いまさら「レゾンベクトル」を読んだ件。
今回は幻想組曲31号に投稿された浅木さんの「レゾンベクトル」を読んでみました。当初は「レゾンベクトル」をリミックスしたものを次の冊子に出そうと思っていたのだけれど、提出の締切日に自分が出席できないうえに、実際それをリミックスしたものよりも浅木さんのやつを解釈したテキストを書いてるほうが楽しかった。リミックスのほうはまるで進んでいないので、もういいや、ここに投下してやるか。
という経緯。
「レゾンベクトル」を読むにあたって、とりあえず本文を読まないといけないと思うのですが、このテキストはサイトのほうに上がってないので、追記に無断転載します。今から転載許可を取りに行きます。まあ浅木さんなら許してくれるよね。(チラッ
解釈のテキストもやたら長々となってしまったので、追記に突っ込んでおきます。ただし超訳です。
ではどうぞ。
レゾンベクトル
浅木圭
「破壊と創造はとてもよく似た行為だと思うよ。つまり既存への不満、既製への不信というその根源において両者は等しい」
淀みのない科白に、僕は一瞬何かを連想した。音楽か、数学か、そのどちらかだと思ったのだが、その連想はすぐさま霧消して、直後にはもう思い出せなかった。どちらにせよ久遠寺は口を開いていても閉じていても威圧感のある奴で、そういうところが他人を遠ざける。僕はあまり気にしない。だから必然、僕と久遠寺は大抵いつでも一緒にいるのだ。
「意義あり、かな。破壊も創造も、その行為自体が重要なんであって」
「つまるところ、壊す人間も創る人間も、『何を壊すか』『何を創るか』なんて問題にしちゃいないんだろうと言いたいんだろう」
図星を疲れたので、そうじゃないさ、といってごまかす。久遠寺は続けて
「壊すのも創るのも、どちらも存在への『執着』なくしてはありえない。たとえ壊した後、創ったあとに、その存在への意思が零ベクトルになったからって、最初から無関係だったということにはならない」
ここまで一息に言い終えてから、酸素を求めてわずかに喘いだ。唇には薄くカラーリップがのっている。
「なんだかそういうの、セクシィ」
通じないのを前提に言ったがやはり通じなかったようで、久遠寺はぼそっと、君の離散性には時々ついていけない、とだけ言った。
水族館に併設されたこのカフェには、当の水族館と同じく客が少ない。というのも今が皆忙しくしている平日の昼過ぎだからで、その「皆」に含まれない僕と久遠寺はいわゆる有閑大学生なのだった。僕らはいつも一番奥の四角いテーブルに陣取る。そこ以外は全部丸テーブルになっていて、久遠寺は丸テーブルが嫌いだ。二人で座るには機能的じゃないから、と彼女は言う。
「全然関係ない話だけど、マンタっておいしいのかな。僕はエイヒレも食べたことがないのだけれど」
ガラスの向こうを見やる。そこは隣の水族館の大水槽で、この眺めが小さなカフェの売りだった。
「さぁ、私も食べたことはないけど。浸透圧調整に尿素を使うような生き物がおいしいとは思えない。醗酵させて食べるって言う話も聞くけど、個人的には遠慮したいな」
そう、と僕は頷く。彼女は納豆も食べられない。
「あれ、でもヨーグルト好きだったよな」
「発酵食品が駄目だって言ってるわけじゃない。アンモニア臭が無理な気がするんだ」
「納豆は」
「あれはそもそも久遠寺の家で食卓に上がらないんだ、食わず嫌いなら両親の責任だと思う」
こういうとき振りでもいいからむくれた顔でもして見せればいいのに、と思う。実際は無表情でしれっと言ってのける奴なので、彼女をカフェに誘うのは僕ぐらいだ。
「あとね、その水槽にはマンタはいないよ。あれはイトマキエイって言う種で、よく似てるけどマンタじゃない」
「国中の糸車を燃やすんだよ、あれはなんだったっけ」
久遠寺が微妙な顔をした。鯨が豆鉄砲を食ったような顔だ。
「童話にあるよな。王様が国中の糸車を回す話。なんていうタイトルだっけ」
「糸巻きからの連想か。毎度藪から棒だな」
