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 京大公認創作サークル「名称未定」の公式ブログです。
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2023-06

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「時日表記に辞んでみること」

ごきげんよう☆彡1月中旬担当のゆっくりです!
構成員各位におかれましては、昨年は大変お世話になりましたことを深く感謝申し上げます。本年も皆様おひとりおひとりにとりまして、充実した一年となりますよう祈念申し上げます。今回もどうかお付き合い下されば幸いです♪
さて、今回のトピックは以下の通り。
①時日表記の再現前性――その、あまりにもおぼろげな――
②未来への確からしさ――その、あまりにもさやけくあれと――
 修士論文を終える。伴った辛酸は筆舌に尽くしがたい。しかし、通過儀礼として重要な経験だったと思う。病気も挟んだとはいえ、6年もの歳月をかけたにしてはあまりに乏しいものだが、一つのステップにしたい。
 たくさんの史料や、先行研究の束、ノート、B6カードを眼下にしている。よせばいいのに、日付を振ってあるものも多い。それらは、スキャンを経たことで、今一度の時間性を帯す。時日表記の持つ呪力は、形態素単位よりも漠然とし、自らを包み込む時代的気質をそこに再現前する。現代においては、写真、通話、記録などに、頼みもしないのに打刻される。それらの参照可能性は、概ね、こちらの意思に拘束されないことが多く、必要性の堤防を氾濫する。
 個人的な能力の限界か、2年以上前のイベントに対しては、その前後関係は曖昧である。それは私の専攻する実証史学の史料批判の必要性と、大略その根源性を一にする。時日表記を見た瞬間、脳内では数直線が形成される。自身の様々な想い出が、その数直線に極めて曖昧に座標を取る。この中途半端な確実性と、自身の意識から乖離した提示とが、脳内で傷む。果たして、過去は幻想だった。エクリチュールの持つ代補性の横溢、すなわち、肥大化して宿主を、いや、母屋から庇にかけて襲来するこの幻想に、立ち向かう術を私は知らない。ただし、救いを求めることは許されようか。
 卑近な例で恐縮だが、修士論文を作成していて、私は極限状態だった。何事にもよらず堪え性のない私が、研究室でひたすら古記録、古文書から平安時代後期の歌人や漢詩人の政治的事績のデータを取り、パソコンに打ち込む。下宿への途上、東方に暁闇を見やりながら、自分の認知能力の低下すら実感できなくなっていた。しかし、《救い》がなかった訳ではない。修士論文を提出後には、指導教授と夕飯をご一緒させていただく。史料を、和歌を、漢詩を読んでも、何が正しくて何が不確定か、全く融解し切っていた私には、それが茜差す久方の《出口》だったのかも知れない。
 2001年にゲームボーイアドバンスというハードで任天堂から発売された『ナポレオン』というゲームがある。そこでジヌディーヌ・オージュローという指揮官(シャルル・ピエール・フランソワ・オージュローをモデルとする)が口にする「未来への光がオレには見える」というセリフが少年の時分より好きだった。今回愚見は、悠久に至る未来への本質性を心に戴いていながら、そうした直線運動が取れないほどの満身創痍状態の中、眼前に像を為したものである。
 ≪イマ・ココ≫をきちんと認識することに越したことはなかろう。しかし、その営為は必ずしも優しい行為ではない。これ以上は素人がものすに無用だろう。
 この数カ月、確実に、そして着実に螺旋階段を下っていた。しかし、究極的には孤独なのだが、同行者、いや、すれ違う人々を目にしないではなかった。お名前を挙げる事で却って漏れる愚を懼れるものであるが、衷心より御礼を申し上げます。
つーわけで、本年もよろしくね☆

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新年を迎えるにあたって

12月下旬担当のいとらです。

新年まで、あと残りわずかとなりました。みなさんは、どのような年末を過ごしていらっしゃるでしょうか?
今年一年を振り返ると、本当に色々なことがあったなと、つくづく思います。受験勉強に始まり、大学入試と、高校の卒業式。春には、京都大学に入学して、一人暮らしを始めて、名称未定に入会して……それからの大学生活は、数えきれないほどたくさんの思い出に溢れています。することなすこと初めての事ばかりで、新しい刺激の連続でした。
もう、高校に通っていたのが、遠い昔のように感じられます。

しかし、いざ今年が終わるとなると、この一年の間、私は何をなせたのだろうか、と不安になります。去年の自分から、成長できているのか、と。
大学に入って、新しく友達もできました。勉強にも取り組んで、新しい知識を身に着けました。小説だって、それなりに書いてきました。確かに、この一年間で得たものはたくさんあります。それでも、もっと何かできたんじゃないか、そんな、後悔のような、焦りのような、もやもやした気持ちが心に浮かんでくるのです。

……いえ、まだ間に合います。
まだ、少しだけ時間は残されています。

焦燥感に駆られるように、私は今年やり残したことを消化し始めます。
手始めに、読みかけだった小説を手に取りました。ずっと、読もうと思いながら、今に至っているのです。今年中に片を付けないと。
次に、料理に取り掛かりました。この春に一人暮らしを始めて、当初の予定では、今頃は料理上手になっているはずでした。だけど結局、外食やら絶食やらで、自分で料理することはあまりなく、いまだに「得意料理は納豆ごはん!」という有り様。年越しに向けて、何か一つでも、レベルアップしていたかったのです。

私はそれらをやり終えて、席に座って一息つきます。と、目の前にあったのは、一冊の数学書。夏頃に、兄弟から借りたものでした。
はぁ、と、一つの溜め息。
彼に少しでも追いつこうと思って借りたはいいものの、ほんの数ページ読んだだけで、それ以降は手付かずになっていたのでした。これじゃ、いつまでたっても、追いつけないどころか、差が広がっていくばっかりです。
私は、意を決して、数か月ぶりに、この本を開きます。
難しい数式に、慣れない用語。1ページ読み進めるのに、小説のときとは比べ物にならないくらいの時間がかかります。このままだと今年中に読み切ることなんて無理だ、という雑念を振り払い、私は本の内容に集中します。

そして、気づけば、時計は0時を回っていました。

結局、読み進められたのは、たったの20ページでした。
今年、……いえ、去年のうちにやりきれなかった悔しさもありながら、それでも少しだけ、晴れやかな気持ちになっていました。少なくとも20ページ分は、去年の自分より、成長できているのですから。

そんな、ちょっぴり慌ただしかった年末と、すがすがしい気持ちで迎えた新年を、しみじみと思っていると、ふと、去年やり残したことがまだあったのに気づきました。

……そう、このブログを書くことです。

というわけで、執筆が遅れてしまい、すみませんでした。
新年、明けましておめでとうございます。
今年が、みなさんにとって、よい年になりますように。

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11月祭ふりかえり


みなさん、こんにちは。
11月祭の企画責任者を務めておりました、光彩です。

終幕からはや1週間以上が経ってしまいましたが、11月祭レポートをお届けいたします。
とはいいつつも、私はレポートができるほど会場におりませんでしたので、雰囲気だけでもお伝えできればと思います。

会誌頒布について。
ありがたいことに、既刊は3日目、企画本は4日目にすべて売り切れました。
これほど多くの方々に会誌を手にとっていただける機会は、11月祭よりほかにありません。
減っていく在庫の山を見ながら、作り手としてよりよいものを、と身が引き締まる思いがいたしました。
会員たちの力作が詰まった作品集、みなさんの心に響くものがあれば幸いです。

企画コーナーについて。
リレー小説、絵しりとり、俳句創作、お絵かきコーナー、塗り絵にキャラクター創作。さらには、漫画の吹き出しを埋める企画まで。
多くの来場者の方々が、それぞれに力作を残していってくださいました。
最終日には、壁一面をみなさんの作品が埋め尽くし、はがすのがもったいないと感じられるほど。
お越しくださった方々が(あるいは会員たちも)、充実した時間を過ごされていたようで、私としても嬉しく思います。

11月祭の4日間、大きなトラブルもなく、無事に終わりを迎えることができました。
ご来場いただいたすべての方々に、心より感謝申しあげます。
また、私が企画責任者という大任を務めあげることができたのは、ひとえに会員のみなさんのご助力あってこそです。
ほんとうに、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。

それでは、師走のせわしい折、寒さも厳しくなってまいりましたが、どうかみなさんが暖かに過ごされますよう。お読みいただきありがとうございました。


Edit 00:27 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

気になっている言葉⑥

 12月上旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について述べます。
➀ ブタゴリラ
 藤子不二雄を批判したいのではありませんが、そこまでけなしたあだ名をつけなくてもよいでしょう。
② 背中を押す
 最近の歌で濫用されていますが、そんなに背中を押されたら転んでしまいます。
③ 自転車及び原動機付自転車
 あの恐ろしい自転車回収車は、「自転車及び原動機付自転車を放置している場合は京都市により撤去します」と言います。なぜ、わかりやすく「自転車やバイク」と言わないのでしょう。
④ 歴史的に見て中国は…
 史料も見ずに過去の中国を今の中国とつなげるより、漢文を読んだ方が楽しいですよ。
⑤ べとつく
 べたべたという擬態語が動詞化したのか、べとつくという動詞をべとべとという擬態語にしたのか、どちらが先なのでしょう。
⑥ 布団が吹っ飛んだ
 一番実生活で使えないおやじギャグです。使う状況があっても困りますが。
⑦ スマートフォン
 持っている我々はスマートになりましたかね。
⑧ ご飯とおかず
 ご飯の「ご」は取っても意味が通じるのに、おかずの「お」は取ると意味が通じません。一体、おかずという言葉は何からできているのでしょうか。
⑨ 言っちゃ悪いがね
 その言葉が悪いと思っていれば言えないはずです。言っている時点で矛盾しています。
⑩ あらへん、あれへん
 どちらも「~ない」という意味ですが、関西人はどう使い分けているのでしょうか。

 こんなに小さなことにかみつく私はどうかしているのでしょうか。健康そのものですからご安心ください。

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数学談話 ~無限の大きさを掴む~

11月下旬担当のいとらです。

先日、NF企画本にて、『愛の数式』というタイトルで作品を載せました。数学が好きな少年少女の告白を描いたものなのですが、2ページしかなかったこともあり、数学に触れていない人にとっては、あまりに不親切な内容になってしまいました。
そこで、今回このブログという場をお借りしまして、『愛の数式』を読み解くのに必要な数学的事実を解説することにします。
もちろん、ネタバレにならないようにも、ここでは純粋な数学について述べるにとどめますし、『愛の数式』を読まれない方にも楽しんでいただけるようになっております。

構成としましては、一般の方が苦手とするであろう論理式や数学的な言い回しは極力控え、口語的な表現を意識しました。また、具体例を用いるなど、冗長な部分をあえて多く入れることで、数学書のような堅苦しさを減らし、純粋な読み物として楽しめるように心がけました。そのうえで、数学的な厳密さについては尊重しましたので、数学らしさは残せているかと思います。

今回の内容
・集合の濃度
・可算集合と非可算集合
・カントールの定理と対角線論法

※ここでは、自然数は1以上の整数としています。



まず、集合の濃度と呼ばれるものについて説明する。
集合の大きさを比較するとき、有限集合の場合はその要素の数を考えればいいが、無限集合の場合はそのままだと比較できない。そこで、いったん有限集合について考察しよう。
集合の要素の個数が等しいということは、それぞれのすべての要素に一対一対応がつけられるということである。例えば
集合{0,1,2}と{10,100,1000}の間では
(0→10)、(1→100)、(2→1000)と対応付けることができる。
写像の言葉を使えば、集合AとBの要素の個数が等しいことと、AからBへの全単射が存在することは同値であるということだ。

ここで、写像の言葉を整えておく。
写像とは、ある集合Aの任意の要素を写像先の集合Bのある要素へと写すものである。一般的には、関数に近い(同義とする派閥もある)。具体例を挙げると、
A={0,1,2}
B={2,3,4,5}
としたとき、
f:A→Bを
f(0)=3、f(1)=5、f(2)=3
とすれば、fは写像となる。
一方、
f(0)=3、f(1)=5
だけだと、これは写像ではない。なぜならば、Aの要素である2をどこに写すかがわからないからである。

次に、写像fが単射であるとは、写像元の要素が異なれば、写像先の要素も異なる、ということである。
例えば、上の集合、AからBへの写像では、
f(0)=2、f(1)=3、f(2)=5
とすれば、これは単射である。

写像fが全射であるとは、
写像先のどの要素についても、それに写される写像元の要素がある、ということである。
例えば、BからAへの写像では
f(2)=0、f(3)=1、f(4)=1、f(5)=2
とすれば、これは全射となる。

そして、写像fが全単射であるとは、fが全射でありかつ単射であることを言う。
単射、全射、全単射については、wikipediaの『全単射』のページに載っている図を見れば、イメージが付きやすいだろう。

上の集合の要素の個数の話に戻ろう。
A={0,1,2}からB={10,100,1000}への写像fを
f(0)=10、f(1)=100、f(2)=1000
とすると、fは全単射になる。そして実際、このAとBでは、要素の個数は等しい。
一方、A={0,1,2}、B={2,3,4,5}とすると、AからBへの全単射は、どう頑張っても作れない。つまり、AからBへの全単射は存在しないと言える。そして実際、AとBでは要素の個数が違う。
このように、有限集合の場合、要素の個数が等しいことと、全単射が存在することは同値であることが理解できるだろう。
さて、この話を無限集合にも応用しよう。有限集合では、要素の個数と呼んでいたが、無限集合を含めた集合の場合は、「濃度」という用語を用いる。

<定義>
集合AとBの濃度が等しい ⇔ AからBへの全単射が存在する

ここで、AとBの濃度が等しく、BとCの濃度も等しいならば、AとCの濃度も等しい。
なぜならば、AからBへの全単射をf、BからCへの全単射をgとすると、この2つの合成関数であるg◦fはAからCへの全単射となるからである。

具体例を挙げよう。
1.整数全体の集合と、偶数全体の集合は濃度が等しい。
(証明)
f(n)=2nとおけば、これは整数全体から偶数全体への全単射である。

2.自然数全体の集合と、整数全体の集合は濃度が等しい。
(証明)
f(n)={
-n/2        nが偶数の場合
(n-1)/2      nが奇数の場合
}
とすれば、fは自然数全体から整数全体への全単射となる。

ここで、非常に有用な定理を1つ紹介しよう。

<ベルンシュタインの定理>
集合Aと集合Bについて、AからBへの単射が存在し、またBからAへの単射も存在するとき、AからBへの全単射が存在する。

ここでは、この定理の証明はせずに、実際に使っていくことにする。

3.自然数全体と、2つの自然数の組全体(自然数a,bを使って(a,b)と表せるものの集合)は濃度が等しい。
(証明)
f(n)=(n,1)を自然数全体から2つの自然数の組全体への写像とすると、fは単射である。
一方、2つの自然数の組全体から自然数全体への写像gを、g((n,m))=2^n×3^mと定義すると、素因数分解の一意性により、gは単射となる。
よって、ベルンシュタインの定理により、自然数全体から、2つの自然数の組全体への全単射が存在する。

ちなみに、同じ方法で、自然数全体と、n個の自然数の組全体の濃度が等しいことも示せる。

4.自然数全体と正の有理数全体は濃度が等しい。
(証明)
正の有理数は、2つの互いに素な自然数の組(p,q)を用いて一意的に表せるので、正の有理数から、2つの自然数の組全体への単射が存在する。また、3.より、2つの自然数の組全体から自然数全体への単射が存在するので、これらを合成すると、正の有理数から自然数への単射が構成できる。
一方、自然数から有理数への単射は自明に存在する。
よって、ベルンシュタインの定理より、自然数全体から正の有理数への全単射が存在する。

5.自然数全体と有理数全体の濃度は等しい。
(証明)
4.より、自然数全体から正の有理数全体への全単射fが存在する。
また、g(n)=-f(-n)とすれば、gは負の整数全体から負の有理数全体への全単射となる。
整数全体から有理数全体への写像hを
h(n)={
f(n)     n>0の場合
0       n=0の場合
g(n)     n<0の場合
}
とすれば、hは全単射となる。2.より、自然数全体と整数全体の濃度は等しいので、自然数全体と有理数全体は濃度が等しい。

さて、ここまで紹介したすべての集合は、自然数と濃度が等しかった。このように、自然数と濃度が等しい集合のことを、可算無限集合、あるいは単に可算集合と呼ぶ。では、可算集合ではない無限集合はないのだろうか?

実は、冪集合というものを作ると、もとの集合よりも濃度が真に大きい、つまり、冪集合ともとの集合の間には全単射が存在しないことが知られている。ここで、冪集合についても説明しておこう。
集合Aが与えられたとき、Aの冪集合とは、「Aのすべての部分集合を集めた集合」である。慣習的に、Aの冪集合のことをP(A)と表す。
具体例を挙げよう。
A={0,1,2}
とする。このとき、
P(A)={φ,{0},{1},{2},{0,1},{1,2},{2,0},{0,1,2}}
である。
A∈P(A)、φ∈P(A)であることに注意しよう。
この冪集合は、初学者にとっては戸惑いやすいものだろう。というのも、冪集合は、「集合の集合」だからである。しかし、冪集合は集合論の中でも、とても重要な役割を果たしている。その1つが、上にも述べた、冪集合はもとの集合よりも、濃度が真に大きいという性質だ。このことは冪集合の最も重要な性質の1つであり、カントールの定理と呼ばれている。もう一度、定理として書き出しておこう。

<カントールの定理>
任意の集合Aについて、AからP(A)への全射は存在しない。

(証明)
背理法を使って示す。
集合Aから、その冪集合P(A)への全射fが存在すると仮定する。
ここで、Aの部分集合(つまりP(A)の要素でもある)Bを、次のように定義する。
B={a∈A|a∉f(a)}
fはAからP(A)への写像なので、a∈Aに対して、f(a)∈P(A)であるが、言い換えれば、f(a)はAの部分集合であるということである。aはAの要素なので、f(a)がaを要素に持っている場合もあるかもしれないし、持っていない場合もあるかもしれない。そこで、Bをf(a)がaを要素に持っていないようなaを集めた集合と定義してみたわけである。
さて、このようなBを定義すると、fを全射であると仮定したので、f(b)=BとなるようなAの要素bが存在する。そうすると、次のような疑問が浮かぶだろう。すなわち、
Bはbを要素に持つのか? という問いである。
(i)
b∈Bとしてみよう。
Bの定義を思い出すと、x∈Bのとき、x∉f(x)である。当然x=bのときにもこれが成り立つはずである。b∈Bなので、b∉f(b)。
B=f(b)となるようにbを定義したのだから、
b∉Bとなる。
しかし、一番最初にb∈Bとしたはずなのだから、これは矛盾になってしまう。
(ii)
今度は、b∉Bとしてみる。
Bの定義を思い出すと、x∉f(x)のとき、x∈Bである。ここで、f(b)=Bだったのだから、b∉Bを書き換えると、b∉f(b)である。よって、xの部分にbを当てはめると、b∈Bが得られる。
しかし、最初にb∉Bとしたわけだから、やっぱり矛盾してしまう。

(i)、(ii)の結果をまとめると、b∈Bとしても、b∉Bとしても、どちらの場合も矛盾が起きてしまう。つまり、背理法の仮定が誤りだったということなのだから、AからP(A)への全射が存在する、としたことが間違いだったということだ。
よって、AからP(A)への全射は存在しない。当然、AからP(A)への全単射も存在しない!

