十把一絡げに慰霊や鎮魂といっても、様々な様式や形式が、800年前から人々の信仰に在ったということが確認できればよい。『平家物語』に関する論考を選んだ行論上の必然性はない。ただ単に、筆者の専攻に近かった。それだけである。
かかる諸論を念頭に、我々はどのように我々の慰霊を自覚して行為すればよいのだろう。重要なことは、曖昧模糊とした手続きを一個包装とせずに、自らのどのような営みが、霊や個人へのどのような想いや祈りと、どのような様式や形式において連関し、どのように遂行可能なのか…について、《割と》真剣に考えてみることであろう。
信仰や想いと、様式や形式と…どちらが先行するかと問われると、「相互補完」…という、これまた逃げの一手を打つしかない。ただし、緩やかに相互規定をしているのだから、信仰と理性的手続きとは、互いに規定し、荘厳し合う。
叙上の様な想い遣りを踏まえて、今季も私は招魂復魄に従事し、先祖のお寺に参る。「礼と云い、礼と云う。玉帛を云わんや」(『論語』陽貨篇)ではないが、血の通った儀礼を営まなければならない。なにより、都会生活でボロボロになった自己規定のために。そう、これらの営みも、結局は現世と常世の関係から語られることを逃れられない。そして、私の未熟な精神は、前者を重視する。現在の私のお盆の形態など、頽廃しきったものである。だからこそ、自己規定なりの儀礼を全うすることで、自己規定は達成されねばならない…[4]
以上、愚にもつかない雑感を述べてしまった。「『平家物語』と、お前のしょーもない考えと、必然性を寄越せ!」と問われると、申し訳の仕様もない。
ただ、自らが行っている様々な宗教的行為をもう一度分析してみると、その多様さと雑駁さ、無秩序さとに驚かされる。『平家物語』の時代の人々も、きっと、多様な信仰を持っていたのだ。更に言い訳をすると、本稿は元々、中世人の鎮魂・慰霊に現代人が如何に寄り添うか、そのパラレルさにシンクロしたいという欲求の、遠く昔からの《応答》を、21世紀にどのように現出せしめるか、であったのだが、水は低きに流れ、素より能力も何もなく。あまり人の悪口〈あっこう〉も書きたくないし…
800~900年前の人々の想いに寄り添うには、理性(お勉強)が足りませぬ[5]。向後の課題と致しとうございまする。
末筆となりましたが、拙文掲載の機会をお与え下さった関係各位に、そしてお付き合いくださった皆様に、篤く御礼を申し上げます。
それでは、猛暑の砌、お身体をお労り下さいませ。恐々謹言。
[1]佐伯真一氏「『平家物語』と鎮魂」(鈴木彰氏・三澤裕子氏編『いくさと物語の中世』汲古書院2015年に所収)
[2]「鎮魂」や「慰霊」の語義は時代によって推移するという点に関しては、坂本要氏「「鎮魂」語の近代――「鎮魂」語疑義考 その1――」(『比較民俗研究』第25号、2011年)を参照。いかなる言葉も、そのフレームから逃れ得るものではないが、本稿では「生者が死者に対して祈る種々の営み。」という程の意味で用いる。
[3]兵藤裕己氏『平家物語の読み方』筑摩書房2011年(初版は『平家物語〈語り〉のテクスト』筑摩書房1998年)
[4]「葬送・追善を行うことが権力継承を示す〈政治〉たることはいつの時代も同じである。」(上島享氏「法勝寺創建の歴史的意義」(『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会2010年、初出は2006年、492頁)を読んだ時、身体を貫いた感動をまだ覚えている。
[5]いうまでもなく、文学は文化諸階層の精華であり、それら集中的反映と凝縮である。世阿弥を論ずるまでもなく、理性が大部分を占めるのは全く当然のことであって、「事物を言祝ぐ力を既に失っているのではないか」と思わせるような営為とそれらを珍重する風潮には、差し当たり抗っておきたい。
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