どうも,M2なので追い出されつつあるしっちーです.6年間の,長かった私の学生生活がもうすぐ終わろうとしていますが,その数々の思い出が走馬灯のようにフラッシュバックするばかりです.
思い返せば,学部1回生の頃の私はほとんど素人に近い画力しか持っていませんでした.絵を描くとしても,たまに絵の技法書を開いてはちょっとだけ模写などをする程度.もちろん小説など書けるわけもありませんでした(あの頃から「小説を書きたいなあ,でも一体どうやったらストーリーなんか作れるのか」と悩んではいたのですが).アニメなどを見ることすらなかったので,創作的な教養も皆無と言ってよかったでしょう.あの頃の私は,今の私からは想像もつかないほど,創作者としてはLv.0もいいところでした.しかし,6年間の学生時代を経て,そして3回生という中途半端なタイミングで入会してからの4年間の未定時代を経て,私は創作者としてかなりのレベルアップができたのではないかと思います.まだまだ未熟なことは言うまでもありませんが.
さて,
何年か前の未定ブログ記事で書いた通り,私は絵を描くことにおいて,とにかく自分の描きたいものを追求することを何よりも重視してきました.私は地道なトレーニングや勉強を嫌うクズっぽい性格なので,美大受験生のように模写などをして地道に画力を積み上げることは向いていません.そういう地道で味気ない練習は,私には1日平均1時間もできればいい方でした.しかし,自分の描きたいものを描くのであれば,楽しいので(当然それも一筋縄ではいかないものの)1日平均2時間でも3時間でも可能なわけです.確かに後者は効率的な練習法ではないかもしれませんが,少なくとも私にとっては圧倒的にこっちの方が上達が早い.
私は何が好きなのであり,何に心を動かされるのか? 私は何を表現したいのか? 何のために絵を描いているのか? 何を描けば,このどうしようもない渇望が癒されるのか? 私はここ5年くらいそういうことを自問自答し続けてきました.5年間,累計何千時間もかけて絵を描き,色々な作品を消費し,時々挫折して鴨川を眺めながら物思いに耽り続けてきた今,少しはその答が明確にできる気がします.今回は,長きにわたる学生時代の創作活動を締めくくるにあたって,私が結局何を描きたかったのかを言語化することを試みます.
アリス・イン・ラックランド おそらく説明するまでもないかと思いますが,私は幼女ばかり描いてきました.十代後半以降の少女もそこそこ描いていますが,そういう少女にしても,精神的にどこか子供らしさや純粋さのある少女であることがほとんどです.だからこそ,私が去年のNFで出した集大成的な作品集は「Alice in Lackland」であったわけです.
ではなぜ,私はここまで幼女ばかり描いてきたのか.その点については,
2年くらい前に一度記事を書いています.簡単に言えば,幼女は「少女的なかわいさ」と「精神的な純粋さ」を持つ存在であるからです.
“
その少女的可愛さは,傷つき,疲れ切った心を癒してくれる.そしてその純真無垢さは,汚れてしまった心を浄化し,汚れる前の人間本来的な心のあり方を思い出させてくれる.幼女とは結局のところ,不条理と矛盾と混沌とに満ちたこの世界の中で,それでも腐らずに生きたいと願う人々にとっての,一服の処方箋なのではないでしょうか. ”
大まかな結論はあの記事から特に変わりませんが,今ならもう少し色々と語れることがあります.特に,子供らしい「精神的な純粋さ」というものが一体何なのかについては,当時はあまりはっきりとはわかりませんでしたが,今なら少しだけ言語化できる気がします.
あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃぁ^~ まず,「少女的なかわいさ」というのについて書いておこうと思います.世間的には「かわいい」という言葉はあまりにも無節操に使われ過ぎていて,その概念はあまりにも多くのものを含みすぎている気がするので,まず,どういう「かわいさ」が問題となっているのかを明確にする必要があるでしょう.「かわいい」には色々な方向性があって,私が思いつく限りでは以下のようなものが挙げられます.
・動物的なかわいさ(小動物等がもつかわいい感じ)
・植物的なかわいさ(花や植物,あるいはそれをモチーフにしたデザイン等が醸し出すかわいい感じ)
・形状的なかわいさ(動物の赤ちゃん・人間の幼児・デフォルメされたキャラクターが持つ丸み等が醸し出すかわいい感じ)
・少女的なかわいさ(フリル・リボン・ハート・暖色等の少女的アイテム・モチーフが醸し出すかわいい感じ)
・顔的なかわいさ(単純に顔が整っている女性について「かわいい」と表現するもの)
最近,私は植物をモチーフとしたデザインをよく使っている気がしているので,私が求める「かわいい」には,少女的なものだけでなく,植物的なものも含まれるといえるかもしれません.最近植物図鑑の購入を検討しています.顔が可愛いのは2次元では当たり前のことなので,特に問題にする必要はないでしょう.
私は「少女的なかわいさ」(例えばフリフリの服を着たかわいい幼女とか)を目にしたとき,どうも謎の高揚感と多幸感に襲われます.その感情を形容することは困難で,精々「尊い」,「無理」程度しか言えません.あるいは,「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」[1]というスラングも妥当な表現だと思います.そして私は,その高揚感と多幸感を求めて,ただひたすらにかわいい絵やデザインを追求するわけです.
