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数学談話 ~無限の大きさを掴む~

11月下旬担当のいとらです。

先日、NF企画本にて、『愛の数式』というタイトルで作品を載せました。数学が好きな少年少女の告白を描いたものなのですが、2ページしかなかったこともあり、数学に触れていない人にとっては、あまりに不親切な内容になってしまいました。
そこで、今回このブログという場をお借りしまして、『愛の数式』を読み解くのに必要な数学的事実を解説することにします。
もちろん、ネタバレにならないようにも、ここでは純粋な数学について述べるにとどめますし、『愛の数式』を読まれない方にも楽しんでいただけるようになっております。

構成としましては、一般の方が苦手とするであろう論理式や数学的な言い回しは極力控え、口語的な表現を意識しました。また、具体例を用いるなど、冗長な部分をあえて多く入れることで、数学書のような堅苦しさを減らし、純粋な読み物として楽しめるように心がけました。そのうえで、数学的な厳密さについては尊重しましたので、数学らしさは残せているかと思います。

今回の内容
・集合の濃度
・可算集合と非可算集合
・カントールの定理と対角線論法

※ここでは、自然数は1以上の整数としています。



まず、集合の濃度と呼ばれるものについて説明する。
集合の大きさを比較するとき、有限集合の場合はその要素の数を考えればいいが、無限集合の場合はそのままだと比較できない。そこで、いったん有限集合について考察しよう。
集合の要素の個数が等しいということは、それぞれのすべての要素に一対一対応がつけられるということである。例えば
集合{0,1,2}と{10,100,1000}の間では
(0→10)、(1→100)、(2→1000)と対応付けることができる。
写像の言葉を使えば、集合AとBの要素の個数が等しいことと、AからBへの全単射が存在することは同値であるということだ。

ここで、写像の言葉を整えておく。
写像とは、ある集合Aの任意の要素を写像先の集合Bのある要素へと写すものである。一般的には、関数に近い(同義とする派閥もある)。具体例を挙げると、
A={0,1,2}
B={2,3,4,5}
としたとき、
f:A→Bを
f(0)=3、f(1)=5、f(2)=3
とすれば、fは写像となる。
一方、
f(0)=3、f(1)=5
だけだと、これは写像ではない。なぜならば、Aの要素である2をどこに写すかがわからないからである。

次に、写像fが単射であるとは、写像元の要素が異なれば、写像先の要素も異なる、ということである。
例えば、上の集合、AからBへの写像では、
f(0)=2、f(1)=3、f(2)=5
とすれば、これは単射である。

写像fが全射であるとは、
写像先のどの要素についても、それに写される写像元の要素がある、ということである。
例えば、BからAへの写像では
f(2)=0、f(3)=1、f(4)=1、f(5)=2
とすれば、これは全射となる。

そして、写像fが全単射であるとは、fが全射でありかつ単射であることを言う。
単射、全射、全単射については、wikipediaの『全単射』のページに載っている図を見れば、イメージが付きやすいだろう。

上の集合の要素の個数の話に戻ろう。
A={0,1,2}からB={10,100,1000}への写像fを
f(0)=10、f(1)=100、f(2)=1000
とすると、fは全単射になる。そして実際、このAとBでは、要素の個数は等しい。
一方、A={0,1,2}、B={2,3,4,5}とすると、AからBへの全単射は、どう頑張っても作れない。つまり、AからBへの全単射は存在しないと言える。そして実際、AとBでは要素の個数が違う。
このように、有限集合の場合、要素の個数が等しいことと、全単射が存在することは同値であることが理解できるだろう。
さて、この話を無限集合にも応用しよう。有限集合では、要素の個数と呼んでいたが、無限集合を含めた集合の場合は、「濃度」という用語を用いる。

<定義>
集合AとBの濃度が等しい ⇔ AからBへの全単射が存在する

ここで、AとBの濃度が等しく、BとCの濃度も等しいならば、AとCの濃度も等しい。
なぜならば、AからBへの全単射をf、BからCへの全単射をgとすると、この2つの合成関数であるg◦fはAからCへの全単射となるからである。

具体例を挙げよう。
1.整数全体の集合と、偶数全体の集合は濃度が等しい。
(証明)
f(n)=2nとおけば、これは整数全体から偶数全体への全単射である。

2.自然数全体の集合と、整数全体の集合は濃度が等しい。
(証明)
f(n)={
-n/2        nが偶数の場合
(n-1)/2      nが奇数の場合
}
とすれば、fは自然数全体から整数全体への全単射となる。

