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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
サークルについて詳しくはこちらへ→公式WEBサイト

2023-10

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初めまして

ああ寒い寒い…………。というわけで、本日の雪予報のお時間です。

 最近、といっても1年スパンのゆっくりとした流れなのですが、映画を観ることがとても増えました。高校三年生の前半に、友達と「ミッドサマー」を観た後キリスト教の聖句を暗唱して二人で狂ったように笑ったり(高校がキリスト教系の学校でした)、「メイドインアビス」の劇場版を見て開口一番、主人公一行の一人を撮る上からのアングルが扇情的だったと述べたら「気持ちわる」と言われたり。高三の後半には精神的に参っており、10月に塾の宿題を全部ポアして、神戸でリバイバル上映していた「リズと青い鳥」を一人で観て一人で帰りました。ツイッターで持て囃されてる映画か追っていた漫画・アニメの劇場版しか観ていないのが一目でわかるラインナップですね。とはいえ、やはり話題になるだけあるのでしょう、どの映画も恐ろしくクオリティが高く、その時の記憶が鮮明に甦るような、良い体験になりました。そして大学生になっても変わらず、劇場版プリンセスプリンシパルとかシンエヴァといった、いわゆる話題の映画しか観ていないわけですが、この一年間を通して、映画を観るごとに、これは本当に暴力的なものだなあとつくづく思います。120分に凝縮された映像の完成度、骨まで響く音響効果。薄暗く、息が潜められた、スクリーン以外のものが全て排除された120分。こういう「場」は簡単に人を飲み込むからです。映画を構成する情報はあまりにも膨大であり、に存在するものを一度に全て掬い取ることは不可能であり、人はどこに注目するべきか、あるいはどこにも注目せず、その場の全体の雰囲気をただ受け止めるか、という選択を迫られます。そこに罠があります。受動的に映画を甘受する姿勢を持った人間に、いかに気持ちよく「感動」や「興奮」をお届けするか、映画を作っている人たちは分かっているんでしょうね。付き合いで観に行ったどうでもいい映画の、寒い家族愛を押し出してくるような映画で、「感動的」な大音量のBGMに押し出されるようにして涙を溢してしてしまった人は少なくないのではないでしょうか。私は単純な人間なので人生で数度そういうことがあり、かなり悔しかったことを覚えています。かなり恥ずかしい。あれで自分はその映画に感動したのだと錯覚してしまう人も多いんでしょうね。涙を流したからといって、それはなんの証明にもならないと思うんですが。個人的に、心を大いに動かされる映画は、かえって人に涙を流させないんではないかと思いますね。涙腺を狙うのではなく心を狙いすましているというか。それとも、単に私がそれらの映画を受け止める気概を持って望んだからというだけの、こちら側の感受性の問題なのでしょうか。
 暴力によって、本来であれば否定しているようなものを受け入れさせられるのは忸怩たる思いになります。それが本当に気づくべきことであれば良いのですが、大体は無批判に受け入れてはいけないものであったりするので。ただ、暴力によって心にするすると入り込んでくる言葉、意味。その快楽には抗い難いものがあるのも事実です。
 つい先日観た「劇場版 レヴュースタァライト」。これは暴力の話です。
 
 「レヴュースタァライト」は、「ラブライブ!」シリーズなど、「美少女がいちゃついてたら、嬉しい」という人間の最も素朴な感情に訴えかける作品を多く生み出すことで有名なブシロード系列のアニメ作品です。「レヴュースタァライト」も多分に漏れず、名前がある登場キャラクターは女性のみ。メインキャラクターである9人の「舞台少女」が、たった一つの「スタァ」の座を巡って「オーディション」に挑む……というのがざっくりとしたあらすじです。実は、私はアニメ版が放送された時はそれを観ておらず……、というのも、私はそういった「女の子たちが親愛の表現として身体的に軽度の接触を行うにもかかわらず、その親愛自体への掘り下げが不透明である」ような、言ってしまえば「百合営業」的な百合表現に食傷気味であったことが私に「レヴュースタァライト」を敬遠させたのでした。断っておきたいのは、私は決していわゆる「百合営業」が嫌いなわけではなく、むしろ、そういったものを消費することで命を繋いできたということです。
 マズローの欲求五段階説というものをご存知でしょうか?人間の欲望は、その低次の(より切実な)欲望が満たされてから生まれてくる、という言説です。すなわち、「美少女がいちゃいちゃしているのが見たい」という欲求が満たされて初めて、「美少女の関係性をもっと掘り下げてほしい」「二人の関係性に名前をつけたい」「二人の関係性が既存の概念のどれにも当てはまらず、名前がつけられないくらい掘り下げられてほしい」「女女の関係性だけ取り出した同人誌が読みたいなあ」「同人誌で〜〜てほしい付き合ってなくてもいいから」「公式で殺し合ってほしいなあ」といった、より高次の欲求が表出してくるのです。私はその時、女女がイチャイチャするソシャゲなどを既にやっており、恒常的に女女の素朴なイチャイチャが得られる環境下にあったため、女女がイチャイチャするだけでは食指が動かなかったのでした。
 そうして「レヴュースタァライト」を観る機を逃し、その数年後にやった劇場版もスルーしようとしていた私でしたが、「劇場版 レヴュースタァライト」の感想にこんな一文があるのを見かけました。

「レヴュースタァライトは百合ではなくBL」

で、出たーーーーー!!!!!!!!!!
 「百合ではなくBL」個人的には百合とBLを二元論の両輪に挙げることからしてナンセンスだなと思いますが、この言説の是非については置いておいて、こういうように形容される百合には、必ずと言っていいほど「暴力」と「相互理解」の概念が付随します。これは観るしかないと、腕をまくって鑑賞しにいったわけです。コピーには「”劇場”でしか味わえない{歌劇}体験」とありました。
 
 観た結果としては、これは暴力の物語でした。そしてその内実は最初に期待していた以上に大きかったわけです。確かにこれは、”劇場”でしか味わえない…………というか、どこで観たとしてもそこは”劇場”であったな、と思います。なぜなら、そこに暴力があるからです。「劇場版 レヴュースタァライト」における暴力とは、実際に登場人物たちが交わす言葉や刃でもあり、グロテスクなバロック調キリンが登場人物に求めるものであり、映画において常に行われていた”暴力”でもありました。”暴力”そのものが映画のテーマに据えられ、脚本から演技から映像から、映画を構成する要素を全て”暴力”を振るうことを前提に組んでいるということです。映画においても歌劇においても、暴力……舞台を現実と切り離すことで、劇中において、この世においてさまざまに関連し合い存在している何かしらが持つ文脈、持つ意味を、それのみ取り出して観客の心に狙い撃つということができる。”暴力”を行使され、スクリーンの外側は全て暗闇の中に置かれ、観客はその前でただただ”意味”を浴びせられることしかできません。キャラクター間での暴力もまた”暴力”であり、もしかすれば素面であれば否定されたかもしれないことが押し通される、心に突き立てられる……。本当に凄い。凄すぎて地に臥すしかない。
 私はこの映画をみて、「正しい”暴力”のふるい方」の一端を観たような気がします。あるいはこれもまた、劇場の暴力にやられた単純な私の錯覚に過ぎないのかもしれませんが。
 
 何も考えずに書くとまとまりがなくなってしまって困りますね。雪予報終わり。

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気になっている言葉㉒

こんばんは、6月中旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

①ドラえもんの秘密道具
 秘密にしていないのに、秘密と言わなくても。

②天才
 本人の努力を無視してしまうようで、使うのをついためらってしまいます。

③怖いもの知らずだった昔
 私はレジも電車も長机も怖くなかった昔に戻りたいものです。

④オンラインランチョン茶話会
 本学で行われているイベントです。早口言葉にちょうどいいですね。

⑤ドでかい、ド派手
 どういう条件なら形容詞にドがつきうるのですか。

こんなに小さな言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心を。

Edit 19:03 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

アイデアについて

どうも皆さまこんにちは! 六月上旬を担当します、ナカジマ杓子と申します。大したことは書けませんが、何卒宜しくお願い致します。 さて、文字書きの片隅にも置けないような私ですが、一応小説もどきを書き散らすことを趣味としております。だた、最近非常に不思議な法則性を発見して、どういうことやろ? と首を傾げることしきりです。というのは、「他にやることがあるときに限って、書きたいアイデアが浮かんでくる」法則のことです。長期休みなんかに入るとわりとまとまって時間が取れるので、「この間に頑張ってっ書き上げるぞ!」と息巻いて机に向かうのですが、筆が遅々として進まない。それなのに、テスト期間になると、「あ、こんなのおもしろそう!(面白くない)」「こんなのやりたいなあ!」と変なアイデアばかり浮かぶ。ああ逆だったら最高なのに! と私はいつも思います。テストに対する逃避エネルギーが脳味噌を要らん方向に暴走させる、というのも原因としてあるでしょう。でもきっとそれ以上に大きいのは、時間がある時だと、アイデアをすぐ実行に移せてしまうということなんだろうと思います。よさそうなもんですが、実行に移した途端そのアイデアは色あせて、すごくしょうもなく見えてきます。いくらアイデアがあったって、自分にはそれを実現する腕がないという現実にすぐさまぶちあってしまうのです。膨らむ前に潰されたアイデアは、もう一切成長いたしません。逆にテスト期間中はアイデアを実行に移せないので、アイデアの種からアイデアが膨らむ。膨張する時間があるわけです。
 あー、もっと書くのが上手くなれば、こういうこともなくなるのかなあ、とうまい方々に是非とも聞いてみたいですね~。
 以上です。お付き合いいただきありがとうございました!

