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喩えるならそれは

1月中旬担当の鏡蛍です。こんばんは。
お正月気分も醒めてしまってそろそろ入学試験の季節という頃ではありますが、肌を刺す空気はますます冷たく、外に出るたびに爪のせいで先が破れかかった安物の手袋を恨んでしまう今日この頃です。
お正月といえば今年は時勢柄初詣にも行けませんので楽しみといえば飽き足りるほどの食事くらいのもので、やはりお節料理の話題を欠かすことはできないのですが、このお節料理はご存知の通りその構成要素一つ一つが縁起物であって、そこにはいろいろな「いわれ」がこめられています。

例えば海老は、ヒゲを生やし腰が曲がった姿から長寿の象徴とされます。また伊達巻は巻物に似た形から学業成就を、数の子は子孫繁栄を意味しているといわれます。
これらはある意味、料理の見た目などを何か他のもので喩えているということです。この喩えるという行為は文を書くときにもしばしば問題になることであって、時に私の頭痛の種ともなります。(この「種」、というのも一つの喩えかもしれません。)
ということで今回は、「喩える」ということについてお話ししたいと思います。

比喩というものはなにも文学に限るものではなく、時には実用的な意味を持つものです。
たとえば物の見た目や食べ物の味を説明するなどのように一口に言葉では説明しづらいものを相手に伝えたいときがそうです。手垢のついた比喩を挙げてしまうならば、「血のような赤」「砂糖のような甘さ」「刺されるような痛み」などがこれにあたるでしょう。他にも「サイコロステーキ」だとか「浅葱色」、「盆地」、「スター俳優」、「ねずみ講」などのように言語に組み込まれている比喩表現も存在します。
そして言語に組み込まれているからには文化にも紐づけられているのであって、実際に上で挙げた「盆地」はその良い例でしょう。「盆地」は英語で”basin”ですが、これは洗面器という意味の言葉です。対象が同じでも想起するものが文化により異なるというのは非常に面白いことではないでしょうか。
このように比喩表現にはいわゆる「ありふれた表現」というものがたくさんあることが分かりますが、伝わりやすい比喩というものはそもそも多くの人に共通のもののはずなのですから、これは当然といえるでしょう。

しかし、ありふれた比喩が常に良い伝え方であるわけではありません。例えば雲を「わたがし」「わたあめ」に喩えて表現するのはいわゆるテンプレートな比喩の代表です。しかし「わたがしのような雲」という表現は、雲についていつでも使えるわけではありません。雨雲はもちろん、おぼろ雲やすじ雲、うろこ雲もこの比喩には適さないでしょう。またひつじ雲や入道雲、わた雲は「わたがし」に準えることができるかもしれませんが、この「ひつじ雲」、「わた雲」といった表現それ自体が優秀な比喩表現なので、文章中で子どもの無邪気さを表現したいような場合や心理的な描写に敢えて組み込みたい場合を除けば、この「わたがし」の比喩はあまり使いどころがないようにさえ私個人の感想としては思えます。(ちなみに「入道雲」というのは坊主頭(または坊主頭の妖怪)に見立てて名付けられたというのが通説のようです。これも良い比喩ですね)
どのような比喩がその場面に適しているかというのは、伝えたい相手や文章のジャンル、雰囲気によっても変わってくるものです。例えば同じ真っ赤な傘でも、推理小説やホラーであれば「血のような赤」が適切でしょうし、日常漫画なら「郵便ポストのような赤」が適切な場面もあるかもしれません。法学部同士の会話なら法律用語を、工学部同士の会話なら物理学の言葉を喩えに用いるのは大いに有効なことでしょう。しかしその比喩を別の人に使ってしまうと、全く通用しないというような場合もあるかもしれません。

説明の伝わりやすさという点もそうですが、やはり機知に富んだ会話や文章を望むなら、少しは捻りのある比喩を使いたいものです。ただこれは口で言うほど簡単なことではなく、上手い比喩というのはなかなか思いつきません。脣を蛭と喩えた川端康成のような真似はそうそうできるものではないのです。

また、狙って綺麗な表現を使おうとするとかえって伝わりづらくなってしまう場合というのもあります。
満天の星空を「降るような星空」と表現するのはありきたりな表現ですが、これが「星が話しかけてくるような空」というようにちょっと気取って言われることがあります。これはちょうど、船が夜間にライトを使ってモールス信号を送るように、たくさんの星がきらきらと明滅している様子を表現しているのでしょう。このような擬人法は文学的(というよりも「文学チック」?)ではありますからロマンチストには好まれますが、あまり多用するとかえって意味が伝わらなくなってしまうものの代表でもあります。
例えば「炎が踊っている」「雪が舞っている」は十分伝わりますが、「氷が踊っている」といわれてもなかなか情景が想像しづらいでしょう。これは静的な印象の強い「氷」を動的な様子を表す擬人法の「踊る」と安易に組み合わせたことが原因です。もちろん何か特殊な状況で氷が踊っているように感じられる場面というのはあるかもしれませんが、それならばもう少し説明が必要でしょう。

比喩には他にもメタファー(隠喩)やシネクドキ(提喩)、メトニミー(換喩)など様々な種類があります。「顔から火が出る」「黄色い声援」のような慣用句は隠喩の代表例ですね。提喩というのは抽象的な上位の言葉を使って下位の具体的な一つを表す(たとえば「花」と言って「桜」を表す)ことや、逆に具体的な言葉を使って抽象的な概念を表す(たとえば「パン」と言って「食糧」を表す)ことを意味します。換喩とは「坊主頭が走ってきた(実際に走ってきているのは坊主頭の人)」や「扇風機を回す(実際に回っているのは扇風機のプロペラ)」のように部分を以って全体を表すような喩えのことです。

他にも、文や修飾語を使ってより細かく比喩内容を表現することもあります。これは比較的簡単に新規性のある喩えを考えることができるので、いろいろと試してみると面白いかもしれませんね。
例えば「授業中に自分と同じ苗字の人が当てられたときの一瞬の焦りとその後のほっとするような安心感」を、「朝寝坊をしたと思ったら今日が休日だと気づいた時のような気持ち」と表現するのはどうでしょうか。
あるいは、「課題やテストにおいてわずかなミスで満点を逃したときの悔しさ」はどのように表現すればいいでしょう?「音楽ゲームでフルコンボを逃したときのような」だと状況が似すぎていてかえって比喩として優秀とはいえないかもしれません。「トランプのタワーをあと一歩のところで崩してしまったような」では状況が限定されすぎていますね。「上手に作れたオムライスで最後の盛り付けに失敗したときのような」などは、伝わる人には伝わるのではないでしょうか。
上手い喩えを考えるというのはなかなか難しいものです。冬の初め頃に時折ある暖かい日に外に出たときに「上着を一枚着せられたような感覚」になることがありますが、このような喩えは多くの場合、考えて思いつくのではなくその場面に実際に行き会った時に不意に浮かんでくるものなのでしょう。

それでは最後に一つ、質問をして終わりにましょう。喩えるならそれは、平安貴族の雅な歌合せのようなものかもしれません。
この冬の耐えがたい寒さを、あなたなら何に喩えますか?

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