この証明は、カントールの対角線論法とも呼ばれ、非常に有名である。

さて、この事実を使うと、自然数全体から実数全体への全射が存在しないということが示せる。ここでは、次の三段階に分けて証明しよう。
第一段階:自然数の冪集合から、実数全体への単射を構成する。
第二段階:実数全体から、自然数の冪集合への単射を構成する。
第三段階:自然数から実数への全射が存在しないことを示す。

第一段階
自然数の部分集合Mから、0と1を並べた数列を作ることを考える。
数列{Rn}を
Rn={
0      n∉Mの場合
1      n∈Mの場合
}
と定義する。
例えば、M={2,3,5,6}であれば、
Rn={0,1,1,0,1,1,0,0,……}
となる。また、Mが奇数の自然数を集めた集合の場合、
Rn={1,0,1,0,1,0,1,0,……}
のようになる。
当然、もととなる部分集合Mが異なれば、できる数列{Rn}も異なる。
この数列をもとに実数を構成する。
r=0.1×R1+0.01×R2+0.001×R3+0.0001×R4+……
と定義しよう。
これは、無限小数の第n桁をRnとした実数である。
そうすると、Rnの値は0か1なのでrはきちんと存在し、また数列{Rn}が異なれば、実数rも異なる。
例えば、Mを奇数の自然数全体の集合とすれば、Mから作られる実数rは
r=0.10101010…… =10/99
である。
この方法で自然数の部分集合から実数を作った場合、異なる自然数の部分集合からは異なる実数ができることがわかる。よって、これは自然数の部分集合全体(つまり自然数の冪集合)から実数への単射となる。

第二段階
実数全体から、有理数の部分集合全体(つまり有理数の冪集合)への写像fを
f(r)={q∈Q|q < r}     (Qは有理数全体の集合)
と定義する。つまり、ある実数rに対して、rより小さいすべての有理数を集めた集合をf(r)とするのである。
このとき、実数r,sがr≠sのとき、rとsの間には何らかの有理数が存在する(このことを有理数の稠密性と言う。厳密な証明はしない)ので、f(r)とf(s)は違う集合となる(例えば、r < sとした場合、r < q < sとなるような有理数qを取ってくれば、q∉f(r)、q∈f(s)となる)。
すなわち、このfは実数全体から有理数の冪集合への単射である。
前に見たように、有理数全体の集合は可算集合、つまり、自然数全体への全単射が存在する。そのため、有理数の冪集合から自然数の冪集合への全単射も存在する。
さっき構成した実数全体から有理数の冪集合への単射fと合わせると、実数全体から、自然数の冪集合への単射が構成できる。

第三段階
第一段階と第二段階から、自然数の冪集合から実数全体への単射と、逆に実数全体から自然数の冪集合への単射が存在することがわかったので、ベルンシュタインの定理より、実数全体から自然数の冪集合への全単射が存在する。
さて、自然数全体から自然数の冪集合への全射は存在しないのだった(カントールの定理!)。仮に、自然数全体から実数全体への全射が存在したとすると、今作った実数全体から自然数の冪集合への全単射と組み合わせることで、自然数全体から自然数の冪集合への全射が構成できることになってしまう。これはカントールの定理に矛盾する!
よって、自然数全体から実数全体への全射は存在しない。

ここまでの議論から、実数は、自然数とは対応させられないほど多くあることがわかるだろう。このように、自然数よりも大きい濃度を持つ集合のことを、非可算集合と呼ぶ。直観的には、非可算集合である実数と、可算集合である有理数では、無限の大きさが違うと言える。
ちなみに、数学基礎論において、有理数から実数を構成するときには、この「実数のほうが有理数よりも濃度が大きい」という性質がネックとなる。「実数とは何ですか?」 と聞かれたときに、有限個の有理数を並べただけでは足りない。つまり、無限個の有理数を使わないと、実数を構成できないのである。
一般的な実数の構成方法は大きく分けて2つある。
1つは、有理コーシー列を用いる方法である。これは、「ある実数に収束する有理数の数列全体」を実数とするものだ。その基本的な考え方は今回の第一段階で考えた数列{Rn}に似ている。
もう1つは、デデキント切断を用いる方法である。今回の第二段階で考えたfを使えば、f(r)こそがrを表すデデキント切断である。このデデキント切断の1つ1つを実数と呼ぶことにするのである。
ここではこれ以上のことは述べないが、興味のある方はぜひ調べてみてほしい。

今回のまとめ
集合には濃度と呼ばれる集合の大きさのようなものがある。
自然数、整数、有理数はすべて可算集合であり、濃度が等しい。
冪集合はもとの集合よりも濃度が大きくなる。
実数は自然数の冪集合と濃度が等しく、自然数よりも濃度が大きい。
実数を捉えるためには、無限個の有理数が必要である。

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「ドット絵」への挑戦

11月上旬担当のあしたしです。

後期の講義が始まってあっという間に11月となってしまいました。

後期は講義数が少なく、フリーな時間が結構取れるので、イラストを書く時間をもっと増やせられそうです。

さて、タイトルの 「ドット絵」への挑戦、についてです。

自分のイラストはどこか写実性を求める傾向があり、リアルであればあるほど優れていると考えてしまうことがあります。(というか、プロのイラストレーターを真似しようとするといったほうがいいかも)

しかしリアルであればよいという考えが最近打ち砕かれています。

例えばレトロなゲームなどで使用される「ドット絵」。

イラストレーターの豊井さんは、ドット絵アニメを作っている方で、ネットでこれを見たとき本当に感動しました。(ぜひ見てみてください!)

技術的に言えば、ドット絵は単に解像度の低い、現代では「遅れた」技法だともいえます。

しかし、ドット絵にはドット絵の魅力があります。

まずは、過去にファミコンで使われていたことで(おそらくこれが原因で)、ノスタルジックな作風に仕上げられること。

それから解像度が低いことが逆にうまく作用して、絵の中の道具や人物に想像の余地をあたえること。

特に後者についてですが、最近のイラスト界でよく制作されている3DやCGグラフィック、そして自分が固執していた「リアル」な表現は、何もかもはっきりくっきり表現してしまうという特徴があります。

この特徴はもちろん長所にもなりますが、そもそも現実にないことを描く自分にとっては、見る人に想像力を掻き立てないという点で短所にもなっていました。

そしてこの短所が実は結構大きなものだということにも最近気づき始めています。

こうした理由から、今では「リアル至上主義」を改め直しているところです。

もちろんこれまでの(初心者なりの)自分の作風は維持しつつ、様々な技法を学んでいくことで、さらに表現の幅が広がるのかなあと思います。

余談ですが、ドット絵ってドットを一個一個打っていくので、これまでのイラストの書き方と全然違い、新鮮でとても楽しいです。(ピクセル数を上げればめちゃくちゃ大変な作業ですが)

こんな感じで、短いですが終わります。

Edit 11:46 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

気になっている言葉⑤

 こんにちは、10月下旬担当の葱です。今回も気になる言葉について書きます。
➀ 豚汁
 とんじると読むのか、ぶたじると読むのか、人によってさまざまです。地域的な差なのか、年齢の差なのか、どちらなのでしょう。ちなみに、三重県西部ではぶたじると読み、じるにアクセントがあります。

②ボーっと生きてんじゃねえよ
 チコちゃんよ、先の見えない大学生にそのセリフは傷つくから、やめてくれ。

③超絶
 語源は何でしょうか。何かの省略か、絶対に超をつけただけなのか、気になります。

④我が国
 何か違和感を覚えます。自分が生きていない大和政権や縄文時代の列島を、我が国と言う気にはどうしてもなれません。

⑤刺さる
 琴線に触れるという意味で刺さるという言葉を使う人がいます。例えば、「逃げ恥のあのセリフが刺さった」のように。しかし、昔は刺さる、というのは傷ついたという意味でした。いつから感動した、の意味が加わったのでしょうか。

⑥先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ
 〇戸黄門でしばしば言われるセリフです。まず、副将軍という地位は存在しません。また、あらせられるぞ、よりいらっしゃるぞ、と言う方が自然だと思われます。

⑦理解できない
 理解するつもりもないのに、初めから理解できないを連発してはいけません。私も反省しております。

⑧家庭的
 人によって家庭のイメージは人それぞれですが、家庭的という形容詞はいったい何を意味するのでしょうか。

⑨祝令和
 元号が変わっても、我々が怠けていたら新しい時代などやってきません。変に盛り上がらずに仕事をしましょう。

 こんなに小さなことにかみつく私は、どうかしているのでしょうか。健康そのものですからご安心ください。

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「題を求めて失恋を詠ずるということ」

みなさま、ごきげんよう。10月中旬担当のゆっくりです。今回も、普段おぼろげながら脳裡に彷徨う由無し事を書きつける機会を賜りました。お付き合い下されば幸いです。
取り留めも内容も無い文章ですので、意図していることを【要旨】して冒頭に掲げました。
思量されることはここに尽きていると思います。

【要旨】
 失恋歌を、過去の文学作品を通じて自ら概念化し再構成して詠じてみせる営みは、我々世界史の根底に流れる普遍的な感情に接触し、その歴史的連関の中に自己を揺蕩わせる営為である。迸る激情は、その中で理性と融和し、調和され、慰撫される。

1、はじめに
 少年時代、私が短詩型文学に仄かに憧れを抱いたのは、何故だろうか。それは、決して感情の発露を留めるだとか、誰かに想いを伝達する…といったものではなかった。
 『伊勢物語』の在原業平や、『源氏物語』の光源氏(実を言うとその息夕霧をより好んでいたのだが)のような、あるいは、騎士道物語の中の中世騎士、あるいは中国の士大夫…あのような世界への憧憬によるものだったのかも知れない。いわゆる芸術用語で言うところのミメーシスというやつで、私の作る俳句なり短歌には、大抵の場合、その背後には宇治川や、カンタベリー大聖堂の香りが燻っていた。
 学部、大学院と、幾つかの文学的なサークルを渡り歩いてきたが、あまり馴染めなかった。科学としての実証文学の洗礼を本格的な文学経験に先行して受けてしまったからであろうと推察できよう。なればこそ、訓詁の道を直走る…理性に固まってしまった私の文学経験の中で、本サークル共同体が紡ぐ短歌や、詩、小説などに巡り合えたことは、私がもう一度、創作主体の土俵に導かれる契機となった。我々によくよく諒解されるように、作品の等身大の作者を日常に知る時、作者が死ぬことはない。なんとなれば、解釈性を問題とした場合、表現と理解の場がそれなりになだらかであれば、表現内容に潜む言葉の意図が、主体の過程中に関与しているからである。それは、もしかすると文体論への入り口かもしれない。いつぶりだろう、感情を短歌に乗せる…といった営為に私を引き戻すには十分なエネルギーを産んだように思う。ご交誼に改めて感謝申し上げたい。

2、ハウ・ツー失恋歌
 枕が長くなってしまった。さて、本稿に与えられた課題は、失恋歌の私的ハウ・ツーに関して何をかをものすことである。要するに、感情の発露を、題(枠)に載せる試みに、如上両者は統合される。
 我々の詠物詠賦の創作動機として、以下の二点を挙げることが出来る。
①感銘的な景物について、その感動を文字の内に封ずる営み。
②劇的に内に湧いてくる感情を、言葉や文字にして外へと出す営み。
今回、話題となるのは②である。
自らに劇的に湧いてくる感情、試みに、失恋を例に取ろう。大抵の場合、失恋の病は複合的で、感受性は限界まで高まる。何を知覚しても、内なるカウンターと反応せざるを得ない。そして、その反応は激烈な苦痛を副産物とする。
この、エネルギーを、創作へと昇華させようというのが、今回の題目である。
その、過程について、以下に卑見を弄する。
(イ)好きな文学主体に成りきる。これは、平安貴族でも、共和政ローマの政治家でも、アラビアンナイトの夢と魔法のファンタジー、中世騎士でもよろしい。個人的に、近代以降にはロマンを(あまり)感じないので、中世までくらいが穏当だろう
(ロ)図書館に行って、その人の著作を渉猟する。「これだ!私の思っていることは!」と思ったら、キレイにB6カードに取る。まだ見ぬ芸術作品の構成要素を製作するつもりで。たおやかに。
(ハ)そこで、その作品の底に流れる感情に触れる。これこそ、悠久の歴史の中で今の自分の琴線に触れる「言葉」なのだ。形式を異にすれど、脈々と流れて来たもの。それは、個別具体の形をしていても、その心に抱いた感情と反応して、我々の前に姿を現す。それを知るための、博捜なのだった。
(ニ)ここからは、もう正直に詠ずるだけなのだが、せっかくなので、全く同じテーマにせず、少しオマージュしてみる。要するに、取っ掛かり、横溢する感情の入れ物を用意してみるのである。
(ホ)データベースなどで、その取っ掛かり周辺の語彙を調べてみる。何やら、今度は実体レベルで琴線に触れる歌がある…
ここまで決まってしまえば、他の言葉は好きなように詠めばいい。
何が大事かというと、語の意味作用を用いて、論理的に世界を眼前に再構成してみせることなのだ。この時、解体される分脈とそうでない分脈が弁別されれば、しめたものだ。それらの架け橋を発明することが眼目であると言い換えてもよいからである。

3、むすびにかえて
この行為の薬効は、ほとばしる感情を、一度、理性と融和させることが出来る点に存する。
一度お気に入りの人物の気持ちを自分で追体験し、名だたる英雄が、「なぁ、(貴方の名前である!)、貴方ねぇ、それはね、生きてる限り、みんなそうなんだヨ。」と語りかけて来る。それをもう一度、ほどく段階。感情を、言葉で発言させようとする段階において、フリードリヒ・シラーの『人間の美的教育について』の言を借りれば、感性衝動と理性衝動との融和が果たされ、調和の取れた《遊戯》に至る…ということだろう。この時人間は、完全で(ギリシャの神々のような)自由な存在となるのだという。
 時枝誠記氏的に重ねて言えば、以下の言辞を借りることで足れりと為せよう。
  概念化と云ふことは、一切の事實を客観化することであって、たとへ自己の感情情緒をも、この過程によって客観化され對象化される。従つて、「悲し」と云ふ語は、自己の切實な悲哀感情を表し得ることは勿論、自己の過去の經験即ち表象的な悲哀感も、又他人の悲哀感をも概念化することによって表出し得る。
                                                  (時枝誠記『言語本質論』岩波書店1983年)
この通時的な、営み、「この生は普遍に向けての陶冶過程である」などという新人文主義的な――なればこそ彼らはギリシャ・ローマへの回顧に腐心したのかもしれない――歴史的連関の中に身をたゆたわせた時、中世ロマンス騎士道や、『源氏物語』の登場人物は、次にどのような人に出会うのだろう。己が作品に込められた、誠実さ、崇高さ、高潔さを言祝ぐべき対象を配置する神の意図――と、差し当たり言っておく――は、先に我々が感じた感情の原型と、同じ位相に存する気がしないでもない。
 
 以上である。しょうもない妄想を垂れ流すことをお許しいただいた(お許しいただいていないかも知れない)各位に、そして、これまた妄言にお付き合いいただきましたあなたに!篤く御礼を申し上げます。
 秋冷の砌、何卒お身体をお労り下さいますよう。それでは、恐々謹言。

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神絵師の利き腕を食べたい

お久しぶりです、のぼるです。
担当じゃないですけど台風で暇なので書きます。


インターネットでは神絵師の利き腕食べるという表現がありまして(あるのか?)、
まあ腕食ったら絵が上手くなるやろみたいな意味ですよね。

しかし現実では神絵師の利き腕は手に入りづらい代物であり、
食べて本当に上手くなったという報告もほぼ見つからず、
デマじゃないかと言われています。


そこでこのブログでは、
神絵師の腕を食べずとも絵が上手くなる方法について書いていきたいと思います。



練習、です。




さっきの前置きいる?

まー、このサークルに入って上達したいという気持ちだけはずっとあって、
どうすれば絵が上手くなるのかを考えてたわけですね。

実際私の絵の上手さをどう評価するかはお任せしますが、(当然自分では下手と思ってます)
一回生の頃よりは上手くなっているので、
どういうことをしていたのかを語ろうと思います。



1 これまでやってきたこと

一~三回生の頃はとりあえず量が足りないと思ってなるべく毎回会誌に作品を出していました。
模写や、ネットに書いてあった練習法を試したりしましたがイマイチ効果が見えず、というか、続きませんでした。
もしあのまま続けることができれば上手くなっていたかもしれませんが、やる気の出ないものはやれないので無意味な議論です。

当初からたくさん描け!と言われてたのもあり、本番こそが練習!みたいなノリで色々描いた気がします。
思うに、筋トレするのにまず最低限の体力いるよね、的なものなのである程度までは好きにたくさん描くのが良いんでしょう。
あと、下手でも完成させろ!とも言われており、これら2つはかなり重要なアドバイスでした。

四回生くらいから真面目に模写したような気がします。
去年は手足が描けないと思ったので、とある漫画作品に出てくる手や足を模写していきました。
長続きはしませんでしたが、一話から数話で出てきたすべての手足のカット(数百?)を模写しました。
漫画はそこそこランダムな角度やポーズの身体の絵が出ており、しかもいくつか似たパターンもあるので、
自分の絵にもすぐに使いやすい良い資料だと思います。

そして今年は、絵柄の調整と身体全体、漫画のコマ割などを練習したかったので、
また別の漫画作品を模写しました、4~5ヶ月は続いてたと思います。
ここ1ヶ月はposemaniacsというサイトで、ランダムなポーズを素早く描く練習と、
ポーズや角度の引き出しを増やすことを意識して練習しています。

と、ここまで長々と語ってしまいましたが、
とにかく重要なことは、

自分が何の目的で(何を上達したくて)練習するかを明確にして描くべきということです。

それがない内はやみくもに量を描いて、何ができて何ができないのかをある程度はっきりさせるまで頑張ろうということです。
↑これが一番たいへんじゃね?と思いますが…


2 練習サイトや参考書について

大学受験時もよくこの手の質問がありましたが、好きにすればいいと思います。
ただ、サイトを見つけたり本を買って満足、というパターンを自分を含めたくさん見てきたのでご注意。
サイトに関しては上で書いた、posemaniacsのランダムポーズ、30秒ドローイングなどを利用します。
本は好きなイラストレーターさんの塗りの本を持っています。

何を練習したいか意識してから見つければ良いと思います。
最近はツイッターやピクシブでも山程ありますし。

個人的には、極論世の中で流行ってるもの存在するものが良い教科書と思っているので、
線画は例えば漫画を模写すれば良いし、塗りも人気ある誰かを真似すれば良いと思います。


3 まとめ

まとめるほど何かを語ってませんが、疲れたので〆です。
本当は3,4もあったけど

神絵師の腕は市場では手に入らない!

