読者は誰か?
どうも美崎です。
今回もまた、どうでもいいことを長々と書きます。
小説を書くということは、言葉で書くわけだから、当然誰か人間に対して書かれていると言ってよい。しかしいったい誰に向かって書いているのか。書き手は読者をどうとらえるべきなのか。そんなことをずっと考えている今日この頃です。
ほんとに考えてるだけなので答えは出ませんが時間と心にゆとりのある方はどぞ↓
今回もまた、どうでもいいことを長々と書きます。
小説を書くということは、言葉で書くわけだから、当然誰か人間に対して書かれていると言ってよい。しかしいったい誰に向かって書いているのか。書き手は読者をどうとらえるべきなのか。そんなことをずっと考えている今日この頃です。
ほんとに考えてるだけなので答えは出ませんが時間と心にゆとりのある方はどぞ↓
「僕は全世界の人々に向けて物語を書いています」という人は嘘つきだと僕は思っています。「できるだけ多くの人たちに僕の物語を読んでほしい」というくらいなら嘘じゃないと言ってもいい。
でも、まず僕の仮定から言うと、書き手が想定する読者とは「だいたい自分と似たような人々」。言い換えると、「だいたい自分と似たような感性を持ち、だいたい自分と似たような知的レベルで、だいたい自分と同じような生活をしている人々」です。
「読者の共感を呼ぶ」とか「読者が感情移入しやすいように」とか、そういうところに重きを置く人は特にそうでしょう。
たとえば、ミステリを書く人はきっとミステリが好きなのでしょう。そしてミステリを読む人はミステリが好きでしょう。
つまりミステリを好きな人が、自分と同じようにミステリ好きな人に向けてミステリを書く。「推理物って人がいっぱい死んでいやだわ」という人に向けてミステリ書くって嫌がらせですよね。
ジャンルのたとえはちょっと当たり前すぎですね。
たとえば書店に並んでいる本でも、こんなの誰が読むんだよと言いたくなるようなしょうもないものはたくさんあると思います。文章力なし展開はベタ、中学生でも書けるわい、みたいな。でもそんなクソだと思っていたものが大ヒットしたり映画化したりアニメ化したりするもんだから、僕なんかは首をかしげるわけです。
しかし僕なんか「世間一般」のなかでは隅っこの方にいる人間に違いありません。普通の人間は京大なんか行かないし小説なんか書かない。(もちろん僕は特別な人間だなんて言ってるわけじゃないです)
もっと言えば、普通の人はそんなに本を読みません。「月に10冊も本読むの? なんなのお前暇なの??」これが普通の人の反応です。そう、本なんて暇じゃないと読めないのです。恋に仕事にスポーツに充実した生活を送っていれば本なんか読む暇は無いのでは、と最近ようやく気がつきました。ましてや自分で小説を書こうだなんてとんでもない暇人です。ゆとりです。
これはアレです。京大生が塾講師のアルバイトをして、まったく勉強をしない人種がいるということに気がついた時の心境に似ています(個人的な感想)。
違う違う、多方面に喧嘩を売りながらの自虐ネタを披露したかったわけではなく。
つまりは、書く方も読む方もだいたい自分の身の丈にあったものを求めているという例を出したかっただけです。
某羽川さんも言っています。「なんでもは知らない、知ってることだけ」と。結局僕らは僕らの知っていることしか知らない。僕らの言う「みんな」というのは「僕らの知るみんな」のことです。書き手の言う「読者」というのもまた「書き手の知っている範囲の読者」ということが言いたかった。
異論を承知でさらに自分の論をすすめますと、僕はこの閉鎖的で排他的なモノが気持ち悪くてしようがありません。これは自己嫌悪でもあります。
文学者だけがわかればいい高尚な文学とか、オタクだけが楽しめればいいラノベとか。
逆に言うと、文学そのものに懐疑的な文学とか、オタクに喧嘩を売るラノベとか、そういうひねくれたものが大好物です。
さて、「読者=みんな」は嘘だと言ったり、閉鎖的なのも嫌いだと言ったり、結局こいつは何が言いたいんやと思われるかもしれません。同感です。こいつ何が言いたいんでしょうね。
