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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2022-03

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大学生活のしのぎ方 2022

3月下旬担当の葱です。今回は1回生向けのアドバイスを書きます。説教臭くて申し訳ありません。

1 自力
身近な人にSOSを出すのは大切です。しかし、大学は助けてくれませんから、基本は自力解決です。

2 新目標
3回生からは就活です。受験の次は就職を目標にしてください。チームでやり遂げた経験、困難を乗り越えた経験、工夫して成功させた経験があるとよいはずです。(私はどれもありません)

3 授業時間外が大事
宿題が出されなくても、参考文献を読んだり、自分で語学参考書をやったりすべきです。大学では、課題は自分で見つけるものだと思います。

4 高校時代のもの
高校時代の参考書は、家庭教師のアルバイトなどをする人は残しておくといいはずです。語学の授業ではCDプレイヤーを使うこともあるので、持っている人は下宿に置くといいかと。

5 交通ルール
田舎の感覚で自転車を走らせると危険です。自転車で歩道を行くのはあきらめた方がいいです。ベルは決して鳴らしてはいけません。

6 当たり前を当たり前に
ごみのポイ捨てをしない、授業に遅刻しない、授業中寝ない、正しい敬語を使うなどを徹底してください。就活中の付け焼刃ではぼろが出ます。

7 起床就寝時間
生活リズムが乱れ、朝起きられなくなる人もいます。休みの日も起床就寝時間を同じにしましょう。

8 食事
自動販売機で買わずにマイボトルを。昼食は自分で作った方が安くて早くすみます。

9 周囲
身近な級友、先輩をお手本に努力しましょう。

10 語学
授業に出ているだけでは足りません。自分で勉強しましょう。フレーズを何度も音読することで、読むスピードも上がります。脳科学に基づく英語習得については、本学の先生でもあった、青谷正妥先生のyoutubeや著作をご参考に。

以上です。長々と失礼しました。

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新歓とか

 ほしい本があるのだと彼女が言ったから、わたしは彼女を隣にのせて、軽のイグニッション・キーを回した。さして暑くもないはずだったけれど、むっとした空気がわたしに空調のつまみを回させていた。朝の十時すぎから降り始めた予報外の雨は、止みそうになかった。

「先輩が教えてくれたの、あそこのブックオフに売ってたって」

 彼女はそう言って、珍妙な作家の名前と、そのわりに平凡な小説の名前を口にした。

「通販で買えばよかったんじゃない」わたしは言った。「そっちのほうが楽だし、そうしていれば服も濡れなかった」

わたしは、ハンカチで肩を拭う彼女を見た。駐車場を少し歩くだけとはいえ、一本の傘でどうにかしようと考えたのが間違いだった。

「言えてる」彼女は乾いた笑い声をあげた。「だけどこだわりはどうしようもないものだから。それに」彼女はサイドブレーキをおろす私を見る。「今、言っても遅いでしょう。あるいは引き返そうか。肩口を濡らすだけの散歩が好み?」

「悪くはないね、それも」

「嘘ばっかり」

 クリープ現象が、ゆっくりと車を運んだ。

 
 早咲きの桜は、まだ散るようなそぶりを見せていなかった。彼女はぼんやりと窓の外を眺めて、雨に濡れた花弁と黒々とした枝を目で追っているようだった。

「春だね」

 彼女は言った。わたしは曖昧に返事をした。「ああ、うん」

県道はあまり混んでいなかった。わたしたちの住む家から三キロほど離れたブックオフにはすぐ到着し、がら空きの駐車場には苦労もなく車を停めることができた。

「ゆうは来る? それとも待ってる、車で?」

 シートベルトを外しながら、彼女はわたしに尋ねた。べつだんほしい本もなかった。ただ、待っている理由もとくにはなかった。

「いくよ」


 店内に入るなり、彼女はわたしをおいてお目当てのフロアへと向かって行った。本の趣味は違うのだから、追ってもあまり意味はなかった。服に付いた水滴を払って、中古のCDコーナーへと向かった。家にはプレイヤーなどなかったけれど。

 
 時間がかかる買い物ではないだろうと思っていたけれど、彼女がわたしに声を掛けてきたのは数十分後の事だった。ちょっとした手提げほどの大きさのレジ袋は、直方体に膨らんでいた。

「随分買ったね」

「何度も来るのは面倒だし」

「どうせいくらかは積むんでしょ」

「いつでも参照する権利を得るんだよ。本を買うっていうのはそういうことだから」

 わたしは、彼女の部屋の中の百を超える“権利”とやらを思った。

 雨は、まだ降り止んでいなかった。わたしは店の外に置かれている傘立てを見遣って、首を傾げた。わたしたちの傘が消えていた。

「盗まれたんだ」

 彼女がつぶやいた。盗まれたといっても所詮はビニール傘のことで、大した被害とも言えなかった。

 傘立てには、他に何本ものビニール傘がささっていた。わたしの手は自然と、そのうちの一本に伸びかけた。しかし、不意に疑問が頭をよぎった。誰がわたしたちの傘を盗ったのだろうか。

