美術ってなんですかー、なお話。
ども、初めて書きます未定現4回生の八村 ふみというものです。
そうですね、何を書こうかなーと随分迷ってたんですが。創作的な話のネタが浮かばないので自分のフィールドに引っ張り込んだ話でもしようかと。一応美術史とか専攻している人間として、芸術・美術とは何かなんて題で勝手な自論でもつらつらと書いてみようかなーと思います。
長くなるので追記で。
そうですね、何を書こうかなーと随分迷ってたんですが。創作的な話のネタが浮かばないので自分のフィールドに引っ張り込んだ話でもしようかと。一応美術史とか専攻している人間として、芸術・美術とは何かなんて題で勝手な自論でもつらつらと書いてみようかなーと思います。
長くなるので追記で。
まず簡単に、美術という言葉であるとか、美術に関する歴史であるとかが日本で成立し、今で言うような美術館・博物館が成立したのは明治初期です。西洋で既に確立していたそれらの概念が輸入されての事なんですね。だから日本における「美術」の成立は明治に始まるんだ、というのが一般的な話です。
だけど勿論今で言う「芸術家的意識」「鑑賞的意識」のようなものは当然それ以前もあった訳で、根本的な受容する側の意識や製作する側の意識においては大きな差はない、と私は思います。ここで確立されたのはあくまでもそういう言葉であって、「美術品」という定義。ただここでの定義の成立というのが非常に曲者で、モノの需要のされ方において大きな断絶を起こしてしまっているのではないか、と思うのです。
その断絶とは単純に言うと、「美術品」として認められたものとそうでないものの間の切り離し、また「美術品」の日常的空間からの切り離しです。
まず前者。明治において美術史が成立した時、それまで日本で生み出されてきた様々なモノのうちから、(主にこの時この運動に関わっていた西洋人や日本人のお偉いさんの感覚と一致した)一部のモノが抽出されて歴史が編まれました。彼らが認めたものだけが「美術」として認められてしまうような状態が出来上がってしまった訳です。
(まぁ、実際の所はもう少し複雑ですし、浮世絵とか水墨画とか、彼らが程度の低いものとして見なしてたものでも後に評価されるようになったものも多くあるので、一概には言えないですが)
一つの言葉が生まれるという事は、その言葉に当てはめられたモノを、当てはめられなかったモノから切り離してしまう行為であると言えるのですよね。何にせよここで言葉が生まれてしまった事で、美術であるモノと美術でないモノが生じてしまった。美術であると認められたものに関しては、美術学校でカリキュラムが組まれたり、制度で保護が保障されたり、美術館で整理・収集されるようになった。でもここで認められずに切り離されて忘れられてしまった、だけど決してその時認められたものに劣らないだけの魅力を持ったモノが確実にあると思うんです。
そして後者。美術品として認められたモノは、もうそれだけで以前のような、それらがそれまで生み出された当時意図されていたような需要のされ方はされなくなってしまいます。
例えば錦絵や、少しずれるようですけど歌舞伎なんかは本来大衆芸術です。現在如何にもお金持ちの高尚な趣味であるかのように見られてますけど、本当はもっと俗っぽいものであっていいんだと私は思うんです。
写楽だとかの当時の人気役者を描いた役者絵なんかはつまるところ現在でいうアイドルのブロマイドと大差ない目的で出版されてますし、東海道五十三次、富嶽三十六景は要するに旅行写真集に極めて近いです。歌舞伎役者なんて、当時の出版物でパロディ的扱いを受けたり、現在の芸能人の扱いと大差はありません。今浮世絵の文化が残ってたら、まず間違いなく現在の芸能人を描いた作品は出版されてると思います。
また少し違うところだと仏像や仏教絵画。本来純粋に信仰の対象として生み出されていたものが、美術品の枠に入れられることで、全く違う文脈で(むしろ「彫刻作品」の枠に入れられて)受容されるようになった訳です。
これらのモノは、モノが生み出された時の文脈を離れて、本来意図されていた日常の場から完全に切り離され、「美術」という言葉に当てはめて、何か特別なものとして見られるようになったと。考えてみると奇妙な現象だなと思う訳です。
さらに言うならこの概念成立以降の「美術」は最初から「美術」として生産されているとも言えます。それまでのような、特定の一部の人に購入される事だけを目的とした生産ではなく、不特定多数に見られる美術館や、展覧会での展示を目的とした生産が当たり前になる。所謂現代アートにいたっては、美術館の場を利用する事が大前提となった作品が大半だったりします。つまるところ、その生産の時点から「美術」という概念や「美術館」「展示会」という場に囚われてしまっていると言えると。これもまた奇妙な現象です。