Edit 19:26 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

台詞を書くって難しい

 どうもこんにちは5月下旬担当のいとらです。
 小説を読むときに何に注目するかというのは人それぞれだと思いますが、私なんかだと台詞を中心に読んでいるところがありまして(もっと具体的にはキャラ同士の会話ですが)、そのため自分が書く小説においても台詞回しには力を入れるようにしています。私は小説をまともに書くようになってからかれこれ三年目(!?)に入ろうかというところですが、未だに台詞中心主義のようなものは自分の中に残っていまして、せっかくなのでこの場を借りて小説内の台詞について私が考えている事柄を書き連ねてみたいと思います。

 個人的な感触として、「」のついている会話文は、ほかの地の文と比べてリアリティが強い。というのも、地の文は描写というフィルターを通して書かれたものであるのに対して、会話文は作中の会話をそのまま貼り付けたものという印象があるからです。
 例えば、「Aさんは私を映画に誘った」という文章はあくまでもただの描写ですが、「Aさんは私に『映画に行かない?』と言った」となるとAさんの台詞が剥き出しで書かれることになります。
 上の例の前者と後者を見比べた時、後者の方が情報量が多いでしょう。どういう口調で、どういう表現を使って言ったのかが読者にも明らかなのです。こうなると、作者としては誤魔化しがきかないわけでして、「Aさんはこんな言い方をする人なのか?」というのを一々考えてしまいます。
『~しない?』という誘い方をAさんは果たしてするのか、「に」という助詞をAさんは言うのか、前に「できれば」とか「よかったら」のような婉曲表現はつけないのか、『見にいく』ではなく『行く』なのか、といったようなことが気になってしまうわけです。
 ほんの些細なことではあるわけですが、この書き方一つで作中の「事実」が変わってしまうと思うと気が抜けないんですね。そして、こういう細かいところの積み重ねが、作品全体の質感に関わってくるんじゃないかなぁというのが、私の思い、というかある種の信仰だったりします。
 まあ、実際の日常会話の場面なんて考えたら、一々助詞を入れるか入れないかなんて気にしてないんですけどね。言葉なんて一回言ってしまえばもう推敲なんてできませんし。
 そういえば昔、「めちゃくちゃ上手い会話文書く人でも、実際の会話が下手な場合も多い」というようなことを聞いたことがあり、それを聞いた当時は、「いやいや頭の中でいい台詞が思いつける人間が話すの下手なわけないじゃないか」などと思っていたのですが、今になって私はそのことを身に染みて実感しています。というのも、この二年間、小説内での会話の書き方はうまくなった自信がありますが、反比例するように普段の会話が致命的に下手になっている気がしているんですね。
 喋り終えてから「こういう表現にすればよかったな」と反省したりはするんですが、どうも口が動いている最中は頭が動かないみたいです。悲しいかな。
 え、反省ってどういうこと考えてるかって?
 ……助詞を入れるかどうかとかですよ。

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気になっている言葉㉑

5月中旬担当の葱です。遅くなってすみません。今回も気になっている言葉について書きます。

① ウイルス、ワクチン
ともに英語の発音とかけはなれています。なぜこのカタカナ語が定着したのですか。
② 謦咳に接する
昨今は飛沫感染が怖くてそれもできませんね。
③ 松葉括弧
≪≫を松葉括弧と言いますが、松葉には見えません。なぜこの名前なのですか。
④ 三密
これを聞くと壇蜜を思い浮かべるのは私だけですか。
⑤ 気になっている言葉
このコーナーは「気になっている言葉」ですが、言葉の考察ではなく、言葉をネタに一言いう謎のコーナーになっていますね。

こんなに小さなことにかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心ください。

Edit 06:22 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

気になっている言葉⑳

4月下旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

①自分らしく
 Jpopは「自分らしく生きよ」とよく言います。しかし、「自分らしく」生きられないことに悩む人よりも、「自分らしく」とはどういうものかがわからずに悩んでいる人の方が多いと思います。「自分らしく生きよ」と言われても、私はすこし戸惑ってしまいます。

②起て、飢えたるものよ
 革命家さん、飢えた人は空腹と絶望で動けないということがなぜわからないのですか。

③~ですが、~けど
 断定せずにこれで文章を終える人は多いです。しかし、その後に続くものがあいまいですから、はっきりとその後の内容も言った方がわかりやすいと思います。

④対面・オンライン
 対面の対義語は本来オンラインなのですか。

⑤若者
 ニュース番組を作る方、カメラに映っている人々をよく見ずに、人の群れをとりあえず「若者」と呼ぶのはやめてください。

こんなに小さな言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心ください。

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気になっている言葉⑲

4月中旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

①なんで
「~なので」を「なんで」という人は多いです。しかし、「~なんで」は砕けた言い方ですから、きちんとした場であまり言わないほうがいいと思います。

②ご入学心よりお祝い申し上げます
すました顔で言われてもよく伝わりません。満面の笑みで飛び跳ねながら、「ご入学っ!心よりっ、お祝い申し上げますううう!!!」と言われたなら伝わると思います。そんな入学式のあいさつを誰も見たくないとは思いますが。

③ワクチン接種で日常が戻りつつあります
コロナ生活が続き、日常とは何だったのか忘れてしまいましたね。

④社会的距離を保とう
世間で言われている社会的距離よりももっと離れてほしいと思うのは私だけですかね。

⑤go to travel、stay home
なぜ標語は英語が多いのか疑問です。日本語でもっといい標語が作れないものですかね。

こんなに小さな言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいないのでご安心ください。

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後書きが書きたい!

 どうも皆さんこんにちは。四月上旬担当のナカジマ杓子と申します。
 それにしても、いやー、一年って早い! もうぴちぴちの新入生がやってくるのか、私はもう老害なのか、と毎日を憂鬱な気分で送っております。こんな愚痴こそが老害であるというご指摘は甘んじて受ける覚悟です。
 さて、今回の題は「後書きが書きたい!」なのですが、普通に、じゃあ書けよ、ってハナシですよね。でも、これがまた一筋縄ではいかないのです。 
 OB、OGの方の過去作やプロの方々の作品を見ると、面白い後書きがついてる。個人的には似鳥鶏先生の後書きなんかもう最高です。私もあんな風に、かっこよくて、ユーモア溢れ、読者に寄り添う後書きが書きたい! といつも思い、執筆中(執筆というのもおこがましいレベルかもしれませんが)には、あんなことを書いてやろう、こんなことも面白そうだ、と色々考えて、ムフフと笑う。
 しかし、しかしです。書きあがってみると、「あれ? この完成度の作品に立派な後書きが付くなんて、海老の胴体にタイの尻尾を付けて出すようなもんじゃないのか?」って気になってきて、「ああ、こんな面白くない作品を最後まで読む人なんていないんだ。最後に後書きなんて付けたって……」とすっかりやる気がなくなってしまいます。私見ですが、後書きというのは作者本人が読者に生の声をぶつける唯一の場であり、そこに何かを書くということは、やっぱり多くの読者を想定して初めてできることなのです。そんな特権を得られるよう、私も精進せなあかんなあ、と弱弱しい決意を固めたところで、短いですが今回のお話はおしまいです。
なんだか病んでる感じになってしまい申し訳ございません。それでは皆さん、また今度。

Edit 22:40 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

新歓例会とテーマについてのあれこれ

 新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。3月下旬担当のいとらです。名称未定の会長をしています。

 本日3/31からdiscordにて新歓例会を実施します。サークルの紹介や、創作についての話、雑談などを行います。チャットのみでも、聞き専でも大丈夫です。詳しい参加方法は、名称未定のホームページやTwitterをご覧ください。新歓は4月いっぱいまで行うので、興味がある方はぜひのぞきに来てください。

 また、4/21には作品発表会を行います。これは、各々が作品をかいて、感想を言い合おうという企画です。
 テーマは「雷」「手料理」「共鳴」の三つです。これらのテーマを参考にしながら、自由に創作を楽しんでみましょう。三つすべてを織り交ぜるというのでも、一つだけ選んでかくというのでも、あるいはこれらのテーマとは関係なく創作してもらっても構いません。
 一ページ程度のものから、気楽にご参加ください。

 ところで、今回テーマを設定したわけですが、みなさんはテーマを決めてかくということに対してどういう風に感じているでしょうか。テーマがあるとかきづらいという方もいれば、逆にテーマがあった方がかきやすいという方もいると思います。
 私は後者側の人間です。私は主に小説を書いているのですが、物語の軸を作るのが苦手なんですね。なので、テーマとして一本軸が定まっていると、そこを取っ掛かりとして肉付けしていけるので、組み立てやすいのです。
 生来私は、ゲームをするときなどにも「制限」を加えてプレイするのが好きでした。例えば、卓球をするときには敢えてペンホルダーではなくシェイクハンドにしてみたりですとか、左手でラケットを持ったりしていました。この根本には、何かを極めるというのが苦手で、つい「新しいルール」での勝負で誤魔化してしまうという私の性格があるのだと思います。
 同様に、小説を書く時にも、何もない状態で「自分の書ける最高の作品を書いてください」と言われると困ってしまうわけです。その代わり「このテーマを扱った上で作品を書いてください」という条件が課されると、ぐっと気が楽になります。
 甘えてんじゃねえぞって? はいその通りです。本当は制限なしに自分の書ける最高のものを書くべきなんだろうなとは思うんですがね。
 とはいえ、創作に対するモチベーションは人それぞれですし、少なくとも自分が楽しめることが一番だとは思うので、こういう人がいてもいいのかなと思っています。

 長々と書きましたが、今回テーマを用意したのは、みなさんがかきやすいようにということです。
 うまくかけるかわからない、ということもあるかもしれません。ですが、まずは挑戦してみてほしいなと思います。ぜひ、私たちと一緒に創作の世界に足を踏み入れてみませんか?

Edit 17:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

大学生活のしのぎ方 2021

こんにちは、3月中旬担当の葱です。新入生向けに大学生活を送る上での注意点を述べます。

① 講義
自分で考えて自分で調べることが重要です。ただ受けて単位を取るだけではいけません。講義中は自分の考えや疑問を記録し、講義が終わってからそれを深めていかねばなりません。

② 英語
 毎週のリスニング課題や英語の授業では、英語力はあまり伸びません。青谷正妥(2012)『英語学習論』、朝倉書店、などを読んで、英語力を鍛えたほうがいいです。大学では語学を究める人が多くいます。時間がない、授業が不十分などを言い訳にしていられません。

③ 自転車
 京都は自転車走行に不便です。車道は危険、歩道は原則通行禁止で、自転車が通る場所がありません。地元の感覚で自転車を走らせると事故に遭います。

④ 食堂
 昼時は混むので避けたほうがいいです。本当に。

⑤ 自力救済
 最後に頼れるのは自分だけです。大学では、よほど親切な人がいない限り、誰も助けてくれません。

⑥ 当然のことは当然に
 ポイ捨て、居眠り、ベンチで寝る、頬杖をついて講義を聞く、などの、やってはならないことは、大学生になってもしてはいけません。

⑦ 5月病
 5月ごろには、理想と現実のギャップ、自分のやりたいことがわからなくなる、大学生活につかれるなど、精神的に疲れます。これを乗り越えるのは大変ですから、覚悟してください。
 
⑧ 進路
 就職活動は1回生のうちに始めるべきです。1回生のうちに、就職活動のハウツー本を読む、内定者座談会への参加などをしましょう。本格的には3回生の夏に始めましょう。大学院進学をする人も、3回生の冬までは就職も視野に入れましょう。

⑨ その他
 駐輪場でアンケートと称して人が近づいてきたら危険です。

以上です。新入生の方はお気をつけて。

Edit 12:03 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

虚無感と春風

3月上旬担当の鏡蛍です。こんばんは。
春休みの折り返しの季節、初春の穏やかになりつつある気候に背中を向けて家で引きこもってばかりいる日々が続いているのがきっと私だけではないと信じています。
旅行にでも行くことができれば気も晴れるのかもしれませんが、まだまだ社会情勢も中途半端であまり派手な外出は控えるようともいわれるいわば摩擦係数の高い状況下では、私の弱い意志の力で体を外に引きずりだすのはどうにも無理があります。