 雨が降り始めたのは、十時を少し過ぎた頃のことだった。今から五時間も前の事だ。そんな時間、店の中にとどまっている者もいないだろうし、あるいは、傘もささず外をほっつき歩いている者もないだろう。だから、不意に降り始めた雨に、しかたなくわたしたちの傘を盗ったというわけではない。しかし、ならば盗人は、この店に来る段階では傘を持っていたはずなのだ。だから、盗人は何らかの理由で傘が使えなくなったために、わたしたちの傘を盗ったということだろう。その理由とは何か。

簡単だ、彼、ないし彼女もまた、傘を盗まれたのだ。

 わたしは五時間前の事を思った。この店の開店時間は、十時からだ。雨が降り始めたのはその少し後の事だったし、その雨は予報外のものだった。きっと、開店と共に店にやってきたとある客は数十分かけて古本を買い込んだのだろう。そしてその客は、もしかしたらレジ袋を買わなかったのかもしれない。予報外の雨に本が濡れるのは、好ましくない。その人物の手は、傘立てに伸びたのだろう。そうして傘を盗まれた者は、別の傘を盗んだ。そうして傘を盗まれた者もまた……。

 そして、その連鎖の先に、わたしたちがいるのだ。

 わたしは傘立てから手を引っ込めた。隣に立つ彼女は困ったような顔をしていた。

「本、濡れちゃうかも……」

「レジ袋に入れてあれば、大丈夫だよ」

「でも……」

「ならわたしのカバンに入れよう。防水性だし」

「風邪ひくよ」

「すぐ車だよ」

「だけど」

「いいんだよ」わたしは言った。「これでいいんだ」

 帰り道、小さくくしゃみをした彼女は、恨めしそうな顔で「だれが盗ったんだろう」と考え込んでいた。どうでもいいでしょう。わたしはおざなりにそう言ったけれど、彼女は納得しないようだった。

「さっきさ、あたしたちが店に付いたとき」彼女は言った。「駐車場に、長野ナンバーの車があったんだ。きっと雨が降る以前から走ってたんだと思う、今日。それで、なんとなくブックオフに寄って、思いがけず一杯本を買ったんじゃないかな。車から店に向かうときには、短い距離だったからそんなに気にしなかったけど、本を抱えると都合が違ったんだ。だからあたしたちの傘を盗ったんじゃない?」

 彼女は、また小さくくしゃみをした。

 わたしは彼女の説に、否定も肯定もしなかった。

 桜の花弁が一枚、雨に打たれながら宙を舞っていた。

◆◇◆◇

 新幹線に乗ってしまえば、地元までは35分で行けるはずでした。だけどわたしはなにか血迷って、普通列車で紀伊半島をぐるりと回って帰る道を選んだのです。これを書いているのは三月十七日。まあ、十七日でも解釈次第では三月上旬でしょう。ほら、二桁目を四捨五入すれば。

 京都から名古屋まで、十五時間ほどかけて帰っています。それだけ時間があれば小説の一冊くらいかんたんに読めてしまうというもので、わたしはさきほどロス・マクドナルドを一冊読了しました。ロスマクはハードボイルド派の重鎮ですが、わりあい本の入手難易度が高くて悩ましい所。本屋なんかに行くとたいていチャンドラーは揃っているのですが、ロスマクは見かけませんね。古本まつりでポケミスを漁れ!

 ハードボイルドなんかを読むと、どうしても文章に影響をうけてしまうなあと思うのですが(まあ上記のやつもそんなとこ……ほんまか?)、ただかっこつけてる感じになるだけです。べつに自分の書くものの主人公は孤独でもないし、抑圧されてもいないし、タフでなければならない理由もありません。強くなくても生きていけているし、優しくなくても許されています。それはおそらく他の小説に影響を受ける時もおんなじで、西尾維新の語り部じみた言い訳と戯言を紡がなければいけない人物を書いているわけでもないのにだらだら述懐させてしまうし、矢部崇をまねて無駄に文章だけ気持ち悪くしてしまう。東川篤哉をまねたユーモアは空回りして、『氷』の技巧に失敗する。べつに模倣は悪い事ではぜんぜんないけれど、どうしてそうした文章を書くのかを、もっと考えた方がいいんだろうなと思う今日この頃です。というか、そうして文章を模倣していく中で自分の書くものと文章のスタイルが一致していくんだと思いますけどね、普通。そうでもないかも。すくなくともわたしはそうで、そしてほかにもそうしたひとはいるんだろうなとおもうところで、まあ何が言いたいってとにかく書け! ってとこですよね。読め、書け! ○○って作家の小説を読んで文章に悪い影響を受けた。いいじゃないですか、その悪癖を飼いならして血肉にしましょう。戯言だけどね。

