パスティーシュについて
ネット内某所で『ぱすてぃーしゅ』という言葉を見かけたので、ちょっとばかし何か書こうと思います。
かれこれ一年ちょっと前になりますが、僕自身パスティーシュでひとつ短編を書いたことがありました。超絶今更ですが、その短編をいかにして書いたのかというのを解説してみようと思ったわけであります。自分で自分の作品の解説をするだなんて、なんと恥ずかしいヤツ……と思われるかもしれませんが、まぁお暇な方はお付き合いください。
まず第一にそもそもパスティーシュとは何かというのをコトバンクで調べてみましょう。
【パスティーシュ】
他の作家の作品から借用されたイメージやモティーフ等を使って造り上げられた作品。素材となる作品中の特定の要素に共感し,これに一貫して光を当てるような操作が行われる場合と,素材にはらまれていた矛盾や緊張を強調して作品を再創造する場合とがある。
……と、あります。
要はエッセンスを抽出して、自分で再構成する。と僕は解釈しています。元々の作品から借りてくるのは、イメージ、モティーフ、エッセンスだけです。その点がパロディとは違う。
さて、まずは僕が昨年書いた短編ですが、こちらで読めます。
『ニセモノの神さま』http://creation.happy.nu/index.cgi?mode=work&no=587
で、何をパスティーシュしたのかと言うと、かの有名な夏目漱石の『夢十夜・第一夜』です。恐れ多いですが。これは青空文庫で手軽に読めますね。
青空文庫『夢十夜』http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card799.html
『第一夜』ではいろんな幻想的なことが起こりますが、その幻想的なことを一応解釈してみる。(この解釈は、実はとある講義で聞き知ったもので、僕の自論ではありません)
まずこのお話の中で、男は女の言葉を無条件に信じている。全然死にそうには見えないけれど、女がもう死にますと言った途端、これは死ぬだろうと思う。
そして女は、死の間際予言をする。
「死んだら、埋《う》めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片《かけ》を墓標《はかじるし》に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢《あ》いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯《うなず》いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍《そば》に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
男は女の言うとおりにする。しかしここもおかしい。大きな真珠貝で穴を掘る人なんていますか? そんなに簡単に星の欠片って落ちてきますか? でも、女の言うとおりになる。男が彼女を信じる限り、世界はその通りになるのだ、と仮定できます。
で、男は墓標の前で待ち続けるが、いっこう現れない。なにしろ百年は長い。そこでこの短編の転換点が来ます。それが次の一文。
しまいには、苔《こけ》の生《は》えた丸い石を眺めて、自分は女に欺《だま》されたのではなかろうかと思い出した。
ここで初めて、男はずっと信じていた女を『疑う』のです。そうすると、百合の花が出てくる。「百年はもう来ていたんだな」と、印象的なセリフで終わる。
女は実のところ、男の信頼というものを試していたわけです。男が女を信じ続ける限り、世界は女の言葉通り。だが、男が疑いを持った瞬間に、魔法は解ける。百合が現れ、女は二度と現れない。
ざっとこんな感じです。では、ここから僕が取り出したエッセンスは次の通り。
1、 女の言葉が世界を支配する。
2、 その支配が適用されるのは、主人公が彼女を信じているあいだだけ。
3、 主人公の信じる気持ちが失われた時、魔法が解ける。
このルールに従って、『ニセモノの神さま』を書きました。
少年がお姉さんの言うことを信じ、実行している限り、世界はお姉さんの言うとおりになる。そしてふとした瞬間、少年がお母さんに頼まれたおつかいを思い出し、お姉さんの言葉に背くと、そこで魔法が解ける。そういう風になっています。
まぁそんな感じです。長々と失礼いたしました。
また何かよき作品と巡り合えたらぱすてぃーしゅしてやろうと思います。では。
(ちなみに、この記事を書くにあたって、辻原登さんの『東京大学で世界文学を学ぶ』という本をちょっと参考にしています。そもそも僕がぱすてぃーしゅしてみようと思ったのは、この本による影響が大きかったので。一応紹介をば)