何を真似するか意識して練習しよう!

なるべく完成作品をたくさん出そう!

のぼるはポーマニと漫画の模写が最強の練習と思ってる!


以上です、グダッとここらで終わります。やる気と要望があれば続き書くかもです。

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ブログとは…

どうも、xyzw、あるいは九尾谷夫(くおたにお)と呼ばれている者です。物性物理学と呼ばれる分野で研究活動に勤しむかたわら、趣味で小説を書いています。
これまでずっと一人で書き続けてきたので、こうしてサークルに入って創作の苦楽を知る仲間と交流できるのは望外の喜びです。とりわけ夜を徹して行われる合評会においては、毎回きわめて専門的かつ高度な話題による白熱した議論が繰り広げられており、傍で聞いているだけでもたいへん勉強になることが多く、創作の励みになっています。
〆切に追われるというのも初めてのことで、ヒイヒイ言いながら作品を書き上げるのもなかなか新鮮な体験でした。これからは原稿を落とすことなくコンスタントに投稿していければと思います。
ところで、ブログを書くなんて初めてのことなので、これ以上何を書いてよいか思いつかず、埋め草に拙いながら小話を書かせていただきました。感想をいただけると(正直怖くもありますが)ありがたいです。
※元ネタはネットで拾った論文です。(http://www.sist.ac.jp/~shinba/quantumsuicide.pdf)



題:写身
 発明家のY博士は、長年の苦心の末に、これまで不可能とされていた空間転移装置の開発に成功した。
 それは人ひとりがすっぽり入る大きさの筒状の装置で、二機で一組になっていた。一方の装置の中に入ってスイッチを押すと、亜光速でもう一方の装置へと移動できるのだという。
 Y博士によれば、理論上どれほど空間的に離れた場所であっても、二つの装置の間を行き来することが可能であるらしかった。
「これさえあれば、車も、船も、飛行機も必要ありません。転移装置のある場所なら、世界中どこへでも一瞬で行くことができるのです。この発明によって、化石燃料の枯渇や道路の渋滞、そして交通事故といった、現代社会が抱える難題は一気に解決することでしょう」
 詰めかけた報道陣によるカメラのフラッシュを浴びながら、Y博士は画面越しの聴衆に向けて自信に満ちた表情で語る。
「では、本日お集まりの皆さまに、人類の歴史における記念すべき瞬間をお見せしましょう」
 そう高らかに告げると、Y博士は空間転移のデモンストレーションのために、自ら発明した装置の中に入っていく。会場にある装置と対になる装置は、その場から200キロメートル離れた場所に、衆人環視のもと設置されていた。
 舞台に設置された大画面のモニターには、先ほどからその対となる装置の様子が中継されている。装置の中に誰も入っていないことは、すでに公証人のもとで確認が行われていた。これから起きることが、単なるマジックでないことを証明するためだ。
 ふたたび大量のフラッシュが焚かれ、真っ白な光の中に装置の中に乗り込む博士の輪郭がくっきりと浮かびあがる。その顔には、この発明のために費やしてきた膨大な労苦の跡がありありと刻み込まれていた。
 やがて控えていたアシスタントによって装置の蓋が閉じられ、博士の姿が見えなくなると、会場のざわめきがいっそう大きくなった。しばらくして、中にいる博士の声が無線を通じて会場にこだまする。
「今からカウントダウンを始めます」
 会場中の、そして画面越しに見守る世界中の人々が装置に注目する。そして、
「5,4,3,2,1──スイッチオン」
 博士の掛け声とともに、バン、とすさまじい破裂音が鳴り響く。直後、ぶしゅうううう、と装置の脇から大量の蒸気が排出された。もうもうと立ちのぼる白煙が、天井の空調機に吸い込まれていった。
 そうして一連の動作を終えた装置は、そのまま死んだように沈黙してしまう。そこから何の変化も起きず、会場は水を打ったようにしんと静まり返った。
 すわ失敗か──観客席の最前列に座る博士のパトロンたちの間に緊張が走る。
 だが、次の瞬間、
「やあやあ、どうです。見事に転移できたでしょう」
 朗々たる声が響き渡る。もう一方の装置の映像に、蓋を開けて出てきたのは、先ほどと寸分違わぬY博士の姿だった。
 一転して、会場は驚きと歓喜にわっと沸き上がる。仰々しい礼服を着たパトロンたちも、この時ばかりはみな子供のように破顔して、お互いに手を握り合っていた。

 こうして、デモンストレーションは見事な成功を収めた。
 これからはまったく新しい、すばらしい時代がやって来るにちがいない。科学の力が引き起こした奇跡を目の当たりにした誰もが、そんな確信を胸に抱き始めていた。

                     ■

「やれやれ……どうにか無事に終えることができたよ」
 延々と続いた記者会見と懇親会の後、誰もいなくなった会場で、Y博士は装置の中に残ったわずかな塵を拾い集めていた。
「やはり、レーザー光の強度が足りないようだ。まだまだ改良の余地があるな」
 そんなことをぶつぶつと呟きながら、博士は黙々と塵を集めていく。そして、用意しておいた小さな紙封筒にそれを入れていった。
「こんなものが残ることが知られてしまえば、みな安心して転移装置を使うことができないからね」
 装置の中を掃除し終えると、博士はふうと息をつく。そして会場の外へと向かい、人目につかない会場の裏手で、懐からオイルライターを取り出した。
「これからは私の番だ。きみはゆっくりと休むがいい」
 そう言って、集め終えた塵の入った袋を跡形もなく燃やしてしまうと、Y博士はそのまま夜の闇へと消えてゆくのだった。
(了)

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合宿振り返り

こんにちは、いろりです。半月前のことですが合宿を振り返ろうと思います。マジでただの駄文です。
初日
確か遅刻者なしでした。
電車に乗って、乗り継いで、バスに乗って出石。そばを食べました。小皿にそばが少量のせられていて、各自食べる分だけ小皿を頼むという感じでした。そば屋の雰囲気もよさげで店の前には鯉が泳いでいました。なんやかんやとしていると城崎温泉行きのバスがやって来る時間に。
そば屋しか行ってないんだが?
日程くんだの誰だよマジで・・・・・・そばはうまかったが、出石に寄る必要はあったのだろうか・・・・・・バス代も安くないのに・・・・・・まあ決めたのは僕なんですが。
ちょこっと残った時間でそのあたりをふらりとしました。小京都でした。高校生がワークショップしてましたね。高校生のもてなしてくれるワークショップに行く機会はあまりないので、時間があれば行ってみたいなと思いました。あ、もちろん取材的な意味で。JKと喋りたかったわけではありません、とか書くとJKと喋りたかったことになってしまうので、書きません。書きましたけど。
で、城崎到着。
さっそく宿へ。良いところでした。それからはみなさん温泉巡りしたり、部屋に残ったり。温泉はすごいところなのかと思っていたのですが意外と普通でした。けっこう普通の大衆浴場。
で、夕飯。
おしゃれなお店で食べました。ロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシア口ツマロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアロシアの話は面白かったです。ロシアの歴史を調べてみようかなと思いました。たぶんちゃんと調べます。あ、別にラリった訳でも当てつけとかでもないです。ロシア。一つだけ口ツマ(くちつま)が混ざっています。
その後、宿へぞろぞろと帰るのですが、カラカラカラカラと下駄を鳴らす浴衣の人間がたくさんいました。温泉街だなぁ。ロシア。温泉街をテーマにして何か一本書きたくなりましたね。たぶんちゃんと書きます。
その後、批評会、であってますかね。批評会をしました。
翌朝、朝食です。和食でした。ロシア。
それからチェックアウトしてふらふら。
マリンワールドへ。
ペンギンとかアシカとかいました。カツオアイス、でしたっけ? マグロアイスかも。まあそういう名物があったらしいんですけど食べ損ねました。食べたかったです。
城崎へ帰って、電車に乗って京都へ!
お疲れ様でした。解散。
楽しかったです。来年も参加したいなぁとおもいましたまる
ロシア

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気になっている言葉 ④

 9月下旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

➀この紋所が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。先の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ、頭が高い、控えおろう。
 「〇戸黄門」で毎回のように言われるセリフです。「この紋所が目に入らぬか」と言って、権力の象徴である徳川の紋を振りかざして人を土下座させるのは高圧的にもほどがあります。しかも、「頭が高い、控えおろう」と急に言われて、誰もそれに文句を言わないのは奇妙です。

②姉妹○○
姉妹都市、姉妹版など、セットになったものを表す際には、姉妹○○と言います。セットになっているのを表すならば、兄弟○○でもいいはずなのに、なぜ兄弟○○とは言わないのでしょうか。

③負けたら死んだも同然
 あるスポーツ選手が、インタビューで「負けたら死んだも同然です。」と言っていました。その人が試合に全力で打ち込んでいることを言いたいのはわかるのですが、死ぬということがいかに重いことかを考えると、いささか不適切に思われます。

④~でよかった説ある
 言葉はなるべく簡潔に言う必要がありますから、「~でよかっただろう」とはっきり言う方がいいでしょう。

⑤コスプレ
costume playは時代劇の意味であるのに、なぜ日本語では仮装の意味になったのでしょうか。

⑥嫌いな芸能人ランキング
 週刊誌がたまにやっていますが、そんな非生産的なものよりも明るい話をしましょう。

⑦○○は性格が悪い
 テレビやTwitterでのちょっとした発言や、真偽の不明な週刊誌記事から判断して、ある芸能人の性格が悪いと言う人がいます。しかし、その芸能人とは多くの場合接触しないのですから、視聴者がわざわざ芸能人の性格を論じる必要はないでしょう。そのようなことを考えずに歌や演技を見ていた方が楽しいはずです。

⑧大正デモクラシー
 植民地支配をしながら培われた民主主義は民主主義と言えるのでしょうか。

⑨おいおいと泣く
 本当においおいと言いながら泣いている人を見たことがありません。おいおいは、何を表しているのでしょうか。

⑩バイト、パート
バイトはドイツ語、パートは英語のpart time workerです。カタカナ語になった際に、両者にはどういう違いがあるのでしょうか。

こんなにいろいろな言葉にかみつく私はどうかしているのでしょうか、病んではいないのでご安心ください。

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「慰霊や鎮魂を営むということに関する雑感」

ごきげんよう。8月中旬担当のゆっくりと申します。今回は、最近ちょっとだけ思ってみたことを、文章にしてみました。読み辛かろうとは存じますが、お許しください。ではでは、お付き合い下されば幸いです☆

本邦に生を享けて、この時期ほど、《一般的な》「慰霊」とか、「鎮魂」とか、そのような事を意識せざるを得ない時期も中々になかろう。テレビニュースなどの媒体では、我々はかかる営みの殆どを眼前にすることができる。その中で、短歌、俳句を含む文学営為をもまま目にする。
ところで、このようなムードや営みは、何も現代に生きる我々の専売特許であった訳でもない。当然だが、武力を用いた闘争は、死者を伴う。これは、神武東征、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の内乱、南北朝の動乱などを例に挙げるまでもなく、あらゆる武力衝突の最中には死者が生じ、その時々の信仰の形式と様式に従ってその魂が鎮められてきたのである。

ここで、筆者が長年疑問としていたある定式がある。それは、《文学=鎮魂》と呼ばれる定式である。元々、民俗学や宗教史において語られていた人々の信仰の發露としての様式は、なんだか社会科学の定式のような――そう、非常に高度に学問的に純化された――香りさえする。言うまでもなく、様式はそれまでの営みから掬いあげられるものに過ぎない。このような疑問を持ちつつ――疑問、というより、この高度な定式のあまりの純度の高さに、行為主体としての自覚がどこか《ふわふわ》としていて――茫漠と過ごしていたのだが、ここ最近、佐伯真一氏のご論考[1]を拝読するにつけ、つらつらと雑考を胸中に膿むに至りて、恥ずかしげもなく開陳するものである。

佐伯氏に、『平家物語』を題材として、生者が死者を鎮魂・慰霊する[2]ことに関する考察がある。各論についてはご紹介する能力がないのは全く無念なことであるが、すなわち、生者から死者に向けられる言葉は、一様に怨霊を讃えるばかりでなく、説得、威圧などの様々な作用を持つ。という説である。
また、兵藤裕己氏の以下のようなご論考[3]も、大変魅力的である。すなわち、霊は《ヨリマシ》=語り手に憑依し、《モノ語り》をさせる。という所論である。俳句や短歌において、作中主体が死者である場合には、この類型が該当しよう。
『平家物語』の時代には、神道、儒教、仏教、道教などが混淆の様を呈しているのは明らかであろう。

十把一絡げに慰霊や鎮魂といっても、様々な様式や形式が、800年前から人々の信仰に在ったということが確認できればよい。『平家物語』に関する論考を選んだ行論上の必然性はない。ただ単に、筆者の専攻に近かった。それだけである。
かかる諸論を念頭に、我々はどのように我々の慰霊を自覚して行為すればよいのだろう。重要なことは、曖昧模糊とした手続きを一個包装とせずに、自らのどのような営みが、霊や個人へのどのような想いや祈りと、どのような様式や形式において連関し、どのように遂行可能なのか…について、《割と》真剣に考えてみることであろう。

信仰や想いと、様式や形式と…どちらが先行するかと問われると、「相互補完」…という、これまた逃げの一手を打つしかない。ただし、緩やかに相互規定をしているのだから、信仰と理性的手続きとは、互いに規定し、荘厳し合う。
叙上の様な想い遣りを踏まえて、今季も私は招魂復魄に従事し、先祖のお寺に参る。「礼と云い、礼と云う。玉帛を云わんや」(『論語』陽貨篇)ではないが、血の通った儀礼を営まなければならない。なにより、都会生活でボロボロになった自己規定のために。そう、これらの営みも、結局は現世と常世の関係から語られることを逃れられない。そして、私の未熟な精神は、前者を重視する。現在の私のお盆の形態など、頽廃しきったものである。だからこそ、自己規定なりの儀礼を全うすることで、自己規定は達成されねばならない…[4]

以上、愚にもつかない雑感を述べてしまった。「『平家物語』と、お前のしょーもない考えと、必然性を寄越せ!」と問われると、申し訳の仕様もない。
ただ、自らが行っている様々な宗教的行為をもう一度分析してみると、その多様さと雑駁さ、無秩序さとに驚かされる。『平家物語』の時代の人々も、きっと、多様な信仰を持っていたのだ。更に言い訳をすると、本稿は元々、中世人の鎮魂・慰霊に現代人が如何に寄り添うか、そのパラレルさにシンクロしたいという欲求の、遠く昔からの《応答》を、21世紀にどのように現出せしめるか、であったのだが、水は低きに流れ、素より能力も何もなく。あまり人の悪口〈あっこう〉も書きたくないし…
800~900年前の人々の想いに寄り添うには、理性(お勉強)が足りませぬ[5]。向後の課題と致しとうございまする。
末筆となりましたが、拙文掲載の機会をお与え下さった関係各位に、そしてお付き合いくださった皆様に、篤く御礼を申し上げます。
それでは、猛暑の砌、お身体をお労り下さいませ。恐々謹言。

[1]佐伯真一氏「『平家物語』と鎮魂」(鈴木彰氏・三澤裕子氏編『いくさと物語の中世』汲古書院2015年に所収)
[2]「鎮魂」や「慰霊」の語義は時代によって推移するという点に関しては、坂本要氏「「鎮魂」語の近代――「鎮魂」語疑義考 その1――」(『比較民俗研究』第25号、2011年)を参照。いかなる言葉も、そのフレームから逃れ得るものではないが、本稿では「生者が死者に対して祈る種々の営み。」という程の意味で用いる。
[3]兵藤裕己氏『平家物語の読み方』筑摩書房2011年(初版は『平家物語〈語り〉のテクスト』筑摩書房1998年)
[4]「葬送・追善を行うことが権力継承を示す〈政治〉たることはいつの時代も同じである。」(上島享氏「法勝寺創建の歴史的意義」(『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会2010年、初出は2006年、492頁)を読んだ時、身体を貫いた感動をまだ覚えている。
[5]いうまでもなく、文学は文化諸階層の精華であり、それら集中的反映と凝縮である。世阿弥を論ずるまでもなく、理性が大部分を占めるのは全く当然のことであって、「事物を言祝ぐ力を既に失っているのではないか」と思わせるような営為とそれらを珍重する風潮には、差し当たり抗っておきたい。

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気になっている言葉 ③

 8月上旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。

➀教務
 先生方や学生が「教務に出しておいてください」、「教務にレポート出しに行かねば」などと言うと、なぜ「さん」をつけないのか気になります。学生のみならず先生よりも年上の教務さんもいらっしゃるのに、役職名で呼び捨てにしては失礼でしょう。

②コミュ障
 初めての人とうまくなじめない、うまく話せない、面接で焦って話せないなどを、こう言います。実際に、「コミュニケーション障害」という障害があるかは存じませんが、障害者の苦労も知らずに、手軽に障害を僭称するのは失礼ではありませんか。

③ますらおぶりは男性的で素朴で力強いさまを表す言葉
 ますらおぶりが男性的なさまを表すのはいいとして、なぜ男性的と素朴と力強いが結びつくのでしょうか。例えば、女性でも素朴な人、力強い人も多いです。また、男性でも優美な人やか弱い人も多いです。なぜ男性的、素朴、力強いという一連の形容を我々はセットで考えるのでしょうか。

④wifi難民
 今回はこの奇怪な言葉の起源を考えます。
 2008年頃、住居がなくネットカフェを転々とする貧しい人を意味する「ネットカフェ難民」という言葉が出ました。これが国内ニュースで「難民」と言う言葉が使われるようになった起源かもしれません。
 そして、2011年の東日本大震災のときに、電車が止まって帰れない「帰宅困難者」という言葉が出て、略して「帰宅難民」と言われるようになりました。その後の経緯は知りませんが、それ以降「難民」が濫用されて、今や「○○難民」は「○○がなくて困る人」という意味になりました。そのうちの一つが、wifi難民です。まとめると、「ネットカフェ難民」で使われ始めた難民の語が、「困難者、困難民」の略に使われたのではないかという仮説です。論証ができていないので、詳しい方は教えてください。

⑤変人は誉め言葉です
 「変人」と言われれば誰もが傷つきます。確かに、一部では変人を「破天荒な人生を送った成功者」、「周りに流されず己の信じる研究をやり続けた人」の意味で用います。また、「変人がノーベル賞を取りやすい」という受賞者にはなはだ失礼な言葉もあります。しかし変人の本来の意味は、奇妙なことをする、あるいはそれをやめられない人のことです。奇妙な行動をやめられない人は、激しく悩んで変人と言われることを恥じますから、周りで変人という言葉を濫用されたらつらいでしょう。変人は誉め言葉、という言葉を聞くと、私はむしずが走ります。

 些細な言葉にかみつく私はどうかしているのでしょうか。病んではいませんからご安心ください。

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こんにちは、はじめまして。7月下旬担当、名称未定1回生の桄太です。

ちなみにHNは“こうた”とよみます。
もちろん常用漢字ではなく、さらにPC・スマホの変換でも出てこない漢字でして…自分でも打ち込む面倒さを感じつつ、他会員さんのお手を煩わせてしまうことに申し訳なさでいっぱいです。
面倒でしたら「木光」で十分ですので…ってここでする話じゃないかもですね。


それではタイトルの話に。

早いことにもう7月末ということですが、みなさんは、夏、感じてますか?