従ってアルバイトや習い事、その他の強制力が働かない限りはずっと家にいることになるのですが、しかしこの生活にはある一つの大きな課題が付きまといます。
それはすなわち「虚無」です。家に一日中いるという生活は、本を読んだり、コンピュータを触ったり、勉強したり、人によってはアニメやドラマにゲーム、趣味など意外とすることはいくらでもあるものです。もし休暇の長さが1週間足らずであれば、それだけでも十分に充実した日々を過ごすことができるでしょう。しかし休みに入ってひと月を超えてくると話は変わってきてしまいます。
本を読んでいてふと集中が切れた時や録画したアニメを見終えた時、不意に「虚無感」というものに襲われることがあります。別段暇なわけでもなく、場合によっては読書や勉強など、客観的に見て意味のあると思われる時間の使い方をしているにもかかわらず、です。
今回はこの「虚無」というものについて、少しだけお話ししたいと思います。

なぜ虚無感が生まれるのか、それはひとつには、自分が現在行っている行為に本質的な意味を見出せないことに原因があるように思えます。人が虚無感、虚しさを覚えるのは、代表的には自分のしてきた行為や努力が水泡に帰してしまうことが分かった時ではないでしょうか。
例えば、やらなければならないと思い時間をかけて取り組んでいた課題が、実は不要だとわかった時、私たちは押し寄せるような疲労感と脱力感、そして虚無感を味わうでしょう。ではこの「長期休暇の虚無」も同じ理由によるものなのでしょうか。
違う、ということは、上で説明したことと照らせばほとんど明らかなはずです。この長期休暇の虚無というのは、行動それ自体が無意味かどうかとは無関係なのですから。

ではこの虚無感の原因とは何なのでしょう。ここで虚無感の原因として有名なものをもう一つ上げてみましょう。
それはすなわち慣れ、飽きです。「来る日も来る日も同じ仕事、同じ日々の繰り返しで嫌になる」なんていうセリフは、少なからずどこかで聞いたことがあるでしょう。まさしくこれは同じことを繰り返した飽きによる虚無感であるといえます。繰り返しばかりの日々を送っていると、その毎日にだんだんと積極的または本質的な意味を見出せなくなってしまうというのは、分からない道理ではないでしょう。刺激の少ない長期休暇において、これと同じような状態になってしまうということは十分にありえます。読書や趣味的活動をしてもなんとなく集中できないのは、すなわちそれに(読書や趣味に、というよりも刺激の少ない状況それ自体に)飽きてしまっているからなのです。

しかし虚無感の原因にはもう一つ大きなものがあるのではないか、と私は思います。
それはすなわち、「リアルタイム性のある活動」の欠如です。そもそも普段、趣味以外の「飽き」の影響を受けにくい物事を行う時に、いちいちその本質的な意義を問うことなどありません。なぜなら往々にしてその必要性は明らかだからです。以下でその例を見てみましょう。

なぜコンビニでアルバイトをしている大学生は、レジに並ぶ来店客に応対するのでしょう。なぜ一人暮らしの大学生は晩御飯の買い物に行くのでしょう。なぜ授業を受けている大学生は教授の講義をメモに取るのでしょう。なぜ大学生は明日締め切りのレポートを書くのでしょう。
考えるまでもありません。それは、「今すぐにそうしなければ問題が何らかの発生することが分かっているから」です。ここでいう「今すぐに」というのは数分から数時間まで状況によりさまざまですが、とかく本質的にそれをすることが自分自身の人生にとって価値があるかなどということはさておいて、今しなければならないことというのが与えられているからこそ、人間はその作業に従事しうるのです。
「それをしなければ問題が発生するのだから、それをすることには価値がある。だから自分がいまやっていることは無駄な行為ではない。」
そうしてその行為を正当化することで、人は虚無感を覚えることなく生活を送ることができるのです。

そして上の議論の対偶(もちろん正確な意味ではありません。自然言語による伝達に論理的厳密性を求めてはいけません)を取れば、最初に提示した問の答えが導かれます。
私が、私たちが長期休暇中の自己研鑽のような本来有意義な諸活動に対して虚無感を感じてしまうのは、「それを行わなかったとして明示的に問題が発生しないような活動であるから」なのです。

……なんて、3月の風のように乾いた文章で論理立てて私のここ数日に言い訳をしたところで、誰かが報いてくれるわけではありません。やっぱり理屈っぽい性格というのは利のないものですね。
きっとより時間的深度を持った視点を持つことができれば、諸行為についてそれを今やらなければならないことだと自らに納得させることも可能なのでしょうが、今のところ私にそれを実行するいいアイデアはありません。誰か知っていたら教えてください。

ただ最後に、「3月上旬担当」のブログ、というのは一つの「今やらなければならないこと」として、私の長期休暇の虚無をかき消すのに少しは役に立った、ということだけは書き添えておくことにしましょう。

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なぜ掛け算を先に計算するのか

はじめまして。2月下旬担当のたしゅです。
名称未定は創作サークルですが、今回は算数の話をします。


掛け算を先に計算するのはなぜかという疑問があります。
小学二年生のときに教わり、ルールだからと覚えさせられたこのルール。
正しく説明しろと言われたら、あなたはどうしますか?


実は言うと、「ルールだから」という一見ごまかしているような説明は的を得ています。
実数は体であり、体の公理のひとつである分配法則は掛け算を先に演算するように求めています。
掛け算を先に計算しなければ分配法則が崩れ、掛け算を先に計算すれば分配法則が成り立つのです。
だから掛け算を先に計算するんだよ。小学生にこう教えても誰も納得しないでしょう。
だからなぜこのようなルールが生まれたかを説明するのが良いと思います。


いま1000円を持っていて、300円のものを買いました。残りは何円でしょう。

この問題は 1000 - 300 = 700と解くと思います。
ここで今度は、次の問題を考えましょう。

財布には合計1000円が入っていました。いま100円玉を3枚出して300円のものを買いました。財布にはいくら残っているでしょう。

この問題も1000 - 300 = 700と解けます。


さて二つの問題が主張していることは同じですが、形が違います。
一つ目の問題は電子決済で払っているようなもので、いかにも数字をいじっている感じがします。
しかし、二つ目は硬貨を意識した、より実用に即した問題であるといえます。
300円を出すというとき、100円玉を3枚だすという意味を込めて100×3円出すといっても良いでしょう。100 × 3 = 300なのだから筋は通っています。
ならば 1000 - 300 = 700を 1000 - 100 × 3 = 700 と書き換えるのも自然です。1000円があった。300円払った。残りは700円。これを二種類の書き方で書いているだけなのです。


お金に例えると、この計算が2700にならないのも頷けると思います。
掛け算は一つのものを、あえてバラバラにして数えるものなのです。
こういう事情があるから掛け算は先に計算するんだと説明すれば、子供も納得するのではないでしょうか。

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気になっている言葉⑱

皆さん、こんにちは、2月中旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

①他己分析
他人から自分を分析・評価してもらうことをいいます。アメリカ人に"What is takobunseki"と言われたら、takoをどう説明するか、迷いますね。

②ごはんおかわり無料
日本も豊かになったものですね。米が無料とは、いつみてもびっくりします。

③わかりっこない
 「こ」は一体何の短縮形なのですかね。

④新型コロナウイルス
新型とわざわざつけるからには、「旧型コロナウイルス」もあるのですか。

⑤よう~しない
古い本では標準語として使われていますが、今では関西弁にしか残っていません。いつから方言になったのですかね。

こんなに小さなことにかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心ください。

Edit 18:00 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

鬼の話

 どうも皆さんこんにちは。ナカジマ杓子と申します。
 さて今回はといいますと、この間サークルで話題になった鬼の話について。まあ、鬼滅とか流行ってますし、二月、節分ですし、タイムリーっちゃあタイムリーなのでは、と小癪にも考えております。
 「来年の事を言えば鬼が笑う」とありますが、これ、どうして鬼が笑うんだろう、って話になりまして、なんでも鬼には未来予知ができるから、それができない人間を笑うんだそうでございます。へえー、鬼ってめっちゃ強いやん、あの筋肉に予知とか、まさに鬼に金棒やん(うまくない)とか思っていたのですが、あれ待てよ、それにしては鬼さんたち負け過ぎじゃね? とも感じるわけです。
 桃太郎、金太郎、一寸法師、全部でボコボコにされてますよ、あの人たち。 AUのCMに出てるメイン三人のうち二人ですからね。三分の二ってちょっとどうなのよ、という感じです。この分だと、花咲じじいや砂かけばばあへの勝利も危ぶまれますよ。あ、砂かけばばあは普通に強いのかな……。ちなみに私は長年この二人は夫婦なのではないかと疑っているのですが、どうにも確証がつかめません。粒上のものを投げるという奇行を生業とする高齢者同士、惹かれあったりはしないのでしょうかねえ。
 さて、話を戻しますと、未来予知ができるなら、相手がどう攻めてくるかなんて一発でわかるわけですし、いくらでも対処できるだろう、と。どうしても勝てない相手からは逃げればいいのに、と。三十六計逃げるに如かずと言いますし。酒吞童子とか、酒飲んでる場合じゃないですよ、飲んだら死ぬっちゅうねん。
 これはどういうことだろうなあとぼんやりしていましたら、一応これという仮説が生まれました。シェイクスピアの「マクベス」。予言を回避しようとすると、予言が成就してしまう、というあれです、運命とは結局変えられるものではない……。これを鬼にも適用すると、彼らの敗北にも納得がいこうというものです。どう行動しようが、予知には覆る余地がない(うまくない)。そのことを鬼たちが悟っていたのなら、これほど悲しいこともないでしょう。負けると予めと知っているのですから。酒を飲んでしまった酒吞童子の気持ちも今なら分かります。そんなん飲まなきゃやってられへんって。
 来年の事を言えば鬼が笑う。鬼たちが笑っているのは、「先のこと知っててもろくなことないよ」と知っているからだったのか……。
 なんか教訓っぽくなりましたが、それではそろそろこのへんで。最後までお読みいただいた皆様、誠にありがとうございました!

