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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2019-10

気になっている言葉⑤

 こんにちは、10月下旬担当の葱です。今回も気になる言葉について書きます。
➀ 豚汁
 とんじると読むのか、ぶたじると読むのか、人によってさまざまです。地域的な差なのか、年齢の差なのか、どちらなのでしょう。ちなみに、三重県西部ではぶたじると読み、じるにアクセントがあります。

②ボーっと生きてんじゃねえよ
 チコちゃんよ、先の見えない大学生にそのセリフは傷つくから、やめてくれ。

③超絶
 語源は何でしょうか。何かの省略か、絶対に超をつけただけなのか、気になります。

④我が国
 何か違和感を覚えます。自分が生きていない大和政権や縄文時代の列島を、我が国と言う気にはどうしてもなれません。

⑤刺さる
 琴線に触れるという意味で刺さるという言葉を使う人がいます。例えば、「逃げ恥のあのセリフが刺さった」のように。しかし、昔は刺さる、というのは傷ついたという意味でした。いつから感動した、の意味が加わったのでしょうか。

⑥先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ
 〇戸黄門でしばしば言われるセリフです。まず、副将軍という地位は存在しません。また、あらせられるぞ、よりいらっしゃるぞ、と言う方が自然だと思われます。

⑦理解できない
 理解するつもりもないのに、初めから理解できないを連発してはいけません。私も反省しております。

⑧家庭的
 人によって家庭のイメージは人それぞれですが、家庭的という形容詞はいったい何を意味するのでしょうか。

⑨祝令和
 元号が変わっても、我々が怠けていたら新しい時代などやってきません。変に盛り上がらずに仕事をしましょう。

 こんなに小さなことにかみつく私は、どうかしているのでしょうか。健康そのものですからご安心ください。

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「題を求めて失恋を詠ずるということ」

みなさま、ごきげんよう。10月中旬担当のゆっくりです。今回も、普段おぼろげながら脳裡に彷徨う由無し事を書きつける機会を賜りました。お付き合い下されば幸いです。
取り留めも内容も無い文章ですので、意図していることを【要旨】して冒頭に掲げました。
思量されることはここに尽きていると思います。

【要旨】
 失恋歌を、過去の文学作品を通じて自ら概念化し再構成して詠じてみせる営みは、我々世界史の根底に流れる普遍的な感情に接触し、その歴史的連関の中に自己を揺蕩わせる営為である。迸る激情は、その中で理性と融和し、調和され、慰撫される。

1、はじめに
 少年時代、私が短詩型文学に仄かに憧れを抱いたのは、何故だろうか。それは、決して感情の発露を留めるだとか、誰かに想いを伝達する…といったものではなかった。
 『伊勢物語』の在原業平や、『源氏物語』の光源氏(実を言うとその息夕霧をより好んでいたのだが)のような、あるいは、騎士道物語の中の中世騎士、あるいは中国の士大夫…あのような世界への憧憬によるものだったのかも知れない。いわゆる芸術用語で言うところのミメーシスというやつで、私の作る俳句なり短歌には、大抵の場合、その背後には宇治川や、カンタベリー大聖堂の香りが燻っていた。
 学部、大学院と、幾つかの文学的なサークルを渡り歩いてきたが、あまり馴染めなかった。科学としての実証文学の洗礼を本格的な文学経験に先行して受けてしまったからであろうと推察できよう。なればこそ、訓詁の道を直走る…理性に固まってしまった私の文学経験の中で、本サークル共同体が紡ぐ短歌や、詩、小説などに巡り合えたことは、私がもう一度、創作主体の土俵に導かれる契機となった。我々によくよく諒解されるように、作品の等身大の作者を日常に知る時、作者が死ぬことはない。なんとなれば、解釈性を問題とした場合、表現と理解の場がそれなりになだらかであれば、表現内容に潜む言葉の意図が、主体の過程中に関与しているからである。それは、もしかすると文体論への入り口かもしれない。いつぶりだろう、感情を短歌に乗せる…といった営為に私を引き戻すには十分なエネルギーを産んだように思う。ご交誼に改めて感謝申し上げたい。