暑いし、クーラーは大活躍だし、蚊も飛んで、台風も来て、個人的には祭りにも行きました。
「夏」要素はなかなか揃っているようです。なにしろ7月ですからね。

しかし、ここで問題が。

私のココロはまだ、「夏」を認識できていないんですよ!!!
大問題です!!

なんせ私は生粋の夏生まれ、「夏」の概念が猛烈に好きな人間なんですよね。「夏」を毎年楽しみに生きているわけです。
それがぼんやりと7月に突入、課題やテストに追われ今に至るまで「夏」の実感を得られず…。「夏」の判定が出ないことにも、「夏」だと思えないまま大好きな7月を過ごしてしまうことにも悲しみが募ります。

基本的には、「夏」には実感があります。みなさんはいかがでしょう?
「あぁ夏だ、夏が来た、私は夏の中にいる!」と感じる瞬間が夏の初めにはありませんかね?けっして自然界にはない、自分の中での季節の断絶と転換の瞬間です。いうなればパラダイムシフトとは大げさでしょうか。

その瞬間を得られていない私は、どうしても「夏、まだかなぁ」と思ってしまいます。その度に頭に浮かぶのはカレンダー。
「7月下旬は夏じゃないのか…?」と冷静な私が呟きます。なんともむず痒くって、この記事を書いている次第です。

果たして私に「夏」は来るのでしょうか。個人的には夏休みに入ればなんとかなると信じているんですが…。
夏を感じるためのいい方法があれば、ぜひ教えていただきたいところです。

(夏っぽい話の1本や夏っぽい絵でもかけばいいんでしょうかね、名称未定会員らしく…)


それでは短いながら今回はこのあたりに。テスト勉強に戻ります笑 桄太でした。

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ポカポカ温まりたい...温まりたくない?

どうも、7月中旬担当、新1回生にして名称未定のケモナー枠(自称)の、だいぽん!と申します。普段呼ぶ時は「!」は付けなくても構いませんので「だいぽん」と気軽にお呼び頂ければ反応します。

さあさあ、今年も暑い夏がやってきましたね。京都の夏は特にヤバイと聞いていましたが、7月中旬でもう死にそうです。大丈夫か?
そんな暑い中では冷房が必須となって参ります。しかしそんな中、こう思ったことはありませんか?

「冷房ガンガンかけて布団にくるまって寝たい!」

このような声をツイッターでたまに見かけます(実際に「冷房 布団」などとツイッターで検索するとかなりヒットしますよ)。
なぜだ?わざわざ冷房をきつめにかけなくても、素っ裸(ないし下着だけ)で寝たほうが電力の消費も抑えられるのでは?しかし、そう単純な話では無いと思います。

先述のこの電力の過剰使用のような行為は、「布団にくるまる」こと自体が目的なのでしょう。僕が思うに、人間というのは、何かに包み込まれて温まりたい生き物なのです。

人間は哺乳類ですが、他のほとんどの哺乳類と比べて圧倒的に持っていないものがあります。

「毛」です。

犬を見てください。猫を見てください。豚も牛も、イルカも...あっ...コイツは例外だったわ。そう、皆、毛で体を覆われています。だいぽんがケモノに魅力を感じる所以の1つでもあります。一方人間はどうだ?いくら毛深い人でも、チワワより毛深い人はまずいないでしょう。知らんけど。
人間は、毛をあまり持っていない代わりに、持ち前の頭の良さで服を発明しました。そう。僕たちはもう既に、「服」というものに包み込まれているのです。街中を歩いていても、全裸で歩いている人はいないじゃないですか(まあこれは、法律的に全裸で歩いたら捕まるというのもあるけど)。

ですから、何かに包み込まれて温まりたい、という感性は、もはや人間が先天的に持っているものと言っても過言ではないでしょう。

今年の合宿は城崎。やっぱり温泉ですよね。春夏秋冬楽しめるのが温泉。暑い夏ですが、ポカポカ温まってみるのはいかがでしょうか。


こんな支離滅裂な妄想ですが、読んでくれてありがとうございました。次回のブログ担当は8月下旬なので、その時は北海道の合宿(気球サークル)での出来事について語る事になりそうです。ではでは。

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高校時代のノスタルジー

6月下旬担当のいとらです。私の中ではまだ6月。もう大学に入って3ヵ月になろうとしています。時間が流れるのは早いなと、最近よく感じるのです。

先日、母親が私の母校のパンフレットの写真を送ってきました。「京都大学合格!」みたいな感じで、私のインタビューが載っているんですよ。結構恥ずかしかったです。あの時の私はなんでこんなことを言ってしまってるんだろう、みたいな、もどかしい気持ちになるわけです。

まあそれは置いといて。そのパンフレットにある少女の写真も載っていたんです。その子もまた有名な私立大学に進学していて、私と同じようにインタビューを受けていたみたいです。その子がその大学に進学したことを初めて知りましたね。へえ、と結構驚きました。

私の母校は中高一貫校なんですが、その子と私は中学・高校の6年間で一度も同じクラスになったことはなかったんです。だからそんなに多く話をしたわけでもないんですけど、そのパンフレットを見て私はなぜか懐かしさのような気持ちが込み上げてきたんです。あの優しさ、あの笑顔。思い出すたびに、胸が締め付けられて痛くてたまらない。

無性にその子と話したくなって、高校時代の友人でその子の連絡先を持っている人にお願いしました。その人と話す中でもますます高校時代を思い出して、ノスタルジーに襲われました。今はあの子からの連絡待ちです。

こっちに引っ越してきて新しい人間関係もできて、充実した生活を送っていると思っていたんですけど、やっぱり6年間も過ごした学校のことは心に染みついていたんだな、と身をもって感じました。あの日々が今の自分の一部を作っていることを想いながら、これからの大学生活を楽しんでいきたいものです。

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忍び寄る期末テスト

7月上旬担当のあしたしです。主にイラスト作成を行っていきます。よろしくお願いします。

先日、内部誌をいただいたのですが、自分の作品がしっかりと乗っていて少し感動した記憶があります。編集に携わった方ありがとうございます。

夏休みまであと1か月を切り、レポートや期末試験などの準備でいよいよ忙しくなってきましたね。自分もそろそろ準備しなければ…と思っているのですが、最近あることにはまってしまって、なかなかスタートできずにいます。

はまっているものというのは、動画制作と動画の編集です。いままでYouTubeなどでいろいろ動画を見ていたのですが、大学生になって突然「自分も制作側に回ってみたい」という謎の衝動にかられました。

それで実際にやってみると、かなり時間はかかりますが、うまくいき、すっかりはまってしまいました。一つのことに集中して周りが見えなくなる性格も相まって、睡眠時間もズンズンと減ってきています。

イラストの制作にも時間を回さないといけないので、時間配分と健康に気を付けないと…とつくづく感じます。

イラストといえば、ほかにもイラストの制作をしている方いらっしゃいますが、皆さんすごいレベル高くてびっくりしました。特に服のしわとか、髪の陰とか上手だなーと思いました。どうやったらうまく表現できるんでしょうか。ぜひ教えてほしいです。

以上、目的もなく自己紹介風につづってみました。では次の方にバトンタッチします。

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創作意欲の話

初めまして、たぶん6月中旬の担当だと思う1回生の春雨つくしです。絵を描くほうの人間で、高校時代は漫研に入ってはいましたが、漫画より1枚絵のほうが得意なタイプです。よろしくお願いします。

私は中高と一応絵を描く部活に入ってきて、またここで創作サークルに入ったわけなのですが、4月頭に愕然としたことがあります。

絵を描きたいという気持ちが薄い。それどころか漫画や小説を読む気力すら湧いてこない。ゲームのシナリオを開いても、途中で何故かしんどくなってしまいスキップを押してしまう有様です。
どういうことだ。

単にブランクを挟んだためのスランプなのか、受験疲れからコンテンツを消費する体力が落ちてしまったのか。しばらくすれば回復するかな?と思っていたのに、五月末になっても解消されない。半ば焦りつつも、高校時代の漫画をリメイクして提出しようとネームを切りつつ絵を描く努力をしていたのですが、あることをきっかけに突然創作意欲が復活しました。
そのきっかけとは何か。

新しい推しが出来たことです。

先日、コナンガチ勢の友人と連れ立ってコナンの映画を見に行きました。私はコナンをあまり良く知らなかったのですが、それでもとても面白かったです。事前情報で、このキャラ私の好きそうなタイプのキャラだなあ、と思っていたキャラにものの見事にはまりました。京極真はいいぞ。

友人から単行本を借りて読み、長文感想を送りつけ、同じ熱量で返してくれる友人に感謝し。気づけばソシャゲのストーリーも読めるようになり、そして不思議と、二次創作のみならず一次創作への意欲も湧いてきたのです。構図が思い浮かんだ時、「早く描きたい!」という気持ちが生まれたことがただ嬉しかった。創作者としてまだ死んでいなかったことに安心したのです。

ここまで創作意欲が劇的に回復したのは、映画という完成度の高い濃密な作品で、なおかつ自分にとって新鮮なものを摂取したからでしょうか。なんであれ、良い刺激になったことは間違いありません。自分はこれまで、あまりたくさんの作品に触れてきた方ではないので、もっと色々なものを読んでみたい。そう思います。

そんなこんなで私は今もなれないペンタブと悪戦苦闘しつつ元気に漫画をかいています。間に合うかはその……。し、締切延びないかな……。

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やりたいこと

はじめまして、新入部員の日葵です。前回の部誌で盛大に誤字ってた人です。見なかったことにしてほしいです……

大学生になって新しく始めてみたいことがたくさんありましたが、大学って意外と忙しいですね……まだ生活リズムがつかめてないです。とはいっても!受験の時よりは暇なのでちょっとずつ手を付けたいです。

まず漫画です。脳内でストーリーを作っても出力できなければその物語は存在しないも同然です。一枚絵しか描いたことない私にとって漫画を描くのはめちゃくちゃハードルが高いので、このサークルの締め切りをうまく活用して頑張っていきたいです。

そして動画!作ってみたいけどソフト入れるのめんどくさ…と思いまだ何も手を付けていません。今年の夏に簡単なものを1本くらい作りたいです。

あとモデリングです。1年ほど放置しているモデリングソフトをそろそろ使いこなせるようになりたいです。

でも本当にやりたいことは読書です。物語を描くというのは世の中の何よりも知識を必要とします。私はほとんど本を読まない人間なのでもう少し活字と仲良くなりたいと思います。最近は漫画を読むことさえ面倒くさいですが…。

やりたいことが色々ありすぎて毎日ワクワクしながら生きています。最近は今日帰ったらこれ描いてー明日は色塗ってーとか考えてたら授業が終わっています。レポートと締め切りと画力と闘いながら楽しく絵を描いていきたいです。

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気になっている言葉③

5月下旬担当の葱です。今回も気になっている言葉について書きます。
➀ 号泣
 号とは本来声を上げて泣くことであるのに(2014年の市議会議員の号泣会見はまさに号泣です)、最近は号泣を大泣きするという意味で用い、声を上げていない場合にも用いているのが目立ちます。

②~すぎる
 本来状態や程度が通常の基準を超えて困るという困惑のニュアンスを含んでいたはずなのに、最近は「とても~」の代用に用いられているのが目立ちます。(例えば可愛すぎる○○、けなげすぎる○○)

③ ○○人に一人の美少女
 大変な美人をさすときに用いる表現です。最近は○○に入る年数が、1000年や20000年のように長くなってきました。私が幼いころは、10年に1度ということはあっても、ここまで強調して言うことはなかったのですが。

④ メンツ
 「体面、体裁」の意味であったのに、「メン」の共通性から「メンバー」の意味が付加されました。誤用ではないのでしょうか。

⑤コーデ
「コーディネート」の略で、「ヒルナ〇デス」などでしばしば用いられています。略するならば、「コーディ」というべきではないでしょうか。

⑥wifi難民
wifiがなくて困っている人々のことをさします。しかし、難民は本来もっと重いものです。故郷を追われ、住むところもなく、排外主義
におびえながら、各地を転々とし、どこからも受け入れてもらえない人々です。我々のように、難民多発地帯の中東からの石油で安穏と暮らしている人間が、ちょっと携帯電話がつながりにくいくらいで難民を僭称するのは、本当の難民に失礼です。世界が日本とアメリカとEUだけだと勘違いし、くだらないものを買って難民支援の寄付もせず、「世界史」とか「グローバル」とか言いながらアフリカや中東には何の関心もない我々は、もっと自分を恥じた方がいいでしょう。

⑦平成30年を振り返る
元号で区分するよりも、分野ごとに個別の指標を設けて時代区分を行った方が、理解しやすいと思います。例えば、音楽史で言えば、CD中心からネット配信、さらには2012年頃のスマートフオンの普及などで区分をした方が、なぜその曲が流行し、なぜそのCDが売れたのかがよくわかるようになります。また、経済で言えば、平成元年で区切るよりも、バブル崩壊、リーマンショックなどで区切ったほうが、よりわかりやすく景気動向が説明できます。元号に対する思い入れも世間には根強いですが、テレビ番組ではもっと別の区分を用いた説明も必要だと思います。

⑧元号は日本にしかない
日本にしかないもので、あってもうれしくないものも、あっても何も感じない者もあるのに、なぜ元号があるとうれしいのでしょうか。これをうれしそうに言う人を何人もテレビで見ましたが、そのあたりの論理的、説得的主張をしている人はいませんでした。別に年号不要論に立つわけではありませんが、元号がない国の人たちにそのあたりの感情をうまく説明できるようになりたいものです。

⑨自由の学風
「○○大学の卒業式でのコスプレは、自由の学風がエスカレートした結果」という誤報を見かけました。儀式の場でちゃんとした格好ができないのを恥ずかしく思う保護者も少なくありませんから、コスプレを学風の影響とするのは不適切です。また、少なくとも自由は奇行という意味ではありません。そもそも「自由の学風」という○○大学が掲げるスローガンは、実際の意味内容が誰にもわからず、抽象的で人によって意味するものが変わりますから、混乱を招かないためにも使うべきではありません。「自由の学風」という謎のお題目を掲げるよりも、学生がルールやマナーをしっかり守り勉学に励めば、自然とよくなるのではないでしょうか。

こんなにいちいち細かい言葉にかみつく私は大丈夫でしょうか。病んではいないのでご安心ください。

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足もとにちょうちょ


みなさん、こんにちは。
5月中旬担当の光彩です。

新年度になりまして、名称未定にも新入会員が加わりました。私も、2回生として、もっとしっかりしていかなければならないな、と思う日々であります。
そんななか、私は新たな技能を身につけました。ちょうちょ結びができるようになったのです。
大学2回生にもなるまでできなかったのか、とみなさんお思いになるでしょうね。厳密に申しますと、何回結んでも縦結びになってしまい、きれいなちょうちょにはならなかったのです。どうすれば縦結びにならないのか、正しい結び方を知らなかったのです。手先の器用さの問題ではなかったと思っています。
それが、試行錯誤を経て、きれいなちょうちょになる結び方を見つけました。たったこれだけで、私は少し幸せな気分になりました。
これまで、デザインは気に入っていたのですが、きれいに結べないのが嫌で敬遠していたひも靴を、意気揚々と履けるようになったのです。今では、少し軽やかになった私の足もとで、ちょうちょがふわふわと揺れています。足もとを見るたびに嬉しくなります。

どんなささいなことでも、できるようになれば嬉しいものです。ちょうちょ結びがきれいにできるようになっただけでも、気分は上がるものなのです。こんな、小さな幸せが、どうかみなさんのもとにも訪れますよう。

それでは、新緑の季節、どうぞさわやかな気持ちでお過ごしください。お読みいただきありがとうございました。


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創作者たち

 皆様こんにちは。創作サークル「名称未定」で、本年の会長を務めさせていただいております入ヶ岳と申します。STARTという名前で絵を描くこともあります。
 今回は4月上旬の記事ということで、例えば新入生の方々へ向けて勧誘の言葉など述べてみるのも良いかと思うのですが、私はもう少し回りくどく、「創作活動の仲間」という主題で少々文字を書き連ねさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 世間では、多くの方が創作活動を趣味や仕事とされています。ここ京都大学でもそれは例外ではなく、キャンパスを歩く人々の中にも、きっと創作活動が好きな方がいらっしゃるはずです。
 しかし、ただ歩いているだけでは、同好の士にめぐりあうことは出来ません。創作活動の仲間を見つけるためには、何かサークルなどに入ってみたり、例えば創作サークル、そうです皆様、名称未定、創作サークル「名称未定」を、どうぞよろしくお願いいたしま――