かれこれ一年ちょっと前になりますが、僕自身パスティーシュでひとつ短編を書いたことがありました。超絶今更ですが、その短編をいかにして書いたのかというのを解説してみようと思ったわけであります。自分で自分の作品の解説をするだなんて、なんと恥ずかしいヤツ……と思われるかもしれませんが、まぁお暇な方はお付き合いください。
まず第一にそもそもパスティーシュとは何かというのをコトバンクで調べてみましょう。
【パスティーシュ】
他の作家の作品から借用されたイメージやモティーフ等を使って造り上げられた作品。素材となる作品中の特定の要素に共感し,これに一貫して光を当てるような操作が行われる場合と,素材にはらまれていた矛盾や緊張を強調して作品を再創造する場合とがある。
……と、あります。
要はエッセンスを抽出して、自分で再構成する。と僕は解釈しています。元々の作品から借りてくるのは、イメージ、モティーフ、エッセンスだけです。その点がパロディとは違う。
さて、まずは僕が昨年書いた短編ですが、こちらで読めます。
『ニセモノの神さま』http://creation.happy.nu/index.cgi?mode=work&no=587
で、何をパスティーシュしたのかと言うと、かの有名な夏目漱石の『夢十夜・第一夜』です。恐れ多いですが。これは青空文庫で手軽に読めますね。
青空文庫『夢十夜』http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card799.html
『第一夜』ではいろんな幻想的なことが起こりますが、その幻想的なことを一応解釈してみる。(この解釈は、実はとある講義で聞き知ったもので、僕の自論ではありません)
まずこのお話の中で、男は女の言葉を無条件に信じている。全然死にそうには見えないけれど、女がもう死にますと言った途端、これは死ぬだろうと思う。
そして女は、死の間際予言をする。
「死んだら、埋《う》めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片《かけ》を墓標《はかじるし》に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢《あ》いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯《うなず》いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍《そば》に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
男は女の言うとおりにする。しかしここもおかしい。大きな真珠貝で穴を掘る人なんていますか? そんなに簡単に星の欠片って落ちてきますか? でも、女の言うとおりになる。男が彼女を信じる限り、世界はその通りになるのだ、と仮定できます。
で、男は墓標の前で待ち続けるが、いっこう現れない。なにしろ百年は長い。そこでこの短編の転換点が来ます。それが次の一文。
しまいには、苔《こけ》の生《は》えた丸い石を眺めて、自分は女に欺《だま》されたのではなかろうかと思い出した。
ここで初めて、男はずっと信じていた女を『疑う』のです。そうすると、百合の花が出てくる。「百年はもう来ていたんだな」と、印象的なセリフで終わる。
女は実のところ、男の信頼というものを試していたわけです。男が女を信じ続ける限り、世界は女の言葉通り。だが、男が疑いを持った瞬間に、魔法は解ける。百合が現れ、女は二度と現れない。
ざっとこんな感じです。では、ここから僕が取り出したエッセンスは次の通り。
1、 女の言葉が世界を支配する。
2、 その支配が適用されるのは、主人公が彼女を信じているあいだだけ。
3、 主人公の信じる気持ちが失われた時、魔法が解ける。
このルールに従って、『ニセモノの神さま』を書きました。
少年がお姉さんの言うことを信じ、実行している限り、世界はお姉さんの言うとおりになる。そしてふとした瞬間、少年がお母さんに頼まれたおつかいを思い出し、お姉さんの言葉に背くと、そこで魔法が解ける。そういう風になっています。
まぁそんな感じです。長々と失礼いたしました。
また何かよき作品と巡り合えたらぱすてぃーしゅしてやろうと思います。では。
(ちなみに、この記事を書くにあたって、辻原登さんの『東京大学で世界文学を学ぶ』という本をちょっと参考にしています。そもそも僕がぱすてぃーしゅしてみようと思ったのは、この本による影響が大きかったので。一応紹介をば)
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