創作論:表現
こんにちは。雪雫と申します。以後お見知り置きを。
七月中旬のブログ更新担当でしたが、既に八月に突入していますね。時空が捩れることは珍しくないブログのようです。私も、気分は七月まっただ中で記事を書かせて頂きます。
私なりの創作論、を述べるには、私自身の作品の少なさ故に、どういった口調で論じようとも説得力の欠けるものにならざるを得ないのですが、敢えて述べるならば、「表現」、にこそ、創作の真髄がある、と考えています。
少々長くなってしまいましたが、簡単に創作論を述べさせて頂きます。
ひとというものは、常日頃から様々なかたちで、自己を表現して存在しています。
例えば、会話や身体行為による直接的な表現もありますし、或いは、身嗜みを整えるだとか、髪形を変えてみるだとか、受動的な表現も多く行っていることでしょう。極端に、ひとは、表現をすることが出来なければ、その存在は希薄である、とさえ言ってしまえるかもしれません。表現は、特に意識されずとも、ひとが存在し、存在するが故に発生するものですが、表現の重要な性質として、必ずしも、表現は発信されたそのままで受け取られるとは限らない、というものがあります。このことを少し考えてみたいと思います。
表現は、発信する目的(=意味)を有します。逆に、発信する目的があるものを表現と呼ぶ、とも言えますが、例えば、「おはようございます」は、近頃では形式的なものになってきたとはいえ、一般に「あいさつ」の意味で使われていますし、「ありがとう」は一般に「感謝を伝える」目的と意味を有しています。同様に、ことば以外のものにも、それぞれ、表現されるものには、発信される側にとっては、その目的、意味が存在するものです。
大切なのは、表現されたものを、受け手側がその通りに受け取るとは限らない、ということです。ことばの例でいえば、「ありがとう」という言葉が常に「感謝を伝える」意味を有している訳ではなく、上司が部下に対してかける場合には、「苦労を労う」という意味で用いられる可能性もありますし、感謝する状況ではない時に、皮肉気味に用いられることで、「ざまあみろ」だとか、「お前の失敗だ」と伝える意味がある場合もあります。これは、発信する側の意図に関係なく、受け取る側が、ただ存在する表現を勝手に解釈して、「表現の発信された意図を、仮想的に自分の中で再構築する」と捉えられる、と私は考えます。
このことから、表現は、送り出す側の人間が創り出すだけのものではなく、受け取る側が、「表現されたもの」に触れることで、彼ら自身の内面に、新たに「表現」し直している、と考えられるのではないかとも思うのですが、かなり脱線するので詳細は割愛します。
作品は、表現です。
特に、ただ、自然発生的に地面から生えてきたものではなく、何かしらの意図や目的によって、創作という長く苦しい戦いを経て、新たに作り出され、生み出されたものだと、私は考えています。
しかし、そんな創作の過程は、それ自身が作品として織り込まれなければ、受け手側に何ら直接働きかけることはありません。理想的には、作品は、それを生み出す人の手から離れ、ただ作品としてのみ存在し得るものだ、と思っています。もっとも、現実には、作り出すひとそのものに問題があるが故、作品に対しても袈裟憎しとなる事態は少なくないのですが……。
実用性とはまた別の部分で、ものづくりをする、ということが、私にとっての「創作」です。
私の作り出した、わずかなデータ量の文字群は、決して誰かを素手で殴るために役立つようなものではありませんし、ご飯に振りかけて食事の質を上げることもできません。口に含んで、薬とするようなものでもありませんし、毒となって健康に害を及ぼすこともまずないでしょう。
ただ、私の理想とする創作は、「そうしたいから、そうした」と言えるものであり、それでしかあり得ないのです。
表現したいから、表現するために、作品という形をとる。
その作品が、どういうかたちで他者に受け取られるかは、私の与り知らぬところですし、意識したところで、直接関与できるものではない、と考えています。
仮に表現の目的が、誰かに何かを伝えることであれば、正しく伝えるための技術的・表現手段的工夫は施されるのでしょうが、常に表現が内容の伝達を目的とするわけではありませんし、寧ろ、創作に乗せる表現は自己目的化されている状態の方が、いっそ『創作らしい』と、私には思えます。
皆様にとって、創作とは如何なるものなのでしょう。
表現、ということばを使って、私なりに創作というものの表現を試みましたが、簡単に言ってしまえば、私の創作は、やりたいときにやるものなのです。
つまり、締切というものは、自由な創作を妨げる外的要因でしかなく、締切というものが存在する時点で理想的な創作は叶わない訳です。悲しい話ですね。
実際、創作をしてみて思うのは、書きたいものを、締切という制限に縛られつつ、しっかり仕上げることの出来る技術も、心地よい創作のためには必要なのだろう、ということです。締切で苦労しない創作者がこの世に存在するとは俄かには考え難いものですが。
また機会があれば、お会いしましょう。
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