 この勧誘の、どこが回りくどいのでしょう。短絡的でいけませんね。まずもって、何故創作活動の仲間を見つけなければならないのか、その理由が示されていないではありませんか。
 正直に申し上げまして、名称未定で行っているような「紙面に印刷できる創作活動」というのは、概ね一人でも可能な分野だと思われます。小説、イラスト、漫画、詩、俳句、短歌、評論、などなど。もちろん合作という楽しみが存在しますし、事実名称未定ではそのような活動も行っています。しかし私は、創作者の集まる意味は別にあると思っているのです。
 まず、これは名称未定というサークルに限った話ですが、締切があります。これは重要です。特に、私のように尻に火がつかない限り徹底的に動かないような人間にとっては。周りの会員が作品を投稿していく環境に身を置くことで、ようやく重い腰を上げるのです。
 次に、作品の意見交換が出来るという点があります。一人で作品を作った時、それが鑑賞者にどう受け取られるのか、あるいは、何か自分に見えない悪い点が存在しないかと、心配になりませんか。私はなります。私はなるのです! 故に、作品を読んでもらって感想を言って、私も自分が何を表現したかったか述べて、時に全く予想していなかった切り口から改善点が見つかったりするのが、とても嬉しい。創作活動において一番恐ろしい瞬間は「作りたいものが無くなった」と感じた時で、二番目は「これ以上良くならないのではないか」と感じた時であると、私は思っています。自分が何を作りたいか知っているのは自分だけですが、創作者は絶対鑑賞者にはなれませんから、人に見てもらうというのは非常に重要なことではないでしょうか。(ちなみに、見せる相手は基本的に創作者か、一定以上に熟達した鑑賞者が良いと思われます。小説を読まない友人に私の書いた小説を読ませたところで……何だそれは、双方への拷問か?)
 これまで創作活動をしてきたけれど、大学で創作活動をする同士が欲しいという方。これから創作活動をしたくて、一緒に歩いていく仲間がいればと思う方。創作活動に興味を持っているのでしたら、創作サークル「名称未定」はきっと良い活動場所になることかと思います。兼サークルも問題ないです、私は3つ兼ねています。どなたも是非、新歓を覗いてみてください。水曜18時15分からカフェテリアルネ2階にて、5月以降も毎週そこで活動していますのでいつでもどうぞ。

 というわけで改めまして、そうです、皆様名称未定を、創作サークル「名称未定」をどうぞよろしくお願いいたします。おはようございます、大きな声と変なサークル名で失礼いたします、創作サークル「名称未定」でござい――

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ルネにおいでませ

こちらはつぼみ、見ごろが近い、もう満開、咲き始め。府内各所から届く開花情報を、日々眺めながら過ごしております。こんにちは。ブログ3月下旬担当のひがんばなです。桜の季節、到来ですね。日ごろ風流さとは縁遠い生活を送っている私ですが、この時ばかりは、ほころび始めたつぼみに目を細めたりします。今年こそはお花見に行こう、なんて思ったり。

そして。さくら咲いた皆様、合格おめでとうございます。受験生活が終わった解放感、新たな出会いへの期待感、環境の変化への緊張感、そんな色々が入り混じっている今でしょうか。私も一年前の自分を思い出し、時間の流れを感じています。その速度に慄きます。私、もう、二回生・・・?怖いですね。このままいくと、四年は音速で過ぎそうです。社会に放りだされる前に、字書きとしても絵描きとしても、もっと成長を遂げたいところです。と、紹介が遅れましたが、私ひがんばなは主に字書き、そして時々絵描き(その際はまんじゅしゃげを名乗る)の二刀流として活動しています。活動しています、と言っても周囲の未定会員の皆さんから見れば、かなりゆるフワではあるのですが。特に最近は創作の「そ」の字もないような有様だったので、さすがにまずいと一念発起し、新歓冊子には下手な絵を一枚提出しました。私の好きな宇多田ヒカルさんの歌を聞いていてイメージしたものです。(あのクオリティーではむしろ冒涜・・・?いや、そんなことは)本当はひがんばなとしても作品を出すつもりだったのですが、あえなく挫折しました。流れ星を題材にした、あの詩のような何かはお蔵入りの可能性が高いですね。無念。

だらだらクリエイターのひがんばなはこんな調子ですが、つい最近まで受験生だった皆さんは、さぞ創作欲が溜まっていることと思います。「ああ勉強しなきゃい・・・・でも書き/描きたい・・・ちょっとだけ休憩がてらやろうかな・・・あれこんなに時間たってた・・・やばい眠い・・・明日の朝勉強しよう・・・」(出典元・高3時代のひがんばな)その熱量を、当サークル名称未定で吐き出してもらえればと思います。教養あふれる文章を書く人、めちゃ可愛い絵を描く人、など、よい刺激をくれる人が未定には沢山います。2カ月に一回の内部紙は創作のいいペースメーカーになりますし、ルネでだべるのも楽しい時間です。もし興味がおありでしたら、水曜日の18時以降、カフェテリアルネにお越しください。新歓を行っています。ご飯奢りますので是非。一緒にルネパフェしましょう。

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わたしのかきたかったもの

 どうも,M2なので追い出されつつあるしっちーです.6年間の,長かった私の学生生活がもうすぐ終わろうとしていますが,その数々の思い出が走馬灯のようにフラッシュバックするばかりです.
 思い返せば,学部1回生の頃の私はほとんど素人に近い画力しか持っていませんでした.絵を描くとしても,たまに絵の技法書を開いてはちょっとだけ模写などをする程度.もちろん小説など書けるわけもありませんでした(あの頃から「小説を書きたいなあ,でも一体どうやったらストーリーなんか作れるのか」と悩んではいたのですが).アニメなどを見ることすらなかったので,創作的な教養も皆無と言ってよかったでしょう.あの頃の私は,今の私からは想像もつかないほど,創作者としてはLv.0もいいところでした.しかし,6年間の学生時代を経て,そして3回生という中途半端なタイミングで入会してからの4年間の未定時代を経て,私は創作者としてかなりのレベルアップができたのではないかと思います.まだまだ未熟なことは言うまでもありませんが.
 さて,何年か前の未定ブログ記事で書いた通り,私は絵を描くことにおいて,とにかく自分の描きたいものを追求することを何よりも重視してきました.私は地道なトレーニングや勉強を嫌うクズっぽい性格なので,美大受験生のように模写などをして地道に画力を積み上げることは向いていません.そういう地道で味気ない練習は,私には1日平均1時間もできればいい方でした.しかし,自分の描きたいものを描くのであれば,楽しいので(当然それも一筋縄ではいかないものの)1日平均2時間でも3時間でも可能なわけです.確かに後者は効率的な練習法ではないかもしれませんが,少なくとも私にとっては圧倒的にこっちの方が上達が早い.
 私は何が好きなのであり,何に心を動かされるのか? 私は何を表現したいのか? 何のために絵を描いているのか? 何を描けば,このどうしようもない渇望が癒されるのか? 私はここ5年くらいそういうことを自問自答し続けてきました.5年間,累計何千時間もかけて絵を描き,色々な作品を消費し,時々挫折して鴨川を眺めながら物思いに耽り続けてきた今,少しはその答が明確にできる気がします.今回は,長きにわたる学生時代の創作活動を締めくくるにあたって,私が結局何を描きたかったのかを言語化することを試みます.

アリス・イン・ラックランド

 おそらく説明するまでもないかと思いますが,私は幼女ばかり描いてきました.十代後半以降の少女もそこそこ描いていますが,そういう少女にしても,精神的にどこか子供らしさや純粋さのある少女であることがほとんどです.だからこそ,私が去年のNFで出した集大成的な作品集は「Alice in Lackland」であったわけです.
ではなぜ,私はここまで幼女ばかり描いてきたのか.その点については,2年くらい前に一度記事を書いています.簡単に言えば,幼女は「少女的なかわいさ」と「精神的な純粋さ」を持つ存在であるからです.

その少女的可愛さは,傷つき,疲れ切った心を癒してくれる.そしてその純真無垢さは,汚れてしまった心を浄化し,汚れる前の人間本来的な心のあり方を思い出させてくれる.幼女とは結局のところ,不条理と矛盾と混沌とに満ちたこの世界の中で,それでも腐らずに生きたいと願う人々にとっての,一服の処方箋なのではないでしょうか.

 大まかな結論はあの記事から特に変わりませんが,今ならもう少し色々と語れることがあります.特に,子供らしい「精神的な純粋さ」というものが一体何なのかについては,当時はあまりはっきりとはわかりませんでしたが,今なら少しだけ言語化できる気がします.

あぁ^~こころがぴょんぴょんするんじゃぁ^~

 まず,「少女的なかわいさ」というのについて書いておこうと思います.世間的には「かわいい」という言葉はあまりにも無節操に使われ過ぎていて,その概念はあまりにも多くのものを含みすぎている気がするので,まず,どういう「かわいさ」が問題となっているのかを明確にする必要があるでしょう.「かわいい」には色々な方向性があって,私が思いつく限りでは以下のようなものが挙げられます.

・動物的なかわいさ(小動物等がもつかわいい感じ)
・植物的なかわいさ(花や植物,あるいはそれをモチーフにしたデザイン等が醸し出すかわいい感じ)
・形状的なかわいさ(動物の赤ちゃん・人間の幼児・デフォルメされたキャラクターが持つ丸み等が醸し出すかわいい感じ)
・少女的なかわいさ(フリル・リボン・ハート・暖色等の少女的アイテム・モチーフが醸し出すかわいい感じ)
・顔的なかわいさ(単純に顔が整っている女性について「かわいい」と表現するもの)

 最近,私は植物をモチーフとしたデザインをよく使っている気がしているので,私が求める「かわいい」には,少女的なものだけでなく,植物的なものも含まれるといえるかもしれません.最近植物図鑑の購入を検討しています.顔が可愛いのは2次元では当たり前のことなので,特に問題にする必要はないでしょう.
 私は「少女的なかわいさ」(例えばフリフリの服を着たかわいい幼女とか)を目にしたとき,どうも謎の高揚感と多幸感に襲われます.その感情を形容することは困難で,精々「尊い」,「無理」程度しか言えません.あるいは,「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」[1]というスラングも妥当な表現だと思います.そして私は,その高揚感と多幸感を求めて,ただひたすらにかわいい絵やデザインを追求するわけです.
 なお余談ですが,twitterとかを見ていると,こういう方向性の「かわいさ」を求めて美少女/美幼女を描く人々は意外にもごく少数であるように思います.まず男性の絵描きについて言えば,かわいい服やデザインに興味を持つ人が極めて少ないことは言うまでもないでしょう.一方女性はと言うと,そういう方向の興味を持つ人は多いのでしょうが,多くはその興味はリアルの自分が着飾ることに費やされるのであって,かわいいものに触れたいという欲求を,絵を描くことで満たす人々は少ないように思われます.案外私はマイナージャンルの住人なのかもしれません.

「純粋」なるもの

 さて,単純にかわいい少女が描きたいだけであるのならば,王道をゆく女子高生でも描いていればいいはずで,別に幼女を描く必要性はないはずです.それでもなお私が幼女(あるいは精神的な幼さや純粋さを持つ少女)を好んで描くのは,私にとって「精神的な」幼さや純粋さが重要なものであるからです.ここでは「精神的な」という点を強調しておく必要があります.肉体的に幼女であるかどうかというよりは,精神的に幼女であるという点が重要なのです.例えば「幼女戦記」のターニャ・デグレチャフは私にとっては別に愛すべき対象ではない[2]一方で,「ご注文はうさぎですか?」のココアは存在自体が尊い.
 それでは,精神的な純粋さとは一体何なのであり,何ゆえに尊いものなのでしょうか.それを言語化することは(少なくとも私が何年も考えなければならなかった程度には)困難で,書こうとすればとても長くなります.まずは「精神的な純粋さ」が一体何であるのかを,幼子が成長して大人(社会適合者)になり,純粋さを失っていく過程をみながら,一つ一つ紐解いていきましょう.何か大げさな言い方になりましたが,別に私は普遍的な真理の探求をするわけではなくて,単に私の個人的な結論を述べるだけです.

公正な世界
 
 私たちはおそらく,小学校低学年くらいまでは,正義の存在を純粋に信じるのではないかと思います.つまり,この世に真善美が明らかに存在し,正義は必ず勝ち,善人は必ず幸せになると信じるわけです.この世には万人に適用されうる正義というもの(言い換えれば人として正しい生き方,人間の生き方の模範解答)が明確にあって,その模範解答に従うものは絶対に幸せになったり天国に行ったりできる一方で,それに従わない者(悪人)は絶対に幸せになることなどない.仮に一時的に味をしめたとしてもいずれ必ず裁きが下り,地獄の業火に焼かれてもらうことになる.悪事を働いたバイキンマンは必ずアン・パンチによって空の彼方に消し飛ばされるのであり,働き者のアリは最後には例外なく幸せになる一方で怠惰なギリギリスは必ず餓死する.
 以上の信念を公正世界仮説とでも呼びましょう.この信念とセットになっているものとして,自分には正義が如何なるものなのかを知ることができる(それを知る手段が明確にある),という信念もあるでしょう.結局何が正義かなんて知り得ないのに「正義は勝つ」なんて叫ぶことはできないでしょうから.
 自分が正義を明確に知っているからこそ,努力さえすれば自分は正義(人生の模範解答)に近づくことが可能なのであり,だからこそ努力すれば必ず幸せになれる,というのも成り立ちます.「真面目」に努力すれば必ず正義になることができ,正義である者は必ず幸せになれる,ゆえに努力すれば幸せになれる,という論法ですね.逆に,不幸な者は努力していないとか,不幸な者は何か悪事を働いているに違いない,というのも成り立ったりします.「自己責任」という言葉で失業者などを(ただ怠惰なだけの奴で救うに値しないとして)切り捨てたり,何かの犯罪事件で不幸な目に遭った被害者が「被害者にも何か落ち度があったのではないか」と言われたりすることは,私たちの社会ではよくみられる現象です.
 話が少し脱線したので戻します.私たちは幼い頃は,「何が正義であり,何が悪なのかを明確に知る手段がちゃんとある」と純粋に信じるわけですが,より具体的には,親や学校の先生が言うことを真理だと信じていて,親や学校の先生が正義を指し示してくれると信じています.「わーるいんだーわーるいんだー,先生に言ったろー」などとよく言ったものです.親や先生は絶対的存在であり,彼らに褒められるということは自分が正義であることの証左なのであり,一方で彼らに叱られたり殴られたりしたら自分が悪であるということになります[3].もっとも,そんなことを純粋に信じられるのは,すでに述べた通り小学校低学年くらいまでなのでしょうけれど.

公正な世界の欠陥

 私は個人的に,公正世界仮説は別に真実でも何でもないと思っています.子供たちが純粋に信じているような公正世界仮説をここで一旦整理しましょう.

(1) 万人の認める絶対的正義や真理が存在する.「善い行動」と「悪い行動」が存在し,あらゆるケースにおいて行動の模範解答が存在する.「善い人間」と「悪い人間」,「善い人生」と「悪い人生」も存在し,人生の模範解答が存在する.
(2) 「善い人間」は周囲の人間を幸せにし,それが社会的に望ましいだけでなく,本人も必ず幸せになる.一方,「悪い人間」は必ず不幸になる.正義は必ず悪に対して勝利する.
(3) 何が正義で,何が悪かは明確に知ることができる.親や学校の先生に聞いたら普通に答えてくれるものであるし,「大人になったらわかる」みたいな,理解の難しいものでもない.誤解が生じることもあり得ない.
(4) 真面目に努力すれば誰もが正義になることができるのであり,努力すれば誰もが幸せになることができる.逆に,不幸な人間は真面目に努力をしていないだけであり,自業自得である.

 …なんだか虫唾が走りますが,まあとりあえず公正世界仮説をボコっておきましょうか.

(1) 万人の認める明確な正義の基準,あるいは人生の模範解答(それに従いさえすれば誰でも幸せになれる)があるというのならば,なぜそんな重要なものが教科書などにおいて厳密かつ詳細に明文化されていないのか.明確な正義の基準があるというのなら,なぜ裁判をする必要があるのか(裁判などしなくても,その明確な正義の基準とやらに従って,被告人に対してごく簡単に断罪が可能なはずではないか).
 あるいは,哲学者などが2000年以上にわたって延々と議論を重ねてきたのに,なぜ明確な一つの「人生の模範解答」が見つかっていないのか.もしそんなものがあるのなら,とっくに見つかっていて何かの教科書に書かれていて,初歩的な科学の知識のように万人に共有されているはずではないか.
(2) 法では裁けない悪人はこの世にはいくらでもいるし,彼らが絶対に不幸とは言い切れないのではないか.学校で校則を破っていたり,クラスでいじめをしていたりするDQNが不幸にみえるだろうか.パワハラ上司は不幸に見えるだろうか.もちろん彼らが痛い目を見ることはあるだろうが,痛い目を見ずに弱者を虐げ続け味をしめ続けるケースもいくらでもあるのではないか.
 そして正義は悪に対して必ず勝利するというのであれば,人類が長い歴史を経てもなおこの世に悪が存在し続けているのはなぜか.勝てていないではないか?
 
 …これ以上は長ったらしい割に話の本筋と大して関係がないので,この辺にしておきましょう.続きは註[4]に書きます.ただ,最後に一つつけ加えておきたい.こういう公正世界仮説の一番クソなところは,「自分が絶対に正義である」という信念とセットになっているところです.だってそうでしょう.自分が正義かどうかいまひとつ確信が持てないのに,「正義は必ず勝つ」なんて言えるでしょうか.自分が正義でない可能性があるにも関わらず「正義は必ず勝つ」だの「悪は必ず裁きを受ける」だのが成り立つのだとしたら,自分はいつ正義の裁きを受けてもおかしくないということになる(自分に神の裁きが下るのは明日かもしれないし,5秒後かもしれない).そんなの気が狂うでしょう.「自分が絶対に正義である」(=もし自分と考えの違う奴がいたらそいつは悪である)と信じ込める傲慢で鈍感な奴しか,公正世界仮説なんか信じられないのです.