と、まぁごちゃごちゃ書きましたけど、私の言いたい事を単純化して極端な言い方をすると、「ぶっちゃけ、モノはモノです」「美術という単語は幻想です」という事になります。
……いやまぁ、幻想は言いすぎですけど。現在芸術的価値、美術的価値とか語られてますけど、あくまでそれらは言葉と過去に確立された評価に引っ張られて作り出された意識であるように思えるのですよね。
良いモノは良いです。今美術として認められて評価されてるのが良いモノなのは間違いない事実です。ただそれらを受容する私達が、そうした評価に引っ張られてしまったり、逆に(そうした評価のせいでお堅い、難しいものだというイメージを抱いて)反発して敬遠してしまうのはつまらないですよね、という事です。
お堅いイメージを固持している美術館が、良いモノをその静かでお堅い空間に抱え込んでいるせいである種見えない壁が生じているような気がするのです。あそこにあるモノの中には、静かに信仰心に浸るために生み出されたモノもあれば、沢山のお金を出してそれを手に入れた注文主が眺めて満足げに頷くために生み出されたモノもあり、本来昔の趣味人達がお酒を飲みながらわいわい薀蓄たれられるために生み出されたモノもあるし、一般大衆が気楽に眺めて笑い飛ばされるために生み出されたモノだってあるんです。それらが全て一元化されてあの場にあり、どれもが同じような受容のされ方をしている訳です。
それらが現在持っている学術的意義、歴史的意義を考えると、その壁は確かにそれらを守っている事にもなるのですけど。こういう風に視点を変えると、何か寂しいよな、何とかしてあの場の新しいあり方を作り出す事は出来ないかなと思わないでもない訳です(作品の複製技術が進歩して、クオリティの高い複製が作られるようになったなら、今のものとは違う新しい美術館が出来る日が来ないかなと思ったり)
芸術とか美術とか言われているモノと言われてないモノの間にそう大きな差はない、と私は思ってます。何か常識外れなエネルギーを注ぎ込んだ作者が居て、そしてそれを求めて喜んで受容する人々が居て、そのモノそのものに一定以上の魅力があれば(この場合の受容や魅力の細かい定義がむしろ厄介な気がするので省略しますが、とりあえず実用品的な意味は除いて)、誰がなんと言おうとそれは(その人にとっての)芸術品でいいよ、と結構乱暴に考えてます。
……しかし、こんな風に美術とか芸術とかいう単語を使って語るだけで、なんか見た感じ近づき難い文章になるのが嫌ですねー。あと私基本的に日本の事しか十分には語れないので。
あれです、ネタに困ったのでただのくだらない浅めの自論展開しただけです。創作論書くべきな気がしたけど書けなかったんだよー。なんだろこれ? なんか反発もくらいそうな内容ですよね。
まぁそんな感じで。書きあがったので、シンケンジャーでも見てこようと思います。
だけど勿論今で言う「芸術家的意識」「鑑賞的意識」のようなものは当然それ以前もあった訳で、根本的な受容する側の意識や製作する側の意識においては大きな差はない、と私は思います。ここで確立されたのはあくまでもそういう言葉であって、「美術品」という定義。ただここでの定義の成立というのが非常に曲者で、モノの需要のされ方において大きな断絶を起こしてしまっているのではないか、と思うのです。
その断絶とは単純に言うと、「美術品」として認められたものとそうでないものの間の切り離し、また「美術品」の日常的空間からの切り離しです。
まず前者。明治において美術史が成立した時、それまで日本で生み出されてきた様々なモノのうちから、(主にこの時この運動に関わっていた西洋人や日本人のお偉いさんの感覚と一致した)一部のモノが抽出されて歴史が編まれました。彼らが認めたものだけが「美術」として認められてしまうような状態が出来上がってしまった訳です。
(まぁ、実際の所はもう少し複雑ですし、浮世絵とか水墨画とか、彼らが程度の低いものとして見なしてたものでも後に評価されるようになったものも多くあるので、一概には言えないですが)
一つの言葉が生まれるという事は、その言葉に当てはめられたモノを、当てはめられなかったモノから切り離してしまう行為であると言えるのですよね。何にせよここで言葉が生まれてしまった事で、美術であるモノと美術でないモノが生じてしまった。美術であると認められたものに関しては、美術学校でカリキュラムが組まれたり、制度で保護が保障されたり、美術館で整理・収集されるようになった。でもここで認められずに切り離されて忘れられてしまった、だけど決してその時認められたものに劣らないだけの魅力を持ったモノが確実にあると思うんです。
そして後者。美術品として認められたモノは、もうそれだけで以前のような、それらがそれまで生み出された当時意図されていたような需要のされ方はされなくなってしまいます。