ここで、非常に有用な定理を1つ紹介しよう。

<ベルンシュタインの定理>
集合Aと集合Bについて、AからBへの単射が存在し、またBからAへの単射も存在するとき、AからBへの全単射が存在する。

ここでは、この定理の証明はせずに、実際に使っていくことにする。

3.自然数全体と、2つの自然数の組全体(自然数a,bを使って(a,b)と表せるものの集合)は濃度が等しい。
(証明)
f(n)=(n,1)を自然数全体から2つの自然数の組全体への写像とすると、fは単射である。
一方、2つの自然数の組全体から自然数全体への写像gを、g((n,m))=2^n×3^mと定義すると、素因数分解の一意性により、gは単射となる。
よって、ベルンシュタインの定理により、自然数全体から、2つの自然数の組全体への全単射が存在する。

ちなみに、同じ方法で、自然数全体と、n個の自然数の組全体の濃度が等しいことも示せる。

4.自然数全体と正の有理数全体は濃度が等しい。
(証明)
正の有理数は、2つの互いに素な自然数の組(p,q)を用いて一意的に表せるので、正の有理数から、2つの自然数の組全体への単射が存在する。また、3.より、2つの自然数の組全体から自然数全体への単射が存在するので、これらを合成すると、正の有理数から自然数への単射が構成できる。
一方、自然数から有理数への単射は自明に存在する。
よって、ベルンシュタインの定理より、自然数全体から正の有理数への全単射が存在する。

5.自然数全体と有理数全体の濃度は等しい。
(証明)
4.より、自然数全体から正の有理数全体への全単射fが存在する。
また、g(n)=-f(-n)とすれば、gは負の整数全体から負の有理数全体への全単射となる。
整数全体から有理数全体への写像hを
h(n)={
f(n)     n>0の場合
0       n=0の場合
g(n)     n<0の場合
}
とすれば、hは全単射となる。2.より、自然数全体と整数全体の濃度は等しいので、自然数全体と有理数全体は濃度が等しい。

さて、ここまで紹介したすべての集合は、自然数と濃度が等しかった。このように、自然数と濃度が等しい集合のことを、可算無限集合、あるいは単に可算集合と呼ぶ。では、可算集合ではない無限集合はないのだろうか?

実は、冪集合というものを作ると、もとの集合よりも濃度が真に大きい、つまり、冪集合ともとの集合の間には全単射が存在しないことが知られている。ここで、冪集合についても説明しておこう。
集合Aが与えられたとき、Aの冪集合とは、「Aのすべての部分集合を集めた集合」である。慣習的に、Aの冪集合のことをP(A)と表す。
具体例を挙げよう。
A={0,1,2}
とする。このとき、
P(A)={φ,{0},{1},{2},{0,1},{1,2},{2,0},{0,1,2}}
である。
A∈P(A)、φ∈P(A)であることに注意しよう。
この冪集合は、初学者にとっては戸惑いやすいものだろう。というのも、冪集合は、「集合の集合」だからである。しかし、冪集合は集合論の中でも、とても重要な役割を果たしている。その1つが、上にも述べた、冪集合はもとの集合よりも、濃度が真に大きいという性質だ。このことは冪集合の最も重要な性質の1つであり、カントールの定理と呼ばれている。もう一度、定理として書き出しておこう。

<カントールの定理>
任意の集合Aについて、AからP(A)への全射は存在しない。

(証明)
背理法を使って示す。
集合Aから、その冪集合P(A)への全射fが存在すると仮定する。
ここで、Aの部分集合(つまりP(A)の要素でもある)Bを、次のように定義する。
B={a∈A|a∉f(a)}
fはAからP(A)への写像なので、a∈Aに対して、f(a)∈P(A)であるが、言い換えれば、f(a)はAの部分集合であるということである。aはAの要素なので、f(a)がaを要素に持っている場合もあるかもしれないし、持っていない場合もあるかもしれない。そこで、Bをf(a)がaを要素に持っていないようなaを集めた集合と定義してみたわけである。
さて、このようなBを定義すると、fを全射であると仮定したので、f(b)=BとなるようなAの要素bが存在する。そうすると、次のような疑問が浮かぶだろう。すなわち、
Bはbを要素に持つのか? という問いである。
(i)
b∈Bとしてみよう。
Bの定義を思い出すと、x∈Bのとき、x∉f(x)である。当然x=bのときにもこれが成り立つはずである。b∈Bなので、b∉f(b)。
B=f(b)となるようにbを定義したのだから、
b∉Bとなる。
しかし、一番最初にb∈Bとしたはずなのだから、これは矛盾になってしまう。
(ii)
今度は、b∉Bとしてみる。
Bの定義を思い出すと、x∉f(x)のとき、x∈Bである。ここで、f(b)=Bだったのだから、b∉Bを書き換えると、b∉f(b)である。よって、xの部分にbを当てはめると、b∈Bが得られる。
しかし、最初にb∉Bとしたわけだから、やっぱり矛盾してしまう。

(i)、(ii)の結果をまとめると、b∈Bとしても、b∉Bとしても、どちらの場合も矛盾が起きてしまう。つまり、背理法の仮定が誤りだったということなのだから、AからP(A)への全射が存在する、としたことが間違いだったということだ。
よって、AからP(A)への全射は存在しない。当然、AからP(A)への全単射も存在しない!