「思い出せない。お姫様が糸車のせいで死ぬって言うんで、王様が……親指姫だっけ」
なんだか指を糸車で刺されるんじゃなかったか。いや、糸車ってどこか刺さるような部分があったかな。
「あぁ……いや、違うな、親指姫は誘拐犯に人気の少女の話だ」
「シンデレラ」
「カボチャ馬車にガラスの靴、魔女のセンスを疑う話」
「白雪姫」
「睡眠中の乙女の唇を奪う不届き物の話」
「ごめんネタ切れだ」
「私の勝ちかな。今を持って今日の夕食は牛に決定された……ちょっと待って、何の話だった」
「糸車のどこに人を刺す余地があるのか」
「刺さるものじゃないのか」
「糸車の錘って刺さるほど尖ってないと思う」
久遠寺は少し考えたが、すぐに放棄したようだった。
「残念だけど私はそもそも糸車というデバイスの詳細に思い当たらない。大体国王なら娘一人のために国全体の紡績産業をつぶすような真似をしてどうする」
確かに非合理的だけど、と僕が付け加えて一段落になった。四角いテーブルに二つのカップ。両方ともブラックだが、僕の分はもうない。灰皿は久遠寺が断った。よほどここのコーヒーが気に入っているのだろう。
僕はしばらく黙って久遠寺を見ていた。前髪の梳かし方が乱暴なのは、自分ではさみを入れているからだろう。そのざっくりとした前髪の奥で、彼女は水槽に目をやっていた。たぶんシュモクザメを探して。あの個性的な顔の中に隠されたレーダー機能について、延々と講釈してくれたことがある。
「夕飯だけどさ」
「さっき私が買って牛に決まった」
話の流れの冗談ではなかったらしい。最も久遠寺は表情に乏しいので、そもそも彼女の発言が冗談かどうか判別するのは難しいのだが。
「それはともかく。まともに作るならそろそろ買い物に行きたい」
「もうそんな時間か、驚いたな」
顔は驚かないまま彼女が腕時計を見る。文字盤がゆるくカーブした三角形を描くそれを見て、僕はシュモクザメを連想する。機能と連動しているデザイン。機能を拒否しているデザイン。違いはあるけれど様態はよく似て奇抜だ。久遠寺は奇抜なものに何か憧れがあるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。黒のピーコートを羽織った彼女は、外見上は普通の大学生だった。
会計はいつものように久遠寺が持った。土地柄なかなか根の張るコーヒーだったが、これから牛肉を買うことを考えると、僕のほうが払う金額は大きい。
「僕が思うに、マクドナルドも牛肉だよな」
「あれはマクドナルド。牛肉じゃない。ハンバーグですらない。ハンバーガーに挟まってるものがハンバーグだと思っているなら、それは言葉の奴隷ってもんだよ。ハンバーグを注文して、あの薄くてパサついた塊が出てきたら私は怒る」
「でも、ちゃんと牛百パーセントだよ」
「牛肉のレゾンテードルは私に牛肉を感じさせることだよ。それができない牛肉は牛肉じゃない。それができない牛肉は牛肉じゃない。逆に言えば、それさえ満たせば牛肉じゃなくてもいいんだ」
「チンジャオロース、豚肉で作ってみるかな」
冗談のつもりで言ったが、彼女は笑ってなかった。
外は朝よりもさらに冷え込んでいて、僕と久遠寺は白い息を吐いた。寒いね、とぼくは言ったが、言わなくても共有できる情報をわざわざ口にすることの非合理性について彼女が何か言いたそうだったので首を振って封じた。
『眠れる森の美女』だ、と僕は思い出した。糸車に刺されて茨の城で眠るのだ。あれも白雪姫と同じ展開だったっけ。そう、不届きものが。
僕は久遠寺に一歩近づいたが、タイミング悪く彼女が煙草を咥えたので、半歩はなれて、自分のポケットを探った。煙草はすぐに出てきたが、ライターが見当たらなかった。
「火、貸してくれ」
「マッチ、あと一本しかないんだ・私のも一緒につけるからもうちょっとよれ」
しゅ、と音がして、燐が香る。鼻の先七センチに久遠寺の顔があった。僕は少し気恥ずかしかったが、彼女はいつもどおりだった。
鉄面皮。
なるほど、茨の城か・
「僕は時折、君を壊したいって思うよ」