2、ハウ・ツー失恋歌
 枕が長くなってしまった。さて、本稿に与えられた課題は、失恋歌の私的ハウ・ツーに関して何をかをものすことである。要するに、感情の発露を、題(枠)に載せる試みに、如上両者は統合される。
 我々の詠物詠賦の創作動機として、以下の二点を挙げることが出来る。
①感銘的な景物について、その感動を文字の内に封ずる営み。
②劇的に内に湧いてくる感情を、言葉や文字にして外へと出す営み。
今回、話題となるのは②である。
自らに劇的に湧いてくる感情、試みに、失恋を例に取ろう。大抵の場合、失恋の病は複合的で、感受性は限界まで高まる。何を知覚しても、内なるカウンターと反応せざるを得ない。そして、その反応は激烈な苦痛を副産物とする。
この、エネルギーを、創作へと昇華させようというのが、今回の題目である。
その、過程について、以下に卑見を弄する。
(イ)好きな文学主体に成りきる。これは、平安貴族でも、共和政ローマの政治家でも、アラビアンナイトの夢と魔法のファンタジー、中世騎士でもよろしい。個人的に、近代以降にはロマンを(あまり)感じないので、中世までくらいが穏当だろう
(ロ)図書館に行って、その人の著作を渉猟する。「これだ!私の思っていることは!」と思ったら、キレイにB6カードに取る。まだ見ぬ芸術作品の構成要素を製作するつもりで。たおやかに。
(ハ)そこで、その作品の底に流れる感情に触れる。これこそ、悠久の歴史の中で今の自分の琴線に触れる「言葉」なのだ。形式を異にすれど、脈々と流れて来たもの。それは、個別具体の形をしていても、その心に抱いた感情と反応して、我々の前に姿を現す。それを知るための、博捜なのだった。
(ニ)ここからは、もう正直に詠ずるだけなのだが、せっかくなので、全く同じテーマにせず、少しオマージュしてみる。要するに、取っ掛かり、横溢する感情の入れ物を用意してみるのである。
(ホ)データベースなどで、その取っ掛かり周辺の語彙を調べてみる。何やら、今度は実体レベルで琴線に触れる歌がある…
ここまで決まってしまえば、他の言葉は好きなように詠めばいい。
何が大事かというと、語の意味作用を用いて、論理的に世界を眼前に再構成してみせることなのだ。この時、解体される分脈とそうでない分脈が弁別されれば、しめたものだ。それらの架け橋を発明することが眼目であると言い換えてもよいからである。

3、むすびにかえて
この行為の薬効は、ほとばしる感情を、一度、理性と融和させることが出来る点に存する。
一度お気に入りの人物の気持ちを自分で追体験し、名だたる英雄が、「なぁ、(貴方の名前である!)、貴方ねぇ、それはね、生きてる限り、みんなそうなんだヨ。」と語りかけて来る。それをもう一度、ほどく段階。感情を、言葉で発言させようとする段階において、フリードリヒ・シラーの『人間の美的教育について』の言を借りれば、感性衝動と理性衝動との融和が果たされ、調和の取れた《遊戯》に至る…ということだろう。この時人間は、完全で(ギリシャの神々のような)自由な存在となるのだという。
 時枝誠記氏的に重ねて言えば、以下の言辞を借りることで足れりと為せよう。
  概念化と云ふことは、一切の事實を客観化することであって、たとへ自己の感情情緒をも、この過程によって客観化され對象化される。従つて、「悲し」と云ふ語は、自己の切實な悲哀感情を表し得ることは勿論、自己の過去の經験即ち表象的な悲哀感も、又他人の悲哀感をも概念化することによって表出し得る。
                                                  (時枝誠記『言語本質論』岩波書店1983年)
この通時的な、営み、「この生は普遍に向けての陶冶過程である」などという新人文主義的な――なればこそ彼らはギリシャ・ローマへの回顧に腐心したのかもしれない――歴史的連関の中に身をたゆたわせた時、中世ロマンス騎士道や、『源氏物語』の登場人物は、次にどのような人に出会うのだろう。己が作品に込められた、誠実さ、崇高さ、高潔さを言祝ぐべき対象を配置する神の意図――と、差し当たり言っておく――は、先に我々が感じた感情の原型と、同じ位相に存する気がしないでもない。
 