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気になっている言葉⑰

こんにちは、1月下旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

① 女性の社会進出
 外で働く女性が増えたことをこういいます。では、専業主婦は社会に出ていないことになりますが、では彼女らはどこに存在しているのですか。日本語の「社会」はよくわかりませんね。

②感染症対策を行ったうえで収録しました。
テレビやラジオで、このようなことわりを入れることがあります。いつから始まったのですか。

③東大生かつ○○
 東大生が大食いだったり、オタクだったりすると、このように言われることがあります。特に東大と関係ないことまで東大とつなげる必要はあるのですかね。

④自粛を要請する
 この表現は、文脈によって中止、延期、オンライン開催への変更など多様な意味を持ちます。あらゆるものを表せる便利な表現だから、本当は矛盾した言葉なのに、乱用されるのでしょう。また、英語では何と言うのですかね。

⑤対面授業
 コロナが普通の風邪レベルになったら、この言葉も死語になるのですかね。

こんなに小さな言葉にかみつくとは、私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心を。

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喩えるならそれは

1月中旬担当の鏡蛍です。こんばんは。
お正月気分も醒めてしまってそろそろ入学試験の季節という頃ではありますが、肌を刺す空気はますます冷たく、外に出るたびに爪のせいで先が破れかかった安物の手袋を恨んでしまう今日この頃です。
お正月といえば今年は時勢柄初詣にも行けませんので楽しみといえば飽き足りるほどの食事くらいのもので、やはりお節料理の話題を欠かすことはできないのですが、このお節料理はご存知の通りその構成要素一つ一つが縁起物であって、そこにはいろいろな「いわれ」がこめられています。

例えば海老は、ヒゲを生やし腰が曲がった姿から長寿の象徴とされます。また伊達巻は巻物に似た形から学業成就を、数の子は子孫繁栄を意味しているといわれます。
これらはある意味、料理の見た目などを何か他のもので喩えているということです。この喩えるという行為は文を書くときにもしばしば問題になることであって、時に私の頭痛の種ともなります。(この「種」、というのも一つの喩えかもしれません。)
ということで今回は、「喩える」ということについてお話ししたいと思います。

比喩というものはなにも文学に限るものではなく、時には実用的な意味を持つものです。
たとえば物の見た目や食べ物の味を説明するなどのように一口に言葉では説明しづらいものを相手に伝えたいときがそうです。手垢のついた比喩を挙げてしまうならば、「血のような赤」「砂糖のような甘さ」「刺されるような痛み」などがこれにあたるでしょう。他にも「サイコロステーキ」だとか「浅葱色」、「盆地」、「スター俳優」、「ねずみ講」などのように言語に組み込まれている比喩表現も存在します。
そして言語に組み込まれているからには文化にも紐づけられているのであって、実際に上で挙げた「盆地」はその良い例でしょう。「盆地」は英語で”basin”ですが、これは洗面器という意味の言葉です。対象が同じでも想起するものが文化により異なるというのは非常に面白いことではないでしょうか。
このように比喩表現にはいわゆる「ありふれた表現」というものがたくさんあることが分かりますが、伝わりやすい比喩というものはそもそも多くの人に共通のもののはずなのですから、これは当然といえるでしょう。

しかし、ありふれた比喩が常に良い伝え方であるわけではありません。例えば雲を「わたがし」「わたあめ」に喩えて表現するのはいわゆるテンプレートな比喩の代表です。しかし「わたがしのような雲」という表現は、雲についていつでも使えるわけではありません。雨雲はもちろん、おぼろ雲やすじ雲、うろこ雲もこの比喩には適さないでしょう。またひつじ雲や入道雲、わた雲は「わたがし」に準えることができるかもしれませんが、この「ひつじ雲」、「わた雲」といった表現それ自体が優秀な比喩表現なので、文章中で子どもの無邪気さを表現したいような場合や心理的な描写に敢えて組み込みたい場合を除けば、この「わたがし」の比喩はあまり使いどころがないようにさえ私個人の感想としては思えます。(ちなみに「入道雲」というのは坊主頭(または坊主頭の妖怪)に見立てて名付けられたというのが通説のようです。これも良い比喩ですね)
どのような比喩がその場面に適しているかというのは、伝えたい相手や文章のジャンル、雰囲気によっても変わってくるものです。例えば同じ真っ赤な傘でも、推理小説やホラーであれば「血のような赤」が適切でしょうし、日常漫画なら「郵便ポストのような赤」が適切な場面もあるかもしれません。法学部同士の会話なら法律用語を、工学部同士の会話なら物理学の言葉を喩えに用いるのは大いに有効なことでしょう。しかしその比喩を別の人に使ってしまうと、全く通用しないというような場合もあるかもしれません。

説明の伝わりやすさという点もそうですが、やはり機知に富んだ会話や文章を望むなら、少しは捻りのある比喩を使いたいものです。ただこれは口で言うほど簡単なことではなく、上手い比喩というのはなかなか思いつきません。脣を蛭と喩えた川端康成のような真似はそうそうできるものではないのです。

また、狙って綺麗な表現を使おうとするとかえって伝わりづらくなってしまう場合というのもあります。
満天の星空を「降るような星空」と表現するのはありきたりな表現ですが、これが「星が話しかけてくるような空」というようにちょっと気取って言われることがあります。これはちょうど、船が夜間にライトを使ってモールス信号を送るように、たくさんの星がきらきらと明滅している様子を表現しているのでしょう。このような擬人法は文学的(というよりも「文学チック」?)ではありますからロマンチストには好まれますが、あまり多用するとかえって意味が伝わらなくなってしまうものの代表でもあります。
例えば「炎が踊っている」「雪が舞っている」は十分伝わりますが、「氷が踊っている」といわれてもなかなか情景が想像しづらいでしょう。これは静的な印象の強い「氷」を動的な様子を表す擬人法の「踊る」と安易に組み合わせたことが原因です。もちろん何か特殊な状況で氷が踊っているように感じられる場面というのはあるかもしれませんが、それならばもう少し説明が必要でしょう。

比喩には他にもメタファー(隠喩)やシネクドキ(提喩)、メトニミー(換喩)など様々な種類があります。「顔から火が出る」「黄色い声援」のような慣用句は隠喩の代表例ですね。提喩というのは抽象的な上位の言葉を使って下位の具体的な一つを表す(たとえば「花」と言って「桜」を表す)ことや、逆に具体的な言葉を使って抽象的な概念を表す(たとえば「パン」と言って「食糧」を表す)ことを意味します。換喩とは「坊主頭が走ってきた(実際に走ってきているのは坊主頭の人)」や「扇風機を回す(実際に回っているのは扇風機のプロペラ)」のように部分を以って全体を表すような喩えのことです。

他にも、文や修飾語を使ってより細かく比喩内容を表現することもあります。これは比較的簡単に新規性のある喩えを考えることができるので、いろいろと試してみると面白いかもしれませんね。
例えば「授業中に自分と同じ苗字の人が当てられたときの一瞬の焦りとその後のほっとするような安心感」を、「朝寝坊をしたと思ったら今日が休日だと気づいた時のような気持ち」と表現するのはどうでしょうか。
あるいは、「課題やテストにおいてわずかなミスで満点を逃したときの悔しさ」はどのように表現すればいいでしょう?「音楽ゲームでフルコンボを逃したときのような」だと状況が似すぎていてかえって比喩として優秀とはいえないかもしれません。「トランプのタワーをあと一歩のところで崩してしまったような」では状況が限定されすぎていますね。「上手に作れたオムライスで最後の盛り付けに失敗したときのような」などは、伝わる人には伝わるのではないでしょうか。
上手い喩えを考えるというのはなかなか難しいものです。冬の初め頃に時折ある暖かい日に外に出たときに「上着を一枚着せられたような感覚」になることがありますが、このような喩えは多くの場合、考えて思いつくのではなくその場面に実際に行き会った時に不意に浮かんでくるものなのでしょう。

それでは最後に一つ、質問をして終わりにましょう。喩えるならそれは、平安貴族の雅な歌合せのようなものかもしれません。
この冬の耐えがたい寒さを、あなたなら何に喩えますか?

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将来は未定、活動は無限

 明けましておめでとうございます。1月上旬担当の葱です。本年も創作サークル名称未定をよろしくお願いします。今回は、去年の活動、今年の活動の予想について述べます。
 昨年は感染症対策のため、対面の活動ができませんでした。食堂で集まって例会をするのではなく、毎週discordというチャットアプリで会話していました。コミックマーケットや合宿などのイベントも中止になりました。一見無味乾燥に見えますが、自主的に合評会を行ったり、お題をもうけて小説・イラストを創作するなど、オンライン上でもいろいろな創作活動を楽しめました。いかなる状況であっても創作は可能であり、それが心の支えになることがよくわかる1年でした。
 今年の予定は未定です。3月のNFもどうなるかはわかりません。しかし、去年はオンラインで活動できたのですから、今年も無事に1年間創作できるのではないかと信じております。
 最後に、去年我々を支えてくださった皆さん、今年お世話になる皆さんに感謝いたします。また、春が来て新会員の方にお会いできるのを楽しみにしております。不安な日々が続きますが、皆さんお体にはお気をつけて。

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あけましておめでとうございました

 令和三年の元旦の空は、関東地方から九州地方に渡り太平洋側は広く快晴となりました。内陸にある私の家の近くでも今年は初日の出が見られると聞いて、つい先程、着込みに着込んで拝みに行きました。
 おはようございます。令和二年十二月上旬担当であった入ヶ岳です。当時は「すぐ書くから」というようなことを言っていましたが、考えていた内容が思ったように文にならず、このように新年まで持ち越すはめになりました。申し訳ないことですし、前年の荷物を今年へ持ち込むのは良くなかろうということで、今さらながら筆を執らせていただきます。
 さて、全ては散歩がてらのことです。令和三年一月というこの瞬間にわざわざ初日の出を拝むというのは、ご来光を前に祈るということは、何らかの含むところを持ちそうなものですが、私個人に限っては何も考えてはおりません。ただ朝は晴れるそうだと知って、なら日の出が見えるじゃないかと、思った時には目覚ましをかけていました。七年程前、引っ越してすぐの元旦にも同じことをしています。
 空は実際よく晴れましたが、その分非常に寒い朝です。分厚いセーターに毛のコート、革の手袋をして、首元にはマフラーを巻きましたが、顔の冷たさだけはどうにもならず、時々両手で耳を覆って吹く風を凌ぎながら住宅地を歩きました。
 東の稜線を見るには家から少し離れて、下り坂を望む開けた空き地に出なくてはなりません。七年前に覚えたことです。ところがいざ坂道まで足を伸ばしてみますと、知らぬ間に新しい駐車場が出来ていまして、昔とは景色から違っておりました。恐らくこの辺りという場所へ立ってみたものの、舗装のせいで位置がずれたのでしょうか、どうにも心もとない視界の狭さでしっくり来ず、それ以前に大した用もなく長居するべき場所ではありませんでしたので、少し下がった位置の空き地、というよりただの砂利道に陣取って日の出を待つこととしました。
 背後の空には月が照っています。まだ夜の光り方でした。朝焼けた空はどこか薄ぼんやりとしていまして、これが六時四十五分頃のことです。
 調べたところ日の出の予想時刻は午前七時五分頃とのことでしたが、私の住む辺りは住宅地の近くまで山が伸びてきていますからこれは当てになりません。実際私が立っていた場所も数十メートル先には小高い丘と竹藪があり、その奥にも稜線が遠く視界の果てまで広がっていました。この竹藪が曲者で、恐らく太陽の通り道を塞いでしまっているだけでなく、朝焼けの色すら通さないせいで一体どこが最も明るいのか、つまり、どこから太陽が昇ってくるのかもよく分かりません。仕方なくぼうっと「そのあたり」を眺めて時間を過ごしました。
 ずっと手袋をして携帯も見ないので時間が分かりませんが、町の遠くから鐘の音が聴こえたのは、つまりそれが朝の七時だったということなのでしょうか。
 にわかに竹藪の向こうが煌めいてまいりました。稜線の向こうに日が昇り始めたのです。太陽そのものは案の定隠れてしまっていますが、あの竹藪というのが案外に捨てたものではなく、背に受けた陽光の作る黄金色の鱗粉のような木漏れ日を私に見せてくれました。少し上には端切れのような小さな雲が、朝焼けの空よりも濃い桃色に照って浮かんでおりまして、風の強い朝ですから、それらが見る見る形を変えていくのもまた面白い眺めでした。
 数分ほどはそれを見て過ごし、正直なところ朝の散歩としてはかなり満足していたのですが、眼前の明かりに反して吹く風はいよいよ冷たく、いずれにせよ元日から風邪を引いては堪らないということで早々に撤収することとしました。日の出と竹藪に背を向けて坂を上っていきますと、白んだ西の空では沈みかけの月がとっくに光を失っていました。