「私を創りたいと思うよりは幾分健全な発想じゃないかな。創造より破壊のほうが建設的というのも、なかなかに哲学的だね」
どちらにせよお互い妙な相手に『執着』したものだ、と久遠寺は笑った。
「私も、君が壊れてくれたらとよく思う」
スーパーで豚肉とピーマンと納豆を買った。エイヒレは、売っていなかった。
ここから鈴木。
12/3
「レゾンベクトル」について思うこといくつか。
・書き出しが極端に抽象的というのは俺は良くないと思う。むやみにペダンティックな印象。ただしこれが全体の構造を先取りしている。この小説はキャラクター小説です。言葉をつかって自分と相手(主人公・一人称の浅木とその彼女の位置にいる久遠寺)をキャラクター付けようとする話。→読みで考えるべきは、そのキャラクター付けの行為がどういう風な不満を生んでいるかということ。
・「破壊と創造はよく似てた行為だと思うよ。つまり既存への不満、既製への不振というその根源において両者は等しい」という書き出し。
・科白の多さ。対話形式のような気がするけど、その議論は深まっていっている気はしない。哲学的探求では決してないと思う。なので、勝手に掘り下げます。人これを妄想という。
・と同時に、浅木と久遠寺の言葉遣いの対称性・非対称性は注意すべき
・一人称の小説だから、キャラクター小説ではあるけれども、それは「浅木からみた」久遠寺であるとか、「浅木からみた」浅木であるとか、そういう風な間接的な表現になるだろうと思う。これはもちろん叙述トリックが仕掛けられているような定石。
・俺としては浅木が久遠寺を地の文で表現するあたりに違和感を感じる。久遠寺が威圧感あるとか、久遠寺が奇妙だとか、久遠寺が合理的だとか、そんなことをいうのに何のメリットがあるのか?そういうことを言うのはそういうことを言うことで浅木が得をするから。そういわなければならないほど、この関係は危ういし、浅木は相手のことをそういうものでなければならないと思っている。また自分はこういうものでなければならないと思っているはず。
・一方久遠寺は相手や自分、その関係のことを言葉として表現しなければいけないほど危ういと思っているのか?やや不明。だけれどもこのように大変どうでもいい話を率先して続けるのは久遠寺だから、少しはキャラクターという役割を思っている。しかし真性の天然かもしれないからそれは不明。解釈可能な余地がある。
・キーワード
全般:「破壊・創造」「執着」「合理性」「個性的」
水族館:「コーヒー」「煙草」
食品類:「牛肉」「納豆」
昔話:「イトマキエイ」「不届きもの」「茨の城」
・俺、なんとなくこの小説「彼女は全幅の信頼を俺にくれるのだけれど、俺はほんとにそうなのか鈍感だからなのか分からなくて、人の顔を盗み見たり値踏みしたり、あるいはリクエストに答えずその信頼が正しいのか確かめたくてしょうがないクソ大学生童貞野郎」のストーリーと、「俺は彼女に全幅の信頼を置いているし彼女も俺に全幅の信頼を置いているが、どっちもそれが分かっているにもかかわらずうまく伝え方が分からない純情さんたちの、ごっこ遊びによるある種の幸せな退屈の共有」のストーリーが混在しているような、そんなものなんじゃないだろうかと思ってる。作者的には後者らしい。
・やはり久遠寺だろう。久遠寺が浅木を好きだという前提が、俺、大変恐怖。
12/4
先日の風邪から痰が。咳に混じって大変煩わしい。
ここから原作が結構どうでも良くなる。
・明らかに恋愛ごっこ。恋愛ごっこの脚本の中で登場する真の意味での「主人公」「ヒロイン」を彼らは知っているのか。もちろんたとえば久遠寺と茨姫はことなるし、浅木は不届き者ではないわけだけれども。俺は眠れる森の美女よりも茨姫と言うほうが好きです。
・そのキャラクターは自分ひとりで演じられる類のものではないから、二人の思惑は一度「共有はされるが明示的ではない(暗示される)スタック」に吸収され、それを参照する形で二人の劇は行われる、きがする。というより、そう考えたほうがモデル化が簡単。証拠はない。つまり以下のような参考。
