ボーイ・ミーツ・ガール
・ボーイ・ミーツ・ガールについて
まあ奇山くんの作品読んだ時に色々思うところはありましたが、特に感じたのは浅木の「レゾンベクトル」との類似でした。レゾンベクトルについての評はブログに乗っけてあるので読もうと思ったら読めます。
で、まあ、なんつうか、いいか悪いかとかはまあ置いとくとして、主人公の自意識過剰な感じとかはある種の共感できるポイントだと思うし、それとともにヒロインに社会性を負わせるような手法は主人公の自意識過剰感と同時によく演出されるかな、という感覚はあります。
「彼女がぼくを救い出してくれる(殺してくれる)」といった幻想はつまるところがボーイ・ミーツ・ガール的類型ですよね。ヒロインを通して、自分を見たり、社会を見たりする方法は広範に用いられます。何らかの手段を経由して抽象的なものにアクセスする、という方法の典型的な例と言えるでしょう。俺はその方法論を否定しません。方法を無視して論述はできないからです。
で、とりあえずボーイ・ミーツ・ガールの類型を分類して整理してみることにしました。
まあ奇山くんの作品読んだ時に色々思うところはありましたが、特に感じたのは浅木の「レゾンベクトル」との類似でした。レゾンベクトルについての評はブログに乗っけてあるので読もうと思ったら読めます。
で、まあ、なんつうか、いいか悪いかとかはまあ置いとくとして、主人公の自意識過剰な感じとかはある種の共感できるポイントだと思うし、それとともにヒロインに社会性を負わせるような手法は主人公の自意識過剰感と同時によく演出されるかな、という感覚はあります。
「彼女がぼくを救い出してくれる(殺してくれる)」といった幻想はつまるところがボーイ・ミーツ・ガール的類型ですよね。ヒロインを通して、自分を見たり、社会を見たりする方法は広範に用いられます。何らかの手段を経由して抽象的なものにアクセスする、という方法の典型的な例と言えるでしょう。俺はその方法論を否定しません。方法を無視して論述はできないからです。
で、とりあえずボーイ・ミーツ・ガールの類型を分類して整理してみることにしました。
・ボーイ・ミーツ・ガール類型
広範な表現から分類整理していくことにします。
「何かを通して何かをみる」というのが最初のもっとも広範な方法論として提示することにします。(これ以外の方法論も否定しません。今回はこれについて考えるという話。)この方法論の中には幾らかの項が含まれているのでこれを取り出します。
A:「だれ」がみるのか。
B:「何を通して」みるのか。
この細目に従って典例を分類していきましょう。
A:「だれ」がみるのか。
これは私・主人公のパターンのみ考えます。私の属性に従って分類。
a1:少年
a2:青年
少年と青年の差は、とりあえずは「承認されているかどうか」とかと考えてみるといいと思います。「承認されてない」少年が「承認されている」青年になる、と単純には考えればよし。その過程を書くのはボーイ・ミーツ・ガールものとして十分面白いはず。物語の過程としては初状態から終状態への遷移として分類できます。初状態と終状態の差異を分類の指標として供する事が出来ればそれは十分ボーイ・ミーツ・ガールを果たしている。a1→a2がイニシエーションとして表現される、というのが伝統的形式になるけれども、a1→a1とかa2→a2とかでも差異がみつかればそれは物語になりうる。
これは男性の場合として考えましたが女性の場合は以下のようになります。
a'1:少女
a'2:乙女
a'3:女性
これは昔涼さんと話してたときになんかそういう分類できそうですよねという話をしたので、そう分類しときました。「なんで三段階あるんですか」という疑問が当然のように湧きますが、これは単に女性の場合だと語彙が定義されてるから分類しやすいという話です。実際には男性にも女性にも三段階や、もっと多くの分類が可能だろうと思う。
このへんに起因する分類の無さについて俺は男性に「童貞」とかを与えてもいいだろうとは思います。最初の段階では、「童貞」という用語は文脈に塗れているので取り扱いが面倒だな、って言う印象があってとりあえず避けました。「童貞」に比べると「乙女」は割と扱いやすそうな感覚があります。女性でも状態の遷移を考えたうえで、そこから差異を導き、作品の主題を導くことができます。ほかにも男性→女性とかいう遷移も可能ではあります。(これは性的混乱の危機とかの問題で、オタク・やおいなどではそれが現実問題として表出しているのではないか、とかいう指摘もあります)