 最後に種明かしをしておきましょう。帰る途中の上り坂にはある高さを境に光の分かれたところがありまして、後ろの空を振り返ると、そこには馬鹿馬鹿しいほどはっきりと太陽が浮かんでいたのです。
 思わず笑みが浮かびました。先程まで私の立っていた場所は左右に視界が広い一方で、その位置の低さから目の前の竹藪に日の出を阻まれてしまっていたのですが、少し上れば視界こそ狭いものの竹藪は邪魔をしなくなり、実を言うとその狭い視界の先にこそ太陽は昇ったのでした。
 思えば七年前にも竹藪越しに初日の出を見たのであればあんな新鮮味を感じるはずもないわけで、昔の私の方が陣取りとしては正しかったこととなります。駐車場にはおれずとも、どうせ人通りの無い早朝ですからすぐ横の道端にでも突っ立っておけばよかったのです。なので今までつらつらと述べてきたことは、単に天体観測に失敗した私の照れ隠しに過ぎないというわけでした。皆さんも来年以降初日の出を拝む時には、何より高い場所に立ち、日が昇る方角をしっかりと把握しておきましょう。
 それではお別れに、煌々と照る太陽を見て愉快になった私が撮った初日の出の影の写真をお見せしようと思います。太陽そのものも綺麗ではあるのですが手元の携帯ではうまく撮れませんし、あまり見すぎると目が痛くなってしまいますので。

 というわけで、あけましておめでとうござい、ました。


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夜は短し


みなさん、こんにちは。
12月下旬担当の光彩です。

年も暮れ、本格的な冬がやってきました。蛇口から出てくる水の、なんと冷たいこと。
人よりも寒がりな自覚がありますが、一方で私は真冬の持久走の授業が好きでした。体を動かしてだんだんとあたたまっていく感覚が好きなのです。
今では自主的に走ろうと思うことはほぼありませんが、わざわざ寒いなか歩くのが好きです。春休み(といっても2月なので)の寒い日に、時間があるときには3時間ほど市中を歩き回ります。行き先も目的も特にありませんが、はじめての道で新しいものを発見するのが一番の楽しみです。

さて、今年は残念ながらいろいろなことが滞りがちになってしまいましたが、みなさんの歩みは阻まれませんでしたか。
たとえ暗中模索でも、行き先や目的がなくても、時にはとりあえず歩いてみることも大切かもしれないな、と思います。
はじめての道で新しいものを発見することが、少しでもみなさんの力になりますよう。
そして、新しい年が、どうか誰もが歩きやすい年となりますように。

それでは、どうぞよいお年をお迎えください。お読みいただきありがとうございました。


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思い出の味

12月中旬担当の葱です。遅くなってすみません。今回は突然ながら、実家に住んでいた時の思い出の味について書きます。

①卵焼き
 母は毎日少しずつ趣向を変えた卵焼きを出してくれました。かにかまやソーセージを入れたり、焼き加減を変えてみたりさまざまでした。何よりも、焼き立ての卵焼きはおいしかったですね。

②キンカンの砂糖漬け
 受験前、冬期講習のお弁当にはいつもキンカンの砂糖漬けを入れてくれました。甘くてすっとする味があって、お昼時の楽しみでした。

③のっぺ
 私の故郷の郷土料理なのかもしれません。冬になるとよく食べました。里芋、ニンジンなどをかつおだしで煮たものです。薄味ながら、やわらかく煮てあって、冬のごちそうでした。

④田造り
 煮干しを甘辛い醤油で炒め、そこにごまやドライフルーツを混ぜて出してくれました。お正月はおせちが終わっても、パクパクと食べたものでした。

⑤あん餅
 家族で餅つきをすると、スプーンであんこをすくって、さっとくるんで食べました。つきたてはおいしかったですね。

⑥芋栗きんとん
 我が家のおせちはこれが入ります。ゆでたサツマイモをクリの形にしたものです。ゆずの酸味を散らしてあって、甘さと酸味が絶妙でした。

年末にふと実家の味を思い出し、書きたくなったので書いてみました。

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気分だけでもNF

こんにちは、葱です。今回は、延期になったNF(11月に行われる本学の学園祭)のかわりに、コロナ以前のNFの様子を思い出して書きます。

前夜祭
➀5限後に、会場となっている吉田南構内の教室に合流し、展示場と会員スペースを区切る壁を作ります。机の上に段ボールを組み、その間に段ボールをわたして壁を作り、模造紙で表面を覆います。
②販売する冊子や企画の物品を並べます。
商品例:過去の外部誌、NF用冊子、個人誌、ポストカード
企画:短歌、塗り絵、自由お絵かき、リレー小説、四コマ漫画にセリフを入れる、キャラ創作(属性を書いた3種のカードを一枚ずつ引き、それに合うキャラクター設定を考える)
③23時ごろには終了します。遅くまで残ってしゃべるのもOKです。

開催中
展示場:事前に決めたシフトで、会員2人がレジ・展示説明を行います。1日に1シフト2時間が4つあります。
会員スペース:会員はしゃべったり、各自の作業をしたり、会員の持ち込んだマンガを読んだりします。もちろん、自分のシフト以外は来なくてもかまいません。卒業生の先輩方が来られるともりあがります。
10時開店、18時閉店です。その後は集まった会員で食事に行ったり、ボードゲームをしたり、創作講座をしたりなど、楽しく過ごします。

最終日
最終日は教室をもとの状態にまで戻します。19時ごろから、教室で打ち上げをします。王将の餃子やスーパーの総菜、スナック菓子を食べ、夜中まで麻雀などをして楽しみます。

片づけ日
10時から13時ごろまでかけて、片付けます。ごみを集積所まで運び、NF用荷物を会員に預け、教室をきれいにして終わります。

打ち上げ
12月上旬に打ち上げの飲み会があります。四条の飲食店で飲んで食べて、希望者は2次回のカラオケで朝まで歌います。

以上が例年の本会のNFでした。コロナが激しい現在、どれもできそうにありません。気分だけNFを思い出すしかできないのは悲しいです。

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「登場人物」について

いいですか。11月20日は、中旬です。中旬なのです。はい、復唱。ハツカハチュウジュン。……更新遅くなってしまってすみませんでした。

さて、秋と言えばスポーツの秋、食欲の秋など色々ありますが、皆様はどのような秋をお過ごしでしょうか。私は紛れもなくゲームの秋ですね。9月末にリリースされた某音ゲーと、某オープンワールドRPGにすっかりはまってしまいまして、授業の50倍くら頑張っております。あと麻雀にもはまりました。順調に堕落の道を進んでおります。単位落とさないよう気を付けます。



先程あえて外したのが、読書の秋。創作サークルに参加している時点で大体察せられると思うのですが、もれなく読書が大好きです。秋どころか一年中読んでる気がしますが、秋は気候がいいですし、何となく読書が捗る感覚があります。秋の夜更けまでゆっくり読書、とかやってみたいですね。これ書き終わったらしましょうかね。

そんな読書について、思うこと。私はライトノベルから純文学まで乱読することが多いのですが、ライトノベルと文学作品の最たる違いは登場人物の描き方かなと思います。ライトノベルの登場人物は、「キャラクター」として性格や属性(?)をはじめから決められていて、それに基づいて物語の中で動いている、という気がします。言い換えるなら、プロフィール帳(懐かしい)に、性格や好き嫌い等を記せると言えばいいでしょうか。一方の文学作品は、プロフィール帳には収まりきらない人間のごちゃごちゃどろどろした部分を描こうとしてる風に思います。そういう作品を読んでいると、人間は、そう簡単にセオリー通り動かないのだなと考えさせられます。一周回って、何を考えているのか分からないこともありますが。

どちらがいいというわけではないと思いますが、私は、心情描写に力を入れて書こうとしていることが多いです。出来てるかは知りません……。

以上、ちょっとした話でした。読んでくださりありがとうございました。

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空白の時間

11月上旬担当になりました、八朔です

二週目はまだギリギリ上旬だと思うんです

前記事を書いたのが実に……二年前くらいですかね
途中で改名を思い立ったので、過去の記事は「八坂」タグをご覧ください(最後の記事テンション高くないですか?)

改めて自己紹介をさせてもらうと、未定では主に絵を投稿したりしていました
ただ、この二年くらいは元々少なかった未定での活動が更に少なくなり、小説をいくつかほど出したりしましたが年間で換算すると……立派な幽霊部員ですね

残念なことに今年はNovember Festivalこと11月祭がありません
2020年度の第62回京都大学11月祭は幻となったのです

思えば学祭の中身がそうであるように、各人の過ごし方も三者三様でした
学祭を巡って楽しむ人もいればサークルのスペースに居座り夜な夜な麻雀卓を囲む人、京都は退屈だといって旅行に行く人もいました

学期末にはまだ遠く、一年を振り返るには適切な、そんな京大生の日常の中にぽっかりと現れる、長期休暇のようなバカンスとも違う不思議な時間
全てを巡るにはとても時間が足りないような四日間の祭典もいざ行けないとなるとさみしい気もします

ところで、「バカンス」とはフランス語のvacanceをカタカナで表したものです
vacanceは英語のvacationとvac-が共通していますよね?
このvac-はラテン語のvacare=to be emptyから派生したもので、真空はvacuumで、欠員はvacancyというように「空っぽ」という意味が根底にあります
何も考えずにボーっとできるのは至福の時間であり、基本的人権だと個人的におもうんですよね

私がボーッとしている間に積み上がったものは数多く、朽ちていったものも同様です
水の呼吸を習得した代わりに、一回生で履修していたドイツ語は欠片も思い出せなくなりました

つまるところ、この二年の間でまあ色んなことがありました

「京大生は留年してから本番」というまことしやかな噂、一度は耳にしたことありませんか?