最初の宣言通り、答えは出ません。というか論点がずれてきたような気すらします。でもま、論文じゃなくてブログなので許してください。
あとは、書き手が読者を同じ地平で見る場合、自分より上に見る場合、自分より下に見る場合で場合分けする話とか書くつもりだったんですが、なんかだらだらしてきたのでやめますね。
どうも適当なことばっかり書いてすいませんでした(突然の反省)。
でも、まず僕の仮定から言うと、書き手が想定する読者とは「だいたい自分と似たような人々」。言い換えると、「だいたい自分と似たような感性を持ち、だいたい自分と似たような知的レベルで、だいたい自分と同じような生活をしている人々」です。
「読者の共感を呼ぶ」とか「読者が感情移入しやすいように」とか、そういうところに重きを置く人は特にそうでしょう。
たとえば、ミステリを書く人はきっとミステリが好きなのでしょう。そしてミステリを読む人はミステリが好きでしょう。
つまりミステリを好きな人が、自分と同じようにミステリ好きな人に向けてミステリを書く。「推理物って人がいっぱい死んでいやだわ」という人に向けてミステリ書くって嫌がらせですよね。
ジャンルのたとえはちょっと当たり前すぎですね。
たとえば書店に並んでいる本でも、こんなの誰が読むんだよと言いたくなるようなしょうもないものはたくさんあると思います。文章力なし展開はベタ、中学生でも書けるわい、みたいな。でもそんなクソだと思っていたものが大ヒットしたり映画化したりアニメ化したりするもんだから、僕なんかは首をかしげるわけです。
しかし僕なんか「世間一般」のなかでは隅っこの方にいる人間に違いありません。普通の人間は京大なんか行かないし小説なんか書かない。(もちろん僕は特別な人間だなんて言ってるわけじゃないです)
もっと言えば、普通の人はそんなに本を読みません。「月に10冊も本読むの? なんなのお前暇なの??」これが普通の人の反応です。そう、本なんて暇じゃないと読めないのです。恋に仕事にスポーツに充実した生活を送っていれば本なんか読む暇は無いのでは、と最近ようやく気がつきました。ましてや自分で小説を書こうだなんてとんでもない暇人です。ゆとりです。
これはアレです。京大生が塾講師のアルバイトをして、まったく勉強をしない人種がいるということに気がついた時の心境に似ています(個人的な感想)。
違う違う、多方面に喧嘩を売りながらの自虐ネタを披露したかったわけではなく。
つまりは、書く方も読む方もだいたい自分の身の丈にあったものを求めているという例を出したかっただけです。
某羽川さんも言っています。「なんでもは知らない、知ってることだけ」と。結局僕らは僕らの知っていることしか知らない。僕らの言う「みんな」というのは「僕らの知るみんな」のことです。書き手の言う「読者」というのもまた「書き手の知っている範囲の読者」ということが言いたかった。
異論を承知でさらに自分の論をすすめますと、僕はこの閉鎖的で排他的なモノが気持ち悪くてしようがありません。これは自己嫌悪でもあります。
文学者だけがわかればいい高尚な文学とか、オタクだけが楽しめればいいラノベとか。
逆に言うと、文学そのものに懐疑的な文学とか、オタクに喧嘩を売るラノベとか、そういうひねくれたものが大好物です。
さて、「読者=みんな」は嘘だと言ったり、閉鎖的なのも嫌いだと言ったり、結局こいつは何が言いたいんやと思われるかもしれません。同感です。こいつ何が言いたいんでしょうね。
最初の宣言通り、答えは出ません。というか論点がずれてきたような気すらします。でもま、論文じゃなくてブログなので許してください。
あとは、書き手が読者を同じ地平で見る場合、自分より上に見る場合、自分より下に見る場合で場合分けする話とか書くつもりだったんですが、なんかだらだらしてきたのでやめますね。
どうも適当なことばっかり書いてすいませんでした(突然の反省)。
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