B:「何を通して」みるのか。
これは普通作品のテーマです。スポーツを主題にするものならスポーツになる。それは「自己言及」の悪路を踏破するための指標になる場合があります。これによって見えるものが決定されるからです。これも分類しましょう。
分類のための指標は、「A:主人公との可換性」とかでしょうかね。言い方を変えれば、「主人公になりうるかどうか」「主人公を通して変化するかどうか」だと思う。するとこの分類は2つで、
b1:交換する
b2:交換しない
です。
で、「なぜ交換するかどうかが大事なのか?」ですが、頭にあるのはスポーツ漫画です。スポーツ漫画は、「スポーツ」をテーマとして書く場合、「勝利」を求めることになります。「勝利」するために「スポーツ」をするわけです。この場合、「主人公」→「スポーツ」→「勝利」と言うふうな図式が書ける。しかし、「スポーツが」主人公を通して「勝利する」というのは文法的に成り立ちません。「スポーツ」→「主人公」→「勝利」とはならない。スポーツは、「b2:交換しない」ものになります。一方で同じスポーツ漫画でも、「チームメイト」を通して主題を分析すると、「友情」とかになるかと思いますが、これは「主人公」→「チームメイト」→「友情」、「チームメイト」→「主人公」→「友情」はともに成り立ちます。この場合、チームメイトは、「b1:交換する」ものとなります。
この分析を通じて、「交換するかどうか」ということは、「システム」か「プレイヤー」かを分類する要件になっていることがわかります。この交換するかどうか、という観点は、俺はひどく重要な要素だと考える。主人公が求めるものをシステムにもとめるかプレイヤーに求めるかというのは、A:「だれ」がみるのかの初状態と終状態の決定に大きく関わる要件です。
・ボーイ・ミーツ・ガールとは何か
このような分類を提供しておきました。この分類は割と広範に使えるような気がします。スポーツ漫画だって分析できるような細目にしたつもり。用具建てが整ったところで、ボーイ・ミーツ・ガールを分析・分類整理していきましょう。要点は「ヒロインはシステムかプレイヤーか」です。
b1:ヒロインはシステム
この場合、システムを経由した「真理」が与えられます。まあかぎかっこ付きの「真理」ではあるんですが、「主人公」→「ヒロイン」→「真理」であって、「ヒロイン」→「主人公」→「真理」ではない。この場合、ヒロインは主人公を見ません。というか、対話が成立しない。「真理」は神託のように与えられます。例えば、なんかよく分からんけどヒロインが主人公に無償の愛を与えたりするのとかは神託ですよね。ヒロインが主人公を嫌っているのも神託です。
この時は、主人公はこの「真理」を受け入れるか、受け入れないかの二者択一を迫られる事になりますね。この二者択一を宙吊りにする事もできますが、とりあえずはこの二者択一を前景化して話をすすめることになります。それで、受け入れたらa1→a2とかになり、受け入れなかったらa1→a1とかになる。少なくとも、「受け入れるかどうか」が問題になり、それが「承認されるかどうか」に関わることになるでしょう。主人公が変化するかどうかに関わらず、ヒロインは変化しません。
b2:ヒロインはプレイヤー
この場合、プレイヤーを経由した「契約」が与えられます。これはたぶんかぎかっこなしで契約でいいと思う。これは「主人公」→「ヒロイン」→「契約」と、「ヒロイン」→「主人公」→「契約」が同時に起こる。この場合、ヒロインは主人公を見ますし、対話が成立します。だから「契約」なわけですね。与えられる「契約」はプレイヤー間の協議によって変更可能なものになります。
この時、主人公はこの「契約」を結ぶ、結ばないに加えて、変更するという行為も行えます。b1:ヒロインはシステムとした時よりも広い行為が行えると同時に面倒でもあります。少なくとも「結ぶかどうか」が問題になり、これはb1のものよりも能動的です。またヒロインは「主人公になりうる」プレイヤーとして与えられたので、主人公の状態の変化だけでなく、ヒロインの状態の変化もまた考えていく必要があります。
ボーイ・ミーツ・ガールはAの分類を用いることで、普通に主人公のビルドゥングスロマンとして読めるんですけども、Bの分類、ヒロインの類型を問う物語でもあるだろう、とも俺は考えています。「ヒロインはシステムかプレイヤーか」を問う。
・童貞病
