待つ日々にたえて貴方のあらざれば
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
僕がこんな和歌の書かれた手紙を桜の樹の下で拾ったのは、大学入学直前の春の日のことでした。
その日、僕はこれから始まる新生活に心躍らせ、半ば浮き足立ちながら散歩をしていました。下宿から琵琶湖疎水に沿って道を下り、東鞍馬口通りを少し過ぎる。そこには小さな公園があり、その隅に、満開の桜の樹がありました。僕は、多くの日本人がそうであるように、桜の吸引力に引き寄せられて花を見上げました。しかし数分もすればその光景にも見飽きてしまい、視線をふと下げる。すると視界の端、桜の樹の根元に、薄い桃色をした手紙が落ちているのを認めたのです。
僕は少し迷ってから、それを拾い上げました。誰かの落とし物ならそのままにしておくべきかもしれないけれど、いつか散った桜の花びらにそれが埋もれてしまうのではないか、とふと考えたのです。その手紙を広げると、先の和歌が。在原業平の歌。ただ書いてあるのはそれだけで、送り主も、宛先もありません。そこで僕は、ふと思いつきで鞄からペンを取り出し、その和歌の隣にこう書き付けて、手紙を元の場所に戻しました。
「世の中にたえて桜のなかりせば花に埋もるる消息もなし 暮四」
そして次の日。僕は昨日の手紙のことが気になって、またあの桜の樹へと足を向けました。するとやっぱりあの手紙が。拾い上げて中を見ると、「消息も花もなければ君と我交わらざらん泥濘む轍 白戸」
この日から、この手紙を通して、白戸さん(筆跡から多分女性でした)との和歌の詠み合いが始まったのです。
それから一週間ほど経った頃でしょうか。大学の入学式の前日。その頃には、白戸さんとの手紙を通じた詠み合いはほとんど日課になっていました。もう桜の花は散りかけていたため、手紙は花びらに埋もれていました。その日の歌は「あくる日のいつか散る花にべもなく来たる夕陽が照らすその時」僕はなんとなく違和感を覚えました。なんだか言葉のチョイスが不自然で、意味も通りづらい。そしてふと気づきました。折句です。句の頭文字を取ると、「あいにきて」。僕は何と返せばいいか分からず、その日はそのまま手紙を元に戻しました。
次の日も、随分と迷いましたが、結局はあの桜の樹へは行きませんでした。入学式がありましたし、多分そこにいるだろう白戸さんに会ったとして、どんな顔でどんな会話をすればいいのか分からなかったから。あとは単純に、白戸さんと会うことが漠然と怖かったのです。
そこから、白戸さんとの詠み合いはなくなりました。桜は完全に散り、手紙も消えてしまいました。無論、私はあの日のことを後悔することになります。
だから、と繋げるのは少しおかしな話ですが、私は今度の紅萌祭で配るビラの裏に、この話をベースにした、白戸さんに関する小説を書きました。ペンネームも白戸にしてあります。何か、まるで桜の樹の下で手紙を拾うような巡り合わせで、彼女に僕のことが伝わるように。
僕がこんな和歌の書かれた手紙を桜の樹の下で拾ったのは、大学入学直前の春の日のことでした。
その日、僕はこれから始まる新生活に心躍らせ、半ば浮き足立ちながら散歩をしていました。下宿から琵琶湖疎水に沿って道を下り、東鞍馬口通りを少し過ぎる。そこには小さな公園があり、その隅に、満開の桜の樹がありました。僕は、多くの日本人がそうであるように、桜の吸引力に引き寄せられて花を見上げました。しかし数分もすればその光景にも見飽きてしまい、視線をふと下げる。すると視界の端、桜の樹の根元に、薄い桃色をした手紙が落ちているのを認めたのです。
僕は少し迷ってから、それを拾い上げました。誰かの落とし物ならそのままにしておくべきかもしれないけれど、いつか散った桜の花びらにそれが埋もれてしまうのではないか、とふと考えたのです。その手紙を広げると、先の和歌が。在原業平の歌。ただ書いてあるのはそれだけで、送り主も、宛先もありません。そこで僕は、ふと思いつきで鞄からペンを取り出し、その和歌の隣にこう書き付けて、手紙を元の場所に戻しました。
「世の中にたえて桜のなかりせば花に埋もるる消息もなし 暮四」
そして次の日。僕は昨日の手紙のことが気になって、またあの桜の樹へと足を向けました。するとやっぱりあの手紙が。拾い上げて中を見ると、「消息も花もなければ君と我交わらざらん泥濘む轍 白戸」
この日から、この手紙を通して、白戸さん(筆跡から多分女性でした)との和歌の詠み合いが始まったのです。
それから一週間ほど経った頃でしょうか。大学の入学式の前日。その頃には、白戸さんとの手紙を通じた詠み合いはほとんど日課になっていました。もう桜の花は散りかけていたため、手紙は花びらに埋もれていました。その日の歌は「あくる日のいつか散る花にべもなく来たる夕陽が照らすその時」僕はなんとなく違和感を覚えました。なんだか言葉のチョイスが不自然で、意味も通りづらい。そしてふと気づきました。折句です。句の頭文字を取ると、「あいにきて」。僕は何と返せばいいか分からず、その日はそのまま手紙を元に戻しました。
次の日も、随分と迷いましたが、結局はあの桜の樹へは行きませんでした。入学式がありましたし、多分そこにいるだろう白戸さんに会ったとして、どんな顔でどんな会話をすればいいのか分からなかったから。あとは単純に、白戸さんと会うことが漠然と怖かったのです。
そこから、白戸さんとの詠み合いはなくなりました。桜は完全に散り、手紙も消えてしまいました。無論、私はあの日のことを後悔することになります。
だから、と繋げるのは少しおかしな話ですが、私は今度の紅萌祭で配るビラの裏に、この話をベースにした、白戸さんに関する小説を書きました。ペンネームも白戸にしてあります。何か、まるで桜の樹の下で手紙を拾うような巡り合わせで、彼女に僕のことが伝わるように。
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