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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2023-08

初見で噛まずに言えた人は凄いと思います

 どうも、氷崎です。
 今、大阪の自然史博物館で恐竜博っていうのをやっていて、先日僕はそこに行ってきました。今回の目玉はずばり、「ズール・クルリヴァスタトル」という鎧竜です。この恐竜は頭から尾っぽの先まで見つかっている上に、鎧には皮膚が、尾には棍棒を支える腱などの軟組織までが化石として残っており、その完全度、保存状態の良さから鎧竜の進化を解明する大きな手がかりとなる貴重な存在らしいです。
 僕が面白いな、と思ったのはその学名です。「ズール」というのはどこから取られたかというと、あの名作映画「ゴーストバスターズ」に登場する門の神(犬みたいなやつ)からだと言うのです。理由は顔が似ているから。似てるかな……
 ちなみに下の「クルリヴァスタトル」はラテン語で「脛(すね)の破壊者」だそうです。厨二心をくすぐられますね。
 ということで(どういうことだよ)他に面白い学名とかないかな、と調べてみました。
・「ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ」(ニシローランドゴリラ):有名どころ。周囲の人に言いたくなります。
・「イグアナ・イグアナ」(グリーンイグアナ):上と同じ感じ。実はこの手の同じ単語を繰り返す学名は他にもあります。マンボウとか。
・「エクウス・キャバルス」(ウマ):日本語で「馬・馬」。単語は違っても繰り返す……
・「ニッポニア・ニッポン」(トキ):ザ・日本。でも一度絶滅してるんですよね。
・「カニス・ルプス・ファミリアス」(イヌ):ラテン語で「犬・狼・家族」の意。人と長い間一緒に暮らしてきた犬らしい学名ですね。
・「エリタクス・アカヒゲ」
・「エリタクス・コマドリ」:上が和名コマドリの学名で、下が和名アカヒゲの学名。学名を誤ってつけてしまったんですね(一説には送られてきた標本のラベルが逆だったとか)。ややこしい!
 他にも調べてみると色々出てきます。興味のある人は調べてみてはどうでしょうか。

Edit 19:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

フィクションを描くことについて

どうも、7月下旬担当のいとらです。
今は8月? それも下旬の?
まあまあ、夏休みってなぜか時間が圧縮されるんで、実質3日遅れくらいじゃないですか?

とまあ冗談はさておき、最近小説を書きながら、あるいはそれ以外の時間、とみに考えることがありまして。何かというと、タイトルの通り、フィクションを描くってどういうことなのだろう、ってことです。
事の発端は今年の3月。私は新入生を騙したいというただ一心により、新歓冊子にあたかも私が卒業していなくなるかのようなこれまでの振り返りを載せました。その性格の悪さは置いておくとして、とにかく、その際に私は、在り得たかもしれない可能性の一つという"てい"でそれを書いたのですが、これがどうにも引っかかる。そもそも私は他の可能な世界なんて見たことないのに、今書いてる物語だってどこかに矛盾を内包していてそもそも存在可能性がないかもしれないというのに、なぜ当たり前のようにフィクションの世界を想像し、書くことができているのだろう、と。
可能世界意味論、という考え方があります。これは、ある言明の意味は、その言明が真となるような可能世界の集合によって規定されるというものです(と少なくとも私はこう定義しています)。この概念を数学的に書き換えれば、論理式の意味は、その論理式を満たすモデルによって定義されるということになり、であれば一階述語論理の完全性定理によってその正当性が保証されるだろうということで、私はある程度この考え方に納得していたわけです。
この考えに基づけば、フィクションの物語が表すものというのは、その物語で語られていることが真となるような可能世界の集合であると言えます。そう言い切ってしまうのも味気ないような気もしますが、可能世界の集合が我々の想像できないくらいに豊かであるのだと言われれば、納得もできましょう。
しかし、そもそも書かれているもの自体に矛盾が内包されてしまっていたら、話は別です。この場合、その物語を満たす世界など存在できませんから、その物語の意味は空ということになってしまいます。世の物語は大半が矛盾だらけ(私見)ですから、では本当に意味を持つ物語など、ほとんどないのではないか。だけど、我々は矛盾しているとわかっていても、そこから何か(感動とか教訓とか)を得ることはできるているわけで、こうなるといよいよフィクションを描くということの意味合いがわからなくなってきます。
この思索を突き詰めていくと、これはフィクションだけの問題ではありません。私たちが日常発している言葉であったり、あるいは厳密性が求められるような学問で交わされる言葉であっても同じことでしょう。もちろん現実世界を忠実に切り取れているのであればそこに矛盾は内包され得ないわけですが、そんなことは現実的に不可能なわけで、何を言うにしたってそれがナンセンスと化してしまう可能性を私は受け入れるしかないのか、というか受け入れる受け入れないの問題なのか、とそういうことまで考え始めてしまいます。
この話に結論はありません。何と言っても現在進行形で考えていることですから。
とはいえ少し思うのは、言葉には意味を超越した何らかの力(スピリチュアルな意味ではなく、単に人間の脳活動に影響を及ぼすという程度の意味です)があるのではということです。情報伝達を超えた何か。もしそういうものがあるのだとしたら、そこにこそ私が小説を書く意味も生まれてくるのでは、と。
たとえば、冒頭に書いた、「3日遅れくらいじゃないですか?」というのだって、1か月が3日であることはby definitionであり得ないわけですが、だからといってその言明から感じるものはあると思います(あってほしい……ユーモアとか)。そういうものを煮詰めていった先に、私の書きたい文章があるのではと、最近は考えています。
なんて、それこそフィクションみたいな言明ですが。