そうです……この記事の作者がその当人になりました……

今でも思い出すのが、入学した後の学科のガイダンスで

「あなたと、あなたの隣に座ってる二人の三人に一人が留年することになります」

と言われたことです

記憶がおぼろげなのですが、右隣は同じ学年で留年して、左隣は私より先に留年してたかも知れません

留年は良くないです

この記事にたどり着いた皆さんは、頑張って大学を出ましょう!!!

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膏薬はどこにでも

10月下旬担当の鏡蛍と申します。はじめまして、こんにちは。
こんにちはと言っておきながらこれをご覧になっている方は今何時にアクセスしていらっしゃるのか少し不安になってきてしまいました。文書や録音など情報が受け取られる時間帯が特定できない媒体ではいつも挨拶に困ってしまいます。

朝の挨拶は何時から何時、昼の挨拶は何時から何時まで、というのはしばしば他愛無い無駄話の話題にも上がりますが、夕方過ぎから未明頃まで使える「こんばんは」が一日に占める時間的な割合が最も高いように思えます。すなわちこれは、とりあえず「こんばんは」と書いておくのが最も適切である可能性が高いということを示しています。では改めて、こんばんは。

……と、いうのはこのページへのアクセス数が時間帯によらず一定である、などという非自明な仮定をもとにした詭弁にすぎません。私はよく理屈っぽい人間だなどと言われることがありますが、こんな猫の餌の足しにもならないような言葉をつらつらと並べるのが「理屈っぽい」というのなら、それは困った性癖というものです。

さてそんな私ではありますが、理屈ばかりに拘泥して生きているわけでもありませんし、そんなふうに生きていくわけにもいきません。人並みにノスタルジアのような感傷に心を酔わすことも間々あるかもしれません。
しかし私は実家住まいの未成年なので遠く思い馳せるべき故郷も時間軸の負方向に懐かしむべき昔もそれほど持ち合わせてはいません。私がそのセンチメントを抱くのは、野辺に咲く花でも祖父母の家にある古い器械でも、ましてや卒業アルバムでもありません。それは例えば僅かに煤け、しかし適切に清掃管理されていて朽ちてはいない公園のベンチであったり、半年前に流行った音楽を耳元で流しながら不意に目に入る窓の向こうの変哲のない街並みであったりします。この感傷は一体何でしょう。

人文科目のレポートを書く時のように四半時間ほど腕を組んでじっと考えてみました。結論としては、きっとそれはあるべきものがあるべき姿でそこにある違和感のない”一様さ”への感傷なのでしょう、というのが私の答えです。
その場面をそのまま16:9のワイドフレームにあてはめて後に見返したときに懐古に浸ることができるだろう場面、そんな未来から現代を眺めるような仮想的ノスタルジアを私は感じていたのかもしれません。

いつだったかある有名な神社に両親に連れられて行ったとき、その山深さと水の流れの中に立っていた一種コントラストさえ生み出してしまいそうなほど鮮烈な橙色の真新しい鳥居を私が好めなかったのは、きっとその鳥居が風景の一様さを侵していたからなのでしょうね。

なんて、これも「早まった一般化」。詭弁になってしまいそうですから、これくらいにしておきましょうか。では、おやすみなさい。

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気になっている言葉⑯

10月中旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

➀社会人
 社会人の「社会」は何を意味しているのですか。社会に属さない人間はいないはずですが。

②アベノミクス
 レーガノミクスは1980年代にすでにあったのに、なぜ「~ミクス」をマネする首相が安倍首相までいなかったのですかね。

③スコラ的な学問
 スコラ学に否定的な意味が加わるのはいつからですかね。

④国民の税金を無駄遣いするな
 自分たちの税を政治家が有効活用すべきだという考えはどうやって生じたのですかね。明治以前はどう考えていたのやら。

⑤高校時代の○○容疑者は~
 事件と関係ないことまで詮索しないでおきましょう。

⑥オンデマンド教材
 オンデマンド=見たいときにいつでも、という意味です。漢語で訳すとどうなりますかね。

⑦価値観の多様化した時代
 自分の生きている時代ゆえに価値観が多様に見えるのだと思います。後の人が現在を見れば、特定の価値に縛られた時代に見えるかもしれません。

⑧主人がいつもお世話になっております
 妻は部下ではありませんから、不思議な言い方です。

⑨対話
 ただ二人で話しているのは対話ではないように思いますがね。最近濫用されているように思います。

⑩リケジョ
 初出はどこですかね。

こんなに小さな言葉が気になる私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心ください。

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ディオゲネス氏の話

 どうも皆さんこんにちは。十月上旬担当のナカジマ杓子と申します。指を二本も犠牲にしなくてはコーンスープも作れない、ポンコツ野郎のわたくしですが、どうぞよろしくお願いします。さて、今回もたいした目算もなく立候補したせいで、何書こうかなー、と悩んでおります。創作サークルのブログなので、創作論を語るべきなのかもしれませんが、語れるほどのものもなく。しゃあない、我が家のかわいいペットたちのお話でお茶を濁すと致しましょうか。
 うちでは一匹のヒキガエルが飼われております。裸同然のまま、竪穴式住居で寝起きするという、その質素さ。年がら年中虚空を見つめて思索にふける、その知性。二つの美質に敬意を表し、我々は彼をディオゲネス氏と名付けました。
 井の中の蛙でありながら、あえて哲学という大海に飛び込んだ理性のカエル、ディオゲネス氏。しかし、そんな彼にもワイルドな一面はちゃあんと残っているのです。それは、動くものなら何でも餌だと思い込むという性癖。動く、すなわち餌。大きいか、小さいか。生物か、無生物か。そんなことは彼にとっては些末な事なのでしょう。指でも、箸でも、なんにでも食いつきます。
 そんな彼のお気に入りは、隣人のティ―タイム氏(亀)。暇さえあれば、「これ、食えっかな?」という目で見つめております。いやいやいやいや、、敵いませんって。彼、あなたよりよっぽど強いんですよ。甲羅シールドでの絶対防御、強力無比な噛みつき攻撃(人の指を食いちぎれるらしいです)。そんな無謀はやめときなさい、ってな感じで黙って見過ごしてました。
 そんなある日の事。何気なくティ―タイム氏の水槽を見たら、なんと!脱走を果たしたディオゲネス氏が、縁に乗っかってるじゃないですか!鋭い視線で獲物をにらみつけ、今にもダイブせんと体を前後に揺すっております。ワンツー、ワンツー。……冗談じゃない!慌てた私が氏の視界を強制シャットアウト。魅力的過ぎる隣人の姿が消えてしまうと、彼は理性のカエルに戻り、おとなしくケージに戻りましたとさ。(その後厳重な脱走対策がとられました)
 以上、グダグダ書きましたが、よい子のみんな、無謀はよくない、理性を保とうぜ、というお話です(←無理やり)。
 よーわからんお話に最後までお付き合い下さり、誠にありがとうございました!
 
 

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花言葉

 こんにちは。9月上旬担当のヒサメと申します。名前の由来は、クリアするまでゲーム世界に閉じ込められる某有名アニメに、自分が入ったらどんな名前がいいかと考えて選んだものです。関係ないですが私は小説勢です。ブログなるものを書くのは人生初めてですので、どうぞお手柔らかに。
 などと言っているうちに、9月上旬の担当にも関わらず上旬が終わりかけているという。申し訳ないです……。小説なら1000字程度あっさり越えてしまうのですが、それ以外で文章を書くとなると意外と大変ですね。

 突然ですが、皆様は花言葉ってご存知ですか。大体の方はご存知な気がしますが、正確な定義は、一つ一つの花に、それぞれふさわしい象徴的な意味を持たせたもの、だそう。薔薇は愛、月桂樹は勝利、栄誉等々。意味の由来も、花の特徴や神話など様々です。日常では会話のきっかけに、創作では小話、伏線から主題にまで使えるスグレモノ。私もよく調べます。また、花には「誕生花」というものも存在するそうで。1年365日全ての日に、それぞれ対応する花があるそうです。自分の誕生日に対応する花や花言葉を調べてみるのも、楽しいですね。
 最近では、トウワタという赤く可愛らしい花の花言葉が、「心変わり」「私を行かせて」と知って、背筋がぞくりとしました。「心変わり」は毒性を持つことから、「私を行かせて」は、綿毛のついた種が風に乗って飛ぶ様が由来であるそうな。

 字数が余っているので、一番好きな花言葉の由来を語ります。
 昔々、ナルキッソスという美少年がおりました。その美しさは多くのニンフや妖精を惹きつけますが、ナルキッソスはいずれも冷たくはねのけます。これに怒った神は、他人を愛すことの出来ないナルキッソスが、自分だけを愛するように変えてしまいました。
 ある日ナルキッソスが泉の水面を見ると、そこには目を見張るような美しい少年がいるではありませんか。ナルキッソスは水面に映った自分自身に恋し、寝食をも忘れ、ついにやせ細って死んでしまいました。水面の自分の像に近づいた結果池に落ちたという説もありますが、兎にも角にも死にました。そして、ナルキッソスが死んだ跡には、水仙の花が咲いていました。そう、水仙の花言葉は「自惚れ」なのです。ついでに、ナルシシズムの語源でもあります。

 他にも沢山の花と花言葉があります。気が向いたら調べてみてくださいね。最後になりましたが、ここまで読んでくださったあなたにベルフラワーを贈ります。読んでくださりありがとうございました。