なお余談ですが,twitterとかを見ていると,こういう方向性の「かわいさ」を求めて美少女/美幼女を描く人々は意外にもごく少数であるように思います.まず男性の絵描きについて言えば,かわいい服やデザインに興味を持つ人が極めて少ないことは言うまでもないでしょう.一方女性はと言うと,そういう方向の興味を持つ人は多いのでしょうが,多くはその興味はリアルの自分が着飾ることに費やされるのであって,かわいいものに触れたいという欲求を,絵を描くことで満たす人々は少ないように思われます.案外私はマイナージャンルの住人なのかもしれません.
「純粋」なるもの さて,単純にかわいい少女が描きたいだけであるのならば,王道をゆく女子高生でも描いていればいいはずで,別に幼女を描く必要性はないはずです.それでもなお私が幼女(あるいは精神的な幼さや純粋さを持つ少女)を好んで描くのは,私にとって「精神的な」幼さや純粋さが重要なものであるからです.ここでは「精神的な」という点を強調しておく必要があります.肉体的に幼女であるかどうかというよりは,精神的に幼女であるという点が重要なのです.例えば「幼女戦記」のターニャ・デグレチャフは私にとっては別に愛すべき対象ではない[2]一方で,「ご注文はうさぎですか?」のココアは存在自体が尊い.
それでは,精神的な純粋さとは一体何なのであり,何ゆえに尊いものなのでしょうか.それを言語化することは(少なくとも私が何年も考えなければならなかった程度には)困難で,書こうとすればとても長くなります.まずは「精神的な純粋さ」が一体何であるのかを,幼子が成長して大人(社会適合者)になり,純粋さを失っていく過程をみながら,一つ一つ紐解いていきましょう.何か大げさな言い方になりましたが,別に私は普遍的な真理の探求をするわけではなくて,単に私の個人的な結論を述べるだけです.
公正な世界 私たちはおそらく,小学校低学年くらいまでは,正義の存在を純粋に信じるのではないかと思います.つまり,この世に真善美が明らかに存在し,正義は必ず勝ち,善人は必ず幸せになると信じるわけです.この世には万人に適用されうる正義というもの(言い換えれば人として正しい生き方,人間の生き方の模範解答)が明確にあって,その模範解答に従うものは絶対に幸せになったり天国に行ったりできる一方で,それに従わない者(悪人)は絶対に幸せになることなどない.仮に一時的に味をしめたとしてもいずれ必ず裁きが下り,地獄の業火に焼かれてもらうことになる.悪事を働いたバイキンマンは必ずアン・パンチによって空の彼方に消し飛ばされるのであり,働き者のアリは最後には例外なく幸せになる一方で怠惰なギリギリスは必ず餓死する.
以上の信念を公正世界仮説とでも呼びましょう.この信念とセットになっているものとして,自分には正義が如何なるものなのかを知ることができる(それを知る手段が明確にある),という信念もあるでしょう.結局何が正義かなんて知り得ないのに「正義は勝つ」なんて叫ぶことはできないでしょうから.
自分が正義を明確に知っているからこそ,努力さえすれば自分は正義(人生の模範解答)に近づくことが可能なのであり,だからこそ努力すれば必ず幸せになれる,というのも成り立ちます.「真面目」に努力すれば必ず正義になることができ,正義である者は必ず幸せになれる,ゆえに努力すれば幸せになれる,という論法ですね.逆に,不幸な者は努力していないとか,不幸な者は何か悪事を働いているに違いない,というのも成り立ったりします.「自己責任」という言葉で失業者などを(ただ怠惰なだけの奴で救うに値しないとして)切り捨てたり,何かの犯罪事件で不幸な目に遭った被害者が「被害者にも何か落ち度があったのではないか」と言われたりすることは,私たちの社会ではよくみられる現象です.
話が少し脱線したので戻します.私たちは幼い頃は,「何が正義であり,何が悪なのかを明確に知る手段がちゃんとある」と純粋に信じるわけですが,より具体的には,親や学校の先生が言うことを真理だと信じていて,親や学校の先生が正義を指し示してくれると信じています.「わーるいんだーわーるいんだー,先生に言ったろー」などとよく言ったものです.親や先生は絶対的存在であり,彼らに褒められるということは自分が正義であることの証左なのであり,一方で彼らに叱られたり殴られたりしたら自分が悪であるということになります[3].もっとも,そんなことを純粋に信じられるのは,すでに述べた通り小学校低学年くらいまでなのでしょうけれど.
公正な世界の欠陥 私は個人的に,公正世界仮説は別に真実でも何でもないと思っています.子供たちが純粋に信じているような公正世界仮説をここで一旦整理しましょう.
(1) 万人の認める絶対的正義や真理が存在する.「善い行動」と「悪い行動」が存在し,あらゆるケースにおいて行動の模範解答が存在する.「善い人間」と「悪い人間」,「善い人生」と「悪い人生」も存在し,人生の模範解答が存在する.
(2) 「善い人間」は周囲の人間を幸せにし,それが社会的に望ましいだけでなく,本人も必ず幸せになる.一方,「悪い人間」は必ず不幸になる.正義は必ず悪に対して勝利する.
