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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2022-05

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私にとっての小説の面白さ

こんにちは、double quarterと申します。

 入会して初めて書く文章になるので色々悩みましたが、この機会に自分にとっての小説というものを見つめ直してみようかと思いました。ということで私にとっての小説の面白さを書いていこうと思います。

 人それぞれ小説を読む理由は違うと思います。しかし単純に読んでいて楽しいからという理由の人は多いでしょうし、それが全ての理由でなくとも少なからず皆そうだと思います。また現実から離れたいという理由で読む人もいれば、逆に現実の自分を見つめるきっかけになる場合もあるでしょう。
 私の場合は色々と変遷してきました。小さい頃は物語は基本何でも好きで、ジャンルをあまり気にせず気になったもの、与えられたものを読んでいました。それからしばらく小説から少し離れていたのが、最近になって小説の魅力を再発見しました。

 現在の私にとって小説の魅力というものは、端的に言えば自分の中にある矛盾を突きつけられることです。というよりそういう小説を好んでいると言った方が適切かもしれません。単純に矛盾を突きつけられることを考えると苦しいばかりではないかと思われるかもしれません。しかし無意識の自己矛盾に切り込むということはすなわち新しい考えの導入であり、それに自分なりの答えを(時に小説の力を借りて)出すということは非常に刺激的な営みだと思います。
 しかし同時に小説のその側面を重要視するのであれば評論や哲学書の方が効率的なのではないかとも思えてきます。実際内面に切り込む作品というものは哲学書からインスピレーションを受けている場合も多いです。もちろん私にとってはそれらも同じ理由で刺激的なのですが、一方で小説にしかない魅力というものもあるのではないかとも思っています。今回この文章を書くにあたってその辺も含めて一度色々と考えてみました。

 第一に、小説は面白いです。これは同意していただけると思います。私は詳しい理由を知りませんが物語というものは普遍的に人をワクワクさせます。読みやすく、それでいてほどよく考えさせてくれるようなバランスを保っているからこそ、何かを問いかける小説というものは魅力的なのだと思います。
 とはいえこれについてはあまりに普遍的すぎて私が書いても陳腐になってしまいそうなので、深くは掘り下げないことにします。

 第二に、小説の没入という機能です。例えばトロッコ問題なんかを考えるとき、ただ問いを突きつけるだけだとそれはどうしても他人事になると思います。一方、小説を介して似たような状況を順を追って導入し、こうした問いを読者に投げかける場合はどうでしょうか。きっと読者は登場人物に親身になって考えます。それに留まらず、その後が小説で描かれれば、思いもよらなかった結論を目にしてまた考えが変わったりもするでしょう。
 言い換えれば、小説はifというものを現実味を伴って突きつけることができます。普段おかれている日常という舞台設定から切り離し、小説で用意された世界の中に読者を置くことで効果的に問いかけることができます。同じ物事に対しても、客観で考えるのと主観で考えるのとでは全く違います。体験できなければ考えもしないようなことを疑似体験できるというのはとても興味深いことだと思います。

 そして最後に三つ目は、意図的に読者の視点を歪ませていくことができるという点です。この書き方ではちょっと人聞きが悪いですね。具体例をあげます。有名な話ですと夏目漱石の「坊ちゃん」なんかが例としてあげられます。この作品は主人公が割と非常識的な行動をすることが多いのですが、読んでいると非常識だと思わずに読み進められてしまいます。(実際私も読んでいてほとんど違和感を覚えませんでした) 
 これにより一度自分から離れた考えで小説を読み、その後ふと別の登場人物の視点に立ったりその人の言を聞いたりして考えてみたら全く違う考えが浮かんでくることがあります。その自分の中に生じた相反する正しさというものをどう統合して取り入れるかというところに面白さがあると私は思います。
 私が良くとる手法としては、両者の主義主張の根底となるものをできるだけ深く掘り下げていき、どこで袂を分かったのか探るという方法です。(この場合前提として深いところでは皆共通する考えを持っているという仮定を用いているので、一般性に欠くという問題はありますがそこには一旦目をつむります。)その結果として実は片方の考えには論理的整合性が欠けていて、全くの思い込みもしくは社会的通念という(論理的でなかったり本能的だったりする)自然発生(理性による論理の対義語の意味)した考えだったという結論が導かれることがあります。
 その発見が根本的であればあるほど衝撃も強いです。例えば「絶対的価値だと思っていたものが絶対ではなかった」という発見がこの例としてあげられます。この辺りを具体的に説明すると長くなってしまいそうなので、また別の機会があれば言語化を試みたいと思います。
 またもちろんそうした登場人物への共感、視点の共有という誘導に揺らされないように抗いながら小説を読むということも楽しみ方の一つとなりえるでしょう。自分との違いを常に意識しながら読むことでそれは達成されます。その場合でもこう説明されたら確かにそう考えざるを得ないな、と考えが変わることなどは当然あると思います。結果としては全く考えが変わらなかったとしても自分とは違う価値観を知るということは当然面白いはずです。