・「浅木と久遠寺」/「既存の関係(場)」:「王子と茨姫」
・「浅木と久遠寺」は自分自身を表現しない(できない)けれども、よその演劇をパクってきて「関係場」に代入できる。演劇の舞台を変更することができる。
・「関係場」はその時々の演劇の進行を見ながら、「浅木と久遠寺」を演劇に配置して彼らを動かす。これは「どちらもイニチアシブを持つをわけではない」としたら、この配置はかなり自動的に行われる。ただしここの支配権が争われるだろうとも思う。そのへんはこの小説には書いてない。浅木がびびりつつもごっこ遊びを先導しようとしている程度。久遠寺は不明。
・「キャラクター」は最終的な行為を行うけれど、それは明らかに「浅木と久遠寺」の寓意になっている。演劇を用いて、彼らは自分の考えを表現できないこともないが、間接的。
その晩
・くっそー罠にかかりやがったなアホが!とか言われた。くそうわかんねぇ。これ以上の論理が奴には見えているというのか。
・しかし確かに核心的な一文は足りない気がする。
・いいです俺はアマガミやります。
・迂遠な表現を用いるので彼らはキャラクターに憑依されている。結局彼らは恋愛ごっこに取り付かれていて、彼らは「本当の」恋愛をしていない、とでもいうのか。所詮その程度だろう、キャラクターをあえて選ぶ、というようなあきらめはいつもある。「だが、それがいい」のか「それは虚飾だろう」なのか。核心的な一文がどこにもないから、それは不完全ともいえるし、宙吊りにされていて「決めることができない」という両者の立場を中止するひとつ上の見解として取れないこともない。
12/5
・結局アマガミは梨穂子ルートをクリアしました。
・彼らはなぜ「好き」とか「愛してる」とかそういう系の直接的な魔法の言葉を使わないんですか?好きじゃないんですか?好きじゃないのに一緒にいたい?しかしそれも十分ありだろう。見解として十分ありうる。
・昔この小説については作者の方に「結局浅木はチンコ突っ込みたいだけなんじゃねぇの?」という暴言を吐いてみたりしたのですけれどそれはあまりに魔法過ぎてぐうの音もでねぇ。っていうかどっちの立場もかなり嘘くさいんすよ。なぜならそれは彼らが行う過剰な演劇ぶりに、「ちんこ突っ込みたい」というのも「チンコ突っ込みたくない」というのも、「ぬるい立場」も「えろい立場」も立場のひとつでしかないということを暴露されているから。それらの立場が「登場人物」の次元ではすでに失効していて、有効性が、リアル感が「キャラクター」の次元へ吸収されちまうからです。だからこそ、「あえて選ぶこと」が必要だと思うし、それと同じ次元で「あえて選ばない」ということ、「なぜこの立場を明らかにしないのか」というところをこそ表現しなければならないわけ。こんな演劇がくだらないということは、彼らはちゃんと知っている。だからこそだ。
・この関係は「登場人物」ではなくて「キャラクター」の関係として理解されなければならない。(そうしなければ彼らはコミュニケーションもできないから。)「キャラクター」の次元で対話をするものが、「本当の」(リアルな)次元(と彼らが考えているところのもの)に復帰することっていうのは果たしてどれぐらい有効だろうか。そんなもん嘘だろ。リアルなんてものがあるのか。演劇で十分というか、実際不可能である。「本当に」恋愛するというのは不可能です。いや、「「本当に」恋愛しているかどうかというのを確かめること」が不可能。彼らは寓意的にしか捉えることができない。
・先ほど「憑依」と表現したけれど、それは「「キャラクター」と「登場人物」の間にはぼんやりとした対応がある」ということです。だから、「キャラクター」を経由することで「登場人物」の理解が可能になるのですけれど、それはどういう風に表現されているのか?さきに「登場人物」がいるから「キャラクター」が成立するのか、「キャラクター」がいるから「登場人物」が成立するのか?