(3) 何が正義で,何が悪かは明確に知ることができる.親や学校の先生に聞いたら普通に答えてくれるものであるし,「大人になったらわかる」みたいな,理解の難しいものでもない.誤解が生じることもあり得ない.
(4) 真面目に努力すれば誰もが正義になることができるのであり,努力すれば誰もが幸せになることができる.逆に,不幸な人間は真面目に努力をしていないだけであり,自業自得である.
…なんだか虫唾が走りますが,まあとりあえず公正世界仮説をボコっておきましょうか.
(1) 万人の認める明確な正義の基準,あるいは人生の模範解答(それに従いさえすれば誰でも幸せになれる)があるというのならば,なぜそんな重要なものが教科書などにおいて厳密かつ詳細に明文化されていないのか.明確な正義の基準があるというのなら,なぜ裁判をする必要があるのか(裁判などしなくても,その明確な正義の基準とやらに従って,被告人に対してごく簡単に断罪が可能なはずではないか).
あるいは,哲学者などが2000年以上にわたって延々と議論を重ねてきたのに,なぜ明確な一つの「人生の模範解答」が見つかっていないのか.もしそんなものがあるのなら,とっくに見つかっていて何かの教科書に書かれていて,初歩的な科学の知識のように万人に共有されているはずではないか.
(2) 法では裁けない悪人はこの世にはいくらでもいるし,彼らが絶対に不幸とは言い切れないのではないか.学校で校則を破っていたり,クラスでいじめをしていたりするDQNが不幸にみえるだろうか.パワハラ上司は不幸に見えるだろうか.もちろん彼らが痛い目を見ることはあるだろうが,痛い目を見ずに弱者を虐げ続け味をしめ続けるケースもいくらでもあるのではないか.
そして正義は悪に対して必ず勝利するというのであれば,人類が長い歴史を経てもなおこの世に悪が存在し続けているのはなぜか.勝てていないではないか?
…これ以上は長ったらしい割に話の本筋と大して関係がないので,この辺にしておきましょう.続きは註[4]に書きます.ただ,最後に一つつけ加えておきたい.こういう公正世界仮説の一番クソなところは,「自分が絶対に正義である」という信念とセットになっているところです.だってそうでしょう.自分が正義かどうかいまひとつ確信が持てないのに,「正義は必ず勝つ」なんて言えるでしょうか.自分が正義でない可能性があるにも関わらず「正義は必ず勝つ」だの「悪は必ず裁きを受ける」だのが成り立つのだとしたら,自分はいつ正義の裁きを受けてもおかしくないということになる(自分に神の裁きが下るのは明日かもしれないし,5秒後かもしれない).そんなの気が狂うでしょう.「自分が絶対に正義である」(=もし自分と考えの違う奴がいたらそいつは悪である)と信じ込める傲慢で鈍感な奴しか,公正世界仮説なんか信じられないのです.
反抗期 さて,以上のように,小学校低学年くらいまでの子供が信じている,「こうしなければならない(これをするのが善い)」/「これをしてはならない(これをするのは悪い)」という諸々の正義,およびその前提となる正義/悪の概念,公正世界仮説は,何もかも下らない嘘であるという疑義が濃厚かと思います(少なくとも私はそう考えます).
一方,今まで純粋に公正世界仮説を信じてきた子供たちも,小学校高学年くらいになると,その胡散臭さに気づき始めるのではないかと思います.
生命を無暗に奪ってはならないとか,人に迷惑をかけてはいけないとか,自分がされて嫌なことを人にしてはいけないとか,ここまで子供たちは様々な規則を大人たちから押し付けられてきました.それらに背こうものなら大声で怒鳴られたり,職員室に呼び出しを喰らったり,「愛の鞭」と称して体罰を受けたりするのであり,無力な子供たちはそれらに全く逆らうことはできません.そういう体験を経て,子供たちは,生命を無暗に奪う行為や人に迷惑をかける行為がそれだけ「悪いこと」であると理解するでしょう.そして,そういう悪事を働く人間は裁きを受けるのが妥当であると理解することでしょう.あるいは,そういう悪人に対しては怒りを抱くのが自然なのであり,恫喝したり殴ったりしても構わないと学ぶことでしょう.
しかし小学校高学年くらいにもなると,子供たちは,裁かれるべき(腹の立つ)悪人があまりにも多すぎることに気づくはずです.例えば私なんかは,小学校4,5年くらいの頃に,廊下を歩いていたらいきなり後ろから見知らぬ先輩に蹴られたことがあります.あまりにも理解不能だったので妙に覚えているのですが.クラスの中にいじめらしき行為はいくらでも見当たるでしょう.見渡してみれば,校則に違反した不道徳的行為などいくらでも存在します.それにしても,そういう不道徳行為を取り締まらない大人たちは一体何をしているのでしょうか?
社会に目を向ければ,より「悪人」の存在は数多く目につくはずです.「食べ物を粗末にしてはならない」にもかかわらず,例えばうなぎや恵方巻のように大量の食品を廃棄するコンビニ.精神を病んで死ぬくらいまでに従業員を酷使するブラック企業.学校でのいじめで自殺者が出たら証拠隠滅と保身に専念する教師たち.ちなみにピュアだった中学生くらいの頃の私は,学校でも社会でも公然と行われている男女差別に腹を立てていた気がします.