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覚えられないですよね、名前


名前。みなさん持ってますか、自分の名前。私は持っています。8月下旬担当の巨神兵です。

 さて、私は人間の名前を覚えるのが苦手です。自己紹介の最初に名前を言う人がほとんどだと思いますが私は人の自己紹介の最初の方にぼーっとしていることが多いので肝心の名前を覚えられないことが多いです。先にどんな特徴を持った人間なのかを知ったうえで名前を提示された方が定着率が高そうな気がするのですが、どうして自己紹介では先に名前を言うのでしょうね。
 学名やIUPACのような命名法がある物は名前が分からなくても特徴から名前を推定できますし覚えやすいのですが人間にはそういった命名法がありません。一人一人地道に覚えていかなくてはいけないのです。確率が最も高いからといって名前の分からない人に佐藤さんと呼びかけてみるわけにはいきません。人間のくせに手を煩わせおって。
 人間の名前はその人が赤ちゃんの時、つまり指ししめす物が完成する前につけられてしまうのでその人の特徴とは無関係です。一方、身の回りにある物の名前は、その物があって、それから名前がつけられるので名前と物の特徴に関連をつけることができます。現実の人間に対してそれができるのは戒名ぐらいです。

 創作物の中の人間に関してはどうでしょうか。キャラクターの造形とその名前の間には関連性があるべきなのでしょうか。主人公や悪役にはそれぞれ相応しい名前があると思いますし私は名前を適当につけるよりかはそのキャラクターに相応しい名前をつけたい派です。読む側にも作者がどうしてその名前を選択したのかを考えるという楽しみ方がありますしね。そう思う一方で、現実には人間とその名前は関係ないはずでキャラクターの名前がそのキャラクターをびったし表しているというのはあまりに物語すぎるような気もします。まあ、どういう物をつくりたいのかで使い分けるべきなのでしょうね。

 現実の物で言うとあだ名がキャラクターに相応しい名前にあたるでしょうか。私の巨神兵という名もさるお方からいただいたものですが、これは私の身体的特徴を反映した名前です。ですがあまり怖がらないでください、少し体躯が大きくビームが出るだけなので。

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ワカゲの至り

どうも皆さんこんにちは。8月中旬担当の、ナカジマ杓子と申します。さて、何書こうかな、と考えますと、これが驚くほど浮かばない。自分の薄っぺらさに愕然とする。悲しくなって爪を噛む。こんなことならブログなんぞ引き受けなきゃよかったという話になるんですが、引き受けてしまったものは仕方ありません(っていうか立候補ですからね!)。自虐ネタでお茶を濁すといたしましょう。
一生に一度の不覚といえば、初恋の人に鼻毛が出ていると指摘されたことにつきますが、詳しく書くと顔面から火炎が放射され、近隣住民の方々に多大なるご迷惑をおかけすることになるのでやめておきます。じゃあほかに何か、というと、私の場合、「知らない言葉を知ったかぶって失敗する」パターンが多い。特に小学生時代は「ムツカシイ言葉を知っている=頭がいい」と思い込んでいたので、うる覚えの言葉をめちゃくちゃに使っていました。よくあんなんでコミュニケーションが成立したなと思います。
例えば、小三の頃。
私「ねえ、地球温暖化って英語でなんて言うか知ってる?」 友人「知らん」 私「サブプライムローン問題って言うんだよ!」
はい、阿保ですね。当時の自分の首根っこ掴んで「グローバルウオーミングじゃ、馬鹿垂れ!」って叫びたくなります。まあ、この時は友人が、「へー」って流してくれたので、恥はかかずに済んだから、まだましです。同じく小三ぐらいの時だったかと思いますが、私には「経済的」という単語がカッコよく見えて仕方がなかった時期があるのです。
友人「給食おいしかったね」 私「うん、とても経済的だったね」  かみ合ってません。
友人「宿題多いな~」 私「まったくもって経済的ではないよね」 これもかみ合ってません。
そんな具合で「経済的」を連呼して得意になっていた私ですが、栄光(?)の日々もいつしか終わりを迎えます。
友人「ねえ、経済的ってどういう意味?」
この問いにナカジマ少年がどう答えたかはご想像にお任せします。ただ、「彼の背中には冷たい汗が流れた」とだけ描写しておきましょう。
よくわからんことを延々と書いてきましたが、ネタもつきたのでこの辺で。最後まで読み通してくださった方(そんな人物が地球上に存在していればですが)、誠にありがとうございました!さようなら!

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気になっている言葉⑮

8月上旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

➀ご遠慮ください
 遠慮は、深く考えてやめる、という自発的な行為です。「ご遠慮ください」は、本来自発的な行為を他者に求め、禁止の意味を表しています。日本語独自の表現ですかね。

②go to トラベル
 旅行に行く、という意味で、英米人はgo to travelというのですかね。

③暑さ寒さも彼岸まで
 異常気象の昨今は、何といえばいいですかね。

④ノーベル賞受賞の○○教授
 なぜノーベル賞を取る前から評価しないのですか。

⑤たまには息抜きも必要
 息抜きすることも思いつかないほど打ち込みたいものです。

⑥美脚
 日本で言われ始めたのはいつですか。

⑦批判が集まる
 SNSのない時代には、世間からの批判は何から知ったのですかね。

⑧ドラえもん
 どら焼きが好きという設定からドラえもんという名前ができたのか、その逆か、どっちですかね。

⑨歴史的に見て○○(国名)は~
 その国の古代と今を無批判につなげるのは、超歴史的な見方ですよ。

⑩ファンは一番の批判者
 最近悪用されている気がします。

こんなに小さな言葉にかみつく私は、どうかしていますね。病んではいませんから、ご安心ください。

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気になっている言葉⑭

7月下旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

➀島国根性
 インドネシア語や英語には、それに対応する言葉があるのですか。

②文系人間、理系人間
 文理で人を分類する言い方は、いつから出てきたのですか。

③自粛要請
 自粛しないと店舗の名前を公表されるなどの、強制力を伴った自粛要請もあります。その場合は、要請ではなく、要求や命令と言った方がいいですね。

④ネットの口コミ
本来口コミは、マスコミには出ない口での評判、という意味だったはずです。しかし、今の口コミはネットで集約され、口コミが口にとどまりませんね。

⑤日本人は外来の文化を柔軟に適応させた
 どこの国でもそうだと思います。他の国も、自国文化と外来文化をうまく調和させてきたはずです。

⑥喫茶、喫煙
 なぜ喫茶の喫は「きっ」、喫煙の喫は「きつ」と読むのですか。

⑦日本を洗濯いたしそうろう
 坂本龍馬の時代に、洗濯の第一義は服を洗うことなのか、別の意味だったのか、どちらでしょう。

⑧ブルガリア・ヨーグルト
 日本人はブルガリアと言えばヨーグルトを連想します。では、ブルガリア人は、日本と言えば何を連想するのですか。

⑨チャーミング
 日本語のチャーミングは、英語の原義と違うように思います。エドはるみを見るとつくづく思います。

⑩ソーシャルゲーム
 ソーシャルゲームは日本語では何になりますかね。まさか「社会的ゲーム」ではありますまい。

こんなに小さなことにかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心ください。
 

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気になっている言葉⑬

7月上旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

➀ステイホーム
 よく考えると、この言葉は家があることを前提にしています。家のない人にはどうせよと言うのでしょうか。

②PE
 なぜ小学校の英語活動では体育を略してPEとして教えるのですか。physical educationはそこまで長くないと思うのですが。

③列島が泣いた
 日本人全体を日本列島で代表してとらえる言説はいつから生まれたのでしょう。まさか伊能忠敬の地図製作のころからではありますまい。

④起こる、起きる
 「起こる」と「起きる」の使い分けにはどんな法則があるのでしょう。

⑤エスニック料理
 東南アジアの民族料理風の料理をエスニック料理と言います。しかし、直訳すると民族的料理ですから、何とも奇妙に見えます。

⑥卒業
 本来「業を卒(お)える」ですから、何かを終えて去っていくことを指す言葉であるはずです。しかし、最近は単に番組のMCを引退するときなどに、「4月で番組を卒業される○○さんは~」などと言い、単にやめることを意味するようになっていますね。

⑦人間力
 そんな得体のしれないものを求められても困りますよ。

⑧元祖、本家
 元祖と本家で争っているのをよく見かけますが、どう違うのですか。

⑨コロナ禍
 この言葉の初出はどこですか。最近急に使われ始めた気がします。

⑩新しい時代
 去年からよく聞きます。ですが、本当に新しい時代が始まったかは、始まった瞬間ではなく、100年後くらいにわかるものだと思います。

こんなに小さな言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんからご安心ください。

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オリキャラの名前の話

こんにちは、リアルタイムではこんばんは、6月下旬担当の青戸奏です。
このブログでは、初めましてになります。というか、どのブログも自分にとっては初めましてです。

突然ですが、自分のペンネームの苗字パート「青戸」は「アオノベ」と読みます。一応本名由来ではありますが、正直キャラクターに名前をつけるのと同じ感覚で名付けました。というのも、そのまま「アオト」もしくは「アオド」と読ませたくなかったのです。この謎の拘りのおかげで、割と気に入っています。

(敬語で文章を書くのが違和感あるので、ここからは外すぞっ☆)

さて、この流れでオリジナルキャラクターの名前について書こうと思う。
自分は、上記の通り特殊な──実際に会ったことがない、珍しい、または現実にいないであろう、聞いたこともない創作の(かつ、じゃなくて、または)──苗字をつけるのが好きだ。(逆に、名はよくある名前をつけがち。)
理由は明快、カッコいいから。
個人的なお気に入りは、東雲。響き自体はダントツに好きというわけでもないけれど、この漢字でこの読みというのが、おそらくストライクの理由だ。「簡単な漢字+特殊読み」がツボ。

──余談だが、原則、自分のキャラでは名前が被らないようにしている。しかし、ある時気づくと「東雲オトハ」という名前のキャラが、名の漢字が違うとはいえ、すっかり忘れていて二人存在していた。しかもどっちも主役級。この時「ああ、この名前好きなんだな」と実感した。余談おわり。

珍しい苗字がカッコイイ、というよりはカッコイイ苗字を考えると珍しくなる、の方が近いのかもしれない。
名が体を表す、は自分の場合あまり当てはまらない。意味よりは、字面と響きが大事。けれど、苗字の中の漢字を対にしたり(朝夜、悠瞬などなど)、複数人で揃えたり(木火土金水とか)するのは大好きである。

名前に謎の拘りを持つと、ネーミングが楽しい。しかし、一部のキャラは名前が降ってくるまで待つ必要がある。──我ながら矛盾を感じる。でもやっぱり、ビジュアルにしっくりこない名前というのは存在するのだ。

また、このサークルに入って短編を考える機会が増えたが、その場合そもそも名前をつけないということが起こり始めた。きっと、ビビッとくる名前が思いつくより先に作品が出来上がってしまうからだろう。この場合、特徴や作品タイトルでキャラを呼ぶしかなくなる──言い方を変えれば、名前がなくてもそのキャラを指すことは可能ではある。が、それでは何となく寂しい。
今描いている作品に登場する二人にも名前をつけられていない。至急考えようと思う。え、降ってくるのを待つんじゃないのかって?降ってくるには、まず考える必要があるのだ。これは名前に限った話ではないが、なかなかシビアなシステムである。


思いつくままに書いてしまったので、まとまりのない文章になってしまったがネタが切れたのでそろそろ終わろうと思う。ブログならではの〆方なんかは知らないので、それでは!