上のようにヒロインの性質によってボーイ・ミーツ・ガールの類型を分類整理しましたが、そもそもヒロインをプレイヤーから除外するとかうんこだと俺は思うわけです。ヒロインは人間だろ、と。しかしヒロインをシステムと同一視するような小説はしばしばあって、それはだいたい「主人公が自意識過剰的」なんですね。よくある。
主人公が自意識過剰になるのはなぜか。
それはヒロインをシステムと同一視すると考えているということであり、それはヒロインの立場に主人公が立つことができない想像力の拙さや対話の不可能性・困難に原因がある。ヒロインの一面だけをみることによって、彼女を変化しないものとして捉える観察力の貧困がある。これはある程度は仕方ないことです。主人公はヒロインの全てを捉えることはできない。とはいっても、ある程度はプレイヤーとしてみなす事は可能でしょう。この問が、「ボーイ・ミーツ・ガールとはなにか」の問いであろうと俺は考えます。また、それができないほど貧困な状態であるとき、主人公はヒロインをシステムへ引渡す。そして主人公は自意識過剰な自己言及へはまり込むことになる。これを俺は、童貞病と呼ぶことにします。
広範な表現から分類整理していくことにします。
「何かを通して何かをみる」というのが最初のもっとも広範な方法論として提示することにします。(これ以外の方法論も否定しません。今回はこれについて考えるという話。)この方法論の中には幾らかの項が含まれているのでこれを取り出します。
A:「だれ」がみるのか。
B:「何を通して」みるのか。
この細目に従って典例を分類していきましょう。
A:「だれ」がみるのか。
これは私・主人公のパターンのみ考えます。私の属性に従って分類。
a1:少年
a2:青年
少年と青年の差は、とりあえずは「承認されているかどうか」とかと考えてみるといいと思います。「承認されてない」少年が「承認されている」青年になる、と単純には考えればよし。その過程を書くのはボーイ・ミーツ・ガールものとして十分面白いはず。物語の過程としては初状態から終状態への遷移として分類できます。初状態と終状態の差異を分類の指標として供する事が出来ればそれは十分ボーイ・ミーツ・ガールを果たしている。a1→a2がイニシエーションとして表現される、というのが伝統的形式になるけれども、a1→a1とかa2→a2とかでも差異がみつかればそれは物語になりうる。
これは男性の場合として考えましたが女性の場合は以下のようになります。
a'1:少女
a'2:乙女
a'3:女性
これは昔涼さんと話してたときになんかそういう分類できそうですよねという話をしたので、そう分類しときました。「なんで三段階あるんですか」という疑問が当然のように湧きますが、これは単に女性の場合だと語彙が定義されてるから分類しやすいという話です。実際には男性にも女性にも三段階や、もっと多くの分類が可能だろうと思う。
このへんに起因する分類の無さについて俺は男性に「童貞」とかを与えてもいいだろうとは思います。最初の段階では、「童貞」という用語は文脈に塗れているので取り扱いが面倒だな、って言う印象があってとりあえず避けました。「童貞」に比べると「乙女」は割と扱いやすそうな感覚があります。女性でも状態の遷移を考えたうえで、そこから差異を導き、作品の主題を導くことができます。ほかにも男性→女性とかいう遷移も可能ではあります。(これは性的混乱の危機とかの問題で、オタク・やおいなどではそれが現実問題として表出しているのではないか、とかいう指摘もあります)
B:「何を通して」みるのか。
これは普通作品のテーマです。スポーツを主題にするものならスポーツになる。それは「自己言及」の悪路を踏破するための指標になる場合があります。これによって見えるものが決定されるからです。これも分類しましょう。
分類のための指標は、「A:主人公との可換性」とかでしょうかね。言い方を変えれば、「主人公になりうるかどうか」「主人公を通して変化するかどうか」だと思う。するとこの分類は2つで、
b1:交換する
b2:交換しない
です。
で、「なぜ交換するかどうかが大事なのか?」ですが、頭にあるのはスポーツ漫画です。スポーツ漫画は、「スポーツ」をテーマとして書く場合、「勝利」を求めることになります。「勝利」するために「スポーツ」をするわけです。この場合、「主人公」→「スポーツ」→「勝利」と言うふうな図式が書ける。しかし、「スポーツが」主人公を通して「勝利する」というのは文法的に成り立ちません。「スポーツ」→「主人公」→「勝利」とはならない。スポーツは、「b2:交換しない」ものになります。一方で同じスポーツ漫画でも、「チームメイト」を通して主題を分析すると、「友情」とかになるかと思いますが、これは「主人公」→「チームメイト」→「友情」、「チームメイト」→「主人公」→「友情」はともに成り立ちます。この場合、チームメイトは、「b1:交換する」ものとなります。