これまで自分に説教をしてきた親や教師自身の不道徳行為も目に付くでしょう.例えば私の父なんかは煙草を吸っていて周囲に副流煙の害を及ぼすわけですが,こんなものは「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳からすればどう考えても認められないことです.あれほど「人に迷惑をかけるな」と自分に対して言い,時には体罰まで下してきた人物がそういうことをする.片づけをしろと口うるさく言ってきたあの父が,よく見ると飲んだ後のビール缶を放置していたりもする.
そして,以上の不道徳行為をした人間は,ちゃんと裁きを受けているでしょうか.小学校で教えられた通り,悪人は不幸な目に遭っているでしょうか.クラスのDQNは不幸そうに見えるでしょうか.実態はむしろ真逆な気さえしてきます.そして,真面目に努力をしてきた人は,ちゃんと幸福になっているでしょうか.
以上のようにして,小学校高学年くらいの子供たちは,親や教師の言うことに少しずつ矛盾を感じ取るようになっていきます.もう親や教師の言うことは盲信できなくなるでしょう.大人たちは胡散臭い存在にしか見えなくなる.法で裁かれない腐った奴が社会に溢れていると思えてくる.こうしてはっきりと,反抗期の傾向が現れるのではないかと思います.
理不尽への適合 理不尽なことがあまりにも多すぎる.中学校にもなると,クラスに存在するスクールカーストはより露骨なものとなっていくでしょうし,部活の中に強力なカーストが存在するとも多いでしょう(特に体育会系の部活の場合).教師も露骨な贔屓をしてくるかもしれません.視界に存在する「理不尽なもの」は加速度的にその数を増やしていく.さらにその理不尽は,もはや単なる一生徒には逆らうことも叶わぬ,絶大な強制力を備えていきます.
反抗期の少年少女は,社会への絶望に苛まれることでしょう.それと同時に,混乱にも陥るはずです.例えば部活の中で上級生から下級生への(体育会的な)いじめが行われていたとします.最初はそのいじめが間違っていて,その部活が悪の温床だと思うかもしれません.しかし,その部活で自分以外が,いじめを「そういうものだから」と受け入れていたとしたら? 上級生が偉いのは当たり前のことだという風潮があったとしたら? それでもたった一人で,この部活はおかしいと言い続けられるでしょうか.自分一人が正しくて,その部活の人々が間違っていると言えるでしょうか.既に述べたように,誰が正義で,誰が悪かを明確に証明する方法などどこにもありません.そんなものがあるなら裁判は要らない.結局考えてみたところで,自分の考えが正しいという保証などどこにもないのです.自分が間違っている可能性は永遠に否定できません.それで,どうしてその部活に存在する体育会的カーストに立ち向かえるでしょうか.どうしてたった一人で部活一つに挑めるのでしょうか.
こういう場合,大多数の人は,自分が間違っていて,自分が社会不適合者なだけだと考えるのではないかと思います.
絶望的な同調圧力の中で,自分の頭で善悪を判断することを断念し,自分の属する集団の「部族の風習」に身を任せることが,反抗期を終わらせていきます.何かしらの善悪の基準を信じ,それを他者にあてはめるからこそ,この社会の様々な理不尽が目に付くのです.そういう理不尽に対する怒りは,自分が明確に善悪を判断することができる(自分の判断が絶対に正しい)という信念があってこそ生じるものです.ならば,自分の考えが本当に正しいかどうかに確信が持てないのに,自分の考えを他者に適用して,その他者を悪とみなし,怒りを持ち,「裁き」を下すことは不可能でしょう.学校のクラスや部活などに存在する圧倒的な同調圧力は,自分が明確に善悪を判断することができるという信念を破壊し,善悪についての思考停止を招きます.こうして反抗期の少年少女は,社会に存在する様々な理不尽に一々目くじらを立てなくなっていくどころか,一見理不尽に見えるそれらに自分が適応しなければならないと考えるようになります.
もちろんそういう絶対的圧力は,学校のクラスや部活だけでなく,どこにでもあります.大学で言えば,研究室なんかはよく理不尽の温床になります.私の研究室の教授はどうみても学生を恫喝し人格否定しまくっていますし,当然のように(むしろ学費を払っている側である)学生をタダ働きさせています.卒業後に卒論について学会発表や論文投稿をやらされたりもする(もちろん無給).でも教授は,飲み会で学生に対して,いかにも優しく諭すような(「君のために言っているのだ」と言いたげな)調子で「本当はそんなに怒っていない」とか言ったり,その仕事(タダ働き)は京都大学の学生としての当然の使命なのだとかよく言ったりするもので,そうやって説得されると,教授を悪と断定してあれに立ち向かうことは案外簡単ではありません.繰り返しますが,私が正義であって研究室や教授が悪であるという保証はどこにもありません.考えれば考えるほどに,自分が単なる社会不適合者なだけで,自分が教授の言うことを理解していないだけという可能性が目に付いたりします.私はこの研究室での三年間を通して,最後まで折れることはなかったと思いますが,そこで折れて思考停止し,教授に洗脳されていった先輩たちを,私は何人も見てきました.
