えいごむずかしい、でも情報資源組織論もむずかしい
久しぶりにブログを書かせていただきます。陽鳥です。
さっきから文字を入力するたびに一行目のロの文字が震えていて可愛いんですが何でしょうか。
本当は一月中旬のブログ担当だったのですが遅れてしまいました、すみません…。そのおかげといいますか、テスト期間真っ最中ですね…(´・ω・`)なにも知らないって顔
わたしはどうやら、テストはぶっつけ本番でどうにかなれそんなことよりレポートかけないっていうタイプだと気づいたので、ブログのほうではレポートで書いた内容を使いまわしてみたいと思います。
後期の文学部の授業で、アメリカの19世紀ごろの作家、ナサニエル・ホーソーンという人の短編を読んでいたのですが、とても面白かったです。長編では「緋文字」で有名な人です。
読んだのはYoung Goodman Brown and Other Talesに収録されている、Young Goodman BrownとThe Artist of the Beautifulという二編だけなのですが、表題作でもある、Young Goodman Brownがとても好きでした。
あらすじとしては、主人公のGoodman Brownが若い新婚の妻Faithを残して、彼の"errand"(使命とか、お使いとかいう意味)のために森の奥へ向かうところから始まり、悪魔的な存在と出会ったり、邪悪な集会に連れて行かれたり…最後には、敬虔なプロテスタントだったBrownは人の心の悪意を知ってしまい、信仰も愛も失うことになります。
短編なのであまりあかしすぎないようにすると何の話かよくわかりづらいですが(;´・ω・)
以下ちょっと長いので畳みます。
物語全体が寓話的な仕立てになっていて、いろいろと解釈するのが楽しかったです。例えば主人公のGoodmanというのは農夫なんかに対するただの敬称に過ぎないんですが、心に抱いた悪意や人間の罪深さというテーマを考えると、なんだか善良といういみでの"Good"だと思えてくるのは自然だと思います。また、森の描写が魔術的で雰囲気がとってもよかったり悪魔のおじいさんがチートだったり、作者の縁の深い”魔女狩り”というものが一つの要素として使われていたりして、何とも中二心をぶすぶすしてきます(笑) 英語は少し古くて読みにくい部分もありますが、描写はとにかく美しいし表現に圧倒されました。
このストーリーから考えるようになったのが、理性以下の感情や自分の意思とそぐわない考えを抱いてしまうことってどう受け止めればいいのかな、という疑問というか戸惑いです。他者の抱いている邪悪な考え(文中に出てきたので一番マイルドなのは「奥さんが旦那さんに対して早く永遠の眠りにつけばいいのにって思いながらベッド際に飲み物を渡す」ってやつ、ほかはちょっとえぐかった)がわかってしまうようになる、という場面があるのですが、誰だって自分に関していえばいつだって何考えてるかわかってしまっています。優しい人間でいたいのにつまらないことで怒ってしまったり、テスト勉強中なのに気が抜けてしまう自分に嫌気がさしたり…割とありそうな例を挙げましたが、自分の中に生じた衝動や感情に対して、自分はそんな奴じゃない、そんな奴になりたくないって否定したいんだけどそう思ってるのは自分だってことはよくわかってる、それは自分だから、というギャップに板挟みになってしまうことってよくあると思います。
この主人公は特に自分の一族は信仰の篤いプロテスタントだという意識があったので、わたしなんかよりももっと絶望は深かったと思いますが。理性の届かない部分、ってままならないと思いました…。仕方ないことだ、とか誰だってそんなもんだ、みたいな納得のさせ方だって、実際に心の底を覗いてみれば受け止めきれないようなドロドロしたものが見えてきて、これでもまだ「それでもいい」って言えるのかなって思えてしまいます……そう考えると自分のことを好きになる、とか自分のことを理解するのって難しいですね。なんとも胸がつかえる話なのでぜひ読んでみて、できたら英語で読んでみてほしいです(笑)
ちなみにもう一つのThe Artist of the Beautifulのほうはもっと明るい普通の話だし、ボルヘスというすごい作家()が「世界一の短編だ」みたいなことを言ったというWakefieldという短編もあるので(わたしは春休み挑戦したい…と思っている)よろしかったら読んでみてください(*´▽`*)
蛇足ですが明日は節分ですね!って気づいて、豆を投げつけて鬼を追い出すっていうのも自分の中の邪悪さを追い出してるみたいだなってふと思いました。豆まきがそういうものかは知りませんが、寧ろ鬼って病気とかかなって思いますが。