 少々長くなってしまいましたが私の小説観は以上です。しかしこの手の文章を書いていると思うのですが、前提として持っている認識が異なる相手にこの文章で果たして伝わるのだろうかということが甚だ疑問です。実際私は高校時代に評論を読んでいて不親切さを感じることが多かったのですが、いざ自分がそれの真似事をしてみると全員に伝えることの難しさが身にしみてわかります。その辺の問題を突破されている物書きさん達の凄さを実感します。

 それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。

Edit 20:30 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 さて、20日はギリギリ中旬ですね。ブログ担当を失念しそうになっていたナカジマ杓子と申します。
 ついさっきとある講義を受けるために教室へ行くと、まだ私以外に誰も来ていない感じでして、「お、一番乗り!」と思っていたら普通に休講だったので、若干しょんぼりしています。
 いえ、「若干しょんぼり」というのは実は強がりで、その講義のためだけに早起きしたのにすべては無駄だったのだ、わたしの人生に意味あることなど一つもないんだ、と悲嘆にくれまくっています。なけなしの詩人的感性を発揮して描写するなら、降りしきる雨、濡れる靴下、「嗚呼、どこまでもひとりぼっちだ……」、呟いて私は自転車を押し帰路につく、というところです。
 しかし、この描写には噓があります。そう何を隠そう、まだギリ雨は降っていません。ただし、降っていてもおかしくないくらいの曇天ですが。
 どのくらい降っていてもおかしくないかと言うと、ベランダに腰かけた乙女が私を想って流す一粒の涙、その涙が蒸発し大気中に溶けていくだけで、ちょうど飽和水蒸気量に達しそうなくらい雨が降りそうです。今上を向いているてるてる坊主の頭部に30gの重りを入れてその姿勢を反転せしめれば確実に雨が降るでしょう。
 が、それでも事実として雨は降っておらず、つまり私の靴下は濡れず、てるてる坊主も本懐を果たしているわけです。何ともめでたいことだと、私はしみじみ思います。世の中こんな風にめでたいことばかりだといいですね!
 このブログのタイトルは「雨」ですが、なんと「雨は振っていない」という事についてとうとうと述べている、これは果たして正しいのだろうか、まあ、「雪」とかいうタイトルをつけるよりはましだろうとか考えていると、次の講義の時間なのでそろそろここでお暇します。
 ありがとうございました!