 そういえば新入生の皆さん、合格おめでとうございます! 新生活が始まって人間関係の構築に悩むところかもしれませんが、とりあえずサークル入っとけば趣味の合う友人が見つかるかもです。学部の友達とかはね、学部によってはまあできませんから(例:文学部……わたしだけか?)。

 というわけで当サークル『名称未定』も新入生を随時募集しております。漫画、小説、詩、短歌、イラスト、常人には理解できない論文まで、二次元単色媒体の創作ならなんでもかかってこいのゆるいサークルです。感染症の為今はオンライン(discord)を中心に活動中でして、Twitterやホームページにサーバーリンクがございますので、ご興味のある方はぜひいらしてください(当サークルはインカレサークルではありませんので、ご了承ください)。
 
 ちなみに🉐情報。去年から対面活動を復活中です。新歓を対面で出来るかどうかは未定ですが、普段の活動では対面も一部行っておりますよっと。

 ではではサークルの宣伝を申しましてこのあたりで。担当は有末ゆうでした。またねっ!

Edit 00:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

解釈するということ

“Virtual”という単語を耳にする機会が、以前よりも格段に増えてきました。
手垢のついた言説にはなりますが、この”Virtual”という単語の正しい意味をご存じでしょうか?
”Virtual Reality”はしばしば「仮想現実」と訳されますから、「仮想的な」あたりを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。そう思いながら嘗て使っていた英単語帳を捲ってみれば、”Virtual”の項目には第一の訳語として「実質的な」という言葉が登場します。「仮想的な」と「実質的な」というのは、類語、というよりもむしろ対義語のようなもので、この2つの訳語が並んでいる様子には、違和感を覚えずにはいられません。
あるVirtual Reality関連の書籍でもこの問題に触れて、日本語文化内に適切な訳語がないため、苦肉の策で「仮想的な」などと訳している、という旨のことが語られています。
試しにGoogleで検索をかけてみれば、訳語に「バーチャル」と表示され苦笑いするほかありません。

しかし、文化的相違と翻訳の試みが引き起こすこのような問題は何も”Virtual”という単語に限った話ではなく、明治時代には西洋の言葉を翻訳する際に対応する日本語が存在しないため多くの新造語が生まれたというのはご存知の通りです。
翻訳においてこのような相違を埋める手立てには、上で述べたような近似的な訳出、新語の造語の他に、カタカナ語のような借用語を用いるという手段もあるでしょう。
しかし、翻訳を「意味の解釈」の過程の一種だと定義するならば、新語の造語や借用語の使用は問題の形を書き換えただけで、表現の本質的な意味は何ら解釈されていません。
例えば、”individual”を「個人」という新造語で置き換えたところで、「個人」という単語の意味が別のすでに意味の分かっている日本語で説明されなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。同様に、”lens”を「レンズ」と書き換えたところで、その実物を見たり、原理や利用方法を説明されたりしなければ、この単語が解釈されたことにはなりません。
すなわち、ある単語を解釈するには、意味が分かっている別の単語に置き換えるか、あるいは意味が分かっている別の単語を複数用いて具体的な説明を与えるか、そうでなければ百聞は一見に如かずとばかりに言葉に頼らない説明をするか、のいずれかしかありません。
立場を変えて言い換えれば、言葉を理解するには、別の言葉を用いるか、見るなどの言葉に頼らない体験によって理解するかしかない、ということです。しかし、言葉を理解するために別の言葉を用いるとしても、そのためにはそれに用いる「別の言葉」の方を理解している必要があります。これを理解するにはそのまた別の言葉が必要で、と無限ループになってしまいますから、どこかで必ず言葉に頼らない意味の理解が必要になります。

いわゆる「言語の文化的相違」というもののなかにはここに起因するものも多いことでしょう。言語を使わずに体験などによって理解される概念と、それらの言語的な組み合わせによって理解できる概念しか言葉として用いることができないのですから、住む地域の気候や産業、歴史文化の違いなどによって得られる体験が違えば、言語に存在する概念にも当然違いが生じます。

では、同じ言語を使っている人たちの間では、概念は完全に共有されているのでしょうか?もちろん答えは否です。「雪」といったとき、関西出身の私と、東北地方出身の誰それが想起するそれは全く異なっているでしょうし、「権利」という言葉を聞いたときに思い浮かべる概念的イメージは、工学部の私と法学部の方々とでは随分と異なっていることでしょう。
その中で、ある程度の共通部分を持っているからこそ、私たちは同じ言語を話す者として問題なく意思疎通を行うことができますし、ある程度の差異があるからこそ、嚙み合わない会話に歯痒い思いをすることもあるのです。

