なんと、上旬だったとは
9月の1日はこみトレだったのかな? 未定の冊子を手に取ってみてくれた皆様、ありがとうございます。参加した方々、お疲れさまでした。詳しいことは参加していない私から書きようがないので悪しからず。
で、今回の記事ですよ。
9月のどっかで担当だったし、そん時にもっちーにさんの記事を受けての書こうと思ってたら上旬担当という。もう、これは書くしかないですね。
で、今回の記事ですよ。
9月のどっかで担当だったし、そん時にもっちーにさんの記事を受けての書こうと思ってたら上旬担当という。もう、これは書くしかないですね。
では、名前考察始まります。(注:以下、私のぐだーが続きます。ぐだーを軽減させたい方は、キリトリ線で囲まれた部分をすっ飛ばしてくださいな)
-----キリトリ-----
私は、登場人物に名前を「付ける」というのになかなか苦労します。括弧付けで書いたように、名前というものは付けるものなのです。レッテルを貼るということです。幼稚園、保育園で、ひょっとしたら小学校低学年でもよく見られるお名前シールぺったんな感じです。そして、おそらく間違いなく読者はその名前の下に、その名前のフォルダーにその存在を入れるのでしょう。となると、その人物=その名前。その名前がその人物の象徴であり、短絡的に考えると、その名前がその人物の全てになるわけです。これは大変です。安易に名前が付けられません。名前一つで台無しになってしまう。
しかし、ある程度わざと書いたのでお気付きの方もおありかと思いますが、上記は短絡的で、安直です。もう少し弄繰り回してみます。
登場人物にとって、名前は大きな要素だと思います。名付け親からすると、一種の願いが込められていたりするかもしれませんし、その人物が生きてきた中で大なり小なり影響を与えてきたもので、与えるものでしょう。周囲の人物(小説内と小説外共に)に対しては、その人物を考える上で、入り口ともいえる、看板になるわけでしょう。簡単にいうと、思考上の、その人物を思い出したりする上での第一印象ですね。このように、名前というものは、本人、周り共に大きな要因です。
ではもう少し抉りましょう。本当に名前はそんな仰々しいものなのでしょうか? 確かに、名前が大きな意味を持つことは多々あるでしょう。私自身、そういう作品を見た記憶も無きにしも非ずです。しかし、名前自体の持つイメージというのはどこから来るのでしょうか。
なぜそんなことを言い出したかというと、名前が影響を与えるというのは、その名前が持つイメージがあるからなのではと思うからです。込められた願いであれ、なんであれ、その名前の持つ、人物像とでもいうべきイメージがあって、それをその名を持つ人物に重ね合わせるからそれぞれの影響があるのではと思うのです。
話を戻しましょう。そのイメージがどこから来るかということですね。先ず第一に、その字面というのがあるでしょう。もっちーにさんの記事で、もっちーにさんの筆名について書かれていらっしゃった通り、字面によるイメージは確かにあると思います。でも、それだけでしょうか。そこで二つ目。歴史を愛する方々には怒られてしまうかもしれませんが、例えばの話で、織田信長さんが織田光政だったとしましょう。後者の方が多少シャイニングな
気もしますが、それが、織田さん自身の人物像を変えてしまうほどのことでしょうか? 私はそうは思いません。信長であれ、光政であれ、織田さんの人物像というのは、織田さんが行った(とされる)事柄から来るものが大きいからだと思います。そして、その人物像に織田さんの名前が付けられるのです。その上で、織田さんの名前をお借りして、小説の登場人物に付けてみましょう。そうすると、歴史上の織田さんの人物像が、名前を介して小説上の織田さんに照らし合わされるでしょう。しかし、それが全てではない。人物像というのはその人物の行動に因るところが大きいのです。最初、小説上の織田さんを知らない内は歴史上の織田さんっぽいかなと思うでしょうが、小説上での織田さんを知っていくうちに、新たな織田さん像が出来上がってくるはずです。
では、最終的に名前のイメージはどちらに因るものなのか。私が思うに、世の中の多くのことと同様に、1か0ではないんじゃないかと。何とも曖昧で逃げているようではありますが、イメージというもの自体曖昧だし、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
上記を受けて、名前というものの字面に対する重要度は幾分軽減されたのではないでしょうか。極端にいうと最初に書いたお名前シールぺったんな感じですよ、所詮。ま、それが極端であるのは既に了承の上として、それでも名前のもつイメージ、人物像は、字面で第一印象があったとはいえ、その名を持つ人物の行動からのフィードバックがあるというのは、大きなことだと思います。
----- キリトリ -----
結果、私はたかが名前、されども名前と思うのです。別に名前の字面が全てではない、でもその字面を無視できるわけではない。
とはいえ、字面からの印象なんて人それぞれでもあると思います。犬から連想されるものが、可愛いワンちゃんな方もいらっしゃれば、精悍な犬! という方もいらっしゃるでしょう。ひょっとすると、犬っ娘な方もいらっしゃるかもしれないし、犬執事な方もいらっしゃるかもしれません。となると、字面を気にし過ぎるのも虚しいかもしれません。おおよそ、同じようなイメージが湧くと信じても、満場一致、いや、隣の人と一致したイメージが湧いてるなんてことはそうないと思います。
まぁ、その名を持つ人物の行動から生まれる人物像も、人に依ると思いますが、その行動をしたという事実は変わらない点、幾分こちらの方が人物像を伝える能力が高いかもしれません。
最終的に、名前の字面に悩むよりかは中身で悩もうと思ったりするわけです。
ところで、名前というのは中々遊び要素があって面白いものでもあると思いますね。字面を深く考えないとなると、別に兄妹で関連性のある名前にしてもいいわけですし、八墓さんの米でもあったように花言葉とかを参考にしてみてもいいのです。ある意味暗号みたいな感じで、物語の本筋には関係ないけれど、気付いた貴方、おめでとうな感じで付けたって構わないわけです。逆にこういう遊びも小説を書く上で楽しめる要素の一つなのではと思いますね。
