ああ寒い寒い…………。というわけで、本日の雪予報のお時間です。
最近、といっても1年スパンのゆっくりとした流れなのですが、映画を観ることがとても増えました。高校三年生の前半に、友達と「ミッドサマー」を観た後キリスト教の聖句を暗唱して二人で狂ったように笑ったり(高校がキリスト教系の学校でした)、「メイドインアビス」の劇場版を見て開口一番、主人公一行の一人を撮る上からのアングルが扇情的だったと述べたら「気持ちわる」と言われたり。高三の後半には精神的に参っており、10月に塾の宿題を全部ポアして、神戸でリバイバル上映していた「リズと青い鳥」を一人で観て一人で帰りました。ツイッターで持て囃されてる映画か追っていた漫画・アニメの劇場版しか観ていないのが一目でわかるラインナップですね。とはいえ、やはり話題になるだけあるのでしょう、どの映画も恐ろしくクオリティが高く、その時の記憶が鮮明に甦るような、良い体験になりました。そして大学生になっても変わらず、劇場版プリンセスプリンシパルとかシンエヴァといった、いわゆる話題の映画しか観ていないわけですが、この一年間を通して、映画を観るごとに、これは本当に暴力的なものだなあとつくづく思います。120分に凝縮された映像の完成度、骨まで響く音響効果。薄暗く、息が潜められた、スクリーン以外のものが全て排除された120分。こういう「場」は簡単に人を飲み込むからです。映画を構成する情報はあまりにも膨大であり、に存在するものを一度に全て掬い取ることは不可能であり、人はどこに注目するべきか、あるいはどこにも注目せず、その場の全体の雰囲気をただ受け止めるか、という選択を迫られます。そこに罠があります。受動的に映画を甘受する姿勢を持った人間に、いかに気持ちよく「感動」や「興奮」をお届けするか、映画を作っている人たちは分かっているんでしょうね。付き合いで観に行ったどうでもいい映画の、寒い家族愛を押し出してくるような映画で、「感動的」な大音量のBGMに押し出されるようにして涙を溢してしてしまった人は少なくないのではないでしょうか。私は単純な人間なので人生で数度そういうことがあり、かなり悔しかったことを覚えています。かなり恥ずかしい。あれで自分はその映画に感動したのだと錯覚してしまう人も多いんでしょうね。涙を流したからといって、それはなんの証明にもならないと思うんですが。個人的に、心を大いに動かされる映画は、かえって人に涙を流させないんではないかと思いますね。涙腺を狙うのではなく心を狙いすましているというか。それとも、単に私がそれらの映画を受け止める気概を持って望んだからというだけの、こちら側の感受性の問題なのでしょうか。
暴力によって、本来であれば否定しているようなものを受け入れさせられるのは忸怩たる思いになります。それが本当に気づくべきことであれば良いのですが、大体は無批判に受け入れてはいけないものであったりするので。ただ、暴力によって心にするすると入り込んでくる言葉、意味。その快楽には抗い難いものがあるのも事実です。
つい先日観た「劇場版 レヴュースタァライト」。これは暴力の話です。
「レヴュースタァライト」は、「ラブライブ!」シリーズなど、「美少女がいちゃついてたら、嬉しい」という人間の最も素朴な感情に訴えかける作品を多く生み出すことで有名なブシロード系列のアニメ作品です。「レヴュースタァライト」も多分に漏れず、名前がある登場キャラクターは女性のみ。メインキャラクターである9人の「舞台少女」が、たった一つの「スタァ」の座を巡って「オーディション」に挑む……というのがざっくりとしたあらすじです。実は、私はアニメ版が放送された時はそれを観ておらず……、というのも、私はそういった「女の子たちが親愛の表現として身体的に軽度の接触を行うにもかかわらず、その親愛自体への掘り下げが不透明である」ような、言ってしまえば「百合営業」的な百合表現に食傷気味であったことが私に「レヴュースタァライト」を敬遠させたのでした。断っておきたいのは、私は決していわゆる「百合営業」が嫌いなわけではなく、むしろ、そういったものを消費することで命を繋いできたということです。
マズローの欲求五段階説というものをご存知でしょうか?人間の欲望は、その低次の(より切実な)欲望が満たされてから生まれてくる、という言説です。すなわち、「美少女がいちゃいちゃしているのが見たい」という欲求が満たされて初めて、「美少女の関係性をもっと掘り下げてほしい」「二人の関係性に名前をつけたい」「二人の関係性が既存の概念のどれにも当てはまらず、名前がつけられないくらい掘り下げられてほしい」「女女の関係性だけ取り出した同人誌が読みたいなあ」「同人誌で〜〜てほしい付き合ってなくてもいいから」「公式で殺し合ってほしいなあ」といった、より高次の欲求が表出してくるのです。私はその時、女女がイチャイチャするソシャゲなどを既にやっており、恒常的に女女の素朴なイチャイチャが得られる環境下にあったため、女女がイチャイチャするだけでは食指が動かなかったのでした。
そうして「レヴュースタァライト」を観る機を逃し、その数年後にやった劇場版もスルーしようとしていた私でしたが、「劇場版 レヴュースタァライト」の感想にこんな一文があるのを見かけました。
「レヴュースタァライトは百合ではなくBL」
で、出たーーーーー!!!!!!!!!!
「百合ではなくBL」個人的には百合とBLを二元論の両輪に挙げることからしてナンセンスだなと思いますが、この言説の是非については置いておいて、こういうように形容される百合には、必ずと言っていいほど「暴力」と「相互理解」の概念が付随します。これは観るしかないと、腕をまくって鑑賞しにいったわけです。コピーには「”劇場”でしか味わえない{歌劇}体験」とありました。
観た結果としては、これは暴力の物語でした。そしてその内実は最初に期待していた以上に大きかったわけです。確かにこれは、”劇場”でしか味わえない…………というか、どこで観たとしてもそこは”劇場”であったな、と思います。なぜなら、そこに暴力があるからです。「劇場版 レヴュースタァライト」における暴力とは、実際に登場人物たちが交わす言葉や刃でもあり、グロテスクなバロック調キリンが登場人物に求めるものであり、映画において常に行われていた”暴力”でもありました。”暴力”そのものが映画のテーマに据えられ、脚本から演技から映像から、映画を構成する要素を全て”暴力”を振るうことを前提に組んでいるということです。映画においても歌劇においても、暴力……舞台を現実と切り離すことで、劇中において、この世においてさまざまに関連し合い存在している何かしらが持つ文脈、持つ意味を、それのみ取り出して観客の心に狙い撃つということができる。”暴力”を行使され、スクリーンの外側は全て暗闇の中に置かれ、観客はその前でただただ”意味”を浴びせられることしかできません。キャラクター間での暴力もまた”暴力”であり、もしかすれば素面であれば否定されたかもしれないことが押し通される、心に突き立てられる……。本当に凄い。凄すぎて地に臥すしかない。
私はこの映画をみて、「正しい”暴力”のふるい方」の一端を観たような気がします。あるいはこれもまた、劇場の暴力にやられた単純な私の錯覚に過ぎないのかもしれませんが。
何も考えずに書くとまとまりがなくなってしまって困りますね。雪予報終わり。
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23:14 |
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