さっきから文字を入力するたびに一行目のロの文字が震えていて可愛いんですが何でしょうか。
本当は一月中旬のブログ担当だったのですが遅れてしまいました、すみません…。そのおかげといいますか、テスト期間真っ最中ですね…(´・ω・`)なにも知らないって顔
わたしはどうやら、テストはぶっつけ本番でどうにかなれそんなことよりレポートかけないっていうタイプだと気づいたので、ブログのほうではレポートで書いた内容を使いまわしてみたいと思います。
後期の文学部の授業で、アメリカの19世紀ごろの作家、ナサニエル・ホーソーンという人の短編を読んでいたのですが、とても面白かったです。長編では「緋文字」で有名な人です。
読んだのはYoung Goodman Brown and Other Talesに収録されている、Young Goodman BrownとThe Artist of the Beautifulという二編だけなのですが、表題作でもある、Young Goodman Brownがとても好きでした。
あらすじとしては、主人公のGoodman Brownが若い新婚の妻Faithを残して、彼の"errand"(使命とか、お使いとかいう意味)のために森の奥へ向かうところから始まり、悪魔的な存在と出会ったり、邪悪な集会に連れて行かれたり…最後には、敬虔なプロテスタントだったBrownは人の心の悪意を知ってしまい、信仰も愛も失うことになります。
短編なのであまりあかしすぎないようにすると何の話かよくわかりづらいですが(;´・ω・)
以下ちょっと長いので畳みます。
物語全体が寓話的な仕立てになっていて、いろいろと解釈するのが楽しかったです。例えば主人公のGoodmanというのは農夫なんかに対するただの敬称に過ぎないんですが、心に抱いた悪意や人間の罪深さというテーマを考えると、なんだか善良といういみでの"Good"だと思えてくるのは自然だと思います。また、森の描写が魔術的で雰囲気がとってもよかったり悪魔のおじいさんがチートだったり、作者の縁の深い”魔女狩り”というものが一つの要素として使われていたりして、何とも中二心をぶすぶすしてきます(笑) 英語は少し古くて読みにくい部分もありますが、描写はとにかく美しいし表現に圧倒されました。
このストーリーから考えるようになったのが、理性以下の感情や自分の意思とそぐわない考えを抱いてしまうことってどう受け止めればいいのかな、という疑問というか戸惑いです。他者の抱いている邪悪な考え(文中に出てきたので一番マイルドなのは「奥さんが旦那さんに対して早く永遠の眠りにつけばいいのにって思いながらベッド際に飲み物を渡す」ってやつ、ほかはちょっとえぐかった)がわかってしまうようになる、という場面があるのですが、誰だって自分に関していえばいつだって何考えてるかわかってしまっています。優しい人間でいたいのにつまらないことで怒ってしまったり、テスト勉強中なのに気が抜けてしまう自分に嫌気がさしたり…割とありそうな例を挙げましたが、自分の中に生じた衝動や感情に対して、自分はそんな奴じゃない、そんな奴になりたくないって否定したいんだけどそう思ってるのは自分だってことはよくわかってる、それは自分だから、というギャップに板挟みになってしまうことってよくあると思います。
この主人公は特に自分の一族は信仰の篤いプロテスタントだという意識があったので、わたしなんかよりももっと絶望は深かったと思いますが。理性の届かない部分、ってままならないと思いました…。仕方ないことだ、とか誰だってそんなもんだ、みたいな納得のさせ方だって、実際に心の底を覗いてみれば受け止めきれないようなドロドロしたものが見えてきて、これでもまだ「それでもいい」って言えるのかなって思えてしまいます……そう考えると自分のことを好きになる、とか自分のことを理解するのって難しいですね。なんとも胸がつかえる話なのでぜひ読んでみて、できたら英語で読んでみてほしいです(笑)
ちなみにもう一つのThe Artist of the Beautifulのほうはもっと明るい普通の話だし、ボルヘスというすごい作家()が「世界一の短編だ」みたいなことを言ったというWakefieldという短編もあるので(わたしは春休み挑戦したい…と思っている)よろしかったら読んでみてください(*´▽`*)
蛇足ですが明日は節分ですね!って気づいて、豆を投げつけて鬼を追い出すっていうのも自分の中の邪悪さを追い出してるみたいだなってふと思いました。豆まきがそういうものかは知りませんが、寧ろ鬼って病気とかかなって思いますが。
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