Edit 22:11 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

この夏の話

 夏と言えばなんですか。そうボカロです。
 おや、創作サークルのブログを覗いたはずがなぜか急に音楽の話をされたんだけど……間違えたかなあと、ブラウザバックはやめてもらって、是非とも最後まで話を聞いていってほしいんですが、八月は頭に『ボカコレ』がありまして、中旬にはマジカルミライ大阪公演がありました。私は音楽を聞きながら執筆を行うことが多いので、よくこれらの音楽を聴いております。その中でボーカロイド──初音ミクというものの存在についての考察は文学的に価値があるものだと思いましたのでここに記しているわけです。
 初音ミクとは何か。この問いは数々のボカロPによって答えが与えられてきましたが、その解釈は決して一通りのものではありません。ある者は、文化そのものだと言い、ある者は『神』だと、そして、ある者は『Hero』と言いました。(カルチャ、初音天地開闢神話、HERO)
 当然、解釈の方法はこれらだけではないのは重々承知の事実なのですが、それら一つ一つを丁寧に分析していると全く違った方向に行きそうなのでここでは省略させていただきます。
 さて、では、私にとって初音ミクとは何か。
 初音ミクとは、私です。
 はたまた、こいつは変なことを言いだしたぞと言いたげな顔ですが、最後まで話を聞いていただきたい。
 初音ミクとは物語の語り手です。物語の語り手についての考察は既に七月外部誌内の拙作『還らぬ人』にて行っているので、そちらのほうもぜひ参考にしていただきたいのですが(流れるような宣伝、コミケ前にこの記事を出しておけばよかった!)、物語の語り手というのは非常に流動的な存在です。我々は語り手を我々そのものに委託して書くこともありますし、物語の中にある主人公に語りを任せることもあります。前者の場合は神の視点、後者の場合は主人公──Heroの視点です。どこかで見ましたね、この視点。
 初音ミクは時に姿を変えながら、数々の物語を紡いできました。それは私たちの姿に相違ないのではないでしょうか。私たちは幾度となく姿を変え、物語を紡いできました。そして、これからも紡いでいくことでしょう、我々の物語というのは我々に紡ぐ意思がある限り、不滅です。そして、初音ミクという存在はその存在があり続ける限り、不滅の歌姫として存在し続けるのです。果たして、我々に叩きつけるように物語を叫ぶ日が来るかどうかはわかりませんが、我々はある種の文化を紡いでいるのだという自覚──、そんな大層なものではありません、文化というのは我々が残していった作品群に連なる形でそこに横たわっているのです──、それをもって、私たちはこれからも世界を作っていきたいものです。私たちの歌声で。

Edit 11:53 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:安野深砂
中旬:西桜
下旬:氷崎光 です。

 

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