反抗期

 さて,以上のように,小学校低学年くらいまでの子供が信じている,「こうしなければならない(これをするのが善い)」/「これをしてはならない(これをするのは悪い)」という諸々の正義,およびその前提となる正義/悪の概念,公正世界仮説は,何もかも下らない嘘であるという疑義が濃厚かと思います(少なくとも私はそう考えます).
 一方,今まで純粋に公正世界仮説を信じてきた子供たちも,小学校高学年くらいになると,その胡散臭さに気づき始めるのではないかと思います.
 生命を無暗に奪ってはならないとか,人に迷惑をかけてはいけないとか,自分がされて嫌なことを人にしてはいけないとか,ここまで子供たちは様々な規則を大人たちから押し付けられてきました.それらに背こうものなら大声で怒鳴られたり,職員室に呼び出しを喰らったり,「愛の鞭」と称して体罰を受けたりするのであり,無力な子供たちはそれらに全く逆らうことはできません.そういう体験を経て,子供たちは,生命を無暗に奪う行為や人に迷惑をかける行為がそれだけ「悪いこと」であると理解するでしょう.そして,そういう悪事を働く人間は裁きを受けるのが妥当であると理解することでしょう.あるいは,そういう悪人に対しては怒りを抱くのが自然なのであり,恫喝したり殴ったりしても構わないと学ぶことでしょう.
 しかし小学校高学年くらいにもなると,子供たちは,裁かれるべき(腹の立つ)悪人があまりにも多すぎることに気づくはずです.例えば私なんかは,小学校4,5年くらいの頃に,廊下を歩いていたらいきなり後ろから見知らぬ先輩に蹴られたことがあります.あまりにも理解不能だったので妙に覚えているのですが.クラスの中にいじめらしき行為はいくらでも見当たるでしょう.見渡してみれば,校則に違反した不道徳的行為などいくらでも存在します.それにしても,そういう不道徳行為を取り締まらない大人たちは一体何をしているのでしょうか?
 社会に目を向ければ,より「悪人」の存在は数多く目につくはずです.「食べ物を粗末にしてはならない」にもかかわらず,例えばうなぎや恵方巻のように大量の食品を廃棄するコンビニ.精神を病んで死ぬくらいまでに従業員を酷使するブラック企業.学校でのいじめで自殺者が出たら証拠隠滅と保身に専念する教師たち.ちなみにピュアだった中学生くらいの頃の私は,学校でも社会でも公然と行われている男女差別に腹を立てていた気がします.
 これまで自分に説教をしてきた親や教師自身の不道徳行為も目に付くでしょう.例えば私の父なんかは煙草を吸っていて周囲に副流煙の害を及ぼすわけですが,こんなものは「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳からすればどう考えても認められないことです.あれほど「人に迷惑をかけるな」と自分に対して言い,時には体罰まで下してきた人物がそういうことをする.片づけをしろと口うるさく言ってきたあの父が,よく見ると飲んだ後のビール缶を放置していたりもする.
 そして,以上の不道徳行為をした人間は,ちゃんと裁きを受けているでしょうか.小学校で教えられた通り,悪人は不幸な目に遭っているでしょうか.クラスのDQNは不幸そうに見えるでしょうか.実態はむしろ真逆な気さえしてきます.そして,真面目に努力をしてきた人は,ちゃんと幸福になっているでしょうか.
 以上のようにして,小学校高学年くらいの子供たちは,親や教師の言うことに少しずつ矛盾を感じ取るようになっていきます.もう親や教師の言うことは盲信できなくなるでしょう.大人たちは胡散臭い存在にしか見えなくなる.法で裁かれない腐った奴が社会に溢れていると思えてくる.こうしてはっきりと,反抗期の傾向が現れるのではないかと思います.

理不尽への適合

 理不尽なことがあまりにも多すぎる.中学校にもなると,クラスに存在するスクールカーストはより露骨なものとなっていくでしょうし,部活の中に強力なカーストが存在するとも多いでしょう(特に体育会系の部活の場合).教師も露骨な贔屓をしてくるかもしれません.視界に存在する「理不尽なもの」は加速度的にその数を増やしていく.さらにその理不尽は,もはや単なる一生徒には逆らうことも叶わぬ,絶大な強制力を備えていきます.
 反抗期の少年少女は,社会への絶望に苛まれることでしょう.それと同時に,混乱にも陥るはずです.例えば部活の中で上級生から下級生への(体育会的な)いじめが行われていたとします.最初はそのいじめが間違っていて,その部活が悪の温床だと思うかもしれません.しかし,その部活で自分以外が,いじめを「そういうものだから」と受け入れていたとしたら? 上級生が偉いのは当たり前のことだという風潮があったとしたら? それでもたった一人で,この部活はおかしいと言い続けられるでしょうか.自分一人が正しくて,その部活の人々が間違っていると言えるでしょうか.既に述べたように,誰が正義で,誰が悪かを明確に証明する方法などどこにもありません.そんなものがあるなら裁判は要らない.結局考えてみたところで,自分の考えが正しいという保証などどこにもないのです.自分が間違っている可能性は永遠に否定できません.それで,どうしてその部活に存在する体育会的カーストに立ち向かえるでしょうか.どうしてたった一人で部活一つに挑めるのでしょうか.
 こういう場合,大多数の人は,自分が間違っていて,自分が社会不適合者なだけだと考えるのではないかと思います.
絶望的な同調圧力の中で,自分の頭で善悪を判断することを断念し,自分の属する集団の「部族の風習」に身を任せることが,反抗期を終わらせていきます.何かしらの善悪の基準を信じ,それを他者にあてはめるからこそ,この社会の様々な理不尽が目に付くのです.そういう理不尽に対する怒りは,自分が明確に善悪を判断することができる(自分の判断が絶対に正しい)という信念があってこそ生じるものです.ならば,自分の考えが本当に正しいかどうかに確信が持てないのに,自分の考えを他者に適用して,その他者を悪とみなし,怒りを持ち,「裁き」を下すことは不可能でしょう.学校のクラスや部活などに存在する圧倒的な同調圧力は,自分が明確に善悪を判断することができるという信念を破壊し,善悪についての思考停止を招きます.こうして反抗期の少年少女は,社会に存在する様々な理不尽に一々目くじらを立てなくなっていくどころか,一見理不尽に見えるそれらに自分が適応しなければならないと考えるようになります.
 もちろんそういう絶対的圧力は,学校のクラスや部活だけでなく,どこにでもあります.大学で言えば,研究室なんかはよく理不尽の温床になります.私の研究室の教授はどうみても学生を恫喝し人格否定しまくっていますし,当然のように(むしろ学費を払っている側である)学生をタダ働きさせています.卒業後に卒論について学会発表や論文投稿をやらされたりもする(もちろん無給).でも教授は,飲み会で学生に対して,いかにも優しく諭すような(「君のために言っているのだ」と言いたげな)調子で「本当はそんなに怒っていない」とか言ったり,その仕事(タダ働き)は京都大学の学生としての当然の使命なのだとかよく言ったりするもので,そうやって説得されると,教授を悪と断定してあれに立ち向かうことは案外簡単ではありません.繰り返しますが,私が正義であって研究室や教授が悪であるという保証はどこにもありません.考えれば考えるほどに,自分が単なる社会不適合者なだけで,自分が教授の言うことを理解していないだけという可能性が目に付いたりします.私はこの研究室での三年間を通して,最後まで折れることはなかったと思いますが,そこで折れて思考停止し,教授に洗脳されていった先輩たちを,私は何人も見てきました.
 就活でも,会社に入ってからも,こういうことは繰り返され続けます.それに適応し続けることで,大人は大人として完成されていきます.社会人になって10年もすれば,立派な「社会適合者」が完成することでしょう.この段階に至った社会適合者は,それまで適応してきた数々の集団の中で「そういうものだから」と受け入れてきた,数々の「部族の風習」を同時に信じています.それらの「部族の風習」は別に一貫しているとは限らないというか,むしろ互いに矛盾しまくっていることがほとんどでしょう.というかそもそも,小学校などに適応するために受け入れた,「人に迷惑をかけてはいけない」,「人の嫌がることをしてはいけない」みたいな純粋な道徳と,中学校での体育会的部活に適応するために受け入れたカーストくらいの時点で酷い矛盾が生じています.その上にも矛盾が無数に重なり続けます.

「大人」なるもの

 大多数の人は,自分の言動に矛盾があると何かしらの不快感をもちます.例えば「煙草をやめる」と宣言したのに煙草をやめられなかったりしたら不快感が生じますし,その不快感を埋め合わせるために何かしらの言い訳(防衛機制)をしたくなるものです.認知的不協和とかいうやつです.でも大人(社会適合者)にはそんな不快感はあまりないので,互いに矛盾する無数の行動規範(ダブルスタンダードならぬ「マルチスタンダード」)を抱えていても精神が崩壊したりしません.もしふとした瞬間に,自分の「マルチスタンダード」を不快に思うことがあったとしても,器用に言い訳をするなり,その不快感を無視して忘れるなりして,うまく自己防衛ができるのではないかと思います.そもそも,大人はあまりに矛盾に矛盾を重ねすぎていて,今更その「マルチスタンダード」を解消できるわけもありません.反抗期以降の記憶をリセットしない限りは多分無理でしょう.
 その上,大人は「マルチスタンダード」のそれぞれを真面目に信じてはいないように思われます.ここで言う「スタンダード」(社会的に共有されている,支配的な力を持つ規範)はしばしば「タテマエ」と呼ばれ,「ホンネ」と区別されます.つまり大人にとって,互いに矛盾するそれぞれの規範は別に「ホンネ」ではなくて,自分は本当は同意していないけど社会的にそう信じなければならないだけ,という意味合いを持たせているわけです.だから自分の行動規範に何かの矛盾があったとしても別に構わないし,嘘であると暴かれてしまっても構わない.矛盾を指摘されたら,「それはタテマエでしかないから」,「何本気にしてるの?(笑)」,「君は言葉を文字通り解釈し過ぎだ,アスペかな?」,「空気を読め」とでも言って逃げればいいのです.
 ただし,大人(社会適合者)が善悪に関心がないとか,善悪の判断をしないというわけではないでしょう.確かに目上の人や多数者の判断がある場合はそちらを優先して思考停止するかもしれませんが,目下の人(例えば後輩や自分の子供など)に対しては自分の判断が絶対的に正しいものと信じ,悪とみなした相手に制裁を下すのではないかと思います.そしてその制裁は時として苛烈を極め,パワハラに発展することもあるでしょう.もちろん,本当に自分の考えが正しくて,後輩の言うことが間違っていると断言できるのかとか,後輩が間違っているとしてもそこまで好き放題やっていいのかという点には,鈍感に思考停止するのでしょうけれど.
 一つの解釈としては,大人というのは,目上の人や多数者に対してはとことん従順で,自分の頭で考えることもなく付き従う一方で,目下の人に対しては好き勝手やる「小物」であるのかもしれません.あるいは,互いに矛盾する多数の行動規範を持ちながら,あまり悩むことなく行動が可能で,矛盾を指摘されたら「それはタテマエだから」とうまく逃げる器用さを備えた人々といえるのかもしれません.
 またあるいは,集団の圧力やカーストに屈し続け,それらを前にして歯向かうことも,何かしらの疑いを向けることもできないという巨大な絶望とトラウマを心に湛えた被害者なのかもしれません.中学校や高校などで不運にも体育会的組織を経験し,そこで自分の意思を奪われたのかもしれない.逆に,大人になってもある程度「自分の意思」を持っていて,ある程度「思考停止」せずに済んでいる人は,単に幸運なだけなのかもしれません.

矛盾と混沌への適応過程

 長くなってしまいましたが,ここで一旦,子供が大人へと成長し,社会に適合する過程をまとめてみましょう[5].

(1)幼少期(~小学校低学年):親や教師の(しばしば暴力的な)しつけに強制され,この世に正義が存在し,善き人間と悪しき人間(あるいは善き行動と悪しき行動)が存在し,善き人間だけが幸せになると信じ込むようになる.もちろんこの世界観(公正世界仮説)は多くの欠陥を含んでいるが,その欠陥に気づくことはない.
(2)反抗期(小学校高学年~):社会に無数の悪が存在することに気づいていく.そして,これまで自分が信じてきた親や教師もまた,多くの悪を含んでいることに気づいていく.大人や社会が信じられなくなる.
(3)反抗期の終わり(中学校~二十代):クラスや部活などの集団に属する中で,その集団内に存在する理不尽に歯向かうこともできず,それらを正義(「そういうもの」だから)と判断して受け入れていく.集団の持つ圧倒的な強制力を前に,自分の善悪の判断を貫き通すことができず,自分の頭で思考することに絶望を覚えていく.
(4)社会適合者の完成:様々な集団に適合し,それぞれの集団内における行動規範を思考停止しながら受け続けた結果,状況に応じて柔軟に「マルチスタンダード」を使い分ける大人が完成する.もはや言動に一貫性など見られないが,自分の言動に矛盾が生じていることを気にかけないほどに図太い.目上の人間や多数者の判断には無思考かつ忠実に従うが,目下の人間を相手にした場合のみ善悪の判断を行い,傲慢なほどにその判断が正しいと思い込む図太さももつ.

 一応付け加えておくと,私は別に,社会適合者が悪だとか病的だとか言いたいわけではありません.反抗期で何にも屈さず,自分の信ずる正義を貫き通すのが正しいのかと言うとそうでもないと思います.既に述べた通り,その自分の信ずる正義とやらが正しいとは限らないわけですから.もちろんその方が自分の思想や行動規範について(比較的)一貫性はあるでしょうが,だからといってその思想や行動規範が正しいことにはなりません.
 大人(社会適合者)というのは,例えるならば一部の行動はキリスト教の教義に従って行い,また一部の行動はイスラム教の教義に従って行うみたいな人々でしょう.それと比べて,果たして一貫したキリスト教徒や一貫したイスラム教徒の行動が「正しい」といえるでしょうか.キリスト教だろうが,イスラム教だろうが,両者を中途半端に混ぜ合わせて矛盾を黙殺した何かだろうが,どれも人生の模範解答でも(全人類が共有すべき)絶対的に正しい教義でもないと思うのですが.
 まあ,もし一貫した行動が正しいと思う方がいたら,明日から(たとえば)聖書原理主義者として生きてみてください.多分一貫性はかなり上がると思います.聖書の記述にも矛盾はあるでしょうけれど,この社会の混沌よりは多分マシです.

子供の心

 ここまで説明すれば,私が求めている美しき子供の心が一体何であるのかを明らかにすることは,もう可能でしょう.大人と子供の違いは何か.それは一言で表現するならば,何からも目を背けず自由に思考を行おうとする態度であり,本当の「思想の自由」なのかもしれません.自分が美しいと思うものを「美しい」と言う.自分が間違っていると思うものを「間違っている」と言う.私はそういう正直な心の在り方を美しいと感じます.もちろん社会で生きていく上では,自分の感情をストレートに口に出すとしばしば面倒なことになるので,表には出せないこともあるでしょう.それでも,口には出さないとしても確かに何かの感情を持っていて,その感情がたとえ社会的に認められないものであっても,自分がその感情を持っていることを悪びれず,それを抑圧してはいないことが美しいのだと思います.
 大人(社会適合者)の心は抑圧だらけといえるでしょう.矛盾した言動をとり,その自分の言動に何かしらの不快感を持つことがあったとしても,それを黙殺する.自分の属する集団のシキタリが正しいのか間違っているのか(少なくとも,自分がそれを受け入れられるのか受け入れられないのか,自分はそれが好きか嫌いか)という感情を一瞬持つことがあったとしても黙殺し,「それが社会のルールだから」と言ってただ従うだけ.目下の者相手に好き勝手にパワハラをするときに,「本当にそんなことをしていいのか」という感情を少し持ったとしても,その感情を黙殺する.
 きっと社会適合者だって,社会で生きていく上で,あれが嫌だとか,あれは間違っているとか,そういう感情を持つことはあるのだろうと思います.成人の知能を持っていながら,自分の言動の矛盾に気づかないわけもない.しかし社会適合者は,その感情に向き合うことはないでしょう.向き合ってしまったら最後,きっと社会にはもう適合できなくなるのです.例えば,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という疑問を持ち,それで「パワハラはいけない」という結論を出したところで,今更何ができるでしょうか.自分の属する組織に存在する(自分以外がやっている)パワハラに憤りを持ったりするのでしょうか.自分にその組織の何かを変えられるでしょうか.変えられるとして,果たしてそもそも自分のパワハラに対する憤りは「正しいもの」で,組織の方が間違っていると断言できるでしょうか.それは「空気を読まない」行動ではないでしょうか.社会人としてそれは正しいのでしょうか.そして,そこまで悩んで,自分の組織内での立場を悪化させるリスクを負ってまで得るものは何でしょうか. 結局,「本当に部下にこんな仕打ちをしてもよいのか」という自分の感情を気にかけて,何を得るのでしょうか.
 
過ぎ去りし時を求めて

 大人が純粋であり続けることは超絶に困難です.というか不可能でしょう.自分の心に浮かぶ様々な感情から目を逸らさず,一々直視していたら,きっと気が狂います.
 大人になればさまざまな可能性が否応なしに見えてきます.いま机の上に置いてある紙で,何かの拍子に自分の小指をシュッと切る可能性.今自分と仲良く喋っているこの人が,本当は自分のことを嫌っている可能性.自分が良かれと思ってやったことが,実は周りの人には迷惑でかないという可能性.自動車を運転しているときに不慮の事故によって突然死ぬかもしれないという可能性.
 読者の皆さんもこういう,恐ろしげな想像をふとした瞬間にすることがあるかもしれませんが,そういう可能性を無視することなく一々直視していたら,きっと気が狂ってしまうのではないかと思います.たしかにこの世界はどこまでも不確定で,一秒先の未来すら確実に予言することはできなくて,私たちはどこまでも無知です.大人になると,どうしてもその不確定性が否応なしに目に付きます.しかし,その不確定性に正直に向き合ってしまったら,おそらくSAN値がすぐに0になるでしょうし,少なくとも恐ろしくて家から出られないはずです.でも,純粋であるということはそういうことです.私もきっとある程度は思考停止をし,さまざまな危険を黙殺していることでしょう.

「小さい頃,一歩踏み出したら,地面が崩れ落ちて,穴に落ちて死ぬんじゃないかと,そう思って,歩くことさえ躊躇っていた時期がある.あり得ん話じゃない.だが,誰もそんなことは気にしてない.俺はそれが不思議だった」 ──ゴブリンスレイヤー

 子供はその頭の悪さによって,純粋な心が社会の混沌やこの世界の不確定性によって汚され,ダメージを受けることから守られているのでしょう.頭が悪いからこそ,公正世界仮説を純粋に信じて生きていくことができます.その教義の汚点や矛盾に気が付くことも,親や教師の言動の矛盾に気づくこともありません.自分は正しい行いをしていて,神さまがそれを認めてくれていて,きっと将来自分は幸せになれるだろうと思っています[6].もちろん,自分を取り巻く無数の危険にも,5秒後に自分が死んでいる可能性にも意識が向きません.
 ですが,大人になった以上はそうはいきません.もう何かを純粋に信じることはできません.自分の感情を一々直視してもいられません.残酷なまでに不確定なこの世には,純粋に信じるに値する,絶対的な正義も真実も「人生の模範解答」なく,私たちの幸せは何一つ保証されないのですから[7].
 子供のような純粋さを失い,ある程度は思考停止を重ね鈍感になってしまうことは,生きていく上で仕方のないことなのかもしれません.いや,実は仕方のないことでも何でもなくて,自分がただ純粋であるために努力することから逃げるために,自分に対して都合のいい嘘をついているだけなのかもしれません.自分で自分の思考停止には気づけないのです.私にはもう何もわからない.
 ただ確かなことは,もう私はあの頃には戻れないということです.いま自分と喋っているこの人は自分のことが嫌いなわけがないとか,自分の信ずる正義が間違っていることなどあるわけがないとか,純粋に信じることのできた,幸せなあの頃に戻ることはできません.例えば私は誰かと会話をするとき,自分の不用意な発言によってその人に不快感を与える可能性とか,相手を退屈させる可能性とか,自分の言っていることが根本的に間違っている可能性とかを念頭に置きつつ,色々考えて,神経を尖らせて慎重に話します.もちろんそんなことを考えていたらコミュ障にしかなりませんし,疲れます.しかし,色々な危険性が見えてしまう以上そうせざるを得ないのです.私は子供のように馬鹿ではありませんし,社会適合者のように鈍感でもありません.会話の中で人間関係が破壊される危険性に目を向けることもなく,「自信」をもって人と話すことができたあの頃には,私はもう戻れないのです.

