月日は百代の過客にして
こんにちは。悲しいかな今年もやってきましたね、ミスター年の瀬が。
最近、お客様や面接官以外の方と会っていないせいか、独り言が単語単位から長文へと成長していくので、これはあれだ不憫だと思いまして、突然ながらぐだりぐだりと戯言を書き込ませて頂きました。そんな響という者ですどうぞよろしく。
字書き勢のブログが盛り上がっているので参戦させてください(笑)。
ここで使う小説/物語は、すべてエンタメ作品に限っての意味で使っています。
はじめから恐縮ですが、私の理想は「作者不在の小説」です。
書いている人間の存在を排除した、その中に作者のいない物語。これが私の目指しているものです。
小説だろうが映画だろうが、作者に対し「この作品に込めた思いは?」と尋ねるインタビュー記事をたまに目にしますが、私はあれがとても嫌いです。「これをつくった人は何を考えてつくったんだろう」というような問いを考えることは嫌いではないし、私も緩く考えますが、それを前面に押し出されるとげんなりしてしまいます。あなたたちは作品を殺したいのか、とすら思います。
小説ってのは作者と読者のコミュニケーションのツールなんかじゃない、と私なんかは思うわけです。
主張も、メッセージも、主題も要らない。
読者に向けて書かれた作品を批判しているのではありません。「伝えるために書く」と言えるのは正直羨ましいので変わってほしくないです。その諦めていない感じが羨ましい。「伝えたいこととかない・答えを提示しない・真実なんかない・わけわかんない」小説よりも、「読者にこういうことを伝えたくて」書かれた小説のほうが社会的に受け入れやすいだろうし、世の中にはそういう小説が必要だということもわかるので、これはただの好みの問題です。
私が未定内でそういうものを楽しく読めるのは、書いた人への興味がありその人についてもっと知りたいと思うからであり、これは自分には書けないなと良い意味で打ちのめされたいからであって、普段小説を読んでいて「あ、この作者はこれが言いたくて書いたんだな」と感じるときは、はっきり言って興ざめしてしまうことが多い。
それはきっと、「こういうことが言いたくて書きました」というものよりも、「本当はこういうことを誰かに言って欲しかったけど、でも誰も言ってくれなかったから自分で言いました」みたいなもののほうが好きだからなんだと思う。両者に大した違いなんかないと思われる方もいらっしゃるでしょうが、この差って実は結構大きいんじゃないのかなーと思うこの頃です。
小説は作者のものかもしれないし、ひょっとしたら読者のためのものとも言えるのかもしれない。
けれど、物語は、物語内の誰か(何か)ないしは語り手のものであって、作者のものでも読者のものでもない。物語はその物語のために在る。
言っていることが矛盾の可能性を孕んでいることに気がついてはいます。が、私は書き手の存在など感じさせないような強い物語が書きたい。作者の影に埋め尽くされた物語は、私にとっては脆弱な物語なのです。
まあこれは理想ですので、実際の私はまだ自分のために書いています。できあがるのは脆くてひ弱なもんです。
大学1、2回の頃までは書いている自分のために書いていたけれど、今は読んでいる自分のために書いているなと思う。エンタメ路線であるために、せめて読んでいる自分のために書きたい。「読んでくれる人みなさんにとってこの小説が云々」なんて立派なことは考えられないし、私の書くものに伝えたいことは何もない。
わかってほしい、というのはあるけれど、その「わかってほしい」を核にしてつくった物語は少しも面白くならなかった。面白くないし、おそらくわかってもらえない。登場人物の誰かが偶々自分と同じようなことを言ってくれたとか、語り手の語りの中にすっと溶け込んでいったとか、そういう場合のほうが実際はすんなり理解してもらえるし、そのときにおける理解のほうが信頼できると感じています。
で、誰に向かって書いているのかというのは私の場合はっきりしていて、私はすべてを彼女に向けて書いています。
最後に、文学という学問は、特に日本の古典文学は、確かにどこか閉鎖的で排他的な雰囲気があるかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか私にはわからない。ただただそういうものだというか、知識体系的に仕方ないのかな、という程度であまり意識していませんでした。
文学者にしかわからないような崇高な文学なんかくそくらえ(これ一回言ってみたかっただけ)だが、でもそれはきっと私のレベルが到達できないからそう思ってしまうのだろうな。非常に高度な知的レベルを生きている誰かが、その想像を絶する孤独を抱えて書いたような何かを、私は否定できない。最初から最後まで全然わからない小説ってたくさんあるけど、仮にその小説の中に「こんなのお前には欠片も理解できねえだろ」みたいな私に対する軽蔑を感じ取ったとしても、国籍の違う誰か、年代の違う誰か、ここにはいないけれどいつかのどこかにはいるかもしれない誰かに理解を求めてるんだろうなーっていう小説を否定したくない。
話が前後してしまいますが、文学は閉鎖的であるけれど、小説自体は非常に開放的だと思っています。
ちなみに私は開かれているけれど排他的な小説が好きですね。
長々と文脈もなく書いてしまって、最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。
やっぱり自分って自分勝手で傲慢な奴なんだなーと反省しつつ、この辺で終わりにします。
ああ、なんか、こういうこと言えるの幸せだよな。ありがとう。
どうぞよいお年を。