──超のつく余談、というか追伸? アニメの次回予告で、毎回最後に主役が決まったセリフ言うタイプ、結構好きです。次回予告で本編と(ほぼ)関係のない面白トークが繰り広げられるタイプと同じくらい好きです。

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気になっている言葉⑫

こんにちは、6月中旬担当の葱です。今回も気になった言葉について書きます。
➀ヘゲモニー
 英語だと「ヒジェマニー」になるのに、なぜ日本語読みするとこうも違うのですか。

②サクサク進む
 作業などがスムーズに進むさまをサクサクといいます。最初は食感の意味だったはずなのに、いつからスムーズなさまを意味するようになったのでしょう。

③転換の時代
 十年以上そう言われていますね。私たちは、「今が転換点だ」と言って、その場をぐるぐる回っているのですかね。


④~論
 思い込みや独断を~論と呼ぶのはいかがなものでしょう。論というのは、根拠に基づき論理だてた、読み手を説得する文章のことのはずです。

⑤清楚
 中国語では「はっきり」という意味ですが、なぜ日本語と意味が違ってしまったでしょう。

⑥新春シャンソンショー
 やっているのを見たことがありません。また、ちゃんと発音できたことがありません。

⑦バスガス爆発
 そんな悲惨な事故を早口言葉にしなくても。

⑧イクメン
 育児をする男性のことをイクメンと言うのに、育児をする女性をイク女と呼ぶ人はいませんね。

⑨シェイシェイ
 謝謝をカタカナで「シェイシェイ」と書いてあるのをよく見ます。しかし、実際の発音は「xiexie」で、「シィエシィエ」に近いのに、なぜこのようにカタカナ語表記されるのですか。

⑩デカルト以来の西洋合理主義は~
 たまに現代文の問題で見かけた文章ですが、そんなに簡単にまとめてはいけませんよ。

こんなに小さなことにかみつく私は、どうかしていますね。病んではいないのでご安心ください。
追記 前回「聖徳太子は7人の話を同時に聞き分けた」と書きましたが、諸説あるようです。何人なのか未確認です。

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日記を書くのが苦手です

 六月上旬担当の入ヶ岳です。度重なる遅延とすっぽかしを経て、恥ずかしながら本日投稿までたどり着きました。にしてはブログタイトルが舐めすぎかもしれませんが、ブログと日記は違うということで、悪しからずご了承ください。


 幼稚園頃の朧気な思い出ですが、私は一時期自分のことを「ウチ」と呼んでいました。きっかけは一体何だったのか、大阪に住んでいた従姉妹の影響かもしれませんし、同じ組や近所の女の子から口調が移ったのかもしれません。何か信念を持ってそうしていたというわけではなく、ただその時の私には「ウチ」という響きがしっくり来たのだと思います。私が「ウチ」だったのはごく短い間、恐らく一ヶ月未満で、その後の私は数年の間「ぼく」でした。どういう心境で再び一人称を変えたのかは思い出せないのですが、それを言ったら「ウチ」の前が何だったのかも分かりません。四歳、五歳の記憶というのは普通、それくらいあやふやなものかと思います。
 別に大きな事件ではありませんが、そうした幼少の記憶がふと思い出されるのは、懐かしくも楽しい体験です。その日の夕食の席で、家族にも雑談の種として「ウチ」の件を語ってみました。すると目の前に座る母親は首を傾げ、「そんな時期があったとは覚えていない」と言うのです。しまった、と思いました。私はてっきり、母も私の一人称について何か覚えていると思っていたのです。しかしこう否定されてしまうと、あれがはたして本当にあったことなのかすらも怪しくなってきます。私はかつて少しの間一人称を変えたのかもしれませんし、変えたという誤った記憶を抱えているだけなのかもしれません。一人の古い記憶ほど当てにならないものもそう無いでしょう。過去に自信を持てなくなったのが、何より寂しいことでした。

 記憶をはっきり留めておきたいのなら、四六時中ビデオを回せば良いのかもしれません。しかしそれで見えるのは世界の外面、その中にいる人間の人となりまでは残りませんから、なんだか不十分な気もします。では、小さい頃から日記でも書いておくというのはどうでしょう。人によってはある程度有効な気がします。ですが私の場合は、日記というのがどうにも苦手で書く気になれません。続かないというのもありますが、その日あったことについて、自ら改めて語り直すのが躊躇われるのです。何があったか、ならまだ書けます。今日の夕食はアジフライでした。これが書いているうちにアジの開きに変わるようなことはありません。しかし形にならぬ思考や心情は、刻一刻と移ろう上にひどく複雑です。たとえば、今日は街でたまたま友人と会ったとしましょう。私はその時嬉しかったのでしょうか、気まずかったのでしょうか。あるいはただの一言で語り得ぬ心情がそこにあったのだとしたら、「嬉しかった」と書くだけでは不正確ということになります。しかし難儀なことに、私の心情は書いたものに追従する形で変化します。違うと思いつつも一度「嬉しかった」と書けば、何となく嬉しかったような気がしてきて、他の複雑なあれこれは捨象され形を失うのです。思考の整理とはまた違う、これは歪曲に近い。数年後の私が日記を見返した時、そこに残るのは「嬉しかった」という実体の無い文字列でしかありません。
 あるがままを書く、というのがそもそも不可能なことは理解しているつもりです。私自身、そんな究極を求めているわけではありません。作文は常に選択と解釈を伴いますから、書かれていることは徹底的に著者の主観、推敲された物語と言えるでしょう。しかし、捏造は選択でも解釈でもない。「私は怒っている」と日記に書く私は、多分怒っていません。根深い悪癖として、私は現実を文字に起こそうとした時、事実あったことよりも物語としての骨格に拘ってしまうのです。自らの内心を吐露する気も、生活を写し取る気もきっとありません。常に物語としてより良い像を求めている。あるいは求めるものなど無く、ただ自分と向き合うことから逃げているだけなのかもしれません。私が「ウチ」の件を家族に伝えたのは夕食の席でなく休日の午後です。私はその時「しまった」なんて思わなかった。しかしそう書いた方が、物語のテーマは伝わりやすいでしょう、読者に。つまり私は現実を書いているように見せかけて、書きたい虚構を初めから据え置いている。本当に悪い癖です。ありがちなことなのだとして、私はあって良いことだと思いません。
 私は日記を書くのが苦手です。自分が書いた自分の主観を、主観であるとすら信じられないからです。文字にしていない記憶とて抗い難く歪んでしまいますが、文字だけは特に恐ろしい。それでも克服すべきとは思っていますので、こうしてキーボードを前に両手を揉み合わせつつ、考え考えブログを書いています。「ウチ」の件は、既に記憶から霧散しつつあり、瑣末事であるからこそ書こうという気になったのですが(なってない! 後付けで理由を書くな。私はこの文章を、記事を仕上げた果てに調味料のように挟み込んでいる。しかしこの一文を私は消さずにおきたいと思う)、残念ながら今回もあまり上手くいっていません。

 こんな人間ではありますが、創作は私にとって大変楽しい営みです。それはなぜか。現実を無視できるからでしょうか。きっと違います。小説は何でも書けますが、何を書いてもいいわけではないからです。現実に起こる出来事と物語は常に影響しあい、共鳴しています。もちろん、自分の内心から目を背けてもいられません。むしろ強く向き合うことになるでしょう(創作サークルのブログとして念の為に述べておきます。本記事、特にこの前後に書かれた創作に纏わるあれこれは、あくまで私がそう思っているというだけです。これは半分予防線ですが、半分は「こう考えなければいけない」と思ってほしくないが故の補足です)。
 私が好きなのは、物語が本質的に作者である私自身からも束縛されないという点です。それが創作であるならば、私は当初の構想と違う物語が描かれるのを恐れなくて良いのです(全く思い通りに書けないとなるとやはり歯痒いですし、もう少し手綱を握っていたいとは思いますが)。初めに書きたかったことから作品が歪んでくるのは茶飯事です。しかし、書きたくないものが書き上げられた経験は私の場合ありません。まあ多分、書きたくないものが書かれようとしている時はまず完成できていないのでしょうが。
 机に向かって小説を書いていると、まだ見ぬ白紙の中にふと書きたい一節を発見することがあります。前から書きたいと思っていた物語と自然に繋がりを見せ始めることもあります。あるいは、全く私の意識していなかった知らない物語が、ふいに目前へ立ち上がってくることもあります。想定外でありながら、気付けばそれらを書きたいと思う自分がいるのです。その時私は、「自分はこれが書きたかったのか」と眼を見開きます。今まで知らなかった、これから大好きになる物語を読んだ時の気持ちにも似ています。大きな喜びの一つです。
 あるいは私はここでも、創作という舞台においてすらも、書いたものに内心を合わせるという過ちを犯してしまっているのかもしれません。それを否定はできないでしょう。しかし、過去の内心を塗り替えることと、新しく物語を編んでいくことは私には別物に見えます。今まで自分の意識の内に存在しなかったものを彫り出し、それをうつくしいと、胸の内に温めて育て上げたいと初めて思えたのならば、それこそが豊かさであると信じたいのです。

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気になっている言葉⑪

5月下旬担当の葱です。遅くなってすみません。今回も気になった言葉について書きます。
➀ 幼稚園からやりなおせ!
 「やり直させてください」とつい言いたくなりますね。
②中二病
 日本と学校制度の違う英米人には、何と訳せば伝わるでしょうか。
③地盤・かばん・看板
 英語にも同様の表現はありますかね。
④バブル時代
 バブルがはじけるまでの時代を、特徴を持った1つの時代としてとらえる言説は、いつから生じたのですか。
⑤ファシズム
 同調圧力の意味で誤用されている気がしますね。例えば、浅田真央に感動せよという同調圧力が働くのを「真央ちゃんファシズム」と言ったりしますが。
⑥我が国
 国は誰のものでもないから、「我が国」という言葉は奇妙に見えませんか。
⑦全員一致の深イイ話
 全員一致でその話を深いと思う必要はあるのですか。
⑧聖徳太子は7人の話を同時に聞き分けた。
 一人ずつ話せば済む話ではありませんか。
⑨愛と勇気だけが友だちさ
 何があったのですか、アンパンマンさん。
⑩キレる
 本来は激怒するの意味だったのに、今では普通に怒ることをキレるといい、激怒することをガチギレすると言いますね。

こんなに小さな言葉にかみつく私はどうかしていますね。病んではいませんから、ご安心ください。

Edit 07:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

 

今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:小倉
中旬:暮四
下旬:double quarter です。

 

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