長くなってきたし、この辺で閉じますか。妙な思考文にお付き合いいただいた方、お疲れ様でした。
-----キリトリ-----
私は、登場人物に名前を「付ける」というのになかなか苦労します。括弧付けで書いたように、名前というものは付けるものなのです。レッテルを貼るということです。幼稚園、保育園で、ひょっとしたら小学校低学年でもよく見られるお名前シールぺったんな感じです。そして、おそらく間違いなく読者はその名前の下に、その名前のフォルダーにその存在を入れるのでしょう。となると、その人物=その名前。その名前がその人物の象徴であり、短絡的に考えると、その名前がその人物の全てになるわけです。これは大変です。安易に名前が付けられません。名前一つで台無しになってしまう。
しかし、ある程度わざと書いたのでお気付きの方もおありかと思いますが、上記は短絡的で、安直です。もう少し弄繰り回してみます。
登場人物にとって、名前は大きな要素だと思います。名付け親からすると、一種の願いが込められていたりするかもしれませんし、その人物が生きてきた中で大なり小なり影響を与えてきたもので、与えるものでしょう。周囲の人物(小説内と小説外共に)に対しては、その人物を考える上で、入り口ともいえる、看板になるわけでしょう。簡単にいうと、思考上の、その人物を思い出したりする上での第一印象ですね。このように、名前というものは、本人、周り共に大きな要因です。
ではもう少し抉りましょう。本当に名前はそんな仰々しいものなのでしょうか? 確かに、名前が大きな意味を持つことは多々あるでしょう。私自身、そういう作品を見た記憶も無きにしも非ずです。しかし、名前自体の持つイメージというのはどこから来るのでしょうか。
なぜそんなことを言い出したかというと、名前が影響を与えるというのは、その名前が持つイメージがあるからなのではと思うからです。込められた願いであれ、なんであれ、その名前の持つ、人物像とでもいうべきイメージがあって、それをその名を持つ人物に重ね合わせるからそれぞれの影響があるのではと思うのです。
話を戻しましょう。そのイメージがどこから来るかということですね。先ず第一に、その字面というのがあるでしょう。もっちーにさんの記事で、もっちーにさんの筆名について書かれていらっしゃった通り、字面によるイメージは確かにあると思います。でも、それだけでしょうか。そこで二つ目。歴史を愛する方々には怒られてしまうかもしれませんが、例えばの話で、織田信長さんが織田光政だったとしましょう。後者の方が多少シャイニングな
気もしますが、それが、織田さん自身の人物像を変えてしまうほどのことでしょうか? 私はそうは思いません。信長であれ、光政であれ、織田さんの人物像というのは、織田さんが行った(とされる)事柄から来るものが大きいからだと思います。そして、その人物像に織田さんの名前が付けられるのです。その上で、織田さんの名前をお借りして、小説の登場人物に付けてみましょう。そうすると、歴史上の織田さんの人物像が、名前を介して小説上の織田さんに照らし合わされるでしょう。しかし、それが全てではない。人物像というのはその人物の行動に因るところが大きいのです。最初、小説上の織田さんを知らない内は歴史上の織田さんっぽいかなと思うでしょうが、小説上での織田さんを知っていくうちに、新たな織田さん像が出来上がってくるはずです。
では、最終的に名前のイメージはどちらに因るものなのか。私が思うに、世の中の多くのことと同様に、1か0ではないんじゃないかと。何とも曖昧で逃げているようではありますが、イメージというもの自体曖昧だし、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
上記を受けて、名前というものの字面に対する重要度は幾分軽減されたのではないでしょうか。極端にいうと最初に書いたお名前シールぺったんな感じですよ、所詮。ま、それが極端であるのは既に了承の上として、それでも名前のもつイメージ、人物像は、字面で第一印象があったとはいえ、その名を持つ人物の行動からのフィードバックがあるというのは、大きなことだと思います。
----- キリトリ -----
結果、私はたかが名前、されども名前と思うのです。別に名前の字面が全てではない、でもその字面を無視できるわけではない。
とはいえ、字面からの印象なんて人それぞれでもあると思います。犬から連想されるものが、可愛いワンちゃんな方もいらっしゃれば、精悍な犬! という方もいらっしゃるでしょう。ひょっとすると、犬っ娘な方もいらっしゃるかもしれないし、犬執事な方もいらっしゃるかもしれません。となると、字面を気にし過ぎるのも虚しいかもしれません。おおよそ、同じようなイメージが湧くと信じても、満場一致、いや、隣の人と一致したイメージが湧いてるなんてことはそうないと思います。
まぁ、その名を持つ人物の行動から生まれる人物像も、人に依ると思いますが、その行動をしたという事実は変わらない点、幾分こちらの方が人物像を伝える能力が高いかもしれません。
最終的に、名前の字面に悩むよりかは中身で悩もうと思ったりするわけです。
ところで、名前というのは中々遊び要素があって面白いものでもあると思いますね。字面を深く考えないとなると、別に兄妹で関連性のある名前にしてもいいわけですし、八墓さんの米でもあったように花言葉とかを参考にしてみてもいいのです。ある意味暗号みたいな感じで、物語の本筋には関係ないけれど、気付いた貴方、おめでとうな感じで付けたって構わないわけです。逆にこういう遊びも小説を書く上で楽しめる要素の一つなのではと思いますね。
長くなってきたし、この辺で閉じますか。妙な思考文にお付き合いいただいた方、お疲れ様でした。
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