就活でも,会社に入ってからも,こういうことは繰り返され続けます.それに適応し続けることで,大人は大人として完成されていきます.社会人になって10年もすれば,立派な「社会適合者」が完成することでしょう.この段階に至った社会適合者は,それまで適応してきた数々の集団の中で「そういうものだから」と受け入れてきた,数々の「部族の風習」を同時に信じています.それらの「部族の風習」は別に一貫しているとは限らないというか,むしろ互いに矛盾しまくっていることがほとんどでしょう.というかそもそも,小学校などに適応するために受け入れた,「人に迷惑をかけてはいけない」,「人の嫌がることをしてはいけない」みたいな純粋な道徳と,中学校での体育会的部活に適応するために受け入れたカーストくらいの時点で酷い矛盾が生じています.その上にも矛盾が無数に重なり続けます.
「大人」なるもの 大多数の人は,自分の言動に矛盾があると何かしらの不快感をもちます.例えば「煙草をやめる」と宣言したのに煙草をやめられなかったりしたら不快感が生じますし,その不快感を埋め合わせるために何かしらの言い訳(防衛機制)をしたくなるものです.認知的不協和とかいうやつです.でも大人(社会適合者)にはそんな不快感はあまりないので,互いに矛盾する無数の行動規範(ダブルスタンダードならぬ「マルチスタンダード」)を抱えていても精神が崩壊したりしません.もしふとした瞬間に,自分の「マルチスタンダード」を不快に思うことがあったとしても,器用に言い訳をするなり,その不快感を無視して忘れるなりして,うまく自己防衛ができるのではないかと思います.そもそも,大人はあまりに矛盾に矛盾を重ねすぎていて,今更その「マルチスタンダード」を解消できるわけもありません.反抗期以降の記憶をリセットしない限りは多分無理でしょう.
その上,大人は「マルチスタンダード」のそれぞれを真面目に信じてはいないように思われます.ここで言う「スタンダード」(社会的に共有されている,支配的な力を持つ規範)はしばしば「タテマエ」と呼ばれ,「ホンネ」と区別されます.つまり大人にとって,互いに矛盾するそれぞれの規範は別に「ホンネ」ではなくて,自分は本当は同意していないけど社会的にそう信じなければならないだけ,という意味合いを持たせているわけです.だから自分の行動規範に何かの矛盾があったとしても別に構わないし,嘘であると暴かれてしまっても構わない.矛盾を指摘されたら,「それはタテマエでしかないから」,「何本気にしてるの?(笑)」,「君は言葉を文字通り解釈し過ぎだ,アスペかな?」,「空気を読め」とでも言って逃げればいいのです.
ただし,大人(社会適合者)が善悪に関心がないとか,善悪の判断をしないというわけではないでしょう.確かに目上の人や多数者の判断がある場合はそちらを優先して思考停止するかもしれませんが,目下の人(例えば後輩や自分の子供など)に対しては自分の判断が絶対的に正しいものと信じ,悪とみなした相手に制裁を下すのではないかと思います.そしてその制裁は時として苛烈を極め,パワハラに発展することもあるでしょう.もちろん,本当に自分の考えが正しくて,後輩の言うことが間違っていると断言できるのかとか,後輩が間違っているとしてもそこまで好き放題やっていいのかという点には,鈍感に思考停止するのでしょうけれど.
一つの解釈としては,大人というのは,目上の人や多数者に対してはとことん従順で,自分の頭で考えることもなく付き従う一方で,目下の人に対しては好き勝手やる「小物」であるのかもしれません.あるいは,互いに矛盾する多数の行動規範を持ちながら,あまり悩むことなく行動が可能で,矛盾を指摘されたら「それはタテマエだから」とうまく逃げる器用さを備えた人々といえるのかもしれません.
またあるいは,集団の圧力やカーストに屈し続け,それらを前にして歯向かうことも,何かしらの疑いを向けることもできないという巨大な絶望とトラウマを心に湛えた被害者なのかもしれません.中学校や高校などで不運にも体育会的組織を経験し,そこで自分の意思を奪われたのかもしれない.逆に,大人になってもある程度「自分の意思」を持っていて,ある程度「思考停止」せずに済んでいる人は,単に幸運なだけなのかもしれません.
矛盾と混沌への適応過程 長くなってしまいましたが,ここで一旦,子供が大人へと成長し,社会に適合する過程をまとめてみましょう[5].
(1)幼少期(~小学校低学年):親や教師の(しばしば暴力的な)しつけに強制され,この世に正義が存在し,善き人間と悪しき人間(あるいは善き行動と悪しき行動)が存在し,善き人間だけが幸せになると信じ込むようになる.もちろんこの世界観(公正世界仮説)は多くの欠陥を含んでいるが,その欠陥に気づくことはない.
(2)反抗期(小学校高学年~):社会に無数の悪が存在することに気づいていく.そして,これまで自分が信じてきた親や教師もまた,多くの悪を含んでいることに気づいていく.大人や社会が信じられなくなる.
