日常と非日常
こんにちは。名称未定会長のいとらです。
と、この名乗りも今日で最後となるわけです。明日からは次期会長が会長になります(トートロジー)。これからも私は元会長と名乗ることはできますが、名称未定の歴史もそれなりに長いので、同じ称号を持つ人は大勢いますからね。この世界で唯一無二の存在たる「名称未定会長」と比べると、称号としての箔は弱まっている気がします。
ともかく、今日は大晦日、一年の締めくくりとなる日なわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は久しぶりに実家に帰り、餅つきだとか、おせちの準備だとか、結構年末らしいことをしております。一人暮らしだと季節感もなくなってしまいますからね、今日は○○の日だからあれやってこれやって、というのは割と新鮮な感じです。
しかし、昔は年の終わりと聞くとそれだけでテンションが上がっていたものですが、今はそんな感慨は全然わかなくなってしまいました。今日で今年が終わるからといって、世界の何が変わるというわけでもありませんし、年越しという事象にいまいち蓋然性を抱けないんですよね。何となれば年の境を夏にしたって問題ないはずですし、どの暦を使うかでいつが年明けかは変わってきます。なんなら、日本時刻での年明けとアメリカ時刻の年明けとで半日以上ずれているわけなので、年が変わる瞬間なるものも、他の任意の時刻と同等の価値しか持ちえないのではないか、なんて思ってしまいます。
まあ、あれこれ理由をつけてみましたけど、要するに特別な日に対する特別感を感じなくなったという話です。これは大晦日に限らず、他の祝日や年中行事全般に言えることなんですが、例えば年越しそばを食べることに関して、わざわざ年越しのときに食べなくてもいいじゃないか、そばくらい好きな時に食わせろ、とそんなことを思います。だから誕生日にケーキを食べようとは思わないですし、ハロウィンに仮装したいとはなりませんし、クリスマスにリア充を爆破したりはしません。そんなの、好きなときにすればいい話ですからね。リア爆しろ!
……冗談はさておき、実際のところ、普段できないことをするきっかけとして必要だというのもわかるんです。特別な日の特別感を味わうのもそれはそれで楽しいでしょうし。結局、私がそういう童心を忘れてしまったというだけの話です。
ところで、今年も色々なことがありましたね。甲子園とか、コミケとか、去年できなかったことが今年こそはと開催されました。京大ではなんとNFが今年二回も開催され(!?)、対面授業も段階的に再開されていきました。名称未定でも、制限付きですが対面での活動を行うようになりました。
しかし同時に、コロナの状況に振り回された一年でもありました。前々から企画していたイベントを中止せざるを得なくなることもあったでしょうし、大学は対面授業とオンライン授業を頻繁に切り換えたので、それに順応できずにいた人もいたかもしれません(私ですが)。
思えば現代人は文明の力によって、同じような日々を繰り返す環境を作り上げてきました。それは安定して豊かなものですが、同時に退屈なものだったりもします。その「日常」の中にあって、毎年味わえる些細な非日常というのは、なるほどうまくできたシステムなのかもしれません。同じ非日常でも、予測のできないものに振り回されるよりかは、毎年同じように祝える日があった方が楽しい気がします。ええ、リアルはフィクションより嫌なことが多いですからね。最近、そんなことを思います。
今年も、家族で大晦日を過ごせて幸せです。
そんなわけで、最近考えていた日常と非日常についてでした。みなさんは、年の瀬にはどんなことを思いますか?
そういえば、良いお年を、という表現は大晦日には使わないらしいですね。なんでも、「良いお年を」というのは今年やるべきことを終わらせて、良い新年を迎えてください、という意味なのですが、大晦日にはやるべきことは終えているはずだから、と言うような理由らしいです。まあ、私は今こうして今年中にやるべきものを書いてるんですけどね。あはは。
ただまあ、せっかくの大晦日にそんな細かいことを気にするのも馬鹿らしいので、ここはこの挨拶で締めると致しましょう。
よいお年を!