・見えるのは「キャラクター」だけです。しかしだからといって「キャラクター」が「登場人物」を構成しているとは言えない。
晩。
・「キャラクター」を介して「登場人物」を観察するという企てを説明すると以下のようになる。
・「キャラクター」は「登場人物」を「構成している」かどうかは不明。つまりまず「キャラクター」が表現の舞台の根底に存在していて、「キャラクター」は「登場人物」を作り上げる、というような論理を踏むことはできない。
・逆に「登場人物」から「キャラクター」が「構成されている」ともいえない。
・両者はどちらが基礎にあるのかは分からない。
・しかしながらいくらかの手続きを踏むことで、「キャラクター」「登場人物」「演劇」という三つの項は、それぞれを表現しているということはできるように思う。
・なぜ「演劇」が「キャラクター」と「登場人物」のあいだに割って入らなければならないのか?この仕組みはこれから述べる。
・まず仮に「登場人物」が根底に「存在している」と仮定する。しかしそれは何がしかのコミュニケーションをとるために必要なものを持っていない、とも仮定する。できることは次のことである。「登場人物」は「演劇」のシナリオを暫定的にコミュニケーションの舞台へ提示することができる。その「演劇」の選択は恣意的で、好きなように話を持っていける。またそれはある種の決まった型から選ばれるので、それは完全に状況に適しているわけではない。
・次に「演劇」シナリオは具体的な「キャラクター」を自動的に組み上げる。それは「登場人物」に依存しない。この時点で「登場人物」の意図を一部組み込んだ「キャラクター」が出来上がるが、あくまでも「キャラクター」は「演劇」性によって作られるので、「キャラクター」は「登場人物」の意図を含みつつも「演劇」の自動的な表現として現れるからそれは他の「演劇」、演じられていない「演劇」、「登場人物」の意図していない「演劇」も同時に組み込まれていることになる。「キャラクター」を「登場人物」は直接的にコントロールできないし、また「キャラクター」は「登場人物」の意図を100%組み込んだものにもならない。「登場人物」は「キャラクター」の挙動を完全に知っているわけではない。言ってしまえばブラックボックスなので、そのブラックボックスはどこかにおいておかなければならない、というのが「演劇」という項を設ける理由だ。ただしブラックボックスといってもそれはある程度どういうことを表現しているのかは分かる。分からないのは、実際に現実に適応させたときの体の動きとか言葉のつなげ方とかの、微細な部分だ。俺はその微細な部分は表現において意味があり(意味がかなり勝手に宿っていて)(憑依していて)、無視できないものだと考える。
・そこで出来上がった「キャラクター」のト書きにしたがって「登場人物」は行為を実行する。「キャラクター」の動作の大まかな意味は「登場人物」が支配しているけれど細部の意味は「演劇」が指示している。これらの混合物を「登場人物」が「キャラクター」に「なって」演技するのだけれど、そこには必ず自分でも意図しないことが含まれている。「キャラクター」は「演劇」の浸透した「登場人物」なのだ。
・彼があくまでも「キャラクター」と「登場人物」を等価のもので見なそうとする場合、「演劇」性はフィードバックを見ながら徐々に切り詰められていくことになるだろう。より近い「演劇」の脚本はなんなのかという話になる。しかしそうすると、やはり「登場人物」と「演劇」は近づいていく。彼は自分が「登場人物」なのか「演劇」なのか、判別できなくなるだろう。そこで「登場人物」は存在せず「演劇」ですべてを振舞うという立場と、「演劇」と同じでも良いから「登場人物」として振舞うという立場が対立し、どちらかを選ぶにしても決めれないとして保留するにしてもここには深い意志が働くから、これは十分文学性に結びつくと期待できる。
・彼が「キャラクター」と「登場人物」は別物であるとするなら、「キャラクター」は「登場人物」を反映しないものとなる。直接見て取れるのは「キャラクター」であって「登場人物」を理解することはもはやできないから、ここには「登場人物」を喪失した「登場人物」という奇妙な主題が成立して、これは結構面白い。
12/6
・さて、浅木と久遠時はどういう風な「登場人物」か。それで彼らは相手のどこに『執着』を見出しているのか。彼らの言う「破壊と創造」とは何か。ようやく本文の問題へ戻ってくることができるだろうと思う。
・俺としては、彼らは分かってるプレイヤーだと思っていたい。ので、これらの分類については言葉にはしていないものの了解しているとする。
・彼らは本質的に分かり合えているのか?互いの立場というものを分かった上で科白を発しているのか?