(3)反抗期の終わり(中学校~二十代):クラスや部活などの集団に属する中で,その集団内に存在する理不尽に歯向かうこともできず,それらを正義(「そういうもの」だから)と判断して受け入れていく.集団の持つ圧倒的な強制力を前に,自分の善悪の判断を貫き通すことができず,自分の頭で思考することに絶望を覚えていく.
(4)社会適合者の完成:様々な集団に適合し,それぞれの集団内における行動規範を思考停止しながら受け続けた結果,状況に応じて柔軟に「マルチスタンダード」を使い分ける大人が完成する.もはや言動に一貫性など見られないが,自分の言動に矛盾が生じていることを気にかけないほどに図太い.目上の人間や多数者の判断には無思考かつ忠実に従うが,目下の人間を相手にした場合のみ善悪の判断を行い,傲慢なほどにその判断が正しいと思い込む図太さももつ.
一応付け加えておくと,私は別に,社会適合者が悪だとか病的だとか言いたいわけではありません.反抗期で何にも屈さず,自分の信ずる正義を貫き通すのが正しいのかと言うとそうでもないと思います.既に述べた通り,その自分の信ずる正義とやらが正しいとは限らないわけですから.もちろんその方が自分の思想や行動規範について(比較的)一貫性はあるでしょうが,だからといってその思想や行動規範が正しいことにはなりません.
大人(社会適合者)というのは,例えるならば一部の行動はキリスト教の教義に従って行い,また一部の行動はイスラム教の教義に従って行うみたいな人々でしょう.それと比べて,果たして一貫したキリスト教徒や一貫したイスラム教徒の行動が「正しい」といえるでしょうか.キリスト教だろうが,イスラム教だろうが,両者を中途半端に混ぜ合わせて矛盾を黙殺した何かだろうが,どれも人生の模範解答でも(全人類が共有すべき)絶対的に正しい教義でもないと思うのですが.
まあ,もし一貫した行動が正しいと思う方がいたら,明日から(たとえば)聖書原理主義者として生きてみてください.多分一貫性はかなり上がると思います.聖書の記述にも矛盾はあるでしょうけれど,この社会の混沌よりは多分マシです.
子供の心 ここまで説明すれば,私が求めている美しき子供の心が一体何であるのかを明らかにすることは,もう可能でしょう.大人と子供の違いは何か.それは一言で表現するならば,何からも目を背けず自由に思考を行おうとする態度であり,本当の「思想の自由」なのかもしれません.自分が美しいと思うものを「美しい」と言う.自分が間違っていると思うものを「間違っている」と言う.私はそういう正直な心の在り方を美しいと感じます.もちろん社会で生きていく上では,自分の感情をストレートに口に出すとしばしば面倒なことになるので,表には出せないこともあるでしょう.それでも,口には出さないとしても確かに何かの感情を持っていて,その感情がたとえ社会的に認められないものであっても,自分がその感情を持っていることを悪びれず,それを抑圧してはいないことが美しいのだと思います.
大人(社会適合者)の心は抑圧だらけといえるでしょう.矛盾した言動をとり,その自分の言動に何かしらの不快感を持つことがあったとしても,それを黙殺する.自分の属する集団のシキタリが正しいのか間違っているのか(少なくとも,自分がそれを受け入れられるのか受け入れられないのか,自分はそれが好きか嫌いか)という感情を一瞬持つことがあったとしても黙殺し,「それが社会のルールだから」と言ってただ従うだけ.目下の者相手に好き勝手にパワハラをするときに,「本当にそんなことをしていいのか」という感情を少し持ったとしても,その感情を黙殺する.
きっと社会適合者だって,社会で生きていく上で,あれが嫌だとか,あれは間違っているとか,そういう感情を持つことはあるのだろうと思います.成人の知能を持っていながら,自分の言動の矛盾に気づかないわけもない.しかし社会適合者は,その感情に向き合うことはないでしょう.向き合ってしまったら最後,きっと社会にはもう適合できなくなるのです.例えば,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という疑問を持ち,それで「パワハラはいけない」という結論を出したところで,今更何ができるでしょうか.自分の属する組織に存在する(自分以外がやっている)パワハラに憤りを持ったりするのでしょうか.自分にその組織の何かを変えられるでしょうか.変えられるとして,果たしてそもそも自分のパワハラに対する憤りは「正しいもの」で,組織の方が間違っていると断言できるでしょうか.それは「空気を読まない」行動ではないでしょうか.社会人としてそれは正しいのでしょうか.そして,そこまで悩んで,自分の組織内での立場を悪化させるリスクを負ってまで得るものは何でしょうか. 結局,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という自分の感情を気にかけて,何を得るのでしょうか.
過ぎ去りし時を求めて 大人が純粋であり続けることは超絶に困難です.というか不可能でしょう.自分の心に浮かぶ様々な感情から目を逸らさず,一々直視していたら,きっと気が狂います.
大人になればさまざまな可能性が否応なしに見えてきます.いま机の上に置いてある紙で,何かの拍子に自分の小指をシュッと切る可能性.今自分と仲良く喋っているこの人が,本当は自分のことを嫌っている可能性.自分が良かれと思ってやったことが,実は周りの人には迷惑でかないという可能性.自動車を運転しているときに不慮の事故によって突然死ぬかもしれないという可能性.