幼女と和解せよ

 美しいと思うものを美しいと正直に言い,正しいと思うものを正しいと正直に言う,子供らしい純粋な心を,私は美しいと思います.それこそ50時間でも100時間でもかけて,きれいな目をした幼女の絵を描きたいと思う程度には.そして私は,できるだけ純粋な心を持ち続けたいと思います.たとえ社会不適合者として苦しむことになろうとも,私は自分が何を好んでいて,何がしたいのかを忘れたくはありませんし,自分の頭で何かを考え続けることをやめたくはありません.しかし,私は自分ではそう望んでいても,きっと既に,自分でも気づかないうちにある程度は「汚れている」のでしょう.私だってある程度は,社会に存在する理不尽を無批判に受け入れ,社会で生きる上で生じる不快感と向き合わず,「社会とはそういうものだから」で片づけていることでしょう.この世界の圧倒的な不確定性から目を背け,傲慢にも自分が安全なところにいると信じ込んでいるところもあるでしょう.私が社会適合者に対して鈍感だの思考停止しているだの言っていながらも,実はそこらの社会適合者と大して変わらない可能性だって否定できません.
 少なくとも子供とはいえない年齢になってしまった私は,もはや純粋であり続けることも,子供の心を取り戻すこともできません.むしろ大人相応の知能を持ってしまった私が子供のような純粋さを取り戻し,外界からのあらゆる刺激に対して敏感になってしまったら,それこそ気が狂いかねないともいえます.大人にはそれに合った世界観や心の在り方があり,子供にはそれに合った世界観や心の在り方がある.大人が子供の心を持ったって,気が狂うだけなのかもしれません.
 それではなぜ,私は純粋な心を美しいと思い,可能な限り純粋でありたいと願うのでしょうか.別に子供のように純粋であることは正しいことでも何でもありませんし,大人が間違っているわけでもありません.にもかかわらず,なぜ私は幼女を求めるのか.それは結局のところ,私にはよくわかりません.ただ,強いて言うならば,私は「生きたい」のかもしれません.思考を止め,自分の感情を黙殺し,ただ盲目的に自分の属する集団の「空気」に流されて,「タテマエ」ばかり語る大人たちは,(その是非を別として)死んでいると私は感じます.私はそうはなりたくない,死にたくないと思うわけです.私は自分の意思を持ち続けたい.社会がどう言おうが,自分の好きな何かを愛し,自分の正しいと思う何かを信じたい.正直者が最後に救われるかどうかなど関係なく,私は正直であり続けたい.私はただ生きていたいのです.だからこそ,社会の混沌に「殺される」前の,たしかに生きている幼女の心は,かくも美しいのではないでしょうか.




[1] 「ご注文はうさぎですか?」に関連するスラング.https://dic.nicovideo.jp/a/%E3...
[2] 「幼女戦記」はタイトルに釣られはしたが一話切りしたのであまり知らない.
[3] 例え公正世界仮説が嘘だったとしても,それは優しい嘘なのかもしれない.もし親からのしつけを,悪である自分を更生させようとしてくれていることと解釈できなかったら,それは単なる暴力としか映らない.たしかに親や教師の言うことは別に真実でも何でもないし,その真実でも何でもない信念に基づいて下される体罰は(それが良かれと思ってされることであったとしても)拷問以外の何物でもないように思われるが,子供がそれに気づいてしまったら気が狂いかねない.自分が理不尽な暴力に晒されているが,自分が無力であるためにそれに逆らうことも,親を離れて生きていくこともできないという圧倒的現実には,気づかない方が幸せなのではないかと思う.
[4]  (3) 人によって何が何を正しいとするのかという基準が異なり,口論が生じることは極めてよくある.例えば親と学校の先生で,何が正しいのかについて意見が食い違ったとき(互いに矛盾したとき)はどうすればよいのか.互いに矛盾する二つの答がいずれも正解というのはどういうことなのか.例えば学校の先生の方が間違っていると考えるのならば,その先生は「自分で自分を正義だと思っているが客観的には別に正義ではない」ということになる.そういうケースがあってもなお,「何が正義なのかは子供にも容易に理解できるもので,自分が正義を誤解することなどありえない」といえるのか?
そして,なにをもって,自分の信じている正義に一切の誤解がない(=もし意見の違う他者がいたら,そいつが間違っている)と証明できるのか?自分の意見に多くの人が納得するならば自分の意見は正しい,とよく考えられるが,果たして多くの人から支持されるものが正しいと決めつけてよいのか?多数者の意見は絶対か?そして,自分が他者に意見を説明する際,自分の意見は何も正しくないものの詭弁を使って他者を説得している可能性もあるのではないか?自分が詭弁を使っていないとどうして証明できる?
(4) 真面目に努力をしているにも関わらず不幸な人間もいるのではないか?果たしてそういう人間を,「本人は努力をしているつもりになっているだけで努力が足りない」と決めつけられるか?その本人がどれだけの努力をしてきたのかなんて,外から見ただけで全て把握しきれるものではないだろうし,本人の心中を見透かさない限りわからないのではないか?実際,自分の努力や苦労は周りの人々に100%理解されていると思うか?
 さらに,(3)で述べたように自分の信ずる正義が客観的に見て間違っている可能性がいくらでもありうるのだとすれば,正義であろうと努力することによって,むしろ自分が正義から遠ざかる可能性もいくらでもあるのではないか?(1)で述べたように,哲学者たちが2000年以上にわたって議論を重ね,追い求めてきたにも関わらずたどり着けなかった(答えに近づいているのかすらわからなかった)「正義」なるものに,どうして自分が多少努力しただけで近づけるといえるのか?
[5] ここで説明しているのは,社会適合者の生産がうまくいった場合のみであって,必ずしもこの通りにいかず「社会不適合者」が生まれてしまう可能性も多々ある.例えば最初に親がいわゆる「毒親」で,信仰に値する神様というよりは単なる暴君に過ぎなかった場合,公正世界仮説そのものが抜け落ちるかもしれない.ある程度努力が報われた経験(例えば親に努力をほめられたとか)があるからこそ公正世界仮説が信じられるのである.また,中学・高校などで体育会系の部活やスクールカーストの束縛を経験しなかった者も,理不尽を受け入れ社会に適合する傾向が薄まり,反抗期が長引くかもしれない(私はそういうタイプである).これが社会不適合者である.
[6] もちろん,これは親がある程度まともだった場合であって,酷い虐待を受けるなどした場合はこの限りではない.
[7] もしかすると,あまり高度な教育を受けたりせず,前近代の閉鎖されたムラ社会の中や閉鎖的な修道院の中で一生を過ごしたりすれば,信仰が汚されることはなく,一生純粋でいられるのかもしれない.そのムラ社会の風習を汚すものが外部から入ってくることはなく,密接な相互監視によって「悪人」が確実に裁きを受ける環境であれば,人は純粋であり続けることができるのかもしれない.もちろん,21世紀を生き,高度な教育を受け,インターネットでも使って既に様々な考え方に触れてしまった私たちには,もはやそんな生き方などありえないが.

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なんちゃってラジオ「心理学マン」

 梅の花も咲き満ちる頃ですね。二月も半ばを過ぎて街の通りを歩いていると、ふっと花の匂いが鼻をかすめます。辺りを見渡せば、咲きはじめの白い梅の枝が、見知らぬ家のレンガ塀の向こうから差し伸ばされています。そんなときに出会う庭木としての一本の梅の匂いと、実を取るために世話されている梅園の梅の匂いは、違っているように感じます。満開の梅園の木の下に立つと、はちみつに似た匂いが降ってくる気がするのです。品種の違いでしょうか。花そのものの匂いに、花と同じくらい身近なその実を加工した食べ物の匂いが無意識にオーバーラップしてくるからかもしれません。
 匂いは、目に見えるものよりずっと言葉に言い表すことが難しい分、心の中でつけられている日々の記録に十分には位置付けられていないように思います。時間軸の目盛りの上を、匂いの記憶がふわふわと手から離れた風船のように滑っているのです。だから、現在のもとへその記憶の風船が気ままに近寄ってきて、いま目の前にしているものの匂いにときどき、重なるのかもしれません。

 本来二月下旬の担当であった私がこんな時期にブログを更新しているのは、私のカレンダーでは二月が続いていたからです。ほかの月が三十一日、少なくても三十日はあるにも関わらず、申し訳程度に閏年があるとはいえ、二月にだけ二十八日しかないというのはおかしいと思いませんか。暦というのは、社会の統治者が民衆の生活を支配するために作るものです。フランス革命後の新政府では新たな暦が作られました。明治維新後の日本は、欧米の新思想とともに、その太陽暦を取り入れました。大学生の春休みは数日分、権力者によって不当に搾取されているのです。私達の大切な時間を資本家から奪還しようではありませんか。

 ここまで、リスナーの皆さんからのお便りのコーナーでした。次は『街角ことばキャッチ』のお時間です。このコーナーでは、日々の生活の中で出会った、ちょっと面白いことばの使い方を紹介していきたいと思います。第一回目の今日のテーマは、「心理学マン」です。
 大学の試験期間前の平日のことでした。私が大学構内を歩いていると、こんなことばが生きのいいトビウオのように耳に飛び込んできました。「俺、心理学マンになるから」
 私の目が吸盤のように吸い付いつけられた先には、一回生か二回生の元気な感じの青年がいました。彼はそのセリフを、友人に向かって言ったのでした。
 心の琴線に触れるのは、ことばとことばの組み合わせの物珍しさです。いままで聞いたことがない、でもなんとなく腑に落ちることば。いつのまにか言い古されて慣用表現化していたことばから未知の生物のように脱皮したことば。状況をぴったり言い表していて、気持ちよくて、でもよく考えたらそのことばの使い方、普通じゃなくない? と疑問がむくむく湧き上がってくるような、誤用と新しい用法の間をさまようことばです。
 きっと「俺、心理学マンになるから」という表現は、「俺、テストをパスするために、これからたくさん心理学の勉強をするから」という意味合いなのでしょう。そこで「心理学マン」は、「心理学マスター」と同じフィーリングで使われているのでしょう。でも、「心理学」と「○○マン」の結合なんて初めて聞いたのに、どうしてこうもしっくりはまるのでしょうか。「○○マン」のほかの用法を探っていきましょう。スパイダーマン、バットマン、アンパンマン、スーパーマン、ウルトラマン……。前三つと後ろ二つのグループに分けてみましょう。前半グループは、「○○」の部分を外見と能力のモチーフにし、「○○」と一体化しています。外見と能力が「○○」に特化しているとも言えるでしょう。一方、後半グループは特性は「マン」のまま能力値だけが爆上がりしていると言えます。挙げる用法が少ないままいささか独断的に判断してしまいますが、この場合「心理学マン」は前半グループの使われ方に属していると考えられます。つまり「心理学マン」は、高い能力が心理学にシフトしているわけです。
 ここまでは、「心理学マン」と「心理学マスター」はほぼ重なる概念と言っていいでしょう。しかし先述の青年が「マスター」ではなく「マン」を選んだということは、青年の中に「マン」と「マスター」の異なる位置付けがあったはずです。青年の中に積み上げられたことばの地層が、「マン」を選び取らせたのです。そして私の中の、青年からつながった地層が、そのことばを受け入れさせたのです。「マン」は先程も言ったように、能力だけでなく外見さえも「○○」と一体化しています。人間のまま知識だけ「○○」に習熟した「マスター」よりも、「○○」にその身と人生を捧げる存在といえるのではないでしょうか。つまり「心理学マン」は、「マスター」よりも心理学に密着すること甚だしいのです。「マスター」が客観的な研究者目線だとしたら、「マン」は主体的に心理学を実践する存在といえるかもしれません。
 もう一面、「マン」から広がる地平があります。前半と後半のグループの共通点は、その超人的な能力で平凡な人々を助けるヒーローであることです。どちらかというと壮年や老人の渋さを連想させる「マスター」と、「マン」の持つ若さと華々しさ、圧倒的なパワー。がむしゃらに心理学を修めた「心理学マン」の活躍は、心理学IIの単位を取るにとどまりません。その豊富な知識を生かして、一緒に講義を受けた友人が試験をクリアするために手を貸すことでしょう。「マン」の持つ意味の重なりは、そんな想像まで広げさせます。 
 「心理学マン」の変身姿ってどんなだろう。頭に電極がついて、夢を食べるバクみたいに口をとんがらせた仮面をかぶっているのだろうか。そんな想像にふけりながら、長い春休みを送っています。

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権力は私物ではありません

 エッセイのネタになりそうなできごとを書きます。
 最近、妙な掲示を見ました。
 ある日、ホームセンターに行くと、「当店ご利用の方以外が駐車された場合、警察に通報します。」とありました。確かに、店を利用しないのに店の駐車場を使うことはよくないでしょう。ですが、それは犯罪ではありません。もし予防したいのなら、「罰金を科します」とだけ書けば十分です。別に武器を持った人が違法駐車するわけではないのですから、違法駐車に対して警察を使うのはおおげさです。
 また、あるマンションの駐輪場には、「当マンション居住者以外が駐車した場合、警察に通報します。」とありました。確かに、マンションの防犯は大切ですし、人の家の駐輪場に停めるのはよくないことです。ですが、もっと重大な犯罪宗さに追われている警察の方を、このような小さなことで呼び出すのは、ご迷惑でしょう。警察にお手間を取らせることなく、自分たちで解決をすべきことではないかと私は考えます。
 それから、あるお店の前に、不法投棄がなされていました。その後、その店のシャッターに「防犯カメラに映っています。名乗り出ない場合は、警察に通報します。」と書いた掲示が貼られました。確かに、警察の威力をもってしなければ名乗り出ないでしょうし、不法投棄は立派な犯罪です。ですが、やはりこれが警察の出動を必要とするような事件だとは思えません。
 さらに、ある小学校では、ウサギ小屋の屋上にはしごをかけて登ろうとする児童に対し、「がっこうのたてものは、がっこうのものです。のぼったら、おまわりさんをよびます。」と書いた掲示が設けられたそうです。確かに、建造物違法進入にあたるかもしれませんし、そもそも子どもには危ないです。ですが、それなら、「警察を呼びます」と書かずに、初めから「あぶないからやめなさい」と書けばよい話です。
 このように、警察を呼ぶと脅して軽い違反を予防しようとする掲示が最近目につきます。これは、2点において間違っていると私は考えます。
 1点目に、そもそも警察は、重大事件(殺人、窃盗、暴行など)を犯した人物をとりしまる人です。国家権力として武器の使用も許されているのは、民間では解決できな問題を、武力をも用いて解決するためです。(例えば、武器を持った強盗は、自分たちではどうにもできないので、警察を呼んで捕まえてもらいます。)もし警察の方が、小さなことで忙しくなったら、重大な事件をとりしまることができなくなり、共同体の迷惑になります。(協調性のかけらもない私が言うのもなんですが)たとえ、脅しだとしてもむやみに警察に頼り、共同体全体の安全を顧みない利己的な態度が、「~したら警察を呼びます」という言葉の奥に潜むように思います。
 2点目に、もし、同じ地域に住む人の誰かが国家権力の行使を常にほのめかしているとしたら、われわれは安心してつきあえません。「何かあったらこの人は警察を呼んで解決しようとする、トラの威を借るキツネだ。」「われわれのことを、犯罪者扱いしようとしているのか。」と思うばかりです。自分たちのことは、できるだけ自分たちで解決しないと、円滑なつきあいも難しくなります。
 この2点から、「~したら警察を呼びます」という掲示は、権力をむやみに使おうとする利己的・高圧的な態度ではないかと私は恐れます。(おそらく考えすぎ)そもそも、警察が国家の公共機関であることを忘れて、自分の私物であるかのようにむやみに呼ぶのは、(あるいは呼ぶとほのめかすのは)権力の私物化と言ってもよいでしょう。まずは自分たちの問題を自分たちでなるべく解決することが、「自由」、「対話」、「グローバル」などと唱える前に必要です。

それにしても、ただの掲示にここまでかみつく私は考え過ぎなのでしょうか。病んではいないのでご安心ください。

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美しい地の文を目指して

 こんにちは、入ヶ岳です。今回は、小説を書くに当たって気をつけたいと思っていることの一つ、地の文についてお話してみたいと思います。
 地の文というものに関しまして予め定義しておきますが、これは小説を構成する要素の一つです。小説の構成というと、例えば起承転結の流れであったり、プロローグと本文、エピローグといった物語の仕組みについて考えることも出来るのですが、ここでの構成というのはもっと形式的なもので、キャラクターが実際に話す「会話文」と、それに対しての「地の文」を考えるものです。
 地の文は、言葉にならない感情や風景、状況を表す部分であり、小説にとって非常に重要なものです(会話文だけの小説というのも少なからず存在しますが、今はそれらの作品のことは考えないことにします)。
 さて、私はこの地の文について、ある悩みを抱えています。それは直球も直球、「地の文がうまく書けない!」というものです。
 思うに、地の文には役割が多過ぎるのです。状況の説明に風景描写、登場人物の感情描写等々。それらをバランス良く、かつ読者に読みづらさを感じさせないように整列させるというのは、実際かなり困難な作業です。少なくとも私にとっては。
 このことについて強く悩み始めたのは、本格的に小説を書き始めてから、つまり、大学に入ってからのことです。地の文はただの状況説明ではありません。単なるナレーションでも無ければ、一人称人物の感想文を垂れ流す部分でも無いのです。それがほんの少しであれ頭で理解できてきたが故に、私は悩むのです。これは、ひょっとしたら良い変化であると言えるのかもしれません。苦しいですが。文章を書くために「稚拙! 下手くそ!」と自分をなじっていますが。深夜に書いた文章を朝になって確認した時等は、一瞥するなり奇声を上げてDeleteキーを押すこととなるわけです。原稿を深夜に書くのはやめましょう。
 先日、拙作をサークル内で発表する機会がありました。そこで痛感したのは、いくら作者が設定を内心で練っていたとしても、それが文章内でうまく表現できていなければ何も無いのと同じ、ということです。物語の真相、登場人物の隠された内心等を、読んで判る形、少なくとも「何かある」と匂わせることをしなければ、読者は何も気付かずに作品を通り過ぎています。私の書いた作品が、暴き出す価値のあるような内容になっているか、というのは今後の課題でもありますが、少なくとも、伝えたい内容があるなら、伝わるように書くのは作者である私の義務なのではないかと考えています。勿論、万人に作品内容が正確に伝わることは有り得ませんし、私自身それを目指しているわけではありませんが、「こんな人に楽しんでもらいたい」というターゲットがあるならば、そのターゲットが読み解けるような文章にしなければ意味が無いのです。
 伝えたい内容を、伝わる程度の隠し方で文章に混ぜ込む……その手段は例えば比喩表現であったり、情景描写であったりするわけです。私の頭の中の物語を、どうやって自然に文章へ出力するか。難しい問題です。私はずっと悩んでいます。問題解決の一助にならないかと、作品を読んだり、逆に小説を書いてみたりしている日々です。試行錯誤の末に答えがあるのかはまだ分かりませんが、こんな苦悩をもどこかで楽しく感じている自分が居て、やはりどうにも小説書きというのはやめられそうにないと、そう思ってしまうわけです。

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さくらさけ


みなさん、こんにちは。
1月中旬担当の光彩です。

本日は、センター試験の準備日として、ほぼすべての講義がお休みでした。センター試験、もう1年前のはずなのですが、今でもよく覚えています。
前日の下見の際、会場の場所がわからなくて、大学内を小一時間歩きさまよったとか。このような人がいるので、下見の重要性が説かれるのでしょう。
試験当日、自宅から自転車で会場入りし、友人に感心されたとか。30分ほどかかりました。当然ですがとても寒かったです。
試験後、暗くて道がわからなくなり、試験の出来よりも迷子になったことに泣きそうになりながら帰宅したとか。なぜ行きとは違う道で帰ろうとしてしまったのでしょうね。
大学入試は、一生のうちでも有数のイベントだと思います。私も、きっと忘れることはないでしょう。このような場所で言っても誰にも届かないとは思いますが、全国の受験生のみなさん、自分の希望を叶えられるように、しっかり頑張ってください!