と、この名乗りも今日で最後となるわけです。明日からは次期会長が会長になります(トートロジー)。これからも私は元会長と名乗ることはできますが、名称未定の歴史もそれなりに長いので、同じ称号を持つ人は大勢いますからね。この世界で唯一無二の存在たる「名称未定会長」と比べると、称号としての箔は弱まっている気がします。
ともかく、今日は大晦日、一年の締めくくりとなる日なわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は久しぶりに実家に帰り、餅つきだとか、おせちの準備だとか、結構年末らしいことをしております。一人暮らしだと季節感もなくなってしまいますからね、今日は○○の日だからあれやってこれやって、というのは割と新鮮な感じです。
しかし、昔は年の終わりと聞くとそれだけでテンションが上がっていたものですが、今はそんな感慨は全然わかなくなってしまいました。今日で今年が終わるからといって、世界の何が変わるというわけでもありませんし、年越しという事象にいまいち蓋然性を抱けないんですよね。何となれば年の境を夏にしたって問題ないはずですし、どの暦を使うかでいつが年明けかは変わってきます。なんなら、日本時刻での年明けとアメリカ時刻の年明けとで半日以上ずれているわけなので、年が変わる瞬間なるものも、他の任意の時刻と同等の価値しか持ちえないのではないか、なんて思ってしまいます。
まあ、あれこれ理由をつけてみましたけど、要するに特別な日に対する特別感を感じなくなったという話です。これは大晦日に限らず、他の祝日や年中行事全般に言えることなんですが、例えば年越しそばを食べることに関して、わざわざ年越しのときに食べなくてもいいじゃないか、そばくらい好きな時に食わせろ、とそんなことを思います。だから誕生日にケーキを食べようとは思わないですし、ハロウィンに仮装したいとはなりませんし、クリスマスにリア充を爆破したりはしません。そんなの、好きなときにすればいい話ですからね。リア爆しろ!
……冗談はさておき、実際のところ、普段できないことをするきっかけとして必要だというのもわかるんです。特別な日の特別感を味わうのもそれはそれで楽しいでしょうし。結局、私がそういう童心を忘れてしまったというだけの話です。
ところで、今年も色々なことがありましたね。甲子園とか、コミケとか、去年できなかったことが今年こそはと開催されました。京大ではなんとNFが今年二回も開催され(!?)、対面授業も段階的に再開されていきました。名称未定でも、制限付きですが対面での活動を行うようになりました。
しかし同時に、コロナの状況に振り回された一年でもありました。前々から企画していたイベントを中止せざるを得なくなることもあったでしょうし、大学は対面授業とオンライン授業を頻繁に切り換えたので、それに順応できずにいた人もいたかもしれません(私ですが)。
思えば現代人は文明の力によって、同じような日々を繰り返す環境を作り上げてきました。それは安定して豊かなものですが、同時に退屈なものだったりもします。その「日常」の中にあって、毎年味わえる些細な非日常というのは、なるほどうまくできたシステムなのかもしれません。同じ非日常でも、予測のできないものに振り回されるよりかは、毎年同じように祝える日があった方が楽しい気がします。ええ、リアルはフィクションより嫌なことが多いですからね。最近、そんなことを思います。
今年も、家族で大晦日を過ごせて幸せです。
そんなわけで、最近考えていた日常と非日常についてでした。みなさんは、年の瀬にはどんなことを思いますか?
そういえば、良いお年を、という表現は大晦日には使わないらしいですね。なんでも、「良いお年を」というのは今年やるべきことを終わらせて、良い新年を迎えてください、という意味なのですが、大晦日にはやるべきことは終えているはずだから、と言うような理由らしいです。まあ、私は今こうして今年中にやるべきものを書いてるんですけどね。あはは。
ただまあ、せっかくの大晦日にそんな細かいことを気にするのも馬鹿らしいので、ここはこの挨拶で締めると致しましょう。
よいお年を!
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