読者の皆さんもこういう,恐ろしげな想像をふとした瞬間にすることがあるかもしれませんが,そういう可能性を無視することなく一々直視していたら,きっと気が狂ってしまうのではないかと思います.たしかにこの世界はどこまでも不確定で,一秒先の未来すら確実に予言することはできなくて,私たちはどこまでも無知です.大人になると,どうしてもその不確定性が否応なしに目に付きます.しかし,その不確定性に正直に向き合ってしまったら,おそらくSAN値がすぐに0になるでしょうし,少なくとも恐ろしくて家から出られないはずです.でも,純粋であるということはそういうことです.私もきっとある程度は思考停止をし,さまざまな危険を黙殺していることでしょう.
「小さい頃,一歩踏み出したら,地面が崩れ落ちて,穴に落ちて死ぬんじゃないかと,そう思って,歩くことさえ躊躇っていた時期がある.あり得ん話じゃない.だが,誰もそんなことは気にしてない.俺はそれが不思議だった」 ──ゴブリンスレイヤー
子供はその頭の悪さによって,純粋な心が社会の混沌やこの世界の不確定性によって汚され,ダメージを受けることから守られているのでしょう.頭が悪いからこそ,公正世界仮説を純粋に信じて生きていくことができます.その教義の汚点や矛盾に気が付くことも,親や教師の言動の矛盾に気づくこともありません.自分は正しい行いをしていて,神さまがそれを認めてくれていて,きっと将来自分は幸せになれるだろうと思っています[6].もちろん,自分を取り巻く無数の危険にも,5秒後に自分が死んでいる可能性にも意識が向きません.
ですが,大人になった以上はそうはいきません.もう何かを純粋に信じることはできません.自分の感情を一々直視してもいられません.残酷なまでに不確定なこの世には,純粋に信じるに値する,絶対的な正義も真実も「人生の模範解答」なく,私たちの幸せは何一つ保証されないのですから[7].
子供のような純粋さを失い,ある程度は思考停止を重ね鈍感になってしまうことは,生きていく上で仕方のないことなのかもしれません.いや,実は仕方のないことでも何でもなくて,自分がただ純粋であるために努力することから逃げるために,自分に対して都合のいい嘘をついているだけなのかもしれません.自分で自分の思考停止には気づけないのです.私にはもう何もわからない.
ただ確かなことは,もう私はあの頃には戻れないということです.いま自分と喋っているこの人は自分のことが嫌いなわけがないとか,自分の信ずる正義が間違っていることなどあるわけがないとか,純粋に信じることのできた,幸せなあの頃に戻ることはできません.例えば私は誰かと会話をするとき,自分の不用意な発言によってその人に不快感を与える可能性とか,相手を退屈させる可能性とか,自分の言っていることが根本的に間違っている可能性とかを念頭に置きつつ,色々考えて,神経を尖らせて慎重に話します.もちろんそんなことを考えていたらコミュ障にしかなりませんし,疲れます.しかし,色々な危険性が見えてしまう以上そうせざるを得ないのです.私は子供のように馬鹿ではありませんし,社会適合者のように鈍感でもありません.会話の中で人間関係が破壊される危険性に目を向けることもなく,「自信」をもって人と話すことができたあの頃には,私はもう戻れないのです.
幼女と和解せよ 美しいと思うものを美しいと正直に言い,正しいと思うものを正しいと正直に言う,子供らしい純粋な心を,私は美しいと思います.それこそ50時間でも100時間でもかけて,きれいな目をした幼女の絵を描きたいと思う程度には.そして私は,できるだけ純粋な心を持ち続けたいと思います.たとえ社会不適合者として苦しむことになろうとも,私は自分が何を好んでいて,何がしたいのかを忘れたくはありませんし,自分の頭で何かを考え続けることをやめたくはありません.しかし,私は自分ではそう望んでいても,きっと既に,自分でも気づかないうちにある程度は「汚れている」のでしょう.私だってある程度は,社会に存在する理不尽を無批判に受け入れ,社会で生きる上で生じる不快感と向き合わず,「社会とはそういうものだから」で片づけていることでしょう.この世界の圧倒的な不確定性から目を背け,傲慢にも自分が安全なところにいると信じ込んでいるところもあるでしょう.私が社会適合者に対して鈍感だの思考停止しているだの言っていながらも,実はそこらの社会適合者と大して変わらない可能性だって否定できません.
少なくとも子供とはいえない年齢になってしまった私は,もはや純粋であり続けることも,子供の心を取り戻すこともできません.むしろ大人相応の知能を持ってしまった私が子供のような純粋さを取り戻し,外界からのあらゆる刺激に対して敏感になってしまったら,それこそ気が狂いかねないともいえます.大人にはそれに合った世界観や心の在り方があり,子供にはそれに合った世界観や心の在り方がある.大人が子供の心を持ったって,気が狂うだけなのかもしれません.