・やっぱ久遠寺の語る「零ベクトル」の意味が不明である。「キャラクター小説」というような枠組みで分析することはできないと思う。ただし、これは本当に意味があって言ったのかどうか、というのは俺は怪しいと思う。フレーバーのような……いやいや。まてまて。
・なんとなくでものを語るのだけれど、まず浅木と久遠寺の立場は上の「登場人物」と「キャラクター」を同じと見なすか違うと見なすかで異なっているように思う。これは全く俺のカンでものを言っている。浅木はどうもキャラクターと自分を同一化しようとするような(つまり自分は「キャラクター」そのものではなく、それに近づかなければならないと思っているような)文を放っているように見える。やたらと久遠寺を自分の認識で表現しようとするのは久遠寺という「登場人物」を演劇の「キャラクター」と同一化しようとする欲望の現われだと思うし、自分についても茨姫作中にでてくる「不届き者」と同じだろうと文学感のあるっぽい表現で述べてみたりする。久遠寺は持ち物といい自ら好んで奇抜なものを身に着けようとするなど、表現として「キャラクター」を演じているか、あるいは自分は「キャラクター」であるとして認識している、ような気がする。終始無表情でいられるというのは、まあ、たぶん自分が「キャラクター」であるということに疑問を持ってないんだろうな。「登場人物」を喪失している(というより自分の意思で捨てている)(厳密に言えば、それらは区別することができないと考えている)状態と言えると思う。このように彼らはおのおのの「登場人物」と「キャラクター」の理解で違いを持っている。
・で、彼らはお互いに相手の立場がなんであるか、おぼろげに、知っているだろう。
・「牛肉のレゾンデートルは私に牛肉を感じさせることだよ。それができない牛肉は牛肉じゃない」という久遠寺の科白は、「登場人物/キャラクターのレゾンデートルは私に登場人物/キャラクターを感じさせることであって、それができない登場人物/キャラクターは登場人物/キャラクターではない」ということだろうか。これらは感じられるところのもので十分だ(感じられる以上の分析は断念しなければならない)という立場に、彼女は立つことになる。
・それに対して浅木は「チンジャオロース、豚肉で作ってみるかな」と言う。牛肉と豚肉が異なるということを踏まえたうえで、これらを近づけようとしている。
・そんで、彼らはお互いの、登場人物/キャラクターへの理解、という立場の違いを理解している。そこでようやく、相手をどう思っているのか、相手の立場をどうしたいか、という「セックスする」だの「セックスしない」だのとキャラクターレベルで話を進めるよりもずっと根本的な、小説的な、対話が生起してくる。
・基本的には彼らは、相手の立場を理解している。そして、相手の立場を攻撃しようとは、していない。「いわなくても共有できる情報をわざわざ口にすることの非合理性について彼女が何か言いたそうだったので首を振って封じた」とか。
・相手の立場をどうこう言うのはただ「破壊と創造」という話の中だけだろう。それ以外で、浅木は特に相手の立場をどうこうと言っていない。ただ、久遠寺はしばしば発言しているような気もする。ぼそぼそと。
晩
・やはり印象的なラスト、(浅木)「僕は時折、君を壊したいって思うよ」(久遠寺)「私も、君が壊れてくれたらとよく思う」である。
・単純にこの科白から分かるのは、浅木は能動的に久遠寺を壊したいと思っている一方、久遠寺は浅木が自発的に壊れてほしいと思っていること。この非対称性はどこから現れるのかだけれども、あれだけ言ったんだ、登場人物/キャラクターで分解できなけりゃおかしいぞ記事的に。
・「壊す」「壊れる」が意味するのは、相手の立場の破壊・崩壊だというのは明白です。相手の立場がだめになって、自分のほうに寄ってきてくれないかな。自分と同じところに立っていてほしいな。そんな欲望。それが常に隠されています。いじましいことです。そんな複雑さを彼らは持っている。
・まず浅木から話を進めましょう。久遠寺の、「登場人物/キャラクター」に対する判別の諦念を「壊したい」。浅木は何よりも「登場人物」としての浅木が「キャラクター」としての浅木と異なっていることを理解していて、その弁別を理解したうえでこれをできる限り近づけようと考えている。だから演劇的な表現を使うわけだけれども、久遠寺に「登場人物」と「キャラクター」は区別できないでしょうと言われれば自分がしている「キャラクター」としての演技が意味がなくなる。「本当」の自分は「登場人物」という立場も危うい。そして彼の文学的な、演劇的な振る舞いはもはや演劇的でもなんでもなくなる。だから、「登場人物」としてのレイヤーが、久遠寺のそれを壊したいと考えていると思う。あくまで「登場人物」として壊したいと思っていて、彼は、そこに自分の価値があると考えています。自分で演技を選ぶことができると思っているように、自分で彼女の立場を壊したいと思っている。