この証明は、カントールの対角線論法とも呼ばれ、非常に有名である。

さて、この事実を使うと、自然数全体から実数全体への全射が存在しないということが示せる。ここでは、次の三段階に分けて証明しよう。
第一段階:自然数の冪集合から、実数全体への単射を構成する。
第二段階:実数全体から、自然数の冪集合への単射を構成する。
第三段階:自然数から実数への全射が存在しないことを示す。

第一段階
自然数の部分集合Mから、0と1を並べた数列を作ることを考える。
数列{Rn}を
Rn={
0      n∉Mの場合
1      n∈Mの場合
}
と定義する。
例えば、M={2,3,5,6}であれば、
Rn={0,1,1,0,1,1,0,0,……}
となる。また、Mが奇数の自然数を集めた集合の場合、
Rn={1,0,1,0,1,0,1,0,……}
のようになる。
当然、もととなる部分集合Mが異なれば、できる数列{Rn}も異なる。
この数列をもとに実数を構成する。
r=0.1×R1+0.01×R2+0.001×R3+0.0001×R4+……
と定義しよう。
これは、無限小数の第n桁をRnとした実数である。
そうすると、Rnの値は0か1なのでrはきちんと存在し、また数列{Rn}が異なれば、実数rも異なる。
例えば、Mを奇数の自然数全体の集合とすれば、Mから作られる実数rは
r=0.10101010…… =10/99
である。
この方法で自然数の部分集合から実数を作った場合、異なる自然数の部分集合からは異なる実数ができることがわかる。よって、これは自然数の部分集合全体(つまり自然数の冪集合)から実数への単射となる。

第二段階
実数全体から、有理数の部分集合全体(つまり有理数の冪集合)への写像fを
f(r)={q∈Q|q < r}     (Qは有理数全体の集合)
と定義する。つまり、ある実数rに対して、rより小さいすべての有理数を集めた集合をf(r)とするのである。
このとき、実数r,sがr≠sのとき、rとsの間には何らかの有理数が存在する(このことを有理数の稠密性と言う。厳密な証明はしない)ので、f(r)とf(s)は違う集合となる(例えば、r < sとした場合、r < q < sとなるような有理数qを取ってくれば、q∉f(r)、q∈f(s)となる)。
すなわち、このfは実数全体から有理数の冪集合への単射である。
前に見たように、有理数全体の集合は可算集合、つまり、自然数全体への全単射が存在する。そのため、有理数の冪集合から自然数の冪集合への全単射も存在する。
さっき構成した実数全体から有理数の冪集合への単射fと合わせると、実数全体から、自然数の冪集合への単射が構成できる。

第三段階
第一段階と第二段階から、自然数の冪集合から実数全体への単射と、逆に実数全体から自然数の冪集合への単射が存在することがわかったので、ベルンシュタインの定理より、実数全体から自然数の冪集合への全単射が存在する。
さて、自然数全体から自然数の冪集合への全射は存在しないのだった(カントールの定理!)。仮に、自然数全体から実数全体への全射が存在したとすると、今作った実数全体から自然数の冪集合への全単射と組み合わせることで、自然数全体から自然数の冪集合への全射が構成できることになってしまう。これはカントールの定理に矛盾する!
よって、自然数全体から実数全体への全射は存在しない。

ここまでの議論から、実数は、自然数とは対応させられないほど多くあることがわかるだろう。このように、自然数よりも大きい濃度を持つ集合のことを、非可算集合と呼ぶ。直観的には、非可算集合である実数と、可算集合である有理数では、無限の大きさが違うと言える。
ちなみに、数学基礎論において、有理数から実数を構成するときには、この「実数のほうが有理数よりも濃度が大きい」という性質がネックとなる。「実数とは何ですか?」 と聞かれたときに、有限個の有理数を並べただけでは足りない。つまり、無限個の有理数を使わないと、実数を構成できないのである。
一般的な実数の構成方法は大きく分けて2つある。
1つは、有理コーシー列を用いる方法である。これは、「ある実数に収束する有理数の数列全体」を実数とするものだ。その基本的な考え方は今回の第一段階で考えた数列{Rn}に似ている。
もう1つは、デデキント切断を用いる方法である。今回の第二段階で考えたfを使えば、f(r)こそがrを表すデデキント切断である。このデデキント切断の1つ1つを実数と呼ぶことにするのである。
ここではこれ以上のことは述べないが、興味のある方はぜひ調べてみてほしい。

今回のまとめ
集合には濃度と呼ばれる集合の大きさのようなものがある。
自然数、整数、有理数はすべて可算集合であり、濃度が等しい。
冪集合はもとの集合よりも濃度が大きくなる。
実数は自然数の冪集合と濃度が等しく、自然数よりも濃度が大きい。
実数を捉えるためには、無限個の有理数が必要である。

Edit 23:58 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

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