それではなぜ,私は純粋な心を美しいと思い,可能な限り純粋でありたいと願うのでしょうか.別に子供のように純粋であることは正しいことでも何でもありませんし,大人が間違っているわけでもありません.にもかかわらず,なぜ私は幼女を求めるのか.それは結局のところ,私にはよくわかりません.ただ,強いて言うならば,私は「生きたい」のかもしれません.思考を止め,自分の感情を黙殺し,ただ盲目的に自分の属する集団の「空気」に流されて,「タテマエ」ばかり語る大人たちは,(その是非を別として)死んでいると私は感じます.私はそうはなりたくない,死にたくないと思うわけです.私は自分の意思を持ち続けたい.社会がどう言おうが,自分の好きな何かを愛し,自分の正しいと思う何かを信じたい.正直者が最後に救われるかどうかなど関係なく,私は正直であり続けたい.私はただ生きていたいのです.だからこそ,社会の混沌に「殺される」前の,たしかに生きている幼女の心は,かくも美しいのではないでしょうか.
[1] 「ご注文はうさぎですか?」に関連するスラング.
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3...[2] 「幼女戦記」はタイトルに釣られはしたが一話切りしたのであまり知らない.
[3] 例え公正世界仮説が嘘だったとしても,それは優しい嘘なのかもしれない.もし親からのしつけを,悪である自分を更生させようとしてくれていることと解釈できなかったら,それは単なる暴力としか映らない.たしかに親や教師の言うことは別に真実でも何でもないし,その真実でも何でもない信念に基づいて下される体罰は(それが良かれと思ってされることであったとしても)拷問以外の何物でもないように思われるが,子供がそれに気づいてしまったら気が狂いかねない.自分が理不尽な暴力に晒されているが,自分が無力であるためにそれに逆らうことも,親を離れて生きていくこともできないという圧倒的現実には,気づかない方が幸せなのではないかと思う.
[4] (3) 人によって何が何を正しいとするのかという基準が異なり,口論が生じることは極めてよくある.例えば親と学校の先生で,何が正しいのかについて意見が食い違ったとき(互いに矛盾したとき)はどうすればよいのか.互いに矛盾する二つの答がいずれも正解というのはどういうことなのか.例えば学校の先生の方が間違っていると考えるのならば,その先生は「自分で自分を正義だと思っているが客観的には別に正義ではない」ということになる.そういうケースがあってもなお,「何が正義なのかは子供にも容易に理解できるもので,自分が正義を誤解することなどありえない」といえるのか?
そして,なにをもって,自分の信じている正義に一切の誤解がない(=もし意見の違う他者がいたら,そいつが間違っている)と証明できるのか?自分の意見に多くの人が納得するならば自分の意見は正しい,とよく考えられるが,果たして多くの人から支持されるものが正しいと決めつけてよいのか?多数者の意見は絶対か?そして,自分が他者に意見を説明する際,自分の意見は何も正しくないものの詭弁を使って他者を説得している可能性もあるのではないか?自分が詭弁を使っていないとどうして証明できる?
(4) 真面目に努力をしているにも関わらず不幸な人間もいるのではないか?果たしてそういう人間を,「本人は努力をしているつもりになっているだけで努力が足りない」と決めつけられるか?その本人がどれだけの努力をしてきたのかなんて,外から見ただけで全て把握しきれるものではないだろうし,本人の心中を見透かさない限りわからないのではないか?実際,自分の努力や苦労は周りの人々に100%理解されていると思うか?
さらに,(3)で述べたように自分の信ずる正義が客観的に見て間違っている可能性がいくらでもありうるのだとすれば,正義であろうと努力することによって,むしろ自分が正義から遠ざかる可能性もいくらでもあるのではないか?(1)で述べたように,哲学者たちが2000年以上にわたって議論を重ね,追い求めてきたにも関わらずたどり着けなかった(答えに近づいているのかすらわからなかった)「正義」なるものに,どうして自分が多少努力しただけで近づけるといえるのか?
[5] ここで説明しているのは,社会適合者の生産がうまくいった場合のみであって,必ずしもこの通りにいかず「社会不適合者」が生まれてしまう可能性も多々ある.例えば最初に親がいわゆる「毒親」で,信仰に値する神様というよりは単なる暴君に過ぎなかった場合,公正世界仮説そのものが抜け落ちるかもしれない.ある程度努力が報われた経験(例えば親に努力をほめられたとか)があるからこそ公正世界仮説が信じられるのである.また,中学・高校などで体育会系の部活やスクールカーストの束縛を経験しなかった者も,理不尽を受け入れ社会に適合する傾向が薄まり,反抗期が長引くかもしれない(私はそういうタイプである).これが社会不適合者である.
[6] もちろん,これは親がある程度まともだった場合であって,酷い虐待を受けるなどした場合はこの限りではない.
[7] もしかすると,あまり高度な教育を受けたりせず,前近代の閉鎖されたムラ社会の中や閉鎖的な修道院の中で一生を過ごしたりすれば,信仰が汚されることはなく,一生純粋でいられるのかもしれない.そのムラ社会の風習を汚すものが外部から入ってくることはなく,密接な相互監視によって「悪人」が確実に裁きを受ける環境であれば,人は純粋であり続けることができるのかもしれない.もちろん,21世紀を生き,高度な教育を受け,インターネットでも使って既に様々な考え方に触れてしまった私たちには,もはやそんな生き方などありえないが.