 以上である。しょうもない妄想を垂れ流すことをお許しいただいた(お許しいただいていないかも知れない)各位に、そして、これまた妄言にお付き合いいただきましたあなたに!篤く御礼を申し上げます。
 秋冷の砌、何卒お身体をお労り下さいますよう。それでは、恐々謹言。

Edit 16:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

神絵師の利き腕を食べたい

お久しぶりです、のぼるです。
担当じゃないですけど台風で暇なので書きます。


インターネットでは神絵師の利き腕食べるという表現がありまして(あるのか?)、
まあ腕食ったら絵が上手くなるやろみたいな意味ですよね。

しかし現実では神絵師の利き腕は手に入りづらい代物であり、
食べて本当に上手くなったという報告もほぼ見つからず、
デマじゃないかと言われています。


そこでこのブログでは、
神絵師の腕を食べずとも絵が上手くなる方法について書いていきたいと思います。



練習、です。




さっきの前置きいる?

まー、このサークルに入って上達したいという気持ちだけはずっとあって、
どうすれば絵が上手くなるのかを考えてたわけですね。

実際私の絵の上手さをどう評価するかはお任せしますが、(当然自分では下手と思ってます)
一回生の頃よりは上手くなっているので、
どういうことをしていたのかを語ろうと思います。



1 これまでやってきたこと

一~三回生の頃はとりあえず量が足りないと思ってなるべく毎回会誌に作品を出していました。
模写や、ネットに書いてあった練習法を試したりしましたがイマイチ効果が見えず、というか、続きませんでした。
もしあのまま続けることができれば上手くなっていたかもしれませんが、やる気の出ないものはやれないので無意味な議論です。

当初からたくさん描け!と言われてたのもあり、本番こそが練習!みたいなノリで色々描いた気がします。
思うに、筋トレするのにまず最低限の体力いるよね、的なものなのである程度までは好きにたくさん描くのが良いんでしょう。
あと、下手でも完成させろ!とも言われており、これら2つはかなり重要なアドバイスでした。

四回生くらいから真面目に模写したような気がします。
去年は手足が描けないと思ったので、とある漫画作品に出てくる手や足を模写していきました。
長続きはしませんでしたが、一話から数話で出てきたすべての手足のカット(数百?)を模写しました。
漫画はそこそこランダムな角度やポーズの身体の絵が出ており、しかもいくつか似たパターンもあるので、
自分の絵にもすぐに使いやすい良い資料だと思います。

そして今年は、絵柄の調整と身体全体、漫画のコマ割などを練習したかったので、
また別の漫画作品を模写しました、4~5ヶ月は続いてたと思います。
ここ1ヶ月はposemaniacsというサイトで、ランダムなポーズを素早く描く練習と、
ポーズや角度の引き出しを増やすことを意識して練習しています。

と、ここまで長々と語ってしまいましたが、
とにかく重要なことは、

自分が何の目的で(何を上達したくて)練習するかを明確にして描くべきということです。

それがない内はやみくもに量を描いて、何ができて何ができないのかをある程度はっきりさせるまで頑張ろうということです。
↑これが一番たいへんじゃね?と思いますが…


2 練習サイトや参考書について

大学受験時もよくこの手の質問がありましたが、好きにすればいいと思います。
ただ、サイトを見つけたり本を買って満足、というパターンを自分を含めたくさん見てきたのでご注意。
サイトに関しては上で書いた、posemaniacsのランダムポーズ、30秒ドローイングなどを利用します。
本は好きなイラストレーターさんの塗りの本を持っています。

何を練習したいか意識してから見つければ良いと思います。
最近はツイッターやピクシブでも山程ありますし。

個人的には、極論世の中で流行ってるもの存在するものが良い教科書と思っているので、
線画は例えば漫画を模写すれば良いし、塗りも人気ある誰かを真似すれば良いと思います。


3 まとめ

まとめるほど何かを語ってませんが、疲れたので〆です。
本当は3,4もあったけど

神絵師の腕は市場では手に入らない!

何を真似するか意識して練習しよう!

なるべく完成作品をたくさん出そう!

のぼるはポーマニと漫画の模写が最強の練習と思ってる!


以上です、グダッとここらで終わります。やる気と要望があれば続き書くかもです。

Edit 14:26 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:日比谷
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下旬:西桜 です。

 

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