・久遠寺は浅木の「登場人物」と「キャラクター」を隔てている厳格な仕切りが、壊れないかなと思っています。彼女は先に自分の「登場人物」と「キャラクター」の区別をつけることをあきらめているから、浅木よりも消極的だろう。そしてまた、自分が「キャラクター」として実際の行動を行うのだから、その有効範囲も「キャラクター」を構成する「演劇」の立場までであろうということが分かっている。自分の不可能性を彼女はより知っている。だから浅木の真の立場である「登場人物」のところまで、自分は届かないと判断していて、だからこそ浅木は自分で区別できないということに気づかなければならないでしょう、自分で壊れて、と、そういう話です。
・彼らは「破壊と創造」の話を繰り返すけれども、相手を破壊したいと常に考えているわけではもちろんないだろう。久遠寺は常に合理性を重視しているし、おそらく浅木も久遠寺の合理性を大方は評価している。
・合理性とは、あるシステム内でもっとも利益を大きくするように行為するということであって(社会学の意味での合理性と考えてもいいと思う)、それは行為が表面上非合理的に見えたとしても(たとえ浅木が「登場人物」と「キャラクター」に引き裂かれていようとも)あくまでのそのシステム内で最大利益を目指すものだから、それは自分がどの立場に立っているのが有効なのか、両方の立場を理解しつつ、それらが自分にもたらす利益を天秤にかけた上でどちらが有効か決めることと言えるだろう。ただしその利益というのはやはり自分の立場から見た二つの立場の利益のことであるから、結局自分の立場をより高く評価している、と思う。彼らは自分の立場を(絶対的でないにしても暫定的に)正しいと思っているし、だから相手に認めてもらうことで暫定的な正しさをより正当化しようとしたい。
・しかし、この合理性による自分の利益の増大よりも、彼らには重要なものがある。それはその「合理性」そのものを正当化している関係性、つまるところこの「演劇」だろう。演劇という枠組みがなければ「登場人物」と「キャラクター」の概念は生まれないものであって、浅木と久遠寺の「登場人物/キャラクター」感の違いは彼らがともに「演劇」という立場に立っているからこそ起こっている。そこで彼らは合意を得ているといえる。
・「演劇」による協調的に行われるかれらの振る舞い、彼らは、「演劇」の地点で微妙な相手との関係を位置づけている。そして、この位置づけは、本文が始まる前からすでに確立されている、と思う。そうしないとこの議論が途端に立ち行かなくなるので、そこはそういうもんとして見逃していただきたい。二、三ページの本文にこの前提を証拠付けるのにはかなり無理があるとは分かってます(俺が)。
・その点を同意の上で、彼らが「破壊と創造」について話すことに意味がある。
・相手の破壊とか崩壊とかを願うのは彼らの合理性を構成している「演劇」そのものを崩壊させるかもしれない。簡単に言えば、相手の立場を粉砕してしまったら、この怠惰な「演劇」のシステムも戻ってこないだろう、と彼らは危惧している。相手の立場に介入することは自分本位な彼らの合理性を成り立たなくさせるからです。既製の「演劇」という立場に立っていなければ脆くも崩れさる自意識だ。だから彼らは「キャラクター」として語り、本心でものを言わず、小競り合いで満足することにしているけれど、そこであえて相手の破滅を願う。「自分の立場に相手も立ってほしい」(だから相手の立場が自分と異なるなら、それはなんでもいい)(「つまるところ、壊す人間も創る人間も、『何を壊すか』『何を創るか』なんて問題にしちゃいない」)という明らかに非合理的な不満を、彼らは完全に満たしたい。それはどうしようもない事態だけれど、どうしてもそういうことを語らざるを得ない!そこに俺は文学性を見出す。これこそが彼らの言う『執着』です。その立場の違いを是正することは今の関係自体がどういう風に成り立っているのかを考えれば、どうにもならないということが分かっている、にもかかわらずそれ以上のものを得ようとしている。相手の立場と自分の立場の違いに心奪われていて、思い切って自分たちの演劇に徹することが、ついにできないということ。
・作者は、こういうことをやんわりと書きたかったんじゃないかなぁ、って俺は思います。しかしどう考えても超訳だと思う。すでに本文の三倍ぐらいは書いたもんな。思い切り仮定を導入したので、これを「本文に書いてねぇじゃねぇかボケが!」というのはたやすいと思う。ひとつの読み方でしかないだろう。読みたい人は自分の思うような読み方で読めばいいと思います。しかし各人によって異なる解釈にまたがる、そのハードコアは必ずあるだろうというのが俺の考えです。
・何かあれば下の米欄にどうぞ。アマガミの話でもかまいません。
・零ベクトルの話をし忘れた。気が向けば書きます。
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