Edit 10:59 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

三題噺『三段論法』『こだわり』『千円札』

 わたしが食券機の故障に気が付いたのは、ひとつには日ごろから頭の片隅で四則演算が駆け巡るようないくぶん不便なタチをしていたからだし、もうひとつにはその店に幾度も通い続けていたからだった。
そのラーメン屋は、大学の横の交差点のすぐそばにあった。このあたりはラーメン激戦区と呼ぶには少し店舗数が少なく、しかし、そこいらの地域に比べればかなり豊富な店があった。わたしが足繫く通うその店は真黒な外見をしていて、すこし不愛想な雰囲気を覚えさせる。しかし堂々と掲げられたその看板の金に輝く文字に励まされて扉を開けば、元気なにーちゃんが笑顔で迎えてくれる。
入ってすぐそばの場所には食券機が置かれている。数週間前に店内を改装したようで、以前の場所とは違うところに置かれている彼にいくばくかの戸惑いを覚えながら、わたしは並らーめんと白ごはんを注文した。
この店の麺は、いわゆる家系というやつだった。醤油とんこつのスープにたっぷりの鶏油がかけてあり、上には控えめなチャーシューとのり、そしてほうれん草がトッピングされている。
このほうれん草が重要だ。湯がかれてしんなりとしたこの子は、そのまま食べてしまえば些か青臭さが鼻につく。しかしまろやかなスープに絡ませて食べてみればいかがだろうか、とんこつ醬油のマイルドな味わいに包まれて、ほうれん草の甘味が口の中に広がる。こってりしたスープに口の中が疲れた時に、この子が場を仕切り直してくれる。
そう、この店のスープはいくぶん濃いのである。もちろん味は調整できる。薄め、普通、濃いめ。お好みに合わせてカスタマイズできるのは特徴だ。スープの濃さのほかにも、麺のかたさ、油の多さを調節できる。わたしが注文するときは大体、かため、普通、多めだ。そしてのり増し。だからごはんが必要なのだ。
この店のごはんは、なんと五十円なのである。しかもおかわりが無料。これぞ学生街といった風情で、なんともありがたい。そして、この店はサービスでもやしナムルを提供している。もやしをごはんに載せる。これですでに米が進む。だけど、そこにスープのしみ込んだのりを巻いてほおばる。これが正しいのである、少なくとも私の中では。
のりとナムルでご飯を一杯。おかわりを少なめにもらって、スープと共にもう一杯。そうして見えてくるのは桃源郷――とまで言ってしまえば大げさだが、これがわたしの幸福をいくらか支えてくれているのだ。
――と、ラーメンをいただくことを想像しながら食券を手に取ったわたしは、おつりボタンを押した。ちゃりんちゃりんと音を立てて落ちてきた小銭を財布に入れて、席へと向かう。さあ、パーティーの始まりだ。
しかしそのとき、わたしはふと疑問に思った。
ちゃりん、ちゃりん?
音からすれば、つまりおつりの小銭は二枚だったことになる。しかしそれはおかしいのではないだろうか。わたしは千円札を食券機に入れた。並らーめんは七百円である。ごはんは五十円である。食券機が正しくうごいているならば、おつりは二百五十円であるはずだ。
二百五十円であるならば、その構成は小銭三枚以上になる。
おつりの音はちゃりんちゃりん、つまり二枚であった。
ゆえに、おつりは二百五十円ではない。
ゆえに、食券機は正しく動いていない。
わたしはかるくかぶりを振った。長年この店に務めている食券機くんのことだ、疲れの貯まることもあるだろう、メンテナンスが必要になることもあるだろう。わたしがすべきなのはだから、激昂するようなことではなくて、店員さんにさりげなく声を掛ける、それだけなのだ。
わたしはふと食券機を振り返った。歴戦の戦士、その顔を今一度拝もうとして――しかし、わたしは言葉を失った。
『まことに身勝手ながら、五月一日より、ラーメンを五十円値上げさせていただきます』
 そこには、そんな張り紙が為されていたのだ。
 つまり、わたしの購入金額は八百円。よって、おつりは二百円。
 わたしは黙って席に座った。
 時間は流れゆく。街の景色も、住む人も、漂う空気もやがて変わっていく。わたしもきっと、明日には今日のわたしではなくなっていく。変化に戸惑うときもあろう、傷つくこともあろう、だけどそれを飲み込んで、わたしたちは日々を過ごしていく。そうして多くのものが変わってしまった中で、むかしの風景は郷愁となってわたしたちの中で化石していく。
 それでいいのだ。
 運ばれてきたらーめんとごはんをかきこみながら、わたしはひとり、ただ頷いていた。それでいいのだ。
 わたしはこれからも――それでも――この店に通い続けるのだろう、通い続けてしまうのだろう。それでいいのだ。それが、いいのだ。
 わたしは麺を啜った。中太麵に絡まるスープは、いつもより美味しい気がした。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 てなわけで今回は三題噺(お題を三つ募って、全部使ってなんか書くやつ)でお茶を濁させてもらいます。なんもアイディアがなかったんでね、同期と先輩に頼んでお題をもらいました。
 さてさてそんなわけで今回はこのあたりで。担当は有末ゆうでした。またね!

Edit 22:24 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:ナカジマ杓子
中旬:double quarter
下旬:氷崎光 です。

 

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