この分析を通じて、「交換するかどうか」ということは、「システム」か「プレイヤー」かを分類する要件になっていることがわかります。この交換するかどうか、という観点は、俺はひどく重要な要素だと考える。主人公が求めるものをシステムにもとめるかプレイヤーに求めるかというのは、A:「だれ」がみるのかの初状態と終状態の決定に大きく関わる要件です。
・ボーイ・ミーツ・ガールとは何か
このような分類を提供しておきました。この分類は割と広範に使えるような気がします。スポーツ漫画だって分析できるような細目にしたつもり。用具建てが整ったところで、ボーイ・ミーツ・ガールを分析・分類整理していきましょう。要点は「ヒロインはシステムかプレイヤーか」です。
b1:ヒロインはシステム
この場合、システムを経由した「真理」が与えられます。まあかぎかっこ付きの「真理」ではあるんですが、「主人公」→「ヒロイン」→「真理」であって、「ヒロイン」→「主人公」→「真理」ではない。この場合、ヒロインは主人公を見ません。というか、対話が成立しない。「真理」は神託のように与えられます。例えば、なんかよく分からんけどヒロインが主人公に無償の愛を与えたりするのとかは神託ですよね。ヒロインが主人公を嫌っているのも神託です。
この時は、主人公はこの「真理」を受け入れるか、受け入れないかの二者択一を迫られる事になりますね。この二者択一を宙吊りにする事もできますが、とりあえずはこの二者択一を前景化して話をすすめることになります。それで、受け入れたらa1→a2とかになり、受け入れなかったらa1→a1とかになる。少なくとも、「受け入れるかどうか」が問題になり、それが「承認されるかどうか」に関わることになるでしょう。主人公が変化するかどうかに関わらず、ヒロインは変化しません。
b2:ヒロインはプレイヤー
この場合、プレイヤーを経由した「契約」が与えられます。これはたぶんかぎかっこなしで契約でいいと思う。これは「主人公」→「ヒロイン」→「契約」と、「ヒロイン」→「主人公」→「契約」が同時に起こる。この場合、ヒロインは主人公を見ますし、対話が成立します。だから「契約」なわけですね。与えられる「契約」はプレイヤー間の協議によって変更可能なものになります。
この時、主人公はこの「契約」を結ぶ、結ばないに加えて、変更するという行為も行えます。b1:ヒロインはシステムとした時よりも広い行為が行えると同時に面倒でもあります。少なくとも「結ぶかどうか」が問題になり、これはb1のものよりも能動的です。またヒロインは「主人公になりうる」プレイヤーとして与えられたので、主人公の状態の変化だけでなく、ヒロインの状態の変化もまた考えていく必要があります。
ボーイ・ミーツ・ガールはAの分類を用いることで、普通に主人公のビルドゥングスロマンとして読めるんですけども、Bの分類、ヒロインの類型を問う物語でもあるだろう、とも俺は考えています。「ヒロインはシステムかプレイヤーか」を問う。
・童貞病
上のようにヒロインの性質によってボーイ・ミーツ・ガールの類型を分類整理しましたが、そもそもヒロインをプレイヤーから除外するとかうんこだと俺は思うわけです。ヒロインは人間だろ、と。しかしヒロインをシステムと同一視するような小説はしばしばあって、それはだいたい「主人公が自意識過剰的」なんですね。よくある。
主人公が自意識過剰になるのはなぜか。
それはヒロインをシステムと同一視すると考えているということであり、それはヒロインの立場に主人公が立つことができない想像力の拙さや対話の不可能性・困難に原因がある。ヒロインの一面だけをみることによって、彼女を変化しないものとして捉える観察力の貧困がある。これはある程度は仕方ないことです。主人公はヒロインの全てを捉えることはできない。とはいっても、ある程度はプレイヤーとしてみなす事は可能でしょう。この問が、「ボーイ・ミーツ・ガールとはなにか」の問いであろうと俺は考えます。また、それができないほど貧困な状態であるとき、主人公はヒロインをシステムへ引渡す。そして主人公は自意識過剰な自己言及へはまり込むことになる。これを俺は、童貞病と呼ぶことにします。
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