そしてこのことは、文章を書く、ということを趣味に活動している私たちのような人間にとっても、非常に重要な意味を持ちます。
現代文の講義を高等学校で受けた方なら誰しも、「この表現の解釈は読者にゆだねられている」という表現を耳にしたことがあるでしょう。ですが、先の議論を踏まえれば明らかなように、文章に登場するほとんどの単語の解釈は読者の過去の体験や経験に大きく依存しているものであって、むしろ、その意味が一意に定まるように、言い換えれば表現から想起される対象のイメージが読者の経験や体験によらず概ね一致するように文章を書く、ということの方が至難の業なのです。
この問題を回避する方法は、私が思いつく限り4つ存在します。
1つ目は、詳細な記述によって解釈の誤差範囲をできる限り小さくする、というものです。単純明快な手法ながら、文章が異常に冗長になってしまうなどいくつかの致命的な課題を抱えています。
2つ目は、解釈の差異を許容することです。たとえば文芸作品では、物語の描く対象に対する表現をある程度抽象化し、具体的な表象については読者に一任する、というものがしばしば存在します。こういった作品は、映画などの他の媒体によって映像化されると、見る人の間で「自分の描いていたイメージと違う」というようなことが起こりがちではありますが、そういった点まで含めてこのような作品の特性ということができるでしょう。
3つ目は、事前に意味の合意がとれた語彙を使用する手法です。論文やレポートのような科学的な文章を書く際にしばしば用いられる方法で、例えば「この分野で『河川』といえば以下の定義を満たすものを指す」というように用語の意味や指し示す対象をあらかじめ定義しておくことで、冗長性を回避しつつ表現の一意性を担保します。
4つ目は、文章の対象集団を一定の作品経験や知識を持つ人々に限定する、という手法です。
サブカルチャーの分野で一時期話題に上っていた「小説家になろう」に投稿されるいわゆる「なろう系」と呼ばれる作品群がわかりやすい例でしょう。これらの作品は、いわゆる「ドラクエ」を連想させる西洋中近世の世界観と「魔法」や「ギルド」といった概念が、それぞれ非常に似通った形で登場します。これらの単語がさす対象の作品間の類似性は、これらを映像化した諸作品を見てみれば明らかです。
「中近世ヨーロッパ」という非常に曖昧な世界観表現と、「魔法」という一見して想起する対象が個人の作品経験によって大きく左右されそうな言葉が、なぜこのようにほとんど同等の概念を指す存在としていくつもの異なる作品に登場するのでしょうか。それはこれら作品の著者と想定される読者集団がみな、「ドラクエ」に代表されるRPGといくつかの著名な中世ファンタジー作品の作品経験を共有しているからにほかありません。
それらの作品経験という前提があってこそ、「魔法」といえばこういうもの、「ギルド」といえばこういうもの、といった表現に対する概念の一意性が、詳細な説明を行わずとも保証されているのです。
作品経験を前提にした表現、というのは何もこれに限った話ではありません。たとえばイギリスではよくシェイクスピアの作品になぞらえた表現が用いられますが、シェイクスピアという劇作の中での表現を用いることで、その作品経験を持つ人にとっては、言葉の指示内容を限定しやすくなる効果があるでしょう。
日本語作品から例を挙げるならば、「水中で逆立ちした格好の遺体」と表現すると、想起されるイメージにはばらつきが出るかもしれませんが、「犬神家の一族のような」という言葉を付け加えるだけで、作品経験を持つ人にとってはイメージが一意に定まる、というようなものです。
作品経験以外の知識を前提とする例としては、料理本などに現れる「少々」などの曖昧な表現がこれにあたるでしょう。私のような料理をしたことがない人間にとってはそれが0.1gなのか10gなのかまるで見当もつきませんが、料理に慣れている人間にとってはその言葉が示す意味内容がある程度共有されているはずです。

では、私たちが文章を書くときに取るべき手法は上の4つのうちどれでしょうか。これは当然一つに定めるべきものではなく、状況によって使い分け、時には組み合わせて使っていくべきものです。しかしどのような手法をとるにしろ、「言葉」に対する概念の一意性というものは案外自明ではないものであって、自分が書いている文章は、そのまま自分の思った通りに解釈されてくれるものではない、というのは肝に銘じておくべきでしょう。

長くなりましたが、このあたりで今回は終わりにさせていただこうと思います。この文章がどのくらい私の思った通りに解釈されるのか、まるで分かったものではありませんが、春休みの暇に任せた書き散らしが、正確に解釈される必要もありませんね。それではまたいつか。

Edit 18:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

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