最近、お客様や面接官以外の方と会っていないせいか、独り言が単語単位から長文へと成長していくので、これはあれだ不憫だと思いまして、突然ながらぐだりぐだりと戯言を書き込ませて頂きました。そんな響という者ですどうぞよろしく。
字書き勢のブログが盛り上がっているので参戦させてください(笑)。
ここで使う小説/物語は、すべてエンタメ作品に限っての意味で使っています。
はじめから恐縮ですが、私の理想は「作者不在の小説」です。
書いている人間の存在を排除した、その中に作者のいない物語。これが私の目指しているものです。
小説だろうが映画だろうが、作者に対し「この作品に込めた思いは?」と尋ねるインタビュー記事をたまに目にしますが、私はあれがとても嫌いです。「これをつくった人は何を考えてつくったんだろう」というような問いを考えることは嫌いではないし、私も緩く考えますが、それを前面に押し出されるとげんなりしてしまいます。あなたたちは作品を殺したいのか、とすら思います。
小説ってのは作者と読者のコミュニケーションのツールなんかじゃない、と私なんかは思うわけです。
主張も、メッセージも、主題も要らない。
読者に向けて書かれた作品を批判しているのではありません。「伝えるために書く」と言えるのは正直羨ましいので変わってほしくないです。その諦めていない感じが羨ましい。「伝えたいこととかない・答えを提示しない・真実なんかない・わけわかんない」小説よりも、「読者にこういうことを伝えたくて」書かれた小説のほうが社会的に受け入れやすいだろうし、世の中にはそういう小説が必要だということもわかるので、これはただの好みの問題です。
私が未定内でそういうものを楽しく読めるのは、書いた人への興味がありその人についてもっと知りたいと思うからであり、これは自分には書けないなと良い意味で打ちのめされたいからであって、普段小説を読んでいて「あ、この作者はこれが言いたくて書いたんだな」と感じるときは、はっきり言って興ざめしてしまうことが多い。
それはきっと、「こういうことが言いたくて書きました」というものよりも、「本当はこういうことを誰かに言って欲しかったけど、でも誰も言ってくれなかったから自分で言いました」みたいなもののほうが好きだからなんだと思う。両者に大した違いなんかないと思われる方もいらっしゃるでしょうが、この差って実は結構大きいんじゃないのかなーと思うこの頃です。
小説は作者のものかもしれないし、ひょっとしたら読者のためのものとも言えるのかもしれない。
けれど、物語は、物語内の誰か(何か)ないしは語り手のものであって、作者のものでも読者のものでもない。物語はその物語のために在る。
言っていることが矛盾の可能性を孕んでいることに気がついてはいます。が、私は書き手の存在など感じさせないような強い物語が書きたい。作者の影に埋め尽くされた物語は、私にとっては脆弱な物語なのです。
まあこれは理想ですので、実際の私はまだ自分のために書いています。できあがるのは脆くてひ弱なもんです。
大学1、2回の頃までは書いている自分のために書いていたけれど、今は読んでいる自分のために書いているなと思う。エンタメ路線であるために、せめて読んでいる自分のために書きたい。「読んでくれる人みなさんにとってこの小説が云々」なんて立派なことは考えられないし、私の書くものに伝えたいことは何もない。
わかってほしい、というのはあるけれど、その「わかってほしい」を核にしてつくった物語は少しも面白くならなかった。面白くないし、おそらくわかってもらえない。登場人物の誰かが偶々自分と同じようなことを言ってくれたとか、語り手の語りの中にすっと溶け込んでいったとか、そういう場合のほうが実際はすんなり理解してもらえるし、そのときにおける理解のほうが信頼できると感じています。
で、誰に向かって書いているのかというのは私の場合はっきりしていて、私はすべてを彼女に向けて書いています。
最後に、文学という学問は、特に日本の古典文学は、確かにどこか閉鎖的で排他的な雰囲気があるかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか私にはわからない。ただただそういうものだというか、知識体系的に仕方ないのかな、という程度であまり意識していませんでした。
文学者にしかわからないような崇高な文学なんかくそくらえ(これ一回言ってみたかっただけ)だが、でもそれはきっと私のレベルが到達できないからそう思ってしまうのだろうな。非常に高度な知的レベルを生きている誰かが、その想像を絶する孤独を抱えて書いたような何かを、私は否定できない。最初から最後まで全然わからない小説ってたくさんあるけど、仮にその小説の中に「こんなのお前には欠片も理解できねえだろ」みたいな私に対する軽蔑を感じ取ったとしても、国籍の違う誰か、年代の違う誰か、ここにはいないけれどいつかのどこかにはいるかもしれない誰かに理解を求めてるんだろうなーっていう小説を否定したくない。
話が前後してしまいますが、文学は閉鎖的であるけれど、小説自体は非常に開放的だと思っています。
ちなみに私は開かれているけれど排他的な小説が好きですね。
長々と文脈もなく書いてしまって、最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。
やっぱり自分って自分勝手で傲慢な奴なんだなーと反省しつつ、この辺で終わりにします。
ああ、なんか、こういうこと言えるの幸せだよな。ありがとう。
どうぞよいお年を。
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