例えば錦絵や、少しずれるようですけど歌舞伎なんかは本来大衆芸術です。現在如何にもお金持ちの高尚な趣味であるかのように見られてますけど、本当はもっと俗っぽいものであっていいんだと私は思うんです。
写楽だとかの当時の人気役者を描いた役者絵なんかはつまるところ現在でいうアイドルのブロマイドと大差ない目的で出版されてますし、東海道五十三次、富嶽三十六景は要するに旅行写真集に極めて近いです。歌舞伎役者なんて、当時の出版物でパロディ的扱いを受けたり、現在の芸能人の扱いと大差はありません。今浮世絵の文化が残ってたら、まず間違いなく現在の芸能人を描いた作品は出版されてると思います。
また少し違うところだと仏像や仏教絵画。本来純粋に信仰の対象として生み出されていたものが、美術品の枠に入れられることで、全く違う文脈で(むしろ「彫刻作品」の枠に入れられて)受容されるようになった訳です。
これらのモノは、モノが生み出された時の文脈を離れて、本来意図されていた日常の場から完全に切り離され、「美術」という言葉に当てはめて、何か特別なものとして見られるようになったと。考えてみると奇妙な現象だなと思う訳です。
さらに言うならこの概念成立以降の「美術」は最初から「美術」として生産されているとも言えます。それまでのような、特定の一部の人に購入される事だけを目的とした生産ではなく、不特定多数に見られる美術館や、展覧会での展示を目的とした生産が当たり前になる。所謂現代アートにいたっては、美術館の場を利用する事が大前提となった作品が大半だったりします。つまるところ、その生産の時点から「美術」という概念や「美術館」「展示会」という場に囚われてしまっていると言えると。これもまた奇妙な現象です。
と、まぁごちゃごちゃ書きましたけど、私の言いたい事を単純化して極端な言い方をすると、「ぶっちゃけ、モノはモノです」「美術という単語は幻想です」という事になります。
……いやまぁ、幻想は言いすぎですけど。現在芸術的価値、美術的価値とか語られてますけど、あくまでそれらは言葉と過去に確立された評価に引っ張られて作り出された意識であるように思えるのですよね。
良いモノは良いです。今美術として認められて評価されてるのが良いモノなのは間違いない事実です。ただそれらを受容する私達が、そうした評価に引っ張られてしまったり、逆に(そうした評価のせいでお堅い、難しいものだというイメージを抱いて)反発して敬遠してしまうのはつまらないですよね、という事です。
お堅いイメージを固持している美術館が、良いモノをその静かでお堅い空間に抱え込んでいるせいである種見えない壁が生じているような気がするのです。あそこにあるモノの中には、静かに信仰心に浸るために生み出されたモノもあれば、沢山のお金を出してそれを手に入れた注文主が眺めて満足げに頷くために生み出されたモノもあり、本来昔の趣味人達がお酒を飲みながらわいわい薀蓄たれられるために生み出されたモノもあるし、一般大衆が気楽に眺めて笑い飛ばされるために生み出されたモノだってあるんです。それらが全て一元化されてあの場にあり、どれもが同じような受容のされ方をしている訳です。
それらが現在持っている学術的意義、歴史的意義を考えると、その壁は確かにそれらを守っている事にもなるのですけど。こういう風に視点を変えると、何か寂しいよな、何とかしてあの場の新しいあり方を作り出す事は出来ないかなと思わないでもない訳です(作品の複製技術が進歩して、クオリティの高い複製が作られるようになったなら、今のものとは違う新しい美術館が出来る日が来ないかなと思ったり)
芸術とか美術とか言われているモノと言われてないモノの間にそう大きな差はない、と私は思ってます。何か常識外れなエネルギーを注ぎ込んだ作者が居て、そしてそれを求めて喜んで受容する人々が居て、そのモノそのものに一定以上の魅力があれば(この場合の受容や魅力の細かい定義がむしろ厄介な気がするので省略しますが、とりあえず実用品的な意味は除いて)、誰がなんと言おうとそれは(その人にとっての)芸術品でいいよ、と結構乱暴に考えてます。
……しかし、こんな風に美術とか芸術とかいう単語を使って語るだけで、なんか見た感じ近づき難い文章になるのが嫌ですねー。あと私基本的に日本の事しか十分には語れないので。
あれです、ネタに困ったのでただのくだらない浅めの自論展開しただけです。創作論書くべきな気がしたけど書けなかったんだよー。なんだろこれ? なんか反発もくらいそうな内容ですよね。
まぁそんな感じで。書きあがったので、シンケンジャーでも見てこようと思います。
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