膏薬はどこにでも
10月下旬担当の鏡蛍と申します。はじめまして、こんにちは。
こんにちはと言っておきながらこれをご覧になっている方は今何時にアクセスしていらっしゃるのか少し不安になってきてしまいました。文書や録音など情報が受け取られる時間帯が特定できない媒体ではいつも挨拶に困ってしまいます。
朝の挨拶は何時から何時、昼の挨拶は何時から何時まで、というのはしばしば他愛無い無駄話の話題にも上がりますが、夕方過ぎから未明頃まで使える「こんばんは」が一日に占める時間的な割合が最も高いように思えます。すなわちこれは、とりあえず「こんばんは」と書いておくのが最も適切である可能性が高いということを示しています。では改めて、こんばんは。
……と、いうのはこのページへのアクセス数が時間帯によらず一定である、などという非自明な仮定をもとにした詭弁にすぎません。私はよく理屈っぽい人間だなどと言われることがありますが、こんな猫の餌の足しにもならないような言葉をつらつらと並べるのが「理屈っぽい」というのなら、それは困った性癖というものです。
さてそんな私ではありますが、理屈ばかりに拘泥して生きているわけでもありませんし、そんなふうに生きていくわけにもいきません。人並みにノスタルジアのような感傷に心を酔わすことも間々あるかもしれません。
しかし私は実家住まいの未成年なので遠く思い馳せるべき故郷も時間軸の負方向に懐かしむべき昔もそれほど持ち合わせてはいません。私がそのセンチメントを抱くのは、野辺に咲く花でも祖父母の家にある古い器械でも、ましてや卒業アルバムでもありません。それは例えば僅かに煤け、しかし適切に清掃管理されていて朽ちてはいない公園のベンチであったり、半年前に流行った音楽を耳元で流しながら不意に目に入る窓の向こうの変哲のない街並みであったりします。この感傷は一体何でしょう。
人文科目のレポートを書く時のように四半時間ほど腕を組んでじっと考えてみました。結論としては、きっとそれはあるべきものがあるべき姿でそこにある違和感のない”一様さ”への感傷なのでしょう、というのが私の答えです。
その場面をそのまま16:9のワイドフレームにあてはめて後に見返したときに懐古に浸ることができるだろう場面、そんな未来から現代を眺めるような仮想的ノスタルジアを私は感じていたのかもしれません。
いつだったかある有名な神社に両親に連れられて行ったとき、その山深さと水の流れの中に立っていた一種コントラストさえ生み出してしまいそうなほど鮮烈な橙色の真新しい鳥居を私が好めなかったのは、きっとその鳥居が風景の一様さを侵していたからなのでしょうね。
なんて、これも「早まった一般化」。詭弁になってしまいそうですから、これくらいにしておきましょうか。では、おやすみなさい。
こんにちはと言っておきながらこれをご覧になっている方は今何時にアクセスしていらっしゃるのか少し不安になってきてしまいました。文書や録音など情報が受け取られる時間帯が特定できない媒体ではいつも挨拶に困ってしまいます。
朝の挨拶は何時から何時、昼の挨拶は何時から何時まで、というのはしばしば他愛無い無駄話の話題にも上がりますが、夕方過ぎから未明頃まで使える「こんばんは」が一日に占める時間的な割合が最も高いように思えます。すなわちこれは、とりあえず「こんばんは」と書いておくのが最も適切である可能性が高いということを示しています。では改めて、こんばんは。
……と、いうのはこのページへのアクセス数が時間帯によらず一定である、などという非自明な仮定をもとにした詭弁にすぎません。私はよく理屈っぽい人間だなどと言われることがありますが、こんな猫の餌の足しにもならないような言葉をつらつらと並べるのが「理屈っぽい」というのなら、それは困った性癖というものです。
さてそんな私ではありますが、理屈ばかりに拘泥して生きているわけでもありませんし、そんなふうに生きていくわけにもいきません。人並みにノスタルジアのような感傷に心を酔わすことも間々あるかもしれません。
しかし私は実家住まいの未成年なので遠く思い馳せるべき故郷も時間軸の負方向に懐かしむべき昔もそれほど持ち合わせてはいません。私がそのセンチメントを抱くのは、野辺に咲く花でも祖父母の家にある古い器械でも、ましてや卒業アルバムでもありません。それは例えば僅かに煤け、しかし適切に清掃管理されていて朽ちてはいない公園のベンチであったり、半年前に流行った音楽を耳元で流しながら不意に目に入る窓の向こうの変哲のない街並みであったりします。この感傷は一体何でしょう。
人文科目のレポートを書く時のように四半時間ほど腕を組んでじっと考えてみました。結論としては、きっとそれはあるべきものがあるべき姿でそこにある違和感のない”一様さ”への感傷なのでしょう、というのが私の答えです。
その場面をそのまま16:9のワイドフレームにあてはめて後に見返したときに懐古に浸ることができるだろう場面、そんな未来から現代を眺めるような仮想的ノスタルジアを私は感じていたのかもしれません。
いつだったかある有名な神社に両親に連れられて行ったとき、その山深さと水の流れの中に立っていた一種コントラストさえ生み出してしまいそうなほど鮮烈な橙色の真新しい鳥居を私が好めなかったのは、きっとその鳥居が風景の一様さを侵していたからなのでしょうね。
なんて、これも「早まった一般化」。詭弁になってしまいそうですから、これくらいにしておきましょうか。では、おやすみなさい。
Edit 18:48 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top