さて、ひとの試験についてとやかく言う前に、大学でも来週から試験でございます。頑張っている受験生の悪い見本にならないように、私もしっかり勉強しなければなりません(笑)。

それでは、桜咲く春の訪れを祈念して。お読みいただきありがとうございました。


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リア充の痕跡



久しぶりにブログ担当になりました神無月です。
なぜかスマホから編集画面が開けなかったのでPCから編集しています。

私事ですが実に10年ぶりに東京に行ってきました。ゼミの関係なので交通費支給ですが日帰り弾丸上京となりました。おかげで東京見物は全然していませんがハチ公と渋谷のスクランブル交差点は見たのでよしとしましょう。
コミケとか一回行ってみたいんですけれどね。まあグリモアの公式ブースに行きたいなあという気持ちを2年連続で押し殺しているうちに今年は出店しなかったっぽいんですが。来年からもグリモアさんいないならもう行かなくても良い気もしてきます。ハマれるジャンルが少ないとこうなる。

最近はゼミ発表の準備ばかりだったので上京以外に特に書くことがないですね……。発表の終わった今は暇さえあればヘルシングOVA(20周年記念のBlu-rayBOX)をぼちぼち見ていく日々です。わたしは大尉推しです。

あ、NFのことでも書きます。
塗り絵コーナーに私の描いた線画を提供していたんですが、たしか3日目に行ったら後ろの壁に、ものすごく特殊な塗り方をされた私の線画が貼ってあったんですね。

聞いてみたら、カップルが右側と左側で半分ずつ塗っていったらしいんですね。

リア充の痕跡wwwと一躍話題になり、お焚き上げに入れようとか呪いの儀式に使おうとか散々ネタにされました。ていうかネタにしました。サークル設立以来初めてのことではないでしょうか。

このまま何年も代々受け継がれていったりするのでしょうか……。そうしたらいつかこの絵何?となることもありそうなので、ここに由来を残しておきます。




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♪マジキレそう 体が震える @冬の京都

どうも。最近寒くないですか?
いつぶりなのかわからないブログ投稿です。「元」八坂です。
「元」と付けたのは、改名したからです。
今は「八朔」を名乗っています。
ブログのタグ(カテゴリ―?)に関して言うと、この記事では八坂で、次からは八朔タグになると思います。タグが二つ付けれたらなぁ……と思わなくもないです。

冬は、日照時間が短いのでマジ寒いし早起きしにくいし鬱になりやすいし冬コミがあることを除けば本当最悪な季節のように思えますが、多分鬱っぽい思考のせいでますますそう思うようになっている気もしないですね。

あーあ!!!早く夏にならねえかな!!!というかまだ年明けてねえわ!!!

無気力が過ぎるのでレポートも書けない、絵も描けない、ゲームもご無沙汰、有意義な休日って何なんだよと思ってたらもう日曜日が終わりそうだし頭の中にはずっと重たいものが詰まってる気分だし(多分脳みそ)奮発して買ったウォッカの原液ぜ~んぜん溶かせる気がしないし……

あーあ!!!早く現人神になれねえかな!!!不敬罪ですね!!!すみません!!!

前の記事が半年強くらい前というのも驚きですが、なんか激動の半年だったので色々わからなくなってます。逆に書くことがない。創作論とか書こうとしましたけど色々調べてたら逆に何もわからなくなってしまいましたよ。作ったもん勝ちですよ本当。やっぱり机上の空論じゃなくて作品で殴らないと。

あ、僕の創作物がしばしば神ばっかなので多分上の叫びは無意識の顕在化ですね!!!

余談ですがstart君が主催したNFのキャラ創作ではいい感じのものが出来たと思ってます。
気に入ったので写真撮って置いてました。ランダムで引いたのにツモがすごくないですか?あとこれ神様なので僕の創作の格好の例ですね。
2018年度NFキャラ創作企画一例(八朔作) 
あと当日企画では絵しりとりの担当でしたが、解読できないモノがあったので次からは解読できないやつはすっ飛ばしてくれるようにルールのところに書かないとですね。

在学三年目にして初めて隣の漫研さんの会誌読んだんですけど本当上手くてうずくまってしまいました。嘘……私の漫画……しょぼすぎ……?
やはり作品で殴らなければいけません。
そういえばオンデマンド本も企画本原稿二つとも締切ぶち破ってたしレポートも毎度ギリギリだしなんか大学入ってから色々ギリギリなことばっかだしマジ最近寒いし……

あーあ!!!寝て目が覚めたら原稿出来てないかな!!!出来てねえか!!!そりゃそうだ!!!

本当に根っこまで面倒くさがりなので色々なことがピンチです。この面倒くさがり具合はどうやら完全に私が悪いわけではないらしいことが心療内科でわかったのですが、原因は分かってもこの社会では締切をぶち破ってしまうと人権は無いんですよね……現実はとても非情です。鬱です。いや鬱とは診断されてないです。
頑張るためのお薬を処方されたので飲んで頑張りたいんですけど、お薬飲むのが面倒くさいの完全にバグだと思います。F#CK!!! 頑張るぞい!(某画像)

そういうわけで前々からなんですが何か描いて描いて承認欲求を満たさないと生きていけないサブカルクソヴォーイになってしまいました。でも作品作るよりもとりあえず明日の朝は目を覚まさないと死です。単位を取らなければならない!健康的な生活を送らなければならない!!
私の欲求と環境からの要請が噛み合ってくれないからもう叫ばずにはいられない!叫ぶと体が温まりますよね!でも無印●品で綿製の肌着とパジャマとコート買ったから私はもう寒くないです!

あったかい!!!QoL上がった!!!涙が出る!!!

最近コンビニとか自販機で「あったか~い」紅茶を買い始めました!
「あったか~い」を飲み始めたらおっさんの始まりらしいのですが、高1の時に凍える京都駅の自販機で買っちゃったので僕の青春は高校始まってすぐ終わりました!

やっぱりあったかい!!!QoL上がった!!!鼻水が出る!!!

この記事を読んでくれた皆さん、チャンネル登録と高評価ボタンはありませんが、代わりに無印●品で綿製の肌着を買って、コンビニで「あったか~い」飲み物買いましょう!そしてコンビニ店員の方々に感謝の念を送りつつ月曜日から頑張りましょう!

こんな記事はここで終わりです!さようなら!バイバイ!

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NF企画「キャラクター創作」まとめ

 今年のNFにおいて、「キャラクター創作」という企画を担当させていただきました入ヶ岳愁です。キャラクター創作というのは、ランダムに決まったお題を基にキャラクターを自由に考えるというもので、今年になって初めて登場した企画です。
 まずはこちらの「キャラクター創作シート」をご覧ください。
bandicam 2018-11-29 15-53-57-331 
 シート上部はキャラクターの大まかな設定を記入する欄となっているのですが、この①、②、③を埋める内容を、今回はカードをランダムに引くことで決めていただきました。①や②は25種類以上の選択肢がありますので、組み合わせの数は膨大です。
 お題があるとは言え、一からキャラクターを作る以上、時間のかかる企画です。担当者としては、正直人気が出るのか不安な状況の中、一先ずNF前日に50部のキャラクター創作シートを印刷しました。
 結果として、企画は人気を博したと言って良いと思われます。というのも、NF最終日になって50部あったシートが尽き、私はコンビニまで走ることとなったのです(油断しておりました)。沢山のご参加、本当に有難うございました!

 さて、実際集まったキャラクター設定に関しましては、担当者として全て目を通させていただきました。「個人的に特に好きだったキャラクターTOP3」といったものをやりたいとも考えたのですが、許可の関係もあり、断念することと致しました。実際のところ、今回の企画では優劣は本質的なことではなく、参加していただけた方が楽しんでいただけたのならば、それが何よりのことだと考えております。
 ただ、せめて企画がどのように成ったかということはお伝えしたく、2枚の写真を以下に貼らせていただきたいと思います。何十人もの方々が、楽しみ、或いは苦心しつつ見事生み出された幾つもの魂をお見せして、今回の企画の締めとさせていただきます。本当に、有難うございました。35221.jpg 35222.jpg 

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書きたいもの、描きたいもの

 こんにちは、11月中旬担当の入ヶ岳愁です。11月中旬としてはぎりぎり間に合っているものと考えております。
 さて、今回は表題の通り、書きたいものと描きたいものについて綴ってみることとしました。私はSTART名義で絵も描いていますので、二通りの漢字においてそれぞれ「かきたいもの」が存在するという次第です。まずは「書きたいもの」について述べます。
 個人的な話をしますと、私は自分の書く小説のジャンルについて悩み続けながら今日を生きています。小説の主題はこれでいいのか、主題は前面に押し出すのか文章の奥深くに沈み込ませるのか、冒険小説を書くのか恋愛小説を書くのかミステリを書くのか、等々。小説を書く方は多かれ作風の悩みというものを抱えたことがあるのではないかと思われますが、私が特に具体的な「テコ入れ」を意識したのは高校三年生の冬でした。
 受験勉強をしてください。
 その頃私が悩んでいたこと、それは、自分の書く小説が軒並みやったらめたら暗いということでした。バッドエンド自体に抵抗は全く無いのですが、当時の私は、「バッドエンドしか書けないのは安易な逃げなのではないか」と考えました。暗い小説を書くのが手癖のようになっているのが気に入らなかった私は、ある機会に小説を書く際、意識してハッピーエンドを書いてみたのです。
 いや、受験勉強をしてください。センター一ヶ月前ですよ。
 ともあれ、結果として私は一ヶ月で三作のハッピーエンド小説を書き上げることができました。しかし、執筆中はかなり苦しみましたし、出来上がった内容も自分にとって納得の行くものではありませんでした。ここで今回のテーマに繋がるのですが、私にとってハッピーエンドというのは「書きたいもの」では無かったと考えられます。というか、「ハッピーエンドを書きたい」という欲求が先走った結果、中身の薄い小説が出来てしまったのでしょう。ハッピーエンドを書くのではなく、書きたい話がハッピーエンドであるのが自然な形なのでしょうから。
 当時の私の危機感は、自分の書きたいものを言語化できていなかったが故のものだと思われます。小説を書く時、どうしても「良いものを」書きたくなってしまうのですが、客観的に見て完全に善い小説という概念が存在するわけではありません。どれだけ偏っていても、書きたいものを最大限効果的に文章化することを目標とすべきと、今の私は考えています。では、私の書きたいものとは何でしょう。それこそを考えていきたいと思っている今日この頃です。これは恐らく一朝一夕で掘り下げられる課題ではないでしょう。私の中から何が掘り出されるのか、楽しみです。
 続いて、絵に関してです。とは言え、こちらはより歴が浅いこともあり、まだまだ現時点で自分の描きたいものが紙面上に出力出来ているとは思っていません。文字を打てばとりあえず文章になる小説(その上で様々な技巧的要素が必要なことは言うまでもありません。例えば私はこの文章が冗長になってしまっていることに頭を抱えています。つまり、こんな挿入文が入っていることに。)とは違い、絵はまず違和感の無い描写が出来なければ話になりません。伝えたいテーマもメッセージも、イラストに拙い部分があればそこに吸い込まれ、消え失せてしまうでしょう。まだまだ鍛錬を積む段階です。

 さて、長々と個人的なことを並べてきましたが、私は現状、かきたいもの、得意なものを探し続けています。それを探す過程においてやはり、様々な種類の作品に挑戦する(読む書く双方において)のは肝要と思われます。インプットとアウトプットをバランス良く行う、というのが当面の目標なのですが、これが中々に難しいというのも、また本音なのです。

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11月祭

11月祭レポート 11月23日
私は今日は15時から16時までの間しか会場に行っていないので、一日が終わったときの大学の様子を書きます。
図書館を出ると、もう暗くなっていて、吉田南の方から、18時の鐘がカーンとなる。クスノキ前で演舞を終えたよさこいの人々が、列をなして歩いていて、彼らの着ている青い法被のような衣装が、薄闇の中ではっきりと見える。自転車を押しながら歩く人や横並びにぞろぞろと帰っていく人、その中を半ば無理に通ろうとする自転車で、時計台の周りはごった返している。法学部棟から聞こえるハリーポッターのテーマ曲と人のがやがやした声が混ざり合った音を聞きながら、私はふと「もし京都市が景観条例に続いて騒音条例を出し、11月祭での音出しが禁止されたら、今のように賑わった11月祭はなくなってしまうだろうか。」と寂しい思いに駆られた。

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11月祭

11月22日 木曜日 NFレポート
9時半ごろ会場に向かい、開店準備を微力ながら手伝う。段ボールを組み立てて模造紙を貼って「名称未定」と大書した看板を急いで作る。会場は普通の教室を半分に分けて、段ボールをガムテープでつないで、白い模造紙で覆った壁を立ててある。
 10時になると、お客さんがやってくる。全部セットは少々高いので、個人誌やポストカードがよく売れる。意外なことに、時間のかかるキャラ創作ーキャラクターの属性を表すカードを引いて、それにあったキャラクターおよびそれを用いた短編を書くというものーがけっこう人気である。
 私の担当していた俳句コーナーは、紙の大きさもまちまちで、歳時記も置いていないので、やる人が少ない。私がレジの片手間に書いた謎の短歌(字が汚くて誰も読めない)が、むなしく後ろの壁の模造紙を埋めるだけである。(その中で、孟浩然の春暁をもじって、「春眠暁を覚えず 夏眠暁を覚えず 試験あれど覚えること能わず 単位落つること甚だ多し」というめちゃめちゃな漢詩は見るものの笑いを誘う。)
 私はNF委員としてシフトを決めたのだが、色々考えた結果、4時間連続シフトの人が出てきてしまった。あまりに申し訳ないので、昼食時間は私が代わりに入る。それくらいは当然である。ただただ申し訳ない。
 来る人に「このサークルはいったい何のサークルなのか」「このサークルは漫画研究会と何が違うのか」などと聞かれる。我々でさえそれは疑問である。とりあえず、「紙の上でできる創作なら何でも」と言えば、何とか通じるが、それでも定義は難しい。
 17時15分から、オーイシマサヨシと言う人のライブがあり、段ボール壁の奥にいた先輩方は皆それに行く。閑散とした会場でレジ係をしていると、OBの方がいらっしゃった。彼は5年ほど前の方で、このサークルでリレー小説企画を始めた人らしい。最初は、リレー小説の完全版をブログにアップしていたそうで、我々もするべきなのか悩む。
 そうこうしているうちに、初日は終わった。まだ平日だから人は少ないが、個人誌がけっこう売れた。一方で、レジに残ったお金が、本当にあるべき量のお金と合わず、レジの人々を悩ましている。おそらく、私がレジの釣銭を用意するときに、釣銭の数をきちんと把握していなかったせいであろう。

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NFレポート

11月下旬担当の葱です。今回はNFについてレポートします。NFレポート 前夜祭 11月22日
4限目が終わって、ルネに行く。17時ごろには6人ほど集まって、マテキ(物資保管者)の家に荷物を取りに行ったり、会場に荷物を運んだりする。5限が終わった18時ごろになると、空はすっかり真っ暗になって、道は段ボールや屋台の鉄板を運ぶ学生でごった返してくる。ルネのあたりの歩道などは、自転車がいつも以上に飛び交い、安全に歩くことすらままならぬほどである。そのような中を、大きな段ボールを担いで、腕を痛めながら歩く。手押し車に載せた荷物が慣性の法則でずり落ちるのを直しながら、えっちらおっちらと進んでいく。吉田南のグラウンドは、おまつり広場と称して、屋台が立ち並び、大きな舞台がたつ。正門前に来る頃には、グラウンドではめらめらと焚火が燃え上がり、応援部のらっぱや太鼓が雷のような大音声を立てている、まさに今11月祭が始まっているのである。われわれは4共23で会場準備をする。会場は段ボールで壁を作って、会員部屋と店スペースとにわけるので、その壁をまず作る。段ボールをガムテープでつぎはぎして、白い模造紙を両面テープで貼って壁を作るのだが、口で言うほど簡単ではない。私などは、おろおろと眺め、じゃまになりながらも何かしら手伝う。途中で物資が足りなくなり、ダイコクドラックに走らねばならなくなる。買い出しに行ったのは私だから忸怩たる思いである。それでも皆さんのご尽力で何とか終わる。私はただただやることなすこと空回りしていた。ある程度終わって、サイゼリヤに食事に向かう。正門を抜けると、11月祭テーマを書いた看板が見える。今年のテーマは「NFテーマは当局により撤去されました」であったと思う。「お互い当局、学外者と呼び合う中で、一体何が生まれるのか。まずは互いに敬称で呼び合うのが大事ではないのか。」「今度は何が撤去されるのか。」と、何とも複雑な気持ちになるが、それよりも寒さが身に応える。サイゼリヤで食事をして店を出ると、前夜祭が終わった後でサイゼリヤに来た人で、1階がごったがえしている。酔っ払いの中を歩いて会場に帰り、明日の準備をして、ぽちぽち人が帰っていく。かくして私も帰宅した。

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今月の担当

 

今月の担当日&担当者、のようなものです。これ以外の日にも、これ以外の人が更新したりします。

今月の担当は
上旬:日比谷
中旬